後日談 (カクヨム先行番外編)

瑠璃空に行く日(航視点 前編)


 西の京、山口市内にある公立高校に合格した。

 日本海にある育った町を出て、既に山口に住まう叔母の元で暮らすことになった。

 目に青葉、山ホトトギス、初鰹。そんな頃。

 日本海の田舎町から市街にでてきたとはいえ、航とにとっては慣れ親しんだ街。

 小学生の頃から叔母がここに住んでいたから、彼女に会いに来るたびに、この街を知り、すっかり土地勘が備わっている。

 合格した高校もそれほど遠くはなく、毎日帰り道に迷うこともなければ、そのまま街中の商店街で放課後を楽しんで帰宅する余裕もある。

 きままな放課後は、慣れている街とは言え、やはり田舎から出てきた航には新鮮なものがあった


 今日も商店街の老舗の文具屋でノートを探しに出掛け、友人と『肉うどん』を食べ、学校生活のあれこれをひとしきり話して帰宅する。


 帰宅するその道筋で、カリヨンの鐘が鳴る。

 この音が聞こえるのも『叔母の家』の特徴、航はそんな叔母の家に、ガラス工房に来るのがいつも楽しみだった。

 サビエル聖堂がある丘の麓、閑静な古い住宅地。緑の垣根に芍薬の花が揺れている。その向こうのアスファルトはいつも熱気で揺らめいているが、今日は工房が休みで静かだった。


「ただいま」

 黒い学ラン姿のままリビングへと入る。工房が定休日だから、叔母の花南がいるはずと航はリビングを見渡す。いなかった。でもキッチンから物音。

「おかえりー、航。遅かったね。お友達とでかけた?」

 エプロン姿の叔母がそこにいた。アイランド型のキッチンでなにかを作っているところだった。

「うん。また肉うどん食べに行っていた」

「よく行くねー。でもあそこの肉うどん、わたしも好き。お休みの日はよく食べにいっていたもの。学割があるから学生が多いよね」

「なにか食べに行こうとするとあそこになっちゃうんだよ」

 それでも高校に入学するために、日本海の田舎町からこちらに移転してきたが、きちんとお友達が出来て良かったと、叔母が微笑む。

「じゃあ、いまおなかいっぱいだね」

「いっぱい」

「本日はおやつはなしだね」

 叔母が準備してくれているおやつも子供の頃からの楽しみではあったが、いまは友人とうどんを食べながらのおやつも楽しいので、今回は自宅でのおやつは諦めた。

「なにつくってんの」

 工房が休みだからとて、叔母がはりきって料理をするのはどちらかというと珍しい。

 これで未成年で子供の立場である自分がいない夜なら、もっと気ままで適当な『おひとり様のわたし』で簡単に過ごしているはずなのだ。それでも甥っ子と一緒に暮らすとなったら、叔母は毎晩懸命に食卓を整えてくれる。

 やっぱりひとり分作って食べるより、誰かの為につくって食べるのおいしいよ~と、楽しそうにしてくれる。

 それでも。彼女が懸命に作っているものを見て、航は目を瞠る。

「なに、それ」

 肉の塊がどーんとまな板に置かれていた。ほんとうに真っ茶色でどーんと。

 叔母は銀賞を受賞したことがあるガラス職人、所謂芸術家だった。彼女がガラスに向かうと、ガラスが彼女の気持ちに寄り添うように操られている。航は子供の頃からそう見てきた。その凛々しい叔母を敬愛している。

 しかし『それ以外のこと』になると、叔母は無頓着で、無関心で、適当で、どう生きていけるのかと子供の自分でも心配なる程に大雑把な人で、はらはらさせられることが多い。その不安がいま、まさに襲ってきた。

「こんなでっかい肉の塊、なにしたの」

「えっと、誰でも簡単に出来るーていうんで、その通りに作ったんだけれど」

「これで出来上がりなのかよ?」

 叔母が真剣にウンと頷いた。彼女がナイフを手にする。

「義兄さんが帰ってくるじゃない。だからと思ってねえ……」

 ああ、そっか。今夜は父さんが日本海にある本家本社から、この山口の家に帰ってくる日かと航もやっと気がついた。だから叔母が、愛する夫、大好きな義兄さんのために、ご馳走を作っているんだと理解した。

 だからって……、そんなどーんとした肉の塊??

