おでんとカレー

しめさば

おでんとカレー


「まじでぶっ飛ばしてやりてぇよ、あのオッサン」


 遠藤が言った。おまけに、シュッシュッ、と口にしながら、右手と左手を交互に前に突き出す。

 その様子を見て、小池は苦笑を漏らした。


「上司じゃなければ殴ってもセーフかもしれない」

「上司だから殴りてぇんだろうが」


 小池の言葉を一蹴して、遠藤は鼻息荒く言った。


「一回サシで飲みに行くってのがいいかもな。飲んで、飲ませて、ベロベロに酔っぱらわせるんだよ」

「それで」

「ベロベロに酔っぱらってたら、俺が一発くらいパンチを入れたって次の日には忘れるだろ」

「そうかもな」


 遠藤が息巻くのを適当にいなして、小池は言った。


「それより、腹が減った」


 遠藤が散々に嫌っている上司のせいで、小池は昼飯抜きで働く羽目になったのだ。上司のミスを、小池がフォローした。遠藤は「なんだあいつ、クソだな」と言いながら、食堂へ行った。


「何か、美味い物を食べたい気がする」


 小池がぽつりと言うと、遠藤はぽんと手を打って、大声を上げた。


「美味い物っつったらアレだ!」

「どれだよ」

「駅から飲み屋だらけのアーケードにちょっとはいったところの端に、小さいおでん屋があるんだけどよ」

「ああ、あの、妙に電気の暗い」


 遠藤が言うおでん屋に、小池も覚えがあった。駅から少し歩いたところにある所謂いわゆる“飲み屋街”の端に、他の店よりもだいぶ電灯の暗い、こじんまりとしたおでん屋があるのだ。小池も前から気になってはいたが、店に立ち入ったことは一度もなかった。

 小池の反応に、遠藤は意外そうに目を丸めた。


「知ってたのか。まあ、最初に見つけたのは俺なんだけどな」

「お前が見つけなくてもおでん屋はあった」

「まあ、それはいいんだよ、どうでも」


 どうでもいいなら食い下がるな、という言葉を小池は飲み込む。確かに、どうでもいいと思ったからだ。


「あの店にこの前一人で入ったんだけどな」

「美味かったのか?」

「いや、不味かった」


 小池は噴き出した。


「不味かったのかよ。美味い物の話だろうが」

「いや、不味かったけどな。こう……良かったんだよ」

「なんだそれ」

「いいから、行こうぜ。奢ってやるから」


 奢られるなら美味しい店がいいのだが、と小池は思ったが、兎に角腹が減っていた。「まあ、奢ってくれるなら」と、渋々頷くようなふりをして、小池はおでんに想いを馳せた。そういえば、おでんなど、一年近く食べていなかった気がする。





 小池は、体重を少し移動するだけでギシギシと鳴る椅子に腰かけて、注文したおでんが皿に盛られる様子を眺める。それから、隣に座る遠藤を横目に見た。

 遠藤は、安物のライターをカチカチと言わせて、好物のアメリカンスピリッツに火をつけようと試みていた。しかし、オイルが切れていたようで、なかなか火がつかない。


「小池」

「吸わない人間がライターは持ってないぞ」

「だよなぁ」


 遠藤は舌打ち一つ、口にくわえていたアメリカンスピリッツをつまんで、箱に戻そうとした。


「兄ちゃん、ほら」


 しかし、彼の前に、ずいとチャッカマンが差し出された。


「良かったら使って」


 おでん屋の店主が、チャッカマンを遠藤に手渡しながら、ニカッと笑った。歯並びが良い。


「お、どうも」


 遠藤は会釈をしてそれを受け取り、しまいかけた煙草をもう一度取り出した。チャッカマンで煙草に火をつける姿はなんとも滑稽だった。箱に印刷されているインディアンもきっと苦笑している、などと、くだらないことを小池は考える。

