母乳と刺青(ミルクとタトゥー)

母乳と刺青(ミルクとタトゥー)「上」 

「ハラ、ごめん……聞いてなかった。何だって?」

 涼夜は、龍介の背中に言った。

 龍介の姓は「安原」という。「ハラ」と呼ばれるようになったのはいつからだろう。いや、小学校の途中までは、確かに「原 龍介」という名前だった。

 大人の都合で「原」が「安原」に代わったらしいのだが、当時の涼夜たち同級生にとっては、取り立てて言うほどの問題ではなかった。「ハラ」は「安原」を略したようにも聞こえるし、龍介本人がそのことに無関心のようでもあったから。

 その頃から龍介を知っている奴らは、特に意識するでもなく、今でも「ハラ」と呼んでいる。

「カズんちの母ちゃん、来るの?」

 龍介はカップ麺をズルズルすすりながら涼夜に向かって体をねじり、同じ質問をもう一度繰り返した。

 涼夜は「カズ」と呼ばれていた。「倉員 涼夜」と書いて「クラカズ リョウヤ」と読むのだが、同級生の誰もが正しく読んではくれなかった。

 くら……何? ───

 「かず」だよ───

 昔からそう応えていたら、いつの間にか「カズ」が通称になってしまった。





 昼休みのチャイムが鳴るや否や、涼夜は教室を飛び出していた。

 食堂での人気メニューを手に入れるために、黒板横の掛け時計をちらちら見ては、五分前からスタートダッシュで出遅れぬよう準備をしていた。

 よーい…………キーンコーンカーン…………

 運よく目当てのメンチカツバーガーを手にして教室に戻って来ると、自分の席に見知らぬ女子が座っていた。四、五人で喋りながら弁当を広げている。多分、他クラスの子だ。同じ部活の仲間か、同じ中学出身者が集まって……と、まあそんなところだろう。

 高校に入学して三か月、まだ名前と顔が一致していないクラスメイトばかり。そのほとんどが女子だった。

 しかし、女っていうのは本当によく群れたがる。そんなにチュンチュクさえずっていたら弁当を食い終える前にチャイムが鳴ってしまう。涼夜は、自分の席に座る褐色の肌をした短髪の彼女を教室の入り口から見て、鼻息をふんっと吐いた。

 最近では、昼食を一緒に食う友人もいないのか、と馬鹿にされるのが嫌で、個室トイレでこっそり飯を食う奴もいると噂で聞いていたのだが、涼夜には理解できなかった。そんな奴、実際に見たこともない。そもそもが昼飯を一緒に食うだけの奴を友人とは言わないだろう。

 涼夜はどうしても自分の席で昼飯を食いたいわけではなかった。自分の席とはいっても私物ではない。学校の備品じゃないか。

 廊下をすうーっと見渡して落ち着けそうな場所を探していたら、龍介が階段の端に座ってカップ麺の蓋を剥がしているところが眼に入った。

 カップ麵は食堂前の自動販売機でも売っているが、熱湯込みにしても少し高かった。部活の後でどうしても腹が減った時にしか買う気にならなかった。

 龍介はよくカップ麺を持参しているが、間違いなくドラッグストアーなどで売っている激安商品だ。遠い地方で売っているだろう、知らない商品名の物ばかりだったから。

 龍介の食べ方は変わっていた。注ぐ湯の量は規定の半分程度で、蓋は三分の一しか剥がさない。一度、家で試してみたが、スープはしょっぱ過ぎて、剥がさない蓋は邪魔だった。実に食べづらい。

 食堂に行けばいつでも電気ポットが待っていてくれるので有難いし、パンを買うより安いので、そのうち涼夜も真似たいと思ったけれど、あの食べ方だけはできない。

 涼夜は、黙って龍介の横を二、三段上り、腰を下ろした。

 小学生の頃から龍介は、今日のように教室の角や廊下の脇によく座っていた。けれども、それは端っこでおどおど縮こまっていたのではなく、誰が何を与えてくれるのかを低い位置から観察しているように見えた。

 教師たちはくるくる回る無感情な眼に試されているようで、龍介と同じ教室の空気を吸うことが苦痛だったに違いない。その張りつめた空気は、大人たちが勝手に作り出したものなのだけれど。

