22.月は輝き、花も咲く


 シャクヤクの花が咲く庭。もうすぐ紫陽花の季節。

 水鉢の金魚も元気で、今日もカリヨンの鐘が聞こえる。


 新緑に囲まれた瑠璃光寺を散歩をして、商店街で買い物をする。

 帰り道は一の坂川。そこでガラス雑貨店を任されている舞に挨拶をして、明日の相談をしてから帰る。

 そろそろ航が学校から帰ってくるからと、急ぎ足になって。


 三人家族、夫になった耀平兄と、高校生になった航と暮らしている。


 カリヨンの鐘が鳴り、カナの足がさらに急ぐ。

 家がある路地へと曲がると、緑の垣根の前に、黒いレクサスが停まっていた。

 カナは驚いて、もう家へと駆けていく。


「お兄さん、帰っていたの」

「ああ、早く終わったからな」


 豊浦の本社が本拠地である為、耀平兄が帰ってくるのは二日か三日に一度。

 向こうではカナの実家、両親と共に変わらず過ごしているようだった。

 航が出て行って、両親もひと安心しつつも、特に母は子育てが終わりちょっと気が抜けているようで、耀平兄はそれを気にして様子伺いだと向こうに泊まって帰ってくる。

 時々、母を連れてきてくれて、週末はお祖母ちゃんも一緒で賑やかに過ごすことも増えた。


 その耀平兄が『たぶん明日帰る』と言っていたのに、一日早く帰ってきていた。


「暑くなってきたな。冷房が入る前で汗をかいた。ひと風呂浴びてくる」

 そういって、耀平兄はカナに『包み』を手渡した。

 それが軽くなっていて、カナは思わず微笑んでしまう。

「よかった。ちゃんと食べる時間あったんだ」

「ああ。おまえが弁当を持たせてくれるようになったから、その日は食べる時間をきちんと持つようになった」

「おいしかった……?」

「うん。うまかった」

 思わず嬉しくなって、カナはネクタイをしている彼の胸に抱きついた。

 彼も笑ってカナの頭を撫でて、そしてカナの顎を掴んでから身をかがめ、チュッとキスをしてくれる。

 『ただいま』の挨拶だったのに、カナから彼の唇を強く吸ってしまった。そうなると、彼も一緒になってカナをもっと深く……。でも急に兄さんだけ我に返る。

「そろそろ航が帰ってくるな。こんなところを見られたら、またなにを言われるか」

 と、彼が気にしているのにカナはまだ抱きついて離れなかった。

「カナ、」

 彼が困った顔をする。いまはこんなカナに困った顔をする。

「だって。早く帰ってきてくれたんだもの」

「俺だって、一日もこの家を空けたくないが仕方があるまい」

「いいよ。兄さんが望むなら、わたし、豊浦に帰っても」

 すかさず耀平兄が『駄目だ』と反対する。

「おまえはここでガラスを続けるんだ。俺がここに帰ればいいのだから」

「でも、好きだからあの海が」

「わかっている。でもいまはまだ、ここがいい。俺がここにいたいんだ」

 いつか、その日が来るかもしれない。その日までこれからもずっとここで一緒にいよう。

 でもいつか、その日が来たら。豊浦の海があってこその倉重を、この人と守っていく、愛していく。

「ほら。ほんとうに航が帰ってくる」

「うん。お風呂上がりはビールがいい?」

「そうだな」

 険しかったお仕事の顔が、ホッと緩んだ。

 俺はこの家に帰ってきたんだ――と、彼が優しくほぐれていく瞬間が好き。

 ネクタイをほどいて、シャツのボタンを緩めてバスルームへと消えていった。


 彼が帰ってきて、カナも夕のキッチンに立つ。

 今日は工房は休みで、静かだった。

 いつもは親方のヒロに、若い職人が出入りしたり、耀平兄に雑貨店のショップ店長を任されるようになった舞が保育所に預けている子供を連れて帰ってきたり。カナが工房に入っている日はハウスキーパーさんにも来てもらっているので、人の出入りが割と激しくとても賑やかな家になった。