 遠藤は小池に下手くそなウィンクをして、言った。


「な? 良い店だろ」

「良いチャッカマンだ」


 小池は店内を目の動きだけで、見渡した。席数は8つほど。こじんまりとした、木造の、小さな店内。明かりはカウンターの奥に備え付けられた二つの電池式ランタンだけだった。なるほど、これでは確かに、外から見たら暗く見えるわけだ。ただ、店内にいる分には、この絶妙な暗さは心地よいものだ、と小池は感じた。


「たまご、こんにゃく、それと、大根ね」


 店主が、小池の前に皿を丁寧に置いた。その3つは、小池のおでんにおいての好物だった。店に入って、真っ先に、この3つを注文した。


「たまごと、餅巾着、はんぺん、牛すじね」


 隣の、遠藤の前にも皿が置かれる。

 先にサッと出されていた日本酒のとっくりを掴んで、小池は二つのおちょこにそれを注いだ。


「じゃ、お疲れ」

「うぃー」


 おちょこを軽くぶつけて、二人はそれをぐいと煽った。

 小池は、口元が少し緩むのを感じる。日本酒の良いところは、安くてもそれなりに美味しく楽しめるところだ。ワインなどは、安物で好みをはずすと、悲惨である。

 日本酒の余韻が口に残っているうちに、割りばしをパキリと割いて、小池は満月のように丸い大根を箸で二つに割った。断面から、白い湯気が立つ。遠藤は不味いと言ったが、そうは見えない。小池は箸で大根を掴んで、口の中に運んだ。それから、はふはふと熱を口から吐き出しながら、少しずつ、噛む。大根から溢れる熱と、優しい出汁の味が小池の口の中を制圧した。


「うん」


 小池はこくこくと頷いて、ごくりと大根を飲み込んだ。喉を通って、じわりと身体が温まるのを感じた。


「普通だ。おでん屋の大根じゃないか。不味くはない」


 小池が感想を言うと、遠藤は眉根を寄せた。


「誰が不味いって言ったよ」

「お前だろ」

「違う、お前が『美味かったのか?』って訊いたから、『不味かった』って答えただけだろ。美味いか不味いかで言った時の不味いであって、絶対的に不味いって言ったわけじゃねえ」

「不味いって言われたら、不味いんだと思うだろうが」


 遠藤は、絶対に自分の非を認めない。それは彼の良い点でも悪い点でもあるが、悪い点として目につくことのほうが多いと小池は思っていた。


「じゃあ逆に訊くけどよ、涙が出るほど美味いか? この大根」

「いや、涙は出ねえよ、さすがに」

「だろ? 普通だろ?」


 遠藤があまりに大きな声で不味いだの普通だのと言うものだから、小池は思わず横目で店主を見たが、店主は静かにおでんの具をひっくり返したり、新しい具を入れたりして、二人に視線を送るでも、口を挟んでくるでもなかった。


「この普通な感じが、いいんだよ」


 遠藤は投げ捨てるようにそう言って、自分は串に刺さった牛すじにかぶりついた。


「すじにしては、でかいな」


 小池が遠藤の持つ串を指でさしてそう言うと、遠藤は鼻を鳴らして、頷いた。


「肉汁がドバドバ出て、美味い」

「身体には悪そうだ」


 小池の指摘に、遠藤はあからさまに顔をしかめた。


「お前は身体に良い悪いなんていちいち気にしてメシを食うのか」

「そういえば、孔子も肉は細かくして食ったらしいぞ」

「子牛が、肉を食うのか? 共食いじゃねえか」

「違う、牛じゃない。孔子だ。エラい方だ」


 遠藤は眉根に皺を寄せて、首を横に大きく振った。


「偉いやつの言葉なんか、まったくアテにならねえ。雄牛おうしだか牝牛めうしだか知らねぇが、でかい肉にかぶりつく喜びを知らない、可哀想なやつだ」

「孔子だ」


 思いつくままに孔子の名前を出したが、かく言う小池も、健康などさして気にしてはいなかった。夕飯なども、カップラーメンなどで済ませてしまうことが多々ある。それに比べれば、今口にしているおでんの方がよほど健康的に思えた。

