母乳と刺青(ミルクとタトゥー)「下」

 小学校の体育館前で、卒業式が始まるのを緊張した面持ちで待つようになる頃には、大人の話が少しは解るようになってきた。「ハラ」の姓が代わった理由も、多分、想像に難くない。

 涼夜が、龍介の父親の存在を認めたことはなかった。母子が暮らすアパートには、大人の男の痕跡が感じられなかったからだ。

 坊主頭は見てくれの印象が強かったが、色付き眼鏡のせいで素顔が判らず、そのため、「ハラ」は母親似なのだ、と涼夜は勝手に決め付けていた。

 龍介も、他人から自分がどう見られているのかを多少は気にするようになったらしく、長い髪もさっぱり、とはいかないまでも、短く梳くようになっていた。

 体育館前では、女子の半分くらいが、慣れない草履でつっこけそうになりながら、袴姿を披露していた。女子高生かアイドルに憧れたのか、派手なミニスカートの制服スタイルの子もいた。

 男子のほとんどがスーツ姿だった。誇らしげに、進学先の私立中学の制服を着ている者もいた。目立ちたがりの数人が紋付袴で登校していた。

 七五三じゃねえか───

 龍介の小柄な袴姿が、涼夜にはそう映った。親に着せられた、とは思えなかった。かといって、目立ちたいわけでもなかったろう。単に「着たい」だけだったに違いない。

 年配の女性教師が草色の袴をひょいと持ち上げて、入り口の階段の上から卒業生たちを見渡していた。保護者たちは、既に体育館の中で、我が子の登場を待ち構えている。

 そろそろ入場門が開かれるという時になって、靴の踵を鳴らした黒いスーツの女が走って来た。女は子供たちの邪魔にならぬよう、体育館の端を走っていたが、急につまずいたように膝を折り、ぺたんと座り込んでしまった。

 側溝の蓋に踵を挟み、靴の片方が脱げてしまったらしい。慌てて靴を掴むけれど、細いヒールはすっぽり溝にはまってしまい、なかなか抜けそうになかった。

 見かねた女性教師は眉間にしわを寄せ、また袴の裾を持ち上げて短い階段を下りると、女の前に屈み込み、乱暴に靴を掴んで、ぐりぐりと力ずくで抜き取った。

 女は頭を下げながら片方の靴を手に持つと、体育館の入り口へ向かって行った。黒い網タイツの片足をつま先立ちにして、片方の靴の高さに合わせて歩く後ろ姿は、大きくお尻をふっているように見えた。

 龍介によく似た細い顎の女が、すぐ傍に居た自分に気づかなかったことに、涼夜は胸を撫で下ろした。多分、龍介のクラスからは、今の出来事は見えなかっただろう。

 五年生の奏でる「王宮の花火の音楽」が聴こえてきた。年配の女性教師は、卒業生たちを先導して歩き始めた。



「中学校の制服は、身長より20センチ大きめに作るんだって。高校受験の時期になってサイズが合わなくなると困るからって、仕立て屋さんが言ってたよ」

 上着の袖をかがりながら言う母に、

「そんなにでっかくなるかな。 大き過ぎないか?」

 と、父は言う。

「だって、入学した時に150センチだったのに、卒業する時に170センチになることはあるでしょ?」

「じゃあ170センチの子が、190センチに成長するわけ? そこまででっかくなる奴なんて、そうそういないだろう?」

「いるかもしれないじゃない。ほら、涼夜、できたよ。着てみて」

 母はけらけらと笑いながら、制服を涼夜に手渡した。

 上着の袖やズボンの裾は、母親が上手い具合に調節してくれたものの、肩幅だけはどうにもなりそうになかった。涼夜は鏡に映る自分をどこかで見たような気がしていた。

「とにかく、受験のために制服の新調なんて嫌だからね」

 そうだ、田んぼの案山子だ───

 針箱を片付ける母の横で、涼夜は首を傾げながら、腕をぷらんとぶら下げてみた。


 だぼだぼの学生服姿も、周りが皆同じなので、あまり気にせずにいたら、すっかり着心地にも慣れてしまった。バスケットボール部に入り、真面目に練習しただけで、新しい友人もできた。毎日の早朝練習も苦にはならない。今日も学校へと走る。