 しかし、その肉の塊に叔母がナイフを入れ、綺麗に薄切りにした。こういう『技巧的』なところで叔母はたまに卓越したものをみせつける。そんなところは職人の横顔、手つきになり雰囲気が一変する。

 すらっとスライスされたものは、真ん中が綺麗な赤身だった。航もようやく気がつく。

「え、ローストビーフ?」

「うん、そうだよ」

「カナちゃんが、ローストビーフ!?」

「おかしい?」

 作ったことなんかあったっけ? と、いままでを振り返ったが思い当たらない。

「初めて挑戦したんだよね。誰でもできるって動画を見てから、次の休暇、お義兄さんが帰宅する日にやってみようと思っていたのよ」

 そのスライスしたビーフを彼女が口にぽいと放り込んで、もぐもぐ。

「わ! ねえねえ! 航も食べてみてよ!」

 叔母がまた薄く綺麗にスライスしてくれたものを航へと差し出してくる。

 嘘だろ。ろくに料理も出来なかった叔母ではあったが、それなりに上手くはなった。しかしこんな手の込んだ料理は、ガラス工芸優先でしてこなかったはず。初めてでそんなできるもんか――と、彼女が差し出しているビーフを取ろうとした。

「あ! 航、まだ手を洗っていないでしょ!」

 叔母が母親のように目くじらを立て、自分が差し出してきたくせに、ビーフのスライスをさっと引っ込めてしまった。

「わかったよ、洗ってくるよ」

「待って待って、こうすればいいじゃない。ほら、あーーん」

 航は『ぎょっ』として、後ずさってしまった。

「だから、洗ってくるって……」

「あーんするだけじゃん、ほら!」

 甥っ子があーんした口に頬張らせるのは、叔母にとっては『当たり前のこと』。なにせもの心ついた頃からこの人に面倒を見てきてもらっていたし、とてつもなくかわいがってもらってきた。

 でも。いまの俺はもう高校生。本来なら母親がこんなことしようものならつっけんどんに突き返して、母親に甘えることを恥じる年頃のはずだった。

「あれ、いらないの。あ、そうか。おなかいっぱいだったんだよね」

「もう、わかったって」

 航は叔母と自分の二人だけだからいいかと、幼い時のままついに口をあーんと開けてしまう。

 くっそ。こんな姿、絶対に絶対に友達にや茶道部の彼女たちに見せられない。でも、『カナちゃん』と一緒にいる俺は、やっぱりいつまでも小さな男の子みたいなもんで、実は航もそれが心地いいままだと自覚している。

 この人は、死んだ母の妹。母の記憶があまりない航にとって、いちばん母に近い人。でも母親ではないから、気兼ねがなくて、甘えられて。また彼女が母親世代より若いもんだから、余計に母でもなく叔母でもなく、まるで姉にような従姉のような感覚にもなる。

 父親は仕事一筋で真面目で静かな人、でも叔母は航にとってはぱっとそこを明るくしてくれる楽しい人。

 だから、一緒に暮らしたかった。彼女と笑って毎日を過ごしたかった。それがやっと叶ったんだ。

 素直な童心に返る時、航はあらゆるプレッシャーから解放される。いまもそんな時。

 そこに叔母がひょいとスライスしたビーフを放り込んでくれた。そして航ももぐもぐ。

「うまっ! なんだこれ。マジ、ローストビーフ」

 本気でびっくりしている。なんだこの美味いの、美味くできてるじゃん! 初めて作ったなんて嘘だろ!! と叫びたくなった。

 しかしそこで、航は口元を押さえ、なにやら胸の奥から熱いなにかが込みあげそうになって堪えた。

 こういうの『母の味』になるのかな。自分のお母さんの味というのは、ここまで育ててくれた祖母の味だと思っている、いまでも。

 でも。なんだろう。お祖母ちゃんではなく、母世代の若い女性が、家族を思ってつくるご馳走。

 もし。母さんが生きていたら。こんなふうに帰ってくる夫のために、こんな洒落たメニューでも背伸びをして頑張ってチャレンジしていたはず。

 そういうのを、いま、航は感じている。父と、父の妻になった叔母、そして息子の俺。その空気感は祖母に育てられた日々とは異なった。

 思った以上においしかったビーフをそっと飲み込んで、航は滲みそうになった涙を堪えた。

「絶対に少しは失敗すると思ったのに。もう~、万人に簡単に上手に出来る方法を教えてくださる料理家先生、神! 感謝! ワインかな、ううん、きっと義兄さんなら冷酒ね。じゃあ、グレービーソースは山葵(わさび)風にしようかなー」