 夕には航が帰宅して、カナが仕事をしている時は、そのお手伝いさんが面倒を見てくれる。

 特にヒロと舞の家族とは、何事も協力して過ごしていた。

 舞は昨年の冬に男の子を無事に出産。ヒロと舞は工房を守るという意志を揃えていて、だから舞は懸命にショップを支えてくれている。共働きを決意した二人は、まだ小さい息子を思いきって保育所に預けるようになった。

 舞が忙しい時は、カナが『ヒロト』を保育所まで迎えに行ったり、どうしてもという時はシッターを頼んでこの家に来てもらう。

 そうして、カナとヒロの二人だけだった工場も、いつのまにか本店の補助的なものから立派な工房として独立し、一の坂川の店舗と連動するようになっていた。

 こうなってなによりも驚いたのは舞の仕事ぶり。社会に出て働いたことがないと言っていたのに、経理に接客にお店の切り回し方がとても上手いということに耀平兄が気がついた。

 聞けば、県会議員である父親のお付き合いのお供をしたり、議員の妻である母親の広報活動の手伝いをしていたらしく、どうもそれが舞にとっては『素晴らしい社会経験』となっていたようだった。

 母親が使った金銭の記録や整理など、家の家計簿なども舞が担当していたとのこと。またいろいろな支援者と顔を合わせるということが、人と接する力を磨いていたようだった。

 その舞がお店を支え、夫のヒロが商品を支える。故に、山口の倉重工房では、ヒロは『親方』、奥さんの舞は『おかみさん』と呼ばれ、カナはというと『お嬢さん』のままだった。

 それをまた航が『カナちゃんぽくていいじゃん』と笑い飛ばしたりして、耀平兄も息子と大笑いをしている。


 創作活動も工房内で活発になった。

 『お嬢さん』が銀賞受賞者とあって、それが若い職人にもいい刺激になったようだった。

 我先にと受賞を狙う真剣味が工房に漂うようになった。

 カナも昨年同様出品したが、今年は入選どまりの結果で終えた。工房の他の職人は入選を果たすことができなかった。親方であるヒロも落選した。

 だがヒロも諦めもしないが、親方となってそろそろ気が付き始めている。

 俺は根っからの職人肌。人が使うものを作ることに長けているのだと。

 耀平兄がビールグラスを、カナが造ったものよりヒロが造ったものを愛用しているというのがそれを証明している。

 耀平兄は目が利く。冷酒の器は義妹からの贈り物として使っても、冷えたビールを美味く呑むという絶対に譲れない点から、それに優れたグラスだと判断したのはヒロの製品。それだけヒロの造り出す『物』は、人の心を掴むということだった。

 だから、一の坂川にあるガラス雑貨店の商品の売れ行きがいい。そこにヒロが考案した『使い勝手の良いもの』が溢れているからだった。

 ネット販売も好評で、耀平兄が始めた萩の工房よりも売り上げを打ち出すようになった。

 それがヒロの才能、でも、彼も創作は諦めてはいない。

 逆にカナは、その創作向きの職人だったようだ。ヒロは『物』で人の心を掴み、カナは『作品』で人を惹きつける。それで工房のバランスが取れていると、耀平兄も満足そうだった。

 そうして倉重ガラス工房山口店は、二人の先輩職人を中心にして軌道に乗っていた。


 


 でも。今年の作品展で、カナも嬉しかったことがひとつ。

 湖畔の芹沢親方が『待宵』という美しい花瓶で、金賞を受賞していたこと。

 愛らしい月色の花瓶は、いつか親方と初めて見た湖畔の月見草を思い出させた。

 親方らしい大胆な技法の中に、どこか女性をよく知っているかのようなフェミニンな繊細さが見えるものだった。

 その喜びを勝俣先輩が仕上がった『待宵』花瓶の画像と共にメールで知らせてくれた。

 『待宵草がモチーフとか言っていたけれど、本当は花南がモデルかもしれない』と勝俣先輩は言ってくれたが、カナはそれは聞かなかったことにしておいた。


 


 さて。そろそろ航が帰ってくる。

 今日は彼と一緒のおやつは、道場門前の和菓子。

 お父さんはビールで和菓子をするつもりなのかしら?