 ツツジで囲まれた公園を横切り、茶畑を曲がったところで、微かにサイレンが聴こえた。聴き間違いかと思っていたら、だんだんと音は大きくなってくる。涼夜は走るのを止めた。立ち止まったすぐ横を救急車が通り過ぎる。

 サイレンが止むと、近所の人たちが寝間着や部屋着姿で窓から顔を出した。ワイシャツのボタンを閉じながら歯ブラシをくわえたおじさんと眼が合う。

 救急隊員がアパートのチャイムを鳴らす前に、龍介の部屋のドアが開いた。隊員たちは素早く中に入って行く。最後のひとりが、玄関で項垂れた、白いスウェットスーツの龍介の肩を励ますように叩きながらメモをとっていた。

 涼夜の心臓が跳ねた。何も見なかったふりをして救急車の横を通り過ぎた。


 龍介は登校したのだろうか。それとなく龍介のクラスの前をうろうろ歩いては覗いてみた。居ない。

 それから二日経ち、三日経ち、四日経っても、学校で龍介を見ることはなかった。

 部活動を終えた薄暗い帰り道で、アパートの前に来ると思い出した。サイレン、救急車、救急隊員、スウェット姿の龍介…………。

「おい、カズ」

 呼び止められて振り向いた。

「おまえ、見てただろ」

 涼夜は、背中に氷のつぶてを投げ込まれたように立ち止まる。

「ちょっと待ってて、荷物置いてくるから」

 龍介は両手に提げたドラッグストアーの袋を重そうに太ももに擦りつけながら片手にまとめると、アパートのドアを開けた。ちらりとだけドアから覗いた女性の顔が、玄関のセンサーライトに照らされる。食いしん坊黒子が無い。涼夜は肩を落とした。

 知らぬふりで立ち去ったことは、胸に引っ掛かっていた。でも、事情を知らない自分に何ができただろう。学校では龍介の欠席の理由など、先生以外きっと誰も知らないだろうし、興味さえ持たないに決まっている。

 校内では毎日、あちこちで小さな事件が起こっていた。皆、腹の中がガスでパンパンに膨れ上がっていて、どこかにはけ口を求めているのだ。もし、龍介が理不尽に責めてきたら、どう迎え撃とう。

 龍介は玄関前で女性に荷物を手渡し、すぐにドアを閉めた。アパートの駐輪場を囲む花壇の縁に腰掛けると、突っ立った涼夜を見上げて、ぽそりと言った。

「俺の母ちゃん、シキュウガイニンシン、だって」

 意味は解らなかった。が、今の自分がくちに出すのには早すぎる文字の羅列だ。

「あの日さあ、母ちゃん、急にお腹が痛いって言い出して……。救急車、自分で電話して呼んだんだぜ。でも、電話してる途中で気絶しちゃってさ、俺、もうパニック」

 へへへ、と龍介は笑った。

「学校、行ってないの?」

 得体の知れない憎悪のパンチでも食らうと思っていたら、暖気な笑顔がふわりと降りかかった。どうしてか、恥ずかしさを覚えたので、涼夜はぎこちなく微笑む。

「うん、ばあちゃんは、行け、って言うんだけど、母ちゃんのことが心配で……」

 ニンシンと言うからには、お腹に赤ちゃんがいたのだろう。でも〝シキュウガイ〟というのは何のことだろう。大変な病気なのだろうか。家に帰ってパソコンで調べてみようか。いや、「シキュウガイニンシン」なんて履歴が残ると家族に何か言われそうだ。それより何より、父親は誰だ。坊主頭なのか。