 そんな昔のことを思い出しながら、500ミリリットルパックの甘い紅茶で喉を鳴らした後、さり気なく前屈みになり、鼻に神経を集中した。

 やっぱり、駄目か───

 涼夜が龍介の隣に行く時には、必ず左側に着くようにしていた。龍介の首から左肩辺りは、何とも言えない匂いがするからだ。

 花や果物の甘酸っぱさでも、不自然に調合された洗剤や香水でもない、もっとはっきり言えば、万人が好むような匂いではない。

 例えて言うなら、クサイと判っていながら嗅がずにはいられない、飼い犬のくちのような、鳥かごのセキセイインコのような、もしくは風呂に入る前の脇のような……

 いや、断じてペットの臭いでも汗の臭いでもないのだ。それでも、あの匂いは涼夜の体の中心をくすぐり懐かしさを溢れ出させる。

 でも、今日の龍介は階段の左端にしゃがんでいた。涼夜が入れるだけの透き間もなかったし、熱い中で狭い階段にくっ付いて座るのもおかしいと、仕方なく龍介の右上に腰を下ろした。腰を下ろしながら試しに右肩の後ろを嗅いでみたのだが、あの、胸を突いたような感覚は得られなかった。

 やっぱり、左側なんだよな───

 そんなことをしていて、龍介に話しかけられた内容さえ解らなかったのだ。

「あ、ああ三者面談? 一応……。あーあ、面倒くせえなあ。保護者会にも来なかったくせに、何で三者面談の希望出したのかな。二者面談でよかったのに」

「だからじゃねえの? カズの母ちゃん、保護者会に来なかったから、三者面談にしたんじゃねえの」

「ハラは? 三者面談?」

「うん、今日」

 龍介は背を反らせてスープを飲み干すと、カップの縁にくっ付いた紙蓋が触れた鼻と、汚れたくちと顎を一度に、箸を持った右腕で拭った。

 龍介の母親が来るのか───

 涼夜が下を向くと、メンチカツバーガーの食べカスがぽろっと落ちた。

「俺んち、来週」

 龍介から見えるはずもないのに、感情を悟られまいと表情を取り繕った涼夜は言った。

「ふうん……」

 龍介は、自分から訊いておきながらさして興味もなさそうに言うと、前を通り掛かった同級生に、唐突に声をかけた。

「おーい、中村。おまえんちの母ちゃんは三者面談に来んの?」

 龍介のこういうところは、小学生の頃から変わっていない。

 思いついたことを態度に出してしまい、喧嘩に発展するのはしょっちゅうだった。

 相手は誰彼構わないので、涼夜には、教師との衝突も日常茶判事に映っていた。特に若い男性教師は、つい感情的になってしまうのか、問題が別の方向に行ってしまうことも度々で、それが更に違う問題を引き起こしもしていた。

 けれども、龍介の喧嘩の理由など、隣の席の子が変わった題名の本を読んでいたとか、上級生が見慣れぬ文具を持っていたという些細な事だったので、子供たちの方はいつしか自分なりに上手く距離を取って付き合う方法を模索していったのだ。

 たった今、呼び止められた中村瑞樹も、偶々顔見知りが龍介の視界に入っただけだ、ということを解っていた。

 瑞樹は無くちで大人しく、教室に居るのか居ないのか判らないような児童だったな、と涼夜は知っているだけの情報を思い浮かべた。

 確か、双子の兄弟がいたはずだが、事故か何かで急に学校へ来なくなったのだ。あれから、どうなったのだろう。既に死んでしまったのだろうか。その事が原因で奴はいつでも空気に混じり、ひっそりと過ごしていたのだろうか。