 なんて思いながら、キッチンに立った。

 その時、カナは弁当の包みを開けて固まった。


 耀平兄に持たせた弁当箱が、綺麗になって返ってきた。

 これが二度目。一度目に思わず喧嘩してしまった……。


『ただいま』


 甥っ子が帰ってきた。

 声が聞こえたかと思うと、すぐにリビングの扉が開く。

「父さんが帰ってきたんだ」

 保守的な校風を守る高校故に、いまも伝統的に黒い学ラン制服。でも背が伸びた甥っ子はそれを凛々しく着こなしていた。

「お帰り。航」

「カナちゃん、弁当箱ここに置いておくよ。今日も美味しかったよ」

 鞄から、キッチンに立っている叔母へと弁当箱を出してくれる。

「ほんと、よかった。わたし、他のお母さんに比べたら、ものすごい初心者だから」

「まあね。でも、初々しい弁当でいいなって羨ましがられるよ。男子高校生の弁当ってもっとガッツリしてるんだよ。お母ちゃんの弁当ってかんじ。だから俺、皆に教えるんだ。うちの叔母、いま新婚だから、俺向けというより親父向けって」

「えー、そんなことお友達に話すの」

 カナが面食らっても、航は笑っている。

「だって有名だもんな。俺の母親が、叔母さんだってこと」

 料理は出来るようになっても、お弁当づくりはまだ初心者。でも結婚して立場上は航の親になったカナも、この春から母親らしくお弁当を作るようになった。

 だから、夫の兄さんがこの家から仕事に行く日は、彼にもお弁当をもたせるようになった。

 航にとっては必要な物だから作ることになったけれど、旦那さんに持たせる持たせないは妻の気持ちであるので、あの兄さんが『おまえが弁当。本気か』と、とんでもなく喜んでくれた。

 味はともかくお弁当の色合いは最初は『茶色一色』で、航と耀平兄を笑わせた。それでも父子は揃って『味はうまいよ』と慰めてくれて、でも、カナは家事に慣れている舞に教わったり、雑誌を見たりして、お弁当学に励んでいるところ。

「あ、それ、父さんの弁当箱」

 カナの手元にある『綺麗なお弁当箱』へと甥っ子の目線が釘付けに。

 はっとしてカナはその弁当箱を隠した。

 そして甥っ子も『綺麗になっている』ことで、顔色を変えた。

「えっと、い、いいのよ」

 だが甥っ子は目をつり上げた。

「ダメだよ、カナちゃん。嫌なことはちゃんと言えよ」

 だがカナはちょっと気恥ずかしくなって、頬を熱くする。

 実は先日。それまで汚れたまま返ってきた弁当箱が、綺麗に洗われて返ってきた。

 事務所の若い女の子が洗ってくれたと耀平兄が正直に教えてくれた。なのに。カナはそこでどうしたことか『絶対に嫌。他の女の人にさせないでよ』と怒ってしまい、それで暫く不機嫌でいたら、兄さんと喧嘩になってしまったのだ。

 その一部始終を、一緒に住むようになった航も見ている。だが、この子ったら。思いっきり『静観』。父親と叔母の喧嘩が落ち着いた頃になって『本当の夫妻になった証拠じゃないの。俺、カナちゃんが妬いているの見て安心しちゃった。本当に父さんが好きだったんだなあ』という観察結果を述べられ、カナは恥ずかしくなって逃げ出したくなったほどだった。

 耀平兄さんも『そりゃあ、あんなに拗ねられたら面倒だが……』と言いながら、どこか口元がにやついている。天の邪鬼が奥さんになって、今度はヤキモチ妬き屋になって旦那さんを独り占めしようとしているのが嬉しいらしい。

 それから航が父親の前で『俺、父さんがカナちゃんにべた惚れなのかと思っていたけれど、逆だったんだなあという新事実に辿り着いた』と言って、父親の兄さんも面食らっていた。