「カズ、妹いるだろ。可愛い?」

 涼夜の頭の上で幾つもの疑問符が点灯していることも構わずに、龍介は尋ねた。幼いと思っていた龍介が、本当は自分より大人なのではないだろうか。

「え? 何、妹?」

「母ちゃんが妊娠したって聞いたとき、すっげえ嬉しかったんだ。俺、兄弟が欲しいんだ。ねえ、カズ、可愛いだろ、妹?」

「か、可愛いときもある、でも、可愛くないときもある」

 小さな頃は可愛かった。でも、小学校高学年にもなると、兄である自分のことをダサいだのキモイだのと言う。

「母ちゃんさ、上手くいかないの分かってても、子供を欲しがる。赤ちゃんが産まれたら、何かが変わると思っているみたいだ。本当に変われるのかな……そう思っていたら、俺も、妹や弟が欲しくなった」

 龍介の言葉の大半が、涼夜には理解できなかった。

「い、妹なんか可愛いだけじゃない。ブスだし」

 へへへ……龍介は、また笑った。

 「兄弟が欲しい」と言っただけで、母親の胎内に宿るわけがないことくらい、涼夜も知っていた。

 でも、訊くのはよそう。



 龍介の奔放ぶりは、一年生の間に、何度も涼夜の耳まで届いた。避けているつもりは毛頭ないが、クラスが違うせいで、学校で喋る機会はほとんどなかったのに、なぜか学年末の三者面談では龍介のことを訊かれた。

「やっぱりね、そんな気はしたのよ……」

 涼夜の母は、新しいクラス名簿を広げて言った。

「うん……」

 涼夜は、なんとなく、母の言いたいことが解った。

 二年生になり、学年主任の数学教師が、引き続いて龍介の担任になった。涼夜も、同じクラスだった。


 ぼつり…………パズルがはめ込まれる音だけがした。

 鍵の掛かっていないアパートのドアを開け、無言で上がり込むと、涼夜は天井からぶら下がった紐に手を伸ばした。

 窓から差し込む街灯の明かりで、滲んだ薄墨だった龍介が、照明の下で鮮やかに浮かび上がる。龍介の母親が見立てたと思われるピンクのシャツに赤いセーターは、涼夜にはとても着られないが、龍介には似合っていた。

 龍介は他の友人たちと違って、電子ゲームもカードゲームも興味がないらしく、部活帰りに再々訪ねると、ジグソーパズルに熱中していることが多かった。

 物が溢れた押し入れの襖は、ずっと開けっ放しになっていた。それを隠すように掛けられたレースのカーテンから、飾る場所の無くなったパズルが、額に収められ立て掛けられているのが透けて見える。

「なあ……」

 龍介の傍らで腹這いになった涼夜は尋ねた。

「痛かった? それ」

 座卓いっぱいに広がった桜吹雪を見つめる龍介が、何も答えないので、涼夜もそれ以上は訊かなかった。黙ってゲーム機のボタンを操る。

 長い沈黙の後で、龍介はジグソーパズルから眼を離さずに言った。

「カズってさあ、毎日ゲーム機持って学校行ってんの?」

「言うなよ。没収されっから」

「わかってるよ」

 龍介が新しいパズルに取り組む度に、涼夜にはピースが小さくなっていくように見えた。拳に巻かれた包帯のせいで、ピースを上手く摘まめないでいる龍介は、何度もぽろぽろ落としていた。もどかしそうに、ようやっと爪で引っ掛けてから、

「今日のテスト、どうだった?」

 と尋ねる。龍介の方からテストの話題が出るとは思っていなかった。涼夜は、「え?」と言った後で、「ふつう」と答えた。 


 進級した当日に行われた実力テストの最中だった。解答用紙の上にぽとりと落ちた小さな白い塊に、涼夜は手を止めた。

 どこから降って来たのかと天井を見上げる。後頭部を越えて、また、ぽとんと落ちてきた。消しゴムのちぎりカスだった。顔を上げた数人と眼が合った。一瞬、こちらを睨んでいるようだった。

 そっと床に眼を落として後ろを窺った。そこには串田という男子生徒が座っているはずだ。他とは頭ひとつ抜けた体格で、入学式のときから目立っていた。初めて見たときには、こいつなら卒業するまでに190センチに届くかもしれない、と思った。