 小池が卵に箸を突き立てて二つに割っている時に、遠藤が口を開いた。


「クソ高い店に入って、メシを食うとするだろ」


 突然何の話だ、と思いながら、小池は黙って、首を動かす素振りだけで相槌を打った。半分に割った卵を口に運ぶ。白身から、じわりと出汁の味が舌に転がって、ほろりと崩れた黄身が、ぼそぼそと自己主張をした。噛むうちに、白身と黄身が合わさって、まろやかな塩味が口の中に広がった。


「クソ高いわけだから、出てくるメシも、まあ美味いじゃねえか」

「そうだろうな」

「でも、それだけだろ? 美味いだけ。潤いが足りない。感動がないんだよ」

「美味かったら、感動するだろ」


 小池はそう言って、こんにゃくを齧った。噛むたびにぷるぷると震える食感が、気持ち良い。口の中が温まるのと同時に、ちょうどよい塩味がやわらかい食感と共に口の中を蹂躙する。「美味いな」と、小池は小さく呟いた。


「美味いって分かってるもんが美味くたって、そりゃ普通だろ」

「つまり何が言いたいんだよ」


 遠藤の話が続いていたことを思い出して、小池は少し苛ついた。遠藤の話は、長い上に結論が曖昧なことが多い。


「つまりな、『普通な美味しさ』が最高ってことだよ」

「普通な美味しさ」

「そう! さっきお前も言ったろ。『不味くはない』って」


 遠藤は箸を上下に振って、鼻息荒く、言葉を続けた。小池はそれを横目に、二つのとっくりに再び日本酒を注ぐ。


「値段的に、不味くても文句言えないくらいの店に入って、それが思ってたより美味かったら、結構幸せだろ」

「そうかもしれない」


 実際、今がそういう気分だ、と小池は思った。遠藤に「不味い」という前情報を聞いたうえでこの店に来たのだ。だが、出てきたのは普通のおでんであったし、おでんと聞いて小池が求めていたのは、こういう旨さだった。想像の域を出るほど美味いわけではないが、値段の割には、美味しく感じる飯。確かに、それは少し良い気分になるものだと思う。

 小池は、ふと、以前に読んだ『孟子』の一節を思い出した。


「そういえば、孟子も言ってたな」

「また牛の話か」

「孟子だ。『飢えるものは、何を食べても美味いと言うし、喉の乾いたものは何を飲んでも美味いと思う』というようなことを、言った」

「そりゃそうだろ」

「待て、続きがあるんだよ」


 早合点する遠藤に、小池は付け足して言った。


「ただ、それは正常な判断じゃないだろ。飯や飲み物を味わえているとは言えない」

「まあ、腹が減ってるから美味い、ってだけだしな」


 遠藤が頷く。遠藤にも伝わる例えができた、と少し小池は嬉しくなった。


「まあつまり、人の心は、飢えや乾きに害されることもあるってことだ。逆に、そういったものに心を害されないのであれば、それはその人が他人よりも貧しくつらい暮らしをしていることを気にかけない心を持ってるってことだ」

「つまり」


 遠藤はぐっと目を細めて、考えるように、一点を見つめた。そして、ふと視線を上げて、小池を見る。


「慎ましく生きてるやつの方が幸せってことか?」

「……肉もそぎ落としながら骨を残せば、そんな感じだ」


 これ以上を説明するのも面倒だと感じて、小池は首を縦に振った。


「雇われでこき使われてても、安いおでん食って美味けりゃ、それなりに幸せってことだ」


 小池が付け加えると、遠藤は鼻を鳴らして、餅巾着に乱暴にかぶりついた。それを横目に、小池もこんにゃくを口に運ぶ。日本酒のアルコールが程よく回っていて、気持ちが良かった。


「牛すじ、一つ」


 遠藤が食べていた牛すじが美味しそうに見えたのを思い出して、小池は店主に追加注文した。店主は「はいよ」と渋い声で頷いて、すぐに牛すじを鍋から取り出して、小池に寄越した。