 涼夜は、廊下で立ち竦み戸惑う瑞樹を見上げた。

「……来ないよ……というか、学校からのプリント、渡していない」

 さらりと答えた瑞樹に、戸惑っていたのは質問の内容ではなく、龍介に話しかけられたことなのだと判った。

 あれ? 意外───

「ほえぇ、中村って、すっげえ良い子ちゃんのイメージあったのに」

 例えば、親に何でも報告する。龍介はそういうことを言いたいのだろう。

 涼夜はサインを送るように瑞樹と視線を合わせた。

「座んね?」

 龍介に言われて瑞樹が一瞬怯んだのを涼夜は見逃さなかった。

 どうする? 中村───

 残り少ない紙パックの中身を惜しむようにくちびるを湿らせながら、涼夜は二段前に座る龍介と自分の間に座った瑞樹の背中をしげしげと見た。二人と出会って十年目になるだろうか。それなのに、龍介と瑞樹がこれほど距離を縮めて静かに眼の前に居る場面なんて記憶にない。

「あの子、中村の彼女?」

「え、誰?」

 瑞樹は不意を衝かれた表情で、斜め前に座る龍介の横顔を見た。

「ほら、さっき、カズの席で弁当食ってた子。中村、おまえ、よく一緒にいるじゃん。髪の毛の短い……すっげえ可愛くねえ? なあ、カズ、おまえ同じクラスなんだろ? 何て名前なの?」

「同じクラスじゃねえよ。知らない子が座ってたんだよ。あの子、中村の彼女だったの?」

 知らぬ間に観察でもされていたのか、どうして自分の席を知っているのか。涼夜は、龍介の指でこめかみを小突かれた気分になった。

「だから、誰のことだよ? だいたいテニス部の女子って、みんな刈り上げショートだし、俺、付き合っている子いないし」

 瑞樹は鼻の横をこすりながら言うと、汗と油の付いた人差し指をワイシャツで拭った。

「そうそう、あいつら、後ろから見たらさ、男か女か判んねえんだよな。ジャージなんか着てると余計でさ。でも、中村の彼女はかっわいいぞお」

 そんな龍介の言葉をいちいち否定するのが面倒なのか、瑞樹は「ははは……」と乾いた声で笑う。

 こんな声を聞いたのも初めてかもしれない。涼夜は瑞樹の黄赤色の耳たぶを見ながら龍介に言った。

「ハラは、その子が好きなわけ?」

 言ってすぐ、不用意な質問をしたことを後悔した。龍介の細い神経に触れてしまったかもしれない。

「可愛いと思っただけ。話したこともないのに、どうして好きになるの?」

 質問の意味が解らないという顔をして、きょとんと後ろを振り向いた龍介に、涼夜は内心、ほっ、とした。

 龍介と、こんな所で女の子の話をしている。

 涼夜は龍介が同じ高校に入学してくるとは予想もしていなかった。難関校なんて言えるレベルではないけれども、合格するには平均以上の学力は求められる。それなりの勉強は必要だった。

 龍介を馬鹿にしているわけではない。龍介の全体像から、それを読み取ることが困難だったのだ。





「ランドセルは後ろの棚にしまってください。みんな、自分の名前が読めるかな」

 担任の女性教師は、そわそわと落ち着きなく必要以上に肩を張る子供たちに、はっきりゆっくりと言った。

 手を挙げて大きく返事をし、誰よりも先に席を立つ者がいて、それに続く者がいる。よく知らないクラスメイトに囲まれて、信頼して従える人は眼の前にいる優しげな大人だけだったので、皆が自分の名前が書かれた棚を見つけ出し、真新しいランドセルをしまっていた。

 涼夜はひと通り観察すると、自分の考えが正しいのだ、と確信してから行動に移した。ひとりだけ席を離れない子供がいることに、ちょっぴり優越感を覚える。気になって声をかけようかと迷い、できなくて、人形のように固まった彼の横を通り過ぎた。


 一年生にとってランドセルが特別な物でなくなるまで、龍介は机の上に置いたままで過ごしていた。教科書はランドセルの上に広げていた。給食時間にはトレイを椅子の上に置き、床に座り込んで食べていた。

 おそらくは保育園から申し送りがあったのだろう。若い女性教師は、それを咎めることも手を貸すこともしなかった。

 お節介なクラスメイトがランドセルに触れただけで、龍介は狂犬のように暴れた。押さえ付けられた獣が苦し紛れに唸るような声を出したので、一度その様子を見た者は同じことをしなかった。