 椅子に浅く腰掛けた串田の、横に投げ出した脚だけが見えた。やがて、教卓のすぐ前まで、ちぎった消しゴムが放られた。でっぷりとした定年間近の男性教師は、試験官のくせに教卓で腕を組み、こっくりこっくりと舟を漕いでいる。

 串田は、教卓の正面で大人しくテストに向き合っている龍介を狙っているようだった。串田の行動に気づいた生徒は一瞬、迷惑そうな表情を見せたが、自分に被害が及ばないと知るや、すぐに解答用紙に眼を移す。

 串田の投げた消しゴムが龍介の頭に命中した。後ろの席を振り返り、何か言おうとくちを開きかけたところで、右後方からぽんぽんと消しゴムが投げられた。幾つかが肩に当たった。龍介は、がたん、と席を立った。こちらに向かってくる顔が、いつか見た、ぺったりした能面のようだった。

 投げ続けた消しゴムを使い果たしてしまったのか、涼夜の左頬を後ろからかすめるように、ひゅんと鉛筆が飛んで行った。振り返ると、串田は口角を引きつらせて、にたり、と笑っていた。

 近寄って来る龍介に向かって、笑いながら、筆箱の中の物を次々と投げつけていた串田は、眼の前に立つ龍介の腹に、ぼすん、と軽い蹴りを入れた。黒い学ランに白い靴跡が残った。龍介はゆっくりと拳を上げた。

「よせ」

 涼夜は立ち上がり、龍介の腕を掴もうとしたけれど間に合わず、勢いよく振り下ろされた拳は、串田の鼻先をかすめた。

 窓ガラスが廊下に飛び散り、龍介の拳から血が滴った。ガラスの割れる音で、ようやく肥った教師は眼を覚ました。

 串田の顔が笑ったまま凍りついていた。

「君たちはテストを続けなさい」

 肥った教師は、無表情な龍介と、悪びれた色も無く薄笑いする串田を連れて教室を出た。

 チャイムが鳴った。塵取りとホウキを抱えた女性教師が、廊下と涼夜の机周りに飛び散ったガラスを片付け始めた。追い立てられるように廊下側の席を離れた涼夜が、二階の窓から校庭を眺めると、迎えに来た母親と校門を出て行く龍介の姿が見えた。


「なあ……ハラさあ……」

 腹這いで畳に肘を着いていた涼夜が、ゴロンと仰向けになったとき、顔にかざしたゲーム機に、パズルのピースが、こつん、と当たって弾かれた。

「なに?」

 龍介は座卓の下を覗き込み、落ちたピースを探す。

「あれ……やっぱり、よくないと思う」

 ピースを拾い上げた涼夜は、体を起こした。龍介の顔色を窺いながら、

「悪いのは、串田の方だけど……」

 と付け加え、てのひらのピースを差し出した。龍介が、素直に「うん」と言ったことに安堵する。

「以後、気をつけます」

 どこで覚えたのか、真面目な口調で答えた龍介が、差し出されたピースを摘まんだ。ぐるぐると巻かれた包帯が指の動きを制限するので、また、ぽろりと畳に零れた。それを拾った涼夜が、今度は座卓の上に手を伸ばした。ぼつっ。

「あっ」

「あっ」

 龍介と涼夜が、同時に声を出した。何も考えずに涼夜が置いた桜の花弁が、パズルにぴたりと納まっていた。

「ぴったんこ」

 龍介が丸い眼をして言う。それがおかしくて、涼夜はへらへら笑いながら寝転がった。見上げた壁に掛けられた、この部屋で初めて見た世界地図は、西日に照らされ色あせていた。

 

 

 仕立て屋の言うとおりにして正解だった、と涼夜の母は言った。

 ほとんどの同級生は部活動を引退した。できた時間を塾や図書館で過ごす者もいれば、使い方の分からない者もいた。多くが有意義に使えなくて、ただ、疾走しながら過ぎる。


 今年は梅雨明けが早かった。猛暑日が続く学校帰り。図書館はエアコンが効いており、太陽から避難するのにちょうどよかった。行けば、誰かしら知った顔にも会える。その日も少しの遠回りをして、涼夜は図書館へ向かっていた。 