 でも。航の言うとおりだった。結婚してからカナはおかしい。いままでクールに振る舞っていたものが思いきり崩壊して、『正常な女』になっていると感じている。

 それだけいまのカナの女性的感情が敏感になっているのに。なのに。今日もお弁当箱が綺麗。

 カナの頭の中がぐるぐる。副社長が食べたお弁当箱を、事務の若い女の子が気遣って洗って。別にそこまでしなくていいじゃない。汚れたまま持って帰ってくれたら、わたしが妻のわたしが洗うんだから。気を遣わないでよ――と。

 そんな自分になった時に初めて思った。ああ、母に似ている。わたし、やっぱり母の娘だったと。

 それから耀平兄は汚したまま持って帰ってくるようになった。なのに。なのに。

「ふう。さっぱりした」

 お兄さんがお風呂から出てきた。バスローブ姿でいい風がはいってくるリビングに現れる。

「お、航。帰ってきていたのか」

「うん。父さんも、おかえり」

 航の冷めたふうの『おかえり』。それだけで兄さんも、息子と妻がいるそこの空気が少しおかしいと気が付いたようだった。

「どうした」

 カナはやり過ごそうとしたが、航が手早く弁当箱をカナから取り上げ、父親に突き出した。

「これ。また誰に洗わせたんだよ。カナちゃんが嫌がるってわかっていて」

 兄は一瞬、頬を強ばらせたが、すぐになんともない顔でいいきった。

「俺が洗った」

 え? カナと航は揃って目を丸くした。

「え、父さんが洗ったのかよ。どこで。父さんの副社長室に洗い場はないじゃん」

 ま、まさか。

「事務所に降りて洗ったんだよ。俺が」

 カナは両手で顔を覆ってしまう。ふ、副社長のお兄さんが、事務員がいる洗い場で、自らお弁当箱を洗っているだなんて!

「まじかよ。それって父さん、従業員のお姉さんやおばちゃん達になにもいわれないのかよ」

「言われるに決まっているだろう。だが暑くなってきてそのままの弁当箱を持っているのが嫌になったんだよ。それをカナに渡すのも嫌だったし。俺が洗おうとすると、事務所の者が気遣うだろう。でも、妻が他の女性が触るのは嫌がるから、俺が洗うと言って今回は俺が洗った」