 危なかった。

 あの日、うっかり声をかけていたら、殴り倒されていたかもしれない。涼夜はできるだけ龍介の視界に入らぬよう、ぴりぴりとアンテナを突っ立てることにした。

 それなのに……。


 ようやく上級生の何倍も時間のかかる通学路に慣れた学校帰り、涼夜はドアの前で立ち尽くしていた。ドアノブを凝視して動けない。

 龍介が出てくるのは、嫌だ。龍介以外の誰かが出てくるのも、嫌だ。

 教師の頼みを断ることができなくて、集団下校の際に覚えたアパートの前で、チャイムを鳴らすか悩む。

 何日も教室に放置されたプールバッグは、高温に蒸れて嫌な臭いがした。ドアノブに引っ掛けようと一歩踏み出した途端、ガチャリと勢いよくドアが開いた。涼夜が肩をすぼめると、栗色の長い髪を肩でひとつにまとめた若い女が、突然現れた子供に、ひっ、と息を呑み込み、カゴバッグを握った手を胸に当てる。

「ごめん、ごめんね、びっくりしちゃった。龍介のお友達かな。龍介ね、今日は風邪で学校をお休みしちゃったの。だから、お外で遊べないのよ」

 ショートパンツにキャミソール姿の女は、涼夜を驚かさぬようにやわらかな声で言った。

 笑ったくちもとの食いしん坊黒子に愛嬌があったが、長いまつ毛と濃い頬紅には馴染みがなく、涼夜には彼女が龍介の何なのかが判らなかった。「おばさん」と呼んでいいのかも……。

 彼女は強張った顔をして自分を見上げる少年の手に、見覚えのあるプールバッグが握られていることに気づいた。

「あら、それ龍介の? 忘れ物を届けてくれたんだね。てっきり遊びに来たんだと思っちゃったわ。ありがとうね。もしかして、時々お手紙を届けてくれたのも君?」

「……はい……」

 プリントなら郵便受けに放り込んで帰って来られたのに……。

 プールバッグをドアノブに引っ掛けて立ち去ろうとした涼夜の小さな返事は、アパートの網戸にしがみ付いたアブラゼミの鳴き声に消された。

「誰? あ……クラカズ」

 フェードアウトしていくセミの声に、幼い声が重なった。

「龍介、ちゃんと持って帰んなくちゃ駄目だって、お母ちゃん、いつも言ってるでしょ。海パンにカビが生えちゃうんだからね」

「ねえ、クラカズ、何しに来たの?」

 ぷらぷらプールバッグを揺らす母親の後ろから、龍介が涼夜の姓をくちにした。

 龍介の母親と向かい合っただけで戸惑っていたのに、玄関まで顔を出した龍介には更に大きな動揺を覚えた。

 龍介はくちが利けない。涼夜は長いこと、そう思っていたのだ。

「何、言ってんの。忘れ物を届けに来てくれたんでしょ」

「ふうん」

 龍介は訪ねてきたクラスメイトを確認すると、またすぐ部屋の奥に引っ込んでしまった。

「ありがとう、くらい言いなさいよ」

 母親は部屋に向かって叫んでいたけれど、涼夜には龍介を叱っているようには思えなかった。にこにこと楽しそうだ。

「ごめんね、あんな子で」

 どう反応していいのか判らずに、ぼうっと立ち竦む涼夜を見ると、龍介の母親は、ぽん、と思いついたように手を叩いた。

「あ、そうだわ、ちょうどよかった。ねえ君、お願いがあるんだけど。よかったら、龍介とお留守番しててくれないかな。おばちゃんね、今から買い物に行くところだったんだ。まだ、お熱があるからお外に連れて行けないし、ひとりでお留守番なんて、なんだか心配だったの。ね?」

 彼女は肩に咲いた白い髪飾りを触りながら、涼夜の返事もろくに聞かず半ば強引に玄関へ招き入れると、「おやつ、買ってくるからね」と言い残し、細いヒールのサンダルをかつかつと響かせて早歩きで行ってしまった。

 取り残された涼夜は、下を向いたまま眼だけを上げて、きょろきょろと部屋を窺った。エアコンは効いているが、西日を遮るために引かれたカーテンのせいで薄暗い。

「パズル、やる?」

 脱ぎ散らかされた靴の真ん中に立ち尽くす涼夜に、やっと気づいた顔で龍介は言った。涼夜は諦めに似た、ちょっとした覚悟を持って靴を脱いだ。まるで、トランプのババ抜きでジョ-カーを引いた気分だった。

