第10話 チップ

 お客様の中には従業員の為にお土産やチップを置いていく方々も多い。自分では絶対に買わないような高級なお菓子やフルーツ、変わった珍味などを食べて他のジャンルの高級店の情報を知る。気に入った場合は実際に店に足を運び食事に行く。


 予約して電話するだけでもその店の接客態度の勉強になる。普段から電話では鍛えられているので尚更だった。中華、イタリアン、フレンチも奥が深い。似たような若い衆が働いていると応援したくなる。


 ベテランの先輩方はバブルの頃、宴会の度に従業員全員に一万円が配られていたらしい。


「今日は何人いる? 」

「10人です! 」

「それじゃこれでタバコ代にでもしてくれ」


 そういって大入り袋が一人一人に配られたがあまりに仕事が忙しく使う暇がない為、給料に手をつけなくてもチップだけで生活できる時代があったらしい。


「千人の大宴会が終わってから翌日の宴会の仕込みをしなくちゃいけなくて、徹夜で卵焼きを焼いてると、先輩が顔を卵焼きに突っ込んでぶっ倒れたこともある」


 壮絶な現場の仕事を聞いてるとなかなか面白い。


「俺は忙しくて人手が足りない為に若いうちから宴会で握らせてもらえるようになってお客様に鍛えられた。そういう意味ではお前らは握らせてもらえるデビューが遅いから可哀想だとも言える」


 店では宴会に行く人間は中途採用者を選び、我々下っ端は店での追い回しに使われていた。中途採用者では仕込みの流れや物の置き場所が分からず、ベテラン先輩方が頼み事をしにくいからだ。その待遇が嫌で店を移った人間も少なくない。


「ここで何年働いてもまだ宴会も行かせてもらえないんだぜ。やる気なくなるよ」


 私の同期はそう言って海外に飛び出した。ちなみに私も一向に宴会に呼ばれていない。先輩のバブル話は続く。


 タクシーを止めるときは乗車拒否は当たり前で、客が札束をちらつかせながら道端で止める光景があちこちで見られたらしく、先輩方は皆口を揃えて言った。


「あの時代は良かった」


 事あるごとにバブル時代のことを語りたがる先輩たちは、バブル時代を知らない我々の心には響かないし、正直羨ましかったが話を聞く身としては鬱陶しかった。


「金を湯水のように使い、いくら使っても次から次に金が湧いてくる。その時代の忙しさと比べればお前らは大したことないよ」


 寿司屋に限らずこんな事を囁く常連の客も多くリアクションをとるのに困る。


「いいですね〜」

「そうだったんですか! 羨ましいな〜」


 言葉とは裏腹にこんなおべっかを何度使ったか分からない。私は就職に苦労したことがないが、就職氷河期を経験した方々なんかは怒りさえ覚えてしまうのではないだろうか?


 こう言った先輩方は下の者を育てる意識が低くぞんざいに扱う。新人は耐えられず辞めていき、ますます下っ端はいつまでたっても昇進しない。何年も同じ仕事をさせられて飽きてしまい転職する者も現れる。


 バブルの頃のようなチップはないし、給料も低くモチベーションも下がる。私は転勤で新しい仕事を任せられてやる気に満ちていたが本店では改革が進み、次々と人が辞めていった。

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すし屋の小僧 ヨシクボ @88883310

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