「そ、それって、妻のわたしの了見が狭いってことじゃない」

「そうでもないぞ」

 兄がにんまりと笑う。

「自分で弁当箱をきちんと洗って奥さんに返す、いい旦那さんだと、俺の株があがっていることだしな」

 え、そうなの。と、カナは覆っていた両手をやっと離した。

「まあ、あのガラス職人のお嬢さんが、案外、奥さんらしくて驚いた――とも言われているけれどな」

 いやー。もうあの事務所に顔を出せないと、カナは再び顔を覆った。もう耳まで熱い。

 だから。そういう女らしいこと、女っぽいことは、この家の中だけにしておきたいのに。

「俺もー。カナちゃんがこんな可愛い女の子みたいになるって思わなかったなあ」

「うるさいなあ。航。おやつにするから、着替えてきなさいよ」

「おやつって。俺、もう高校生なのに。自分で勝手に食うよ」

「道場門前の『花宮』の、わらび餅」

 く、食う! と、和菓子大好きな甥っ子が食いついてきた。

「ということは。カナちゃんお抹茶するんだ」

「うん。だから、早く着替えておいで」

「俺がやる。手伝う。だから、まだ作らないで!」

 いちばん奥にある部屋へとすっ飛んでいった。

 まだ無邪気なところがあって、カナはホッとする。

「わらび餅に抹茶かあ……」

 こちらのお父さんも和菓子好き。とても迷っている。

「ビール、やめます?」

「ビールを呑んで、わらび餅と抹茶にする」

 欲張りなお父さんとカナが笑うと、彼も着替えるためにベッドルームへと消えていく。

 カナはその合間に、萩焼の茶碗と、茶杓、茶筅を準備する。お湯を沸かしていると、航が着替えてやってきた。

「やらせて」

「では茶道部にお任せ」

 航は高校生になると、どうしたことか茶道部に入部。

 カナがそれとなく興味を持たそうとしたわけでも、父親の耀平兄が勧めたわけでもない。なのに、どうしてか茶道部に入った。

 同級生も家族も女の子ばかりの茶道部に男子ひとりが入部したと驚かされた。

 『でも、母さんも、カナちゃんも習ったんでしょう。お父さんも身につけているし、俺の家では必要だよね』――と。

 でもカナは思わずにはいられない。家柄故、茶道も華道も嗜みとして教えられてきたこの子の本当の父親が身につけていたことを。

 この子の血の奥で、なにかがさせているのだろうかと思ってしまう。もちろん、倉重の家ではある程度は身につけようと課せられるものであって、娘として生まれたカナも、高校生まではお茶に通わされていたぐらい嗜みとして躾られてはいた。

 だが、観光グループ会社の跡取り孫として知られている航には、誰からもしっくりみられるようで、女の子の中の男子一人、とても重宝されているようだった。

 その航が、おぼつかない手つきで、茶筅を持ってお茶を点てる。

「お父さんはビールと一緒に、お抹茶もいただくんですって」

「うわ、趣味ワル」

 と言ったところで、お父さんもラフなポロシャツ姿でリビングに現れ息子のひと言に顔をしかめる。

 カナはさっそく、冷やしていたヒログラスにビールを注いで、耀平兄へと持っていく。

 お茶の席が出来上がり、そろって『いただきます』をした。

 美味しそうにわらび餅を頬張る航の顔はまだまだ可愛いし、ひとまずビールを美味しそうに飲み干す耀平兄さんの穏やかな横顔に幸せを感じる。

 この家でくつろいでいる甥っ子と耀平兄さんと、家族になった。

 カナも抹茶を飲み干してひと息。ちょっと言ってみる。

「そろそろ、耀平兄さんのことは『お父さん』と呼ぼうかな」

 二人が『は?』という顔を揃え、カナを見た。こんなところが親子だなあってカナはおかしくなる。

「別にいいじゃん。ずうっとカナちゃんの兄貴だったんだから、そんなムリしなくても」

「俺は構わないがね。にいさん、でも」

 だけどカナはちょっと笑みを堪え、航を見た。

「でも。今度は航のことを『お兄さん』と呼ばなくちゃいけなくなるしね」

 二人の表情が一気に固まった。

 とくに耀平兄さんが固まっている。

「マジで!?」

 航がテーブルに手を突いて立ち上がる。そしてカナの前へとやってくる。

「それって俺に兄弟ができるってこと!? いや、従弟になるのか? いや、兄弟だよね」

「……うん。今日、瑠璃光寺の近くにある産婦人科で見てもらったら……その、」

 ちらっとお兄さんを見たが、まだ固まったままカナを見ている。

「やったあ! 俺、兄貴になるんだ!」

 抱きついてきたのは、夫ではなくて、息子の甥っ子だった。

 お兄さんはビール片手にずうっと固まったまま、カナを見ているだけだった。


 


 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 


 開け放した窓に、淡い月明かりが広がっている。

 ベッドルームにあるテーブルで、カナは僅かな照明の中、いつものスケッチをしていた。

 部屋のドアが開く。自分の書斎で仕事をしていた兄さんが戻ってきた。だけれど、ドアを開けたせいで窓から勢いよく風が入り込み、テーブルの上にあった写真がパラパラと舞い上がり散らばった。

