第10話 シャリ遅刻

 シャリ(米)を炊く係の者は誰よりも早く出勤する。店には二,五升炊ける釜が五個ありそれぞれの時間をずらして点火し、その間に塩と砂糖と酢を調合した合わせ酢を作り、炊き上がったシャリをくっつかないように水で湿らした巨大な寿司桶にあけて、これまた水で湿らしておいた木べらで切るようにして合わせ酢とご飯を合わせていくため、この作業を「シャリ切り」と呼びます。


 ご飯を木べらで底から大きく返し、塊を少しづつ崩しながら全体に酢を回します。木べらをすくうようにして練らないようにしながら、ご飯粒を潰さないように配慮し、寿司桶の周囲の縁に塊を当てるようにしてシャリをばらし均等に広がるようにしながら、木べらを手前に切るような感じで動かします。


 米の湯気が立ち昇り大変熱く、至近距離で作業を行うため私のメガネは曇り油断していると火傷します。手早く「シャリ切り」を終えてお櫃に収めて、次の「シャリ切り」の為に使った道具を手早く洗ってまたセットしなければいけません。点火してからご飯が炊き上がるまで四十分かかります。


 また米と酢が馴染むまではある程度の時間がかかります。なのでシャリ当番の者には遅刻は許されません。シャリがなければ営業ができないからです。寿司一貫分の八割を占める食材であり妥協は許されません。個人店では店主がシャリ切りを行い、下っ端には絶対に触らせない店もあるぐらいです。


 同期のシャリ当番が遅刻しました。その日は予約の数も多く午前中にお土産の注文も入っていて絶対に遅刻してはまずい日です。別館にもシャリを炊ける釜も道具も揃っているため別々に分かれて二人掛かりでなんとか間に合わせます。本館から別館に台車で足りない道具や食材を運んだりして忙しくなります。もちろん朝セットもしなけばいけませんがシャリを優先します。先輩たちが出勤して他人事のようにニヤつきながら言ってきます。


「あれ? お前こんなところで何やってるの? まさか誰か遅刻した? 営業には間に合うのかよ? 」


 分かっているからこうやって急いでるだろうが! と怒鳴り散らしたくなりますがかまってられません。お土産用に使うシャリを先に炊き上げて急いで冷まします。内線が鳴ります。


「シャリはどうした! 早くしろよ! 冷めてるところだけ先にもってこい! 」


 先輩も殺気立っています。余計な事は言わずに何とか少しづつ扇風機やら団扇を使い冷めたシャリの部分を集めて間に合わせます。汗だくで過呼吸になりそうです。


 仕込み場では本来いるはずの人間がシャリに取られている為に準備不足で大幅に遅れます。それは私たちの休憩時間を削る事を意味し、挽回しようと焦って仕事をするとミスも出ます。指を切ってしまったり、タッパを床にぶちまけてしまったり、イライラして声を荒げてしまったり、ドミノ倒しのような負の連鎖が続きます。


 遅刻した人間に電話もかけなければなりません。仕込みをしながら受話器を耳に挟みコールし続けます。


「遅刻した奴とは連絡ついたのか? 何やってるんだ? 」


 こっちが聞きたいです。手が空いているなら手伝ってくれればいいんですが、誰一人としてそんなナイスガイはいません。一人一人がギリギリで働いていました。


 やがて連絡がついた同期が出社し謝罪して休憩なしで仕事を続けます。お詫びにケーキを買ってきたりもしました。この同期は積極的に上の仕事を取ろうとするのですが、シャリの点火をミスったり計算間違いをしたり簡単なミスをよくやる人間で私がよくフォロー役に回っていました。


 こんな遅刻が週に必ず二、三件発生します。最初の頃は起こしあって出勤していた私達も、仲が悪くなって馬鹿馬鹿しくなり自己責任にしていました。社会人としては当然ですけどね。


 毎日誰かが喧嘩したり、遅刻したり、朝からトラブルが絶えなくなり私たちは疲弊していました。退屈はしませんでしたが修羅場が続くと人は荒みます。


 キャバクラに通い続ける者、夜な夜な飲みに出歩く者、ギャンブルに狂う者、風俗通いする者、恋人に会う者、それぞれがストレスの吐け口に何かに依存して、お金を使い貯金している者はほとんどいませんでした。誰もがギリギリの精神状態で働いていたと思います。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る