 台所の奥の和室には蒲団が一組敷かれ、折り畳み式の座卓の上では、未完成の世界が龍介の手で組み立てられようとしていた。見回すと部屋のあちこちにジグソーパズルが飾られている。それ以外、玩具というほどの物は見当たらなかった。

「一緒にやろうぜ」

 と言われて、箱の中からパズルのピースをひとつ摘まむ。

 くまのプーさんやきかんしゃトーマスのジグソーパズルなら、母親とふたりで完成させたことがあった。けれども、ひとりで電車に乗ったこともない涼夜には、聞いたこともない国の名前が書かれた世界地図は難解すぎる。

 独り言をぶつぶつ呟きながら自分の世界に没頭し続ける龍介を横目に、涼夜は所在なげにパズルを箱に戻した。

「パズル、嫌い?」

「ううん……これ、全部ハラがやったの?」

「うん」

 こんな遊びは無理だ。

 何千ものピースをあるべき場所へ根気よく導く作業はひどく知的に見えたけれど、涼夜には面白さがひとつも解らなかった。

 龍介の母親が帰って来るまでの時間が長く感じた。

「さようなら」

 ぼつり、とパズルのピースがはめ込まれる音だけがする部屋で、貰ったアイスクリームをくちの中にかき込むと、涼夜はそそくさと玄関へ向かった。


 そんな事があった後も、涼夜は学校で龍介の声を聞くことはなかった。ただ、クラスの腫れ物のような龍介と会話できたことは、一種の自信となっていた。

 例えば、なかよし山のてっぺんから何度も飛び降りる龍介を見たとき。そして、彼を懸命に連れ戻そうとしている担任の姿が窓に映っているとき。

 度々授業が中断するのはこのクラスに限ったことではないが、龍介の行動は突風のように、なぜか涼夜の心をわくわくと浮き立たせた。

 また、あいつが何かやらかした。もっと、もっと…………。毎日違うことがなければ、虫かごのカタツムリくらい退屈なんだよ。

 龍介のアパートを訪ねることも苦痛ではなくなった。龍介専属の「お届け物係」のようではあったけれど、プリントを郵便受けに放り込むことも、プールバッグをドアノブに引っ掛けて帰ることもしなくなった。

 ひとつ不満があるとすれば、同じ教室にいるのに、近所に住んでいるのに、龍介の母親に会うことが滅多にないことだった。

 授業参観日に教室を見渡しても、それらしい人物はいない。緊急避難時の引き取り訓練にも現れず、龍介は別の女性と手を繋いで帰って行った。派手な服装をしているのに顔が憶えられないおばさんだけど、食いしん坊黒子の若い母親でないことだけは確かだった。


 図画の授業時間に起こった事件の結末に現れたのも、同じおばさんだった。

 龍介は白いパレットの端に、二十四色の絵の具を箱の中から順番に並べて絞り出し、画用紙の上でたっぷりの水と混ぜ合わせた。滲みが雨上がりの空に似たグラデーションを描く。

 それが面白いのか、顎が外れそうなほどの大ぐちに、眼を見開いて、今にも笑い声をあげそうな顔をしていたが、そのうち、波打つ画用紙から溢れ出した絵の具は、机に幾つもの流れを作った。零れ落ちた絵の具は筆ですくい上げられ、そのまま机の上にまで色を載せる。

 机の上を筆で撫で回していると、不意に、夕立が去った後の青空が眼に入った。龍介は絵筆を振り上げた。

「きゃあー」

 泣き叫ぶ女の子を見上げて、龍介はアハアハ……と笑った。龍介が空だと思ったのは、袖の膨らんだ水色のTシャツを着た女子児童の背中だったのだ。

 騒然とした教室に、担任は学年主任に助けを求めた。頭の禿げた優しいけれど頼り無い副校長と、神経質そうなおばさん先生がバタバタとやって来る。

 副校長に児童を任せた担任が、龍介と、着ていた服をそれこそ虹色にされてしまった女の子を連れて行ってしまったことが、涼夜には残念でならなかった。副校長は何事も無かったかのように授業を進めたが、掃除の時間になってもふたりは戻って来なかった。