 青空に一本、光の柱が建った。音はしなかった。背中に手を回してリュックサックの底をまさぐった。折り畳み傘の輪郭を確かめて、図書館の入口付近まで行くと、壁を伝ってよろよろと歩く女がいた。

 白いリボンのついたカンカン帽に、空色のロングワンピースを着た女は、大きなショッピングバッグを肩から下ろし、その場にしゃがみ込んだ。

 涼夜が、コンクリートの照り返しが眩しい入り口のドアを開けようとしたら、顔を上げた女と眼が合った。龍介の母親だった。

 図書館のドアを開けた涼夜は、慣れない手つきで、中に入るように促したつもりだった。

「……はあ……クラカズ君……こんにちは」

 額と頬とくちをを歪め、龍介の母親は、弱々しく言った。

「こんにちは……あの……」

「大丈夫……暑くて……ちょっと……眩暈がしただけ……」

 龍介の母親は頭を垂れ、じっと動かなかった。放っておいていいものだろうかと、ほんの一、二秒考えている間に、ぼとん、と雨粒が脳天に落ちた。

 白い光の世界が瞬く間に影と同化する。涼夜はドアから手を離し、リュックサックから傘を出した。龍介の母親に歩み寄り、傘を差しかける。

 地面に置いたバッグが雨粒を弾いていた。片手で持ち上げ肩に担いだ。想像していたよりも重い。涼夜の母親ならば、抱えていても何も感じないだろう。だけど、龍介の母親が提げていることには胸が痛む。

「いいのに……急いで帰ればすむから」

「……いえ」

「ありがとう」

 壁に手を着いた彼女は、少しだけ顔を上げて言った。

 バラバラ激しく地面を叩く雨と、共に立ち込める霧に視界がぼやける。

 靴は履いている意味がないほど濡れていた。べっちゃりと脚に貼り付いたズボンは不快だった。朝顔のように開いた、龍介の母親のワンピースも、すっかり雨を吸い込んでいる。

 涼夜は、少し前屈みになって、傘を深く被った。

 図書館のガラスドア越しに、初老の男性が雨宿りする姿が映っていた。館内に逃げ込もうかと、涼夜はドアと彼女を交互に見た。

 小降りになったところで、龍介の母親が空を見上げた。

「ごめんね……もう大丈夫」

 涼夜に向かって微笑む。ゆっくり立ち上がりながら、

「涼しくなってきたわ……帰れそう……」

 と、バッグに手を伸ばす。その手を避けるように、涼夜はバッグの持ち手をぎゅっと握り、肩に担ぎ直した。

「……僕も、帰るんで」

「……勉強しに来たんでしょう?」

「いえ、そういうわけでも……」

「このくらいの雨なら、おばちゃん、平気なのよ」

 彼女がバッグの持ち手を握ろうとすると、涼夜は体をひねった。傘を握り締めた手が濡れていた。

「……ありがとう。助かるわ」

 龍介の母親は微笑んだ。

 涼夜は、傘を斜め前に差し、いつもなら速足で帰る道をのろのろ歩いた。何か会話をしたけれど、話した端から忘れていった。


「え? 何、どうしたの」

 アパートのドアを開けた龍介は、首を傾げた。

「雨に降られて困っていたら、クラカズ君が送ってくれたの。あ、寄って行ってね。ちょうどチーズタルトがあるのよ。もらい物だけど」

「わるいな、カズ、入れよ」

 龍介は、涼夜が玄関に置いた荷物を持ち上げて言った。龍介の母親は、ふた間ある和室の片方にさっさと消えて襖を閉めた。

「米なんか買ってきたのかよ。こんな重い物、俺が買ってきてやんのによ」

 龍介が襖の奥に聞こえるように言う。

「だって、安かったの……買うつもり無かったんだけど」

 和室から出て来た彼女は、小花柄のノースリーブワンピースに着替えていた。

「少し気分が悪いの。横になってるから、後は頼むね」

 龍介に耳打ちしてから、玄関横のバスルームに、濡れた服と帽子を放り込み、

「ゆっくりしてってね」

 再び部屋に戻っていった。片方の部屋にしかエアコンが設置されていないので、襖を半分開けたままにしている。背を向けて横になると、腰から上が襖に隠れた。細い足首から伸びたふくらはぎが、学校で見る女子の、ゴボウのようなそれとは、まるで違っていた。

