第9話ルナとの想い出(その二)
☆ ☆ ☆
まっさかさま。
ルナは目を閉じなかった。谷の底には、弱り切った狼の子がいた。彼女は見えないものを見、聞こえないものを聞く。だから、当然クラインのことも知っていた。
小さな手をいっぱいに広げ、必死に崖を駆けのぼってきたその子を抱きしめる。そして崖の下で共に痛みに耐えた。
互いに、一人で生き抜くには、か細い命だった。
「なぜ、ここに来たの? あなたも突き落とされたの?」
身を低くしてそう尋ねたのは、痩せた子狼、クライン。
「クライン、私はあなたの痛みを知らねばならなかった」
ルナは服の破れを気にせず、高みを見つめた。空は遠く、星が瞬いていた。
「なぜ、ボクの名を知っているの?」
「怖かったでしょう。悲しかったでしょう……クライン」
涙を流すルナは幼くて、とっさに彼は守らねば、と決意した。
落下した谷底には小動物がいて、クラインはそれらを糧として生き抜いてきた。父と母はとうに群れの中心におさまっている。彼は、群れの中で劣等とされ、谷底へ落とされたのだった。
彼がネズミをくわえて戻ると、ルナはまだそこにいて、ネズミを前にして、そっとソレに触れた。
「暖かい……」
「食べないの?」
「そうね。私は後でいいわ」
クラインは不思議そうにして言った。
「やわらかい生き胆は、強いやつが先に食べるんだ」
ものを含んだ笑みでルナは応える。
「あなたは弱いの?」
「元いた群れの中では……」
「あなたの群れは、獲物を追って行ったわ。もう帰らないと思う。けれど私はあなたを見放しません」
と、気丈に言い放った。
「どっちが……」
と言いつつ、クラインは彼女を守りぬき、二日も過ぎたころに迎えが来た。ルナの従者が探し回っていたのだ。
「あの人たちは、どうしてここがわかったの?」
狼クラインが鼻を鳴らすと、ルナは
「私はあなたに逢いに来たのよ。当然、行き先は告げてきた。ダーナが見つけてくれると信じて……」
ふつふつと彼の胸にわき上がる想いが、彼を奮い立たせた。
「ウォウー……」
(ボクはいるよ。ここに、いる!)
「そうです、クライン! あなたに必要だったもの……それは」
クラインは落ちくぼんだ瞳を輝かせて、凛としてルナを見つめ、立っていた。
(ボクには、大切なものがある! 大切な、ひとが……いるんだ)
「クライン、忘れないでね。それが、あなたを守ってくれます」
「あなたの名前はなんというの?」
「私はルナ。これから聖都エイルランドで勉強をするのよ」
ボクも行くよ!
そう彼が言いかけたとき、ルナの従者がやってきた。クラインを追い払おうとするので、ルナが止めた。どこまでもまっすぐに彼を信じていてくれた、それがクラインにはどれほどうれしかったことだろうか。
「あの狼、どこまでもついてきますね。始末しますか?」
馬車の中でダーナが小窓の覆いの隙間から表を見て言った。
「いいのよ。あなたは知っているはずだから」
ルナは泰然としている。いつものことなのだ、と。
「では、あれが……」
「そう。彼もまた、私の大切なひと」
「ひとではないと思いますが」
「ダーナ、見かけで判断してはダメ。あの場所で飛べと、女神がおっしゃったのだもの、彼に間違いありません」
「月光の女神よ……ひとならざる者の運命までを見定めてしまわれるのか」
「心配はいらない。また……逢えます。クライン」
ルナの乗った馬車は丘を越えて、夜道を急ぐ。そのうち姿が見えなくなった。
クラインは別離に泣いた。そして吠えた。月にむかって。
それが、初めての邂逅――。
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