死神のチョコレート

夏村響

第1話

 お寝坊の夫と元気のよすぎる小学二年生の双子の息子を送り出し、慌ただしい朝にようやく一区切りがついた。

 私は小さく息をつくと、さっきまで夫が座っていた食卓の椅子に腰を落とす。それからエプロンのポケットから板チョコを取り出した。

 赤いパッケージのお気に入りのチョコレート。甘い甘いミルクチョコレートだ。


 銀紙の上から指に力を入れる。パキリと小気味のいい音を立てて、チョコレートはひとかけら分、きれいに割れた。それを指でつまんでそっと口に含む。

 チョコレートを食べる時の癖で、目を閉じて少し上を向く。噛まずにゆっくりと舌の上で溶かすと、甘いカカオの香りが鼻腔を優しく抜けていった。


『チョコレートは幸福の食べ物だよ』

 不意に彼の声が聞こえて、私は目を開ける。

 誰もいないはずの正面の席に彼がいた。あの時のままの黒いジャケットを来て、少し長めの漆黒の髪もあの時と変わらない。

『君のチョコレートはずいぶんと甘いようだけど』

「……あなたのチョコレートは?」


 私の問いかけに、彼はゆっくりとひとかけらのチョコレートをつまんだ指先を私に向けた。


 ★

 やる気もなく、だらだらと部活を終えて、日の暮れた道をやはりだらだらと帰途につく。

 私の通う中学校は、面倒なことに全生徒が部活に参加することになっていて、私は興味もないのに美術部などに入部して、果物やら花瓶やらをデッサンしてきたところだった。

 ふと思いついて、私は横道に逸れて小さな公園に入った。


 こんな日暮れに女の子がひとりで来るような場所じゃない。判っていてもまっすぐに帰る気になれなくて私は滑り台の前のベンチに腰かけた。薄明るいオレンジ色の常夜灯をぼんやりとみつめていると、よく判らない絶望感が込み上げてくる。

 何があったというわけじゃない。

 好きなこともやりたいことも何も無い毎日。その繰り返しがたまらなく退屈で、ただぼんやりと絶望しているだけだ。


 私の家は、いわゆる母子家庭だ。

 三つ下の妹は病弱で、母は彼女にかかりきり。別にそれが不満というわけじゃない。仕方ないことだから。だけど、ふと悲しくなることがある。

 妹が具合が悪くなり、母が彼女を連れて病院に行ってしまった夜などは、しんと冷たい家の空気に怯える自分がいたりする。

 さりげなく寂しいのだと信号を送ってみても、生活に追われる母にそれは届くことはなかった。


 心から溜息をつく。

 こんな時に思うのだ、死にたいなあと。


「死にたいの?」

 至近距離から声がして、私は飛び上がる。すぐ隣の暗闇に目を凝らすと、そこに誰かが座っているのが判った。

「だ、誰!?」

 ついさっきまで、そこには誰もいなかったはずだ。誰かが座る気配などまったく感じなかったのに。

 慌てて腰を上げて逃げようとする私に、その声の主はゆるく言った。

「そういう時に効くのはチョコレートだよ」

「……は?」

 肩越しに振り向くと、その人はそっと私に何かを差し出した。よく見るとそれは銀紙に包まれたひとかけらのチョコレート……と思しきものだった。私は警戒しつつも、なんだかそのチョコレートらしきものが気になって、結局、ベンチに座りなおした。

「……それ、何ですか?」

「チョコレートだよ。どうぞ」

「どうぞって、私にくれるんですか?」

「そうだよ」

 少し考えてから私は言った。

「あの……いらないです」

「どうして?」

「だって、知らない人から食べ物をもらうっていうのは……」


 あまりにも怪しくて、危険だ。

 そう思いながらも、何故か私はその場を離れる気にはなれなかった。彼が差し出すチョコレートも、彼自身も気になって仕方なかったから。


 私が躊躇していると、その人は暗闇の中で柔らかく笑った。

「何を警戒しているの? 僕が君に毒を食べさせるとでも?」

「毒? 毒入りチョコレート?」

「どうぞ。それとも、そんな勇気はない? 死にたいとかいう割に、本当は死にたくないとか? それって詐欺だよね?」

「詐欺って……」

「いる? やっぱりいらない?」


 一瞬の間の後、私はチョコレートを受け取っていた。馬鹿だと言われそうだけど、もうほとんど意地だった。

 銀紙をはがして、ひとかけらのチョコレートをまじまじとみつめる。それはおいしそうな甘いカカオの香りがするごく普通のチョコレートに見えた。

「それじゃあ、僕も」

 ふと見ると、彼の手にも私と同じひとかけらのチョコレートがあった。それを何の躊躇もなく口に含む。目を閉じて、少し顔を上に向けると、ゆっくりと口の中でチョコレートを溶かして味と香りを楽しんでいるようだ。それは本当においしそうに見えて、私の警戒心は少しやわらぐ。

「食べないの?」

 彼がからかうようにそう言った。

「た、食べます、今、食べようとしていたの!」

 ふんと鼻をならすと、私もひとかけらのチョコレートを口に含む。そして彼の真似をして目を閉じ、少し顔を上に向ける。舌の上でゆっくりとチョコレートを溶かして……。


「うわああ!」

 思わず声を上げた。

「な、な、なに、これ! 滅茶苦茶、苦い!!」

「仕方ないよ」

 暗闇に中で彼は言う。

「毒だから」

「毒? 本当に毒なの!」

 吐き出さないと……私、死んじゃう!!