 ウキウキとフライパン片手に料理を始めた叔母をそっとして、航はひとり部屋へと向かう。

 学ランを脱いで、普段着に着替え、机に向かった。

 目の前には叔母が作ってくれたガラス細工がある。

 透明なカエルと天使。機関車に、航が釣った魚を模したガラス細工もある。叔母が片手間にちょこちょこ作っては、豊浦の本家で帰りを待っていた甥っ子にくれたもの。

 ガラス細工のほかにも、ペントレイや小物入れ、航のお気に入りはステンドグラスの置きライトだった。

『航だけの模様だよ。売り物には使っていない図案だからね。世界にたったひとつ。航のために作ったよ』

 父がいつのまにかこの家を山口に買い、二軒目の工房として開設し、小樽から叔母を連れ戻して住まわせるようになった頃。叔母が父のガラス工房で初めて作った売り物だったという。

 サビエル聖堂のステンドグラスのようにモダンで美しい。そのライトを手元につけて、航は叔母をそばに感じて、受験勉強をしてきた。

『お父さん、どうしてカナちゃんは北海道に行っちゃったの。いつ帰ってくるの。寂しいよ! もう幼稚園にお迎えに来てくれないの? お祖母ちゃんばっかりヤダ!』

 そうして泣いたな……と、航はふとカエルのガラスをみて笑ってしまう。そしてあの頃の寂しさも思い出して笑顔を消してしまう。

『叔母さんは、ガラス職人だ。ガラスができる場所で働かなくてはならないんだ。雇ってくれたのが北海道の工房だったんだ』

 父が不機嫌そうに怒りながら言ったのも覚えている。静かで落ち着いていて、決して声を荒立てて怒るような父親ではなかった。その父がその時は声を荒立てたのも覚えている。

 子供心になんとなく、父も叔母がいなくなって哀しかったのだと記憶している。

 叔母が作ってくれたガラス細工、ちいさな天使を航は手のひらに乗せる。

 部屋の窓際からは庭の花が見える。空かした窓からその花と緑の匂い。

 サビエル聖堂の15分置きの鐘がひとつなった。チャペルの風、手のひらに天使。

『なんで天使?』

『航のちいさなお尻がかわいかったのを思い出したから』

『はあ?』

 この天使をもらったのは、彼女が山梨の山中湖から二年ぶりに帰ってきた頃だった。

 もう中学生になり、叔母の背を越した頃だった。なのに急に『お尻がかわいかったのよ』とおかしそうに笑ってガラスの小さな天使をつくったと航にくれた。

『なんで、俺のお尻がかわいんだよ!』

『今じゃないよ。三歳とか幼稚園に入園する前の航だって』

 そして叔母がまたくすくすと笑って楽しそうに言った。

『もう、おむつをしていた丸いお尻もかわいかったし、トイレトレーニング頑張っている航が嫌がって、お尻丸出しでお祖母ちゃんに追いかけられてわたしのところに逃げてくるの、思い出しちゃって』

 そういうどうしようもなかった幼児の頃を引き合いに出されるのを思春期の男は嫌うもの。それをこの叔母は、帰ってくるなり『お尻を思い出して作った』と面白がっている。

 それでも叔母は、むくれている航の手のひらに乗せた天使のお尻を指で撫でた。

『お姉さんの、かわいい置きみやげ。わたしは母親でもないし、母親らしいこともしてあげていないけれど、でもやっぱりずうっとずうっとかわいいって残ってるよ。それがあるから、今があるの』

 叔母のガラスには意味がある。航はそれを子供の頃から感じていた。

 吹き竿を手にしたら最後、その先に何かが生まれ出るまで叔母はそこから帰ってこない。自分のいまと戦っている。そう観てきた。

 かわいい天使、笑っているけれど。そこに、透き通ったガラスそのもの。無垢な意味がある。だから尊いものなのだ。

 高校生になり、山口の家に父と移転してきた。念願だった叔母と父との生活が叶った。古都の薫りがする窓辺に、この家の花の色。チャペルの鐘の音に、ガラス工房からの熱風。『俺の居場所』。

 航はここにいるよ。安心していいんだよ。わたしの手元にいつもいる。

 その天使の意味をそう感じるようになってきた。

 航も手のひらに乗っている天使のお尻を撫でた。叔母が愛おしく思ってくれていることを感じて。


 