 正解を教えてもらえないなぞなぞを出題されたような、もがもがした気持ちで靴箱に上履きをしまっていたら、涼夜の後ろからパタパタとスリッパが鳴った。すれ違いざまに、きつい香水の香りがした。黄色い髪をした、花柄パンツの後ろ姿が職員室の扉を開けると、ざらざらしたかすれ声が聞こえた。

 顔を確かめなくても誰なのかが判った。この人には、食いしん坊黒子は無い。


 龍介を利用しようとする奴らが、取り巻きとして存在するのも確かだった。彼の機嫌をとっておけば、奴らも無法地帯の住人で居られるから。

 やがて、発端でなくとも、龍介は問題の渦中に巻き込まれることになった。

 小柄で色白の龍介は体が弱いのか、よく学校を休んだ。髪をいじられるのが嫌いらしく、肩まで伸ばしっぱなしなので女の子にも見えた。それなのにじっとしていないので生傷が絶えなかった。

 それらがルールを守らないはみ出し者に見えるので、龍介の友人のふりをしていれば、誰だって威張れるのだ。


 冷たい風が頬を凍らせる朝だった。仲間たちは仔犬のようにはしゃぎ、教室はにぎやかだった。大人に見られていないだけで、涼夜の声量も何割か増した。毎朝ウケを狙っては黒板の前でおどけて見せる男子児童が現れるのを待っていた。 

 けれど、登場した彼はいつものようなお調子者ではなかった。しょんぼりと足下に眼を落とし、黙って大人しく入り口に姿を見せた。不安定な空気が漂ってくる。

 そのすぐ後から龍介が顔を見せた。片方だけ袖を通したジャケットの上から、スポーツバッグを斜め掛けにしている。白い三角巾で吊られた片腕に涼夜は顔をしかめた。手を貸そうと思う間もなく、龍介の背後から、男がぬっと現れた。

 教室はぴっとした緊張に捕らわれた。自分たちとは違う臭いが、この男から発せられることを本能的に察したように一瞬で声を呑み込む。

 朝だというのに濃い色付き眼鏡を掛けた坊主頭の男は、担いでいた竹刀をぶんぶん振り回すと、バシンと黒板を叩いた。教室の皆がその場から動けないでいる中で、龍介だけは坦々と机と机の間を歩いている。

「おんどりゃー……」

 坊主頭の怒声は甲高く裏返っていた。度々バシバシと鳴る竹刀のせいで、何を言っているのかもはっきりと聞き取れない。ただ、「龍介をイジメた奴は出て来い」という内容だけは理解できた。

 涼夜にはガタガタのすきっ歯が獣の牙のように見えたけれど、それはひょろひょろした痩せた野良犬のようでもあり、それほど強いとも思えなかった。眼鏡の下は案外トイプードルみたいな眼で、竹刀だってハッタリをかけただけかもしれない。

 それにしても、この男の眼には、体格の良い取り巻きの中の小さな龍介が、イジメられているとでも映ったのだろうか。

 涼夜は知っていたのだ。

 喧嘩でも何でもなく、昨日の学校帰りに、龍介は数人の児童と校庭の柳の樹に登って遊んでいたことを。そして勿論、柳の樹から落ちたことも。

 涼夜は男に優越感を覚えた。

 坊主頭は、龍介のことを何も知らないのだ───

 怖くて教室に入れないクラスメイトが廊下で泣きべそをかいているところに、ぞろぞろと大勢の職員が駆け付けた。異常を感じた上級生が気を利かせてくれたのだ。

 先頭では、痩せ犬など弾き飛ばしそうな熊並みの体格をした男性教師が、凶悪な殺人犯でも見つけたように刺又を構えていた。それを見た坊主頭は、滑舌が悪くて聞き取れない捨て台詞を吐くと、あっさり教室を後にした。

