第9話 恵方巻き

 二月三日の恵方巻きに向けて準備は着々と進められていた。具材は胡瓜、椎茸、干瓢、玉、ボイル車海老、穴子で全て火が通っている食材だ。


 胡瓜は塩で板ずりしてから軽くボイルして氷水で冷やして水気を拭きとる。前日に仕込んでカットしておかなければならない。


 椎茸は水で戻してから砂糖とザラメと醤油で甘く煮付ける。柔らかくするために圧力鍋に一時間ほど火にかけてから、大鍋に移し替えて木べらで焦がさないように火にかけてさらに水分を飛ばす。この時、熱された椎茸が腕に付着すると火傷するので長袖を着て作業したりする。火の側の作業なので冬でも非常に汗をかく。暇な時に仕込んで冷凍しておく。


 干瓢も水で戻してから砂糖とザラメと醤油で甘く煮付ける。仕上げるときは鍋に付きっきりで見ておかないとすぐに焦げ付いてダメになってしまうので注意が必要だ。これも冷凍が可能だ。


 玉は芝海老をボイルして出汁をとり、特別な卵を割ってから漉して滑らかにしたあと調味料で味付けする。サラマンダーで熱した銅板の玉焼きの型に流し込み、焦がさないように火を均一にいれながら焼いていく。焼き上がりは焼き型に木の板を挟んでひっくり返して取り出し、さらに余分な部分をカットして整形して冷ます。カステラのように滑らかな食感の玉はそのままつまみで食べても美味である。


 車海老はボイルして包丁で開いてから保存のため少し酢につける。さらに袋に綺麗に並べて真空して冷凍しておく。


 穴子は専用のつけダレで付け焼きつけやきしてから袋に並べて真空パックして冷凍だ。普段の営業中のお土産でも穴子は必要な為なかなか貯めることはできない。そのため早いうちから一日十〜二十本付け焼きしながら目標数を焼いていく。店が忙しければ焼く事ができず焼き場の人間の要領が試される。


 さらに当日必要な大判海苔、包装紙、袋も早めに確保して準備しておく。シャリも大量に炊くので早めに注文しなければならない。だいたい下っ端に人間が用意しなければならないため、自分の普段の仕事も合わせて本当に忙しい。


 真空冷凍した食材を解凍してザル上げやペーパーで水分を取ってから、作業しやすいように並べ冷蔵庫で保管する。大量の食材により冷蔵庫がパンパンになる。


 本店の頃、私の同期はシャリだけで前日の夕方から炊き始めて、二、五升を五〇本近く炊いた。炊いては「シャリ切り」で酢を合わせてお櫃に収まる。お櫃に炊いた順にガムテープで番号を蓋に貼り付けて数を確認する。途中から意識が朦朧として倒れそうになったらしい。高く壁のように積み上げたお櫃を作業部屋に運び入れるために、営業終了後台車で運んでいく。


 必要な食材、材料を冷蔵庫に保管して帰宅しようとするが下っ端はできない。翌日は朝五時出勤のため始発では間に合わずに、店に泊り込む従業員が続出するため眠るスペースがないのだ。そのため各自が漫画喫茶やビジネスホテルで店の近くに泊まる必要がある。


 私はこの時初めてビデオ個室に泊まった。店には狭くて細いビルにエレベーターで上がっていく。フロントで受付を済ますとDVDを五本ぐらい借りられるシステムだがほとんどがアダルト作品だ。私は迷ったが体力を温存させる為に借りなかった。「火災が起きたら一発でアウトだろうな」と思われる狭苦しい蟻の巣の様なフロアに行き部屋の鍵を開けると、リクライニングシートとテレビが置かれた部屋だった。隣との壁が薄く声が聞こえてくる。隣は何やらお楽しみらしい。


 私は疲れていたのでとりあえずシャワーを浴びて、すぐに電気を消して眠るように努めるが普段との環境の違いに眠ることができない。ドアを開ける音、隣のアダルト作品のヘッドホンから漏れる声、椅子の軋む音が気になって眠ることができない。結局徹夜になった。予定よりも早く退室してファミレスで朝食をとり仮眠する。


 店に出勤すると先輩たちが出勤する前に食材をエレベーターで上げてセットしなければならない。みんなが出勤すれば頼み事で振り回されて内線の電話で忙殺される。


「材料どこにあるの? 」

「カウンターの中に入っていませんか? 」

「シャリが足りない! どこにある? 」

「完全になくなってから振り分けるんで、今ある分で何とかしてください! 」

「包装紙が足りない! 」

「そんなわけありません。よく見てくださいよ! 」


 仕込み場は準備万端であるにもかかわらず必ず混乱する。


 太巻き班と営業班で別れて対応する。当日の注文も受け付けているので本当に忙しい。洗い物の残骸が溜まっていく。


 店のお土産だけではなく、デパートの催事場で販売する仕事もあったので作った太巻きをダンボール箱にいれて車で運ぶ作業もあった。


「二時にデパートに百本届けないとダメだけど、あがりそう(出来そう)? 」

「あと少しでーす! 」

「早くしろよ! 向こうは待ってるんだぞ! 」

「すいません! 太巻きがパンクしました」

「何やってるんだ! もういい! お前クビだ! 代わりに誰か巻け! 」


 営業班、太巻き班、催事班、仕込み班それぞれが修羅場を迎えて一日中忙しい。高く積み上がられた段ボールに入れられた太巻きは五千本を超えていた。ダンボールを倉庫に運び一息つく。


「こんなに本当に食べるんですかね? 」


 後輩が疑問を呈する。疲れきっていて半分ヤケになっているための恨み節だ。


「考えないようにしよう。俺たちはただひたすら雑用をこなすだけだ」


 私も疲れきっていった。膨大な数を目の当たりにすると疲れがどっと増してくる。


 やがて営業が終了して社長がホクホク顔で労う。


「みんなよく頑張った。今回は過去最高の売上だったよ。また来年よろしく」


 先輩一同げんなりした顔で帰路につくが、下っ端は余った材料をまとめてタッパに入れて在庫の数を確認する。来年のための数字を残しておく必要があるからだ。売れた数、余った数、余った材料の数をノートに書き留めて後輩にノウハウをバトンタッチしなけらばならない。慣れた者が準備したほうがいいがそれでは後輩は育たない。先輩はサポートに回り来年の後輩を指導していく。


 帰りは下っ端全員で居酒屋で打ち上げをする。各々の失敗談や、成功談などの情報を集めてノートに書くためだ。理不尽な命令や現場での喧嘩、準備で足りなかった事柄を話し合いやっと帰れる。時刻は深夜だった。


 翌日休みの者もいたが私は仕事だった為に、疲れきっていたのと遅刻防止のためにあえて店に泊まった。恵方巻きが終わればしばらくはイベントがなくなる。寿司屋にとって一つの区切りかもしれない。最近はひな祭りのちらし寿司もあるが太巻きの比ではなかった。


 時代の流れと共に最近では業者に合わせ酢の割合を教えればシャリを炊いてくれたり、他の食材も仕込んでくれるサービスも出てきた。今後この流れは加速していくだろう。あまりにもアナログで従業員の負担が大きすぎる。


「昔は恵方巻きなんてなかったんだぜ。最近できたイベントだけど定着してきたよな。バレンタインと一緒で企業の陰謀だろうけど」


 先輩が恨みがましく愚痴を吐く。全国の寿司屋の方々お疲れ様でした。また来年よろしくお願いします。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る