 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 


 春の夕。窓辺の空に紫苑と茜。なのに花の匂いが濃く、航の手元に流れてきた。

 庭先の緑の垣根の向こう。黒いレクサスが停車した。父が帰ってきた。

 凛々しいスーツ姿で颯爽と車を降りた父はどこか足早で、もうそこに姿がない。

 妻になった叔母に早く会いたいんだろうなと、航はそっと笑ってしまう。

 あと少しの勉強を急いで、航も部屋を出る。

 リビングに入る時は要注意。数日ぶりに会う新婚夫妻の熱い分かち合いの邪魔にならないよう一呼吸置くことにしている。

「なんだ、カナ。帰るなり……」

 案の定、心待ちにしていた叔母が大好きなお兄さんに抱きついちゃったのかなあ……なんて航は必死に笑いを抑え身を潜めている。

「お願い、お義兄さん。この金具のこと調べて欲しいの」

 ん? なんの話? 航は眉をひそめつつも、ドアに影が写らないよう聞き耳を立てる。

「みて。小さなトンボ玉をピアスにしてみたの」

「うん、いいな。これは売れそうだ」

「でしょ。でもね、このピアスの金具、ポストとキャッチでセットになっているんだけれど、出来ればどなたでも着けられるように金属アレルギーにも対応している金具を使いたいの。コスト的にどこの業者からこの金具を仕入れたらいいか教えて。原価と価格も義兄さんに計算し直して欲しいの。それで売るべきかどうか」

 工房仕事の話だった。父の返事がない。

「わかった。金具の仕入れ先から検討してみよう」

「お願いします」

 航はそっと溜め息をついた。ときどき本当に新婚さん、紆余曲折あった義兄妹がやっと夫妻になって熱い視線を交わしているのを見てしまうこともある。

 でも。やっぱり仕事でも繋がっている。ガラスを通してふたりがいつのまにか絆を作っていることを感じている。

「こんな小さな模様入りのガラス玉、良く作ったな。おまえ、だんだん器用になってきているな」

「えっとね、あのね、お義兄さん。わたし、これでも職人十七年目なのね。そりゃあ、多少は器用になっているはずだもの」

「いやいや。カナの学生時代の作品は尖りすぎてへんてこだったぞ。あんなもの応援してどうするんだと、美月がしていることに多少疑問を抱いていたほどだ」

「なにそれ。ひどい!!!!」

 叔母が本気で怒っている声。

「小樽で親方がさせていた自由創作も、いいセンスでありながら、技術がおいつていなくて、出来上がりがいびつでもったいないなあ……とがっかりしたのも覚えている」

「もう、いわないで。やめて!」

「それがなあ、こんな商品をつくってくれるようになったとは。製品を作るという意識を植えてくれた小樽の遠藤親方、創造性を常に忘れないよう鍛えてくれた山中湖の芹沢親方に感謝しなくてはなあ」

「それってわたしのこと褒めてないよね? 親方のおかげであって、わたしが頑張ったじゃないよね?」

 また父が自分よりずっと若い叔母をからかって遊んでいるなあと航は溜め息をついた。それでも意地悪兄貴が、義妹がムキになって怒るのを楽しんで、かわいがっているだけ。もう子供の頃から何度も見てきた光景だった。

「だがこのピアス、おまえに似合っているんじゃないか」

「これからの夏に向けた模様を考えただけだよ」

「ほら、試作品なんだろ。おまえがつけてみろよ」

 ちょっとやめてよ――と嫌がる叔母の声が聞こえてきた。

「やだ、もう兄さん。耳、ひっぱらないでよっ」

 どうやら父が無理矢理、叔母の耳たぶをひっぱって、ガラス玉のピアスをつけてあげているよう……。

「ほら、似合う」

「もう……」

 それから暫く、二人の声が聞こえなくなった。

「あほらし」

 新婚さんを気遣う高校生がここにひとり。航は部屋へとふたたび戻ることにした。もうすこし時間が経ってからリビングに行くのが良さそう。

 なのに。航も部屋に戻って、また机に座って、またガラスの天使を手にして、にやにやしていた。

 そう。あんな父を待っていた。あんなふうに、奥さんと仲良くして楽しそうな父を……。

 なんでだろう。自分が幼い頃の父は自分には優しく、穏やかに愛情を注いでくれたけれど、そうでなければもの凄く怖い顔でいることが多かった。

 祖母は『あなたのお母さんが亡くなって哀しみから抜けていないのよ』と教えてくれた。その時の祖母も哀しそうだったので、航も哀しくなってきて、もう聞きたいと思わなくなった。

 その父が、叔母といる時もそんな怖い顔をしているけれど、ときどき、ふっと楽しそうでしあわせそうな顔をすることに気がついた。

 彼女が小樽から帰ってきた頃からだと覚えている。

 父の心を縛っているなにかをほどいたのは、叔母のカナ。きっとそうなのだろう。

 この山口の家は父が自分のために作り上げた場所だと思っている。

 航もこの家に来るのが楽しみだったし、ここに住めるようになったいまはとても充実していて楽しかった。

 ただ、なんとなく長くひっかかるものを除いては――。


 

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