「でかい肉は食わないんじゃなかったのかよ」

「俺は孔子じゃない」


 そう言ってすぐにかぶりついた牛すじは、美味かった。小池は、ため息を漏らす。遠藤が「肉汁がドバドバ」と表現したが、確かに、ドバドバだった。噛むと、肉の味と、それを多分に含んだ汁が口に溢れる。少し臭いくらいの、『牛』が凝縮されていた。「美味いな」と、小池は再び呟いた。


「お前、それしか言わねえな」

「実際美味いんだからしょうがない」


 小池が呟くと、遠藤はなぜかそこで、大笑いをした。そんなに面白いことを言ったか、と小池は訝しんだが、遠藤は笑うのをやめてから、スンと鼻を鳴らした。


「実はな、俺、先週めちゃクソ高いカレーを食ったんだよ」

「めちゃクソ、ってのはどれくらいだ」

「三千円くらいの」

「三千円? 一杯で、カレーだけで、三千円か?」

「そうだ。ああ、まあ、正確に言えば、カツはのってたな」


 カツカレーにしても、三千円は薄給のサラリーマンが手を出すレベルではないと小池は思った。


「それで」


 小池は、言葉の続きを促した。「どうだったんだよ、味は」と。

 遠藤は、鼻から息を漏らして、口角を少しだけ上げた。


「カレーだったよ」

「それは分かる。美味かったのか?」

「美味かった。ただ、なんというか……普通に、カレーだった。あれに三千円の価値があったのかは、正直分かんねえな」


 遠藤はそこまで言って、卵に思い切りがぶりと齧りついた。せかせかと咀嚼をした後に、「でもな」と、遠藤は口を開く。


「お前と行ってりゃ、もっと、美味いと感じたかもしれないな」


 その言葉に、小池は言葉を詰まらせた。遠藤がこういうことを素直に言うのは、彼らしくない。ぽりぽりと鼻頭を掻く遠藤を見て、小池も少し照れくさい気持ちになった。


「その日は、一人で行ったのか?」


 照れ隠しに、平静を装って小池が訊くと、遠藤は苦笑を漏らして、それから、呟くように答えた。


「小田切だよ」


 遠藤の答えに、小池は失笑する。


「そりゃ、美味くないわけだ」


 小田切というのは、遠藤が毛嫌いする上司の名前だ。そういえば、先週、二人でどこかの会社に商談に行っていたなぁと、思い出す。

 確かに、言われてみれば、と。小池は、半分残しておいた卵を齧りながら思い返した。会社に入ってからというもの、何度も、様々な人間と飯を食べに行ったが、料理の味にまで気を回していられたのは、気の置けない仲の同僚と飯に行った時だけかもしれない。そこまで考えて、小池はあることに気が付いた。


「そういえば」

「今度はなんだよ。ジャージー牛か?」

「だから牛じゃないって言ってるだろ。今度は孔子でも孟子でもない」

「じゃあなんだよ」


 遠藤が視線を送ってくるのを感じながら、小池は卵をすべて頬張り、乱暴に咀嚼して飲み込んだ。それから、日本酒の入ったおちょこをくいと煽って。


「俺も、お前と食う飯が一番美味かったかもな、と思っただけだ」


 小池が言うと、遠藤は一瞬黙って、すぐに顔をしかめた。


「キモ……」

「自分の発言だけ棚に上げるな」


 小池が遠藤を小突くと、遠藤はけたけたと笑った。そして、三角形のはんぺんを一口で自分の口に押し込んだ。遠藤ははんぺんを咀嚼しながらうんうんと頷いて、それを飲み込んでから、言う。


「おでんはアレだな。人生の味だな」


 遠藤が言ったのを流し聞いて、小池も牛すじを口に入れた。じわりと、優しい出汁の味と、牛の香りが口に広がった。


「これが、人生の味、ね」


 呟くように小池がそう言うと、遠藤はきょとんとしたような顔をする。


「何言ってんだお前。人生に味なんてねえよ」


 はずみで、小池は遠藤を殴った。

 酔っぱらっているし、一発くらい殴っても明日には忘れているだろう。


 おでん屋の店主は目を丸くしていたし、遠藤は頬を抑えながらゲラゲラと笑っていた。


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