「何これ? むね肉グラム58円? マジでかよ。レタス88円? すっげえ、こいつら特売品じゃん」

 龍介は冷蔵庫の扉を全開にして買い物の整理を始めた。涼夜には、スーパーマーケットの食材が、どれだけ買い得かどうかなんて判るはずもなく、興味も無かった。

 脱ぎ揃える余裕のなかったデニムのミュールから滴った水溜りの中にぼんやりと立ち、瞬きを忘れたように襖の奥を見ていた。

 横になった龍介の母が膝をこすり合わせると、ワンピースの裾がずり上がった。太ももの裏側が焼きたてのバターロールのようだった。透き通るほど白く、きっと、やわらかくて、温かいのだ。背中を丸めると、黒いレースのキャミソールが、裾からひらひらと覗いた。

 違う、違う───

 涼夜は、大きくはみ出したレースの下着に、胸の奥をつねられた。

 ぴか、ぴか……窓に光が点滅する。少し遅れて、雷鳴が腹の皮を震わせた。

「すげえな、今の。どっかに落ちたかな」

 冷蔵庫の扉を閉めた龍介が言った。床には五キロ入りの米袋が寝そべっていた。 

「俺、帰るわ」

 涼夜は言う。

「帰んの?」

 龍介は閉めた冷蔵庫を再び開けた。

「また、すごい雨になりそうだから……じゃあな」

 涼夜がドアノブに手を掛けると、

「ちょっと待って、これ……」

 背負ったリュックを引っ張られた。振り返ると、龍介は、ビニール袋入りの菓子をひとつ差し出した。

「ありがとう」

 片手に掴むと、ひんやりと冷たかった。ごろごろと転がる低い雲の下、右手に折り畳んだままの傘を、左手にはチーズタルトを握り締め、涼夜はアパートのドアから飛び出して行った。

 違っていた、あれは、違っていた。黒いレースがひらりと舞ったように見えたのに、違っていたのだ。

 白い太ももに留まっていたのは、紛れもなく、てのひらほどのクロアゲハ蝶だった。黒い翅に浮かび上がった、鮮やかな紅い斑紋は、涼夜以外の雄を手招いていたのだ。

 龍介の母親のことが知りたかった。正しいことも間違ったことも、知りたいことは限りなくあったのに、もうひとりの涼夜が、「知りたくない」と叫ぶ。

 ぼとん、ぼとん、と雨粒が落ちた。走るのを止め空を見上げた。痛いほど止め処なく降り注ぐ雨を、体中で受け止めて、とぼとぼ歩く。生温かくなった左手の、濡れたビニール袋を破く。形が崩れ、ぐじゅぐじゅのチーズタルトをくちに詰め込む。

 どどん。再び、雷鳴が轟く。また、下っ腹を掴まれる。

 涼夜は一瞬、肩を竦ませた。けれども、憶えの無い解放感が、爪の先から髪の先まで染み渡っていくのを感じていた。



 どこそこの制服が着たいだの、誰かと同じ学校に行きたいだの、ただ無邪気にはしゃいでいた時期は疾うに過ぎた。渦巻く現実の中心で無口に抗う。子供であることに、まだ甘えていいのだろうか、と自問する。

