木製の扉はひどい音を立てた。前に来たときはスムーズに開いたというのに、やたらと軋み、がらんどうの教会に響き渡る。


 ベールを纏い、微笑みながら俯く聖女。その下に見慣れた少年と少女の姿があった。二人して入り口のほうを振り向いている。少女のほうはわかりやすく驚いており、少年のほうは特に表情の変化は見られない。


 座席を左右に割る中央の通路を、ゆっくりと進んでいく。壁に連なる蝋燭には火が灯され、中はオレンジ色の柔らかな明かりに包まれていた。今日はなぜだか足音までよく響く。


 最前席まで辿り着いて二人と対峙した。あたりは二人のほかにだれもいない。


「お、おじさん、傘は、ずぶ濡れだよ」


 戸惑いがちにグウェンが指摘してくる。目元の近くに垂れた前髪の端からぽたぽたと水滴が落ち、足元の赤いカーペットにまた新たな染みを作った。遠くのほうで雷が落ちているのだろう轟音が、建物の中にまでかすかに聞こえてくる。


「おっと、失礼したね」


 そう微笑んでみせると、グウェンは何かいいつづけようとしていた口を閉じ、どことなく助けを求めるような視線を隣に立つ少年に向けた。


「グウェン、シスターたちに俺はしばらく一人で練習したいから降りてこないでほしいって伝えてきて」


 じっとこちらを見据えたままに少年がいう。「わ、わかった」とすぐさま頷いて、少女は聖女像の裏側にある階段へと走っていった。


「ピアノの伴奏がなくてもいいのか?」


 手近なところに座りながら問いかけると、「なくても歌える」といういっそ傲慢なほどの返事がきた。違いない。思わず笑ってしまう。


「俺の歌を聞きにきたの?」


 珍しくいぶかしむような声音の少年は、ぎゅっと眉根を寄せていた。そんな表情も珍しいと思い、改めてまじまじと彼を観察してみると、どことなくいつもと様子が違う。


「なんかおまえ、いつもと雰囲気が違わないか」


 疑念はそのまま声になった。


 いつもは生成りのシャツ一枚に短パンというラフな格好の少年が、今日はきちんとアイロンの当てられた水色のシャツを着ている。膝小僧を隠す紺色のズボンには折り目がついており、真っ白なソックスには金糸でエンブレムが刺繍されていた。それに、革の靴をはいている。


「それ、校章か?」


 ソックスを指差すと、ああ、と少年は自分の足元に視線をやった。


「そう。あとひと月もしないうちに学校だから、今日は制服を寸っていたんだ」

「おまえ、学校に通っているのか」


 しかもずいぶんと品の良さそうな、何人も孤児を抱える教会が出せそうな学費のところではないように思えるんだが、と内心で呟く。少年は肩をすくめてみせた。


「よくは知らないけど、街のえらい人が推薦状を書いてくれたらしい。今年から声楽の特待生として寄宿学校に通わせてもらうことになってる」


 ああ、とため息を吐き出す。


「おまえは、本当にすごいな」


 彼の人生は人からの善意に囲まれている。親がわからなくとも心優しい教会に拾われ、歌の才能を認めてくれる人間が間近にいて、その人たちが学校にも通わせてくれる。焼かれてしまいそうなほどのまばゆい光に包まれている。


「おまえの歌を聞かせてくれ」

「いいけど、まずその濡れた服を脱いだら。風邪引くよ」


 ハッと笑いが漏れた。


「風邪なんか引いたところで死にはしないさ」


 大袈裟におどけてみせたが、少年は何もいわずに黙った。


「……何がいいの」

「讃美歌を。このあいだ、おまえが歌っていたやつを」


 そっと目が伏せられると、彼の瞳の色はよりいっそう深くなった。かすかに唇がひらき、小さく息を吸う。


 鼓膜を揺らしはじめた低音に目を閉じる。音が少しずつ感覚を満たしていく。寒さも怠さも思考も徐々に埋まっていく。強張っていた身体から力が抜けた。


「ミカ、おまえは」


 腹の底から、気持ちの溢れるまま、思いを口にしていた。


「おまえはどうかこれからも健やかに、この世のすべてから愛されて、だれにも侵されることなく幸福であってくれ」


 親がなく、組織に拾われ、大事な人を守るためにスパイになり、死ぬ間際には昨日までチームを組んでいた人間全員から銃口を向けられることなく。絶望の果てに自ら喉を切り裂くことなく。


 君の人生のまばゆさは光である。


 愛されて、恵まれて、ただ有るがまま有るようにあるだけで、光に満ちて輝いている。そういう生き方をする人間がいるということは、なぜか絶望より希望に近かった。だれからも何も奪われない人間がこの世に確かにいるのだと、人からの善意だけでこの世界を生きていくこともできるのだという証である。


 君がすべての人から愛され、光の道を歩きつづける姿を見ていられたら、何度でもこの世の奇跡を信じられるような気がするから。


「ミカ、どうかずっと幸せでいてくれ」


 力尽きて床に倒れ伏した横顔の瞳孔は見開き、血の気の失せた頬は青白く、こと切れるまで身体は痙攣していた。


 あれは裏切り者の処刑であると同時に、言外に許しを乞う儀式でもあった。もしだれもその者を撃つことができなければ、その罪は問わないという、そんな儀式でもあったのに。なぜ。俺たちは全員銃を下ろしたのに、なぜ彼だけが彼を許すことができなかった。


「泣いているの」


 一番目が終わったところで途切れた歌声にまぶたを押し上げたが、視界は水滴でぐちゃぐちゃになり、何もかもが撹拌されてわからなくなっていた。ただ頬に手が添えられている感触だけがする。


「冷たい」


 ささやくような少年の声が、すぐそばで聞こえた。

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