 ベンチから転げ落ちて、大慌てで地面に吐き出そうとしたその刹那、笑い声がはじけた。

「やっぱり、死ぬ気なんかないじゃないか。何も見えてないくせに、一人前に死にたいなんて思わないでくれよ」


 そして、のんびりと彼は言う。

「冗談だよ」

「……え?」

 口を両手で押さえたまま、私は彼を振り返る。

「冗談って……何? 毒じゃないってこと?」

「そうだよ。何が悲しくてこれから長い人生がある君に毒入りチョコレートを食べさせるんだ? 僕の流儀じゃない」

「……あの?」

「カカオ九十五パーセントのチョコレートだよ。死ぬほど苦い」

「……九十五パーセントって」

 がくりと体から力が抜けて、私はその場に座り込む。

「何なの、それ……」

「大丈夫?」

「大丈夫じゃないよ! からかわないで!」

「ごめんごめん。でもさ、死にたくないって思ったろ?」

「え。ま、それは」

「それが君の本心ってわけだ」

 彼は軽く肩を竦めると言った。

「いちいち退屈だからって死にたくならないでくれる? そういう負の感情って結構、届くものなんだよ。呼び寄せられてしまうこっちの身にもなって欲しい」

「……それ、どういう意味ですか?」

「どうってそのままの意味だよ」

 彼はそう言うとへたり込んでいる私の腕を取って、ベンチに引っ張り上げてくれた。

「僕をここに呼んだのは君だよ」

「私が? 呼んでませんけど」

「死にたいって思ったろ? 結構、切実に」

 確かにそう思った。だけど、それが何? 一体、この人は何を言っているんだろう。

 目を凝らして彼の表情を見ようとしたけど、何故か、彼の顔がはっきりと見えない。それは周囲が暗いだけではないような気がした。

 急に怖くなって私は言う。

「……あなた、誰なの?」

 すっと彼がこちらを向いた。まっすぐに私を見ているのが判る。

「死神だよ。チョコレート好きのね」


 それからどうやって家に帰りついたのか、記憶がない。気が付くと、家にいて、母と妹とで食卓を囲んでいた。


「どうしたの? なんだか今日はぼんやりしているわね?」

 母が心配そうに私の顔を覗き込む。

「何か悩みがあるなら言いなさいよ。遠慮はいらないんだから」

「……え? 遠慮?」

 焼き魚をつつく手を止めて、私は母の心配そうな顔を見た。

「私が遠慮しているって思うの?」

「そうよ。あんた、幼い頃から辛抱強い子だったから。……うちが母子家庭だからってわがままの一つも言わず、頑張ってくれていることは判っているのよ。ちょっとは親を信じて甘えなさいよ」

「そうだよ、お姉ちゃん、頑張り屋さんすぎるよ」

 妹までにそう言われて、私は呆然とした。

「それ、どういうこと? 私のことなんか気にしてないでしょ」

「何言ってんの?」

 母も妹も怒ったような顔で一斉に私を見た。

「気にしてないってどういうことよ? 大切な家族のことをどうやったら気にしないでいられるっていうの?」

「お姉ちゃん、好きでもない美術部なんかに入ったから退屈なんでしょ? だから機嫌が悪いんだ」

「ええ? そうなの? 美術部って面白くないの?」

「……私の部活のこと、知ってるんだ?」

「当たり前でしょ!」

 母と妹が同時に言った。その後、お互い目を合わせてぷっと吹き出して笑いあう。私はただ、二人のそんな様子を眺めていた。


 ……見てくれていたんだ、私のこと。

 何を言っても上の空だと思っていたのに。

 不意に、チョコレートの苦みが口の中でよみがえった。

『チョコレートは幸福の食べ物。体や心が疲れた時にチョコレートを食べると、実は自分が思っている以上に幸せなんだということをみつけられるよ』

 チョコレート好きの死神がそう言っているのが聞こえた気がした。


 ★

 あれから長い月日が流れて、私は大人になった。

 結婚して、子供までいる。

 あたりまえと言われればそうだけど、大人になったことも、結婚して子供がいることも、あの時から考えると何だか不思議な気がする。


 自称チョコレート好きの死神に会って以来、心や体が疲れた時にチョコレートを食べることが私の習慣となった。そんな時、顔も思い出せない彼と、私は向かい合わせに座っている。彼は相変わらず、あの苦い毒のようなチョコレートを私に差し出す。もう引っかからないわよ、と私は笑うのだ。

『幸せになったろ。チョコレートを食べて』

 彼の言葉に私は頷く。

 そのタイミングで、洗濯が終わったことを告げる電子音がベランダから聞こえてきた。

 私は食べかけのチョコレートを銀紙に包み直すとエプロンのポケットにしまい、急いでベランダに出た。途中、振り返って食卓を見たが、もうそこには誰もいなかった。


 洗濯機から洗いあがった衣類を引っ張り出しながら、ふと、青く晴れた空を見あげる。

 単調で平凡な毎日だけど、甘いチョコレートを頬張った時のような幸せがその中にあるのを大人になった私はみつけることが出来た。

 それを死神に教えられるなんて何の冗談かと思うけれど。

 太陽の光が眩しくて思わず、目を細める。

 ああ、生きている。

 何の脈略もなくそう思った。



おわり

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