 高校の合格発表で、落ちた落ちた、と馬鹿みたいに笑う連中は哀れだった。涙する奴には苛ついた。その隣で、あからさまに喜べない、自分の顔は醜い、と涼夜は思った。

「カズ、カズ、待てよ」

 駅の階段を上る涼夜を追うように、龍介が駆けてきた。やっぱり、少し幼く見える。

 試験会場で見かけた時は、どうして、と思った。今し方、入学手続きのために事務所に並んでいるのを見たときは、へえ、と思った。

「ねえカズ、新聞奨学生って知ってる?」

 階段を上りながら龍介は言う。

「シンブンショウガクセイ? 新聞?」

 涼夜は立ち止まり、龍介が来るのを待った。

「さっき、ポスターが貼ってあった。高校の事務室の壁……」

 龍介の肩が上下して、鼻からふうふう息が洩れる。

「何て?」

「新聞配達しながら、大学とか専門学校に行けんの。いいと思わない?」

 ああ、いいね、と即座に答えようとしたけれど、どう考えても自分には出来そうになくて、

「へえ……キツそうだね。寝坊できないから俺には無理」

 情けなく笑う。

「でもさあ……」

 急に立ち止まった龍介の横を、肩を並べた女子ふたりが通り過ぎた。

「でも、もし、住み込みだったらどうしよう。なあ、そうしたらカズ、時々、母ちゃんと妹のこと、見に行ってくんない?」

「何で、俺?」

 驚いて、涼夜の声が裏返る。

「ああ……なんとなく……家が近いから……かな。あのさ、俺、私立高校の滑り止め、いっこも受けてないじゃん。だから、今日が不合格だったら、うんとレベル落としても、二次募集に賭けるしかないって思ってたんだ。高校出てないと、ちゃんと就職できないんだろ? 就職するために高校を卒業したかったんだ……。でも、あの事務所のポスター見てたらさ、俺でも進学できんじゃないか、って……」

 涼夜の胃が、針に打たれたように痛んだ。

「いいんじゃない。勉強頑張れば、特待生ってのもあるんじゃないの?」

「ホント?」

「高校にもあるんだから、大学にもあるんじゃないの。調べてみれば?」

 龍介のくちから出る夢は、ぐっと現実的だった。合格発表を見たばかりの涼夜には、三年先のことなど考えられなかったのに……。

 普通に生きていくことさえ難しいと思っていた龍介に、涼夜は妬みを覚えた。



 例年に比べ春の到来が早く、正門では満開の桜が見送ってくれた。

 卒業式で誰よりも号泣していたのが、串田だった。それだけ濃密な三年間を過ごしたのかもしれない。

 別れを惜しむ卒業生は、校門を背景に友人たちと記念写真を撮り合っていた。涼夜も担任を囲む輪の中にいた。バスケットボール部の仲間に肩を叩かれ、保護者の構えるカメラに収まった後、見覚えのある人影が校庭の隅でうずくまるのが見えた。