 その後、坊主頭がどうなったのか、涼夜は知らない。当の龍介は能面のようなぺったりした顔で、ただじっと、後ろの角に座っていただけだった。

 その日は、この場所が龍介の席になった。


 いつから龍介が他人ひと前で喋るようになったのか、涼夜は憶えていなかった。クラス替えと同時に退屈な日々が始まったからだ。

 龍介の気紛れに付き合わされるのは、いつも手の届く距離の児童だった。そして、涼夜の知らない所で、龍介の話題は蜘蛛の巣となって張り巡らされた。

 でも、皆が言うほど龍介は悪い子なんだろうか。

 賢しらな連中より、ずっとましじゃないのか。

 走り梅雨の合い間、蒸し暑い土曜日に催された運動会での龍介は、どこの誰よりも優しかったのに……。

 運動会でのクラス対抗リレーが、涼夜の一番の楽しみだった。

 誰をどの順番で走らせるのか、クラスメイトと何度も話し合った。

 レース終盤での、最下位からごぼう抜き、というのが練習中でも盛り上がったので、家族にも自信たっぷりに伝えていた。リズムにのれないダンスは苦手だった。まるでロボットのようだからビデオに撮られるのは嫌だけど、リレーだけは記録してほしいと頼んだ。

 意気揚々と臨んだ当日、真剣な表情で赤い棒を受け取った涼夜は、湿った土を後ろに跳ね上げながら、ひとりふたり易々と抜いて駆けた。放送委員の流す軽快なSMAPの歌が、自分の応援歌に聴こえた。保護者の喚声さえ、自分のために湧き上がっているように思えた。

 けれども、もう少しで三人目が追い抜けるカーブの途中で、水はけの悪いグラウンドは、この日のために洗濯された運動靴をぐちゃりと捕らえると、涼夜の体を走路に放り出した。

 地面に吸い付くように転んだ涼夜の、アンカーを示すタスキが虚しく泥にまみれる。最後の最後にクラスのヒーローになれなくて、崩れた顔にてのひらの泥を塗りつけた。

 零れそうな涙を誰にも見られないよう頭を垂れ、家族が弁当を広げて待つ場所へと歩いていると、正面から跳びついて来る奴がいた。とぼとぼと歩いていた涼夜は勢いで倒れそうになり、思わず足を踏ん張りながら奴の細い体を抱きしめた。

「いいじゃん。また来年、頑張ればいいじゃん」

 慰めになんかなるものか。だって、こいつは違うクラスじゃないか。

 悔しさに震えながらも、龍介の白い体操服が自分のせいで茶色く汚れていくのが、涼夜は哀しかった。

「龍介」

 校門の外から龍介の母親が手をふっていた。相変わらず母親らしく見えない。その隣には、例の、子供には充分怪しげに見える坊主頭が立っていた。

 腕を解いて母親のもとへ歩いて行く龍介の姿が涙で歪んだ。

 龍介の姓が「原」から「安原」に代わったのは、それからしばらく経ってからだったと記憶している。





 予鈴が鳴った。三人で階段に座ったまま、蟻のように教室を出入りする生徒を眺めていた。

 やがて、瑞樹は徐に立ち上がり、涼夜と龍介に片手を挙げて去って行った。

 瑞樹は色黒で精悍な顔つきをしている。血管の浮き出た腕は逞しく、背が高くて爽やかな印象がした。涼夜の記憶の中では稀薄な存在だった。今は、違う。

「ほら、あの子」

 龍介が顎をしゃくる。

「な、可愛いだろ?」

「後ろ姿じゃ判んねえよ」

 教室から飛び出した女の子に、瑞樹が声をかけている。あれは、偶然を装った瑞樹の策略に違いない、と涼夜は思う。

 だけど、あの子も瑞樹を追いかけてきたように見えた。これを〝駆け引き〟なんて言うのだろうか。

「でも、俺の妹の方が、もっと可愛い」

 龍介は、カップ麵の容器の縁にひらひらとくっ付いた紙蓋を剥がし取りながら言う。

「ハラの妹、まだ赤ん坊じゃんか」

 廊下の端に置かれたゴミ箱に、分別したゴミを投げ入れる龍介の後ろから、涼夜は紅茶の紙パックを捨てるふりをして顔を近づけた。

 あ、あの匂いがする───

 ふと、龍介の肩が、自分の肩に並んでいることに気づいた。

 抜かされそうだな───   



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