 涼夜は、出たばかりの正門をもう一度くぐった。

 人影は、側溝の蓋に踵を挟まれた靴を抜き取ろうとしていた。まだ、首がすわらない赤ん坊を子守帯で横に抱き、屈むのも大変そうだった。

 涼夜は黙って屈み込み、靴を掴んだ。左右にゆさぶって慎重に抜き取る。髪と髪が触れ合って、近づきすぎたことに気づくと、顔を上げずに靴を置いた。

「いやだわ、恥ずかしい。こんなボロ靴」

 ストッキングのつま先に付いた砂を指先で掃いながら、龍介の母は言った。

「ありがとう、助かったあ。この子が泣くから、卒業式も最後まで見られなかったの。おまけに靴もこの通りで……諦めて、片っぽ裸足で帰ろうかと思っちゃった」

 冗談めいて言うと、黒い靴に足を入れた。ひび割れた靴は、剥がれた革をマジックで塗りつぶされていた。塗った痕がてかてかと光っている。

「高校になっても、龍介のことよろしくね。馬鹿だから迷惑かけると思うけど、クラカズ君が一緒なら心強いよ」

「……馬鹿じゃないです……僕なんかよりも……多分、ずっと偉いと思います」

 赤ん坊の背中をとんとん叩き、リズムをとるように体をゆらしながら、龍介の母は微笑んだ。

 大きく叫ぶ声が聞こえた。校庭を走る龍介の姿が見えた。





 放課後の教室前には、既に保護者の待合席が用意されていた。生徒たちは追い出されるように教室から出て行く。

 普段よりざわついた廊下で、涼夜のうなじを湿った冷たいモノが、ぺとり、と撫でる。

「びっくりしたあ」

 首を竦ませ振り向くと、眼をほそめた龍介が赤ん坊を抱いていた。龍介は赤ん坊の手を取り、涼夜の首筋を何度も撫でた。涼夜が「くすぐったいなあ」と体を避けるのが面白くて、髪や頬までぺたぺたと触る。

「妹、連れてきたの?」

「うん、ばあちゃん、用事ができたみたい」

 慣れた様子で妹を抱く龍介が、幾つも年上のようだった。

 涼夜は、眼で生徒たちを押し退けた。廊下の先に龍介の母が立っている。ペールピンクのスカートと白いブラウス姿が可愛らしかった。涼夜が頭を下げると、龍介の母も返した。

「大人しいだろ。ミルクも飲んだしオムツも替えたから、三十分くらいは平気かな」

「オムツって、ハラが? オムツ替えたりしてんの?」

「あたりまえじゃん、妹なんだから、ねえ?」

 龍介は妹の小さな手に頬ずりした。

「ほら」

 そして、両脇をかかえると、涼夜の胸に押し付ける。

「な、何、何? 無理、無理、無理だから」

「手、放すよ。落とさないで」

「え、え、えええ?」

 涼夜は両腕で赤ん坊を包んだ。指がめり込んでしまいそうなくらいやわらかいのに、とんでもなく重い。

 涼夜が赤ん坊を抱きしめたのを確かめると、龍介は手を離した。

「面談、終わるまで、ちょっとだけ預かっといて」

「はあ、嘘でしょう?」

 龍介の母は不安げにしていないだろうか。

「信用してるから」

「なあ、ハラ……」

 涼夜は背中を向けた龍介に言った。

「おまえ、保育士とか、向いてんじゃねえ?」

「へへ、いいね、それ」

 龍介は、へらっと笑うと、廊下で待つ母親と教室へ入って行った。


 赤ん坊は涼夜の腕の中に全てを投げ出していた。気を抜くと、するりと滑り落ちそうで、怖い。汗ばんだ頭を片手で押さえ、精巧な硝子細工を運ぶようにそうっと歩く。「可愛い」という声が、あちこちから向けられると、脇腹がむず痒くなった。

 昼にメンチカツバーガーを頬張った階段に、ゆっくりと腰を下ろす。学校の廊下がこんなに長いなんて思わなかった。

「あれえ、クラカズ君の子供?」

「やだ、可愛い」

 同じクラスの女子たちが寄って来る。

「そう、俺の子供……なあんて、ヤスハラの妹だよ。可愛いだろ?」

「眠そうだよ、指しゃぶりしてる」

「ねえ、赤ちゃんって、眠くなると手が温かくなるんだって」

「そうなの?」

 涼夜は、固く握りしめられた小さな手を包み込むように撫でてみた。

「あ、開いた」

 ふわんと開いたてのひらから、酸を帯びた臭いがした。

 力いっぱい握り締めていたのは、湿った綿埃ばかりだった。赤ん坊は綿埃をこすりつけるように、涼夜のシャツに手を伸ばす。

 宇宙の果ての瞳が、心臓を惹き付ける。その奥に、見えない未来を投影しているのではないかと、一心に覗き込んだ。

 一点の曇りもない漆黒の宇宙が突然に裏返ると、しゃぶっていた親指が、すぽん、と抜けた。静かに見守っていた皆が笑う。

 ああ、そうだったのか───

 ぷるぷるした柔らかい喉から、甘く生臭い息が漂う。涼夜は思い切り吸い込んだ。体の奥で味わう。

 重なった胸に、とくとくと拍動が伝わると、眠りに落ちた、小さな命の匂いで溢れた。

 



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セルリアンブルーより…… 吉浦 海 @uominoyama

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