「ああ、悪い」

 兄さんが慌てて床に散らばる写真を拾い集めてくれる。そしてカナもソファーを降りて身をかがめると、彼に止められる。

「いいから、おまえはそこに座っていろ。これから無茶をするな。大事にしろ」

 カナだけではない。この人にとっては二度目の経験であっても、初めての子供だった。そんな彼の静かな喜びを秘めた気遣いが身に染みる。

「来月からガラスを吹くのは控えてくれないか」

 これから夏になり、工房は過酷な環境になる。暑くなくとも、吹き竿を操るには踏ん張りもいる。

 でもカナも素直に頷く。

「グラインダーをこの家のどこかに置けないかな。グラスの切子ぐらいはさせて。あと、お土産用のトンボ玉担当専門になろうかな。それならこの家の中でもできるでしょう」

 無茶をしない方法を探っていたことを知った耀平兄が安堵の表情を見せた。

 写真をテーブルにまとめると、彼も隣に座り妻を抱き寄せる。

 ふたりが座るそこに、月明かりが降りそそぐ。

 その月を見上げ、カナは呟く。

「次は、あの月をガラスにする」

「そうか。またどんな理にするのか、楽しみだな。早く見てみたい」

 いまカナがスケッチや写真で探っているのは、それだった。

 姉をガラスにする。あの華やかで清々しかった彼女が、実はあやかしのように妖艶な月の女だったことを、残したいと思っていた。

 あの忌々しい性愛を、また粉々にして、かき集めて……。できるだろうか、毒々しさを抜いてから、ガラスにすることができるだろうか。

 瑠璃空のように、彼女をガラスにすることができるだろうか。


 


 でもカナはイメージをする。

 吹き竿にガラスを巻き付け、下玉を吹き、上玉を造り、黄金色のガラスを被せて――。可憐な百合色を混ぜ、微かに燃ゆる緋色も欲しい。

 竿をぐるぐる永遠に回し続け、瑠璃空に負けない、大きな月が竿先に咲く。

 汗を流し、無心になって、無垢になって。

 きっとそこに、この人が許せなかった妻と、甥っ子の母親であった女性を、妹の私が『理』に変えて残してあげられる。


 


 実際に耀平兄はもう、姉を許していた。

 カナと結婚し、航がこの家に住むと、リビングのサイドボードに自分から姉の写真を選んで飾ったのだ。

 そしてそこに、いつか見た『三つの切子グラス』を並べていた。

 金子氏が大事に持っていたという、カナが作った三色セットの切子グラスだった。

 刑事からあの後、引き取ったと教えてくれた。

 姉の写真のそばにそれを並べ、この家に住むようになった息子に耀平兄は告げた。

『叔母さんが、親子三人に作ったグラスだ。使いたい色をひとつ選べ』

 親子三人に作ったなんてことはないのに、耀平兄はそういうことにしたいようだったからカナも黙って見守っていた。

『死んだ母さんと、父さんと俺ってこと』

『そうだ。だが俺は使わない。母さんと一緒にいさせてやってくれ』

 変な言い方だった。『いさせてくれ』ではなくて『いさせてやってくれ』。

 つまり父親は『金子氏』として、耀平兄は伏せつつそう匂わせてしまっていた。

 だが航は特に問いただすこともなく、でも神妙に。選んだのは薄い緑色の切子だった。

 姉の写真の側に、群青と緋色の切子グラスが残される。

 それから航の毎日のコップは、カナが造った切子グラスになった。

 親子三人。本当の父親が大事に持っていた義妹のグラスを、親子で分け合う。そして亡き者には供えて、弔う。

 息子には、いつでも母の笑顔がそこにあることを意識させ、耀平兄は航にとって居心地のよい家にしようと、またはいつか来る日のための下地を整えているようにも見えた。

 嘘はなくならないけれど、でも、あったことを避けない。夫の兄さんと一緒にその秘密を守るんじゃない、わたし達が持っていて蓋を開けるかどうかの番人になる。


 


 今夜は、朧月。瑠璃光寺の五重塔にさしかかる夜。


 そんな月光を、カナは夫になった耀平と見上げていた。


 月に叢雲、花に風。

 でもやがて――。

 雲間は切れ、月はふたたび輝き。

 風がやみ、花はふたたびほころぶ。

 月は遠く空で光を湛え、花は古都の片隅で密やかに匂う。


 二十一時、本日最後のカリヨンの鐘が鳴り響く。

 その後はシンと静まる西の京――。


 


 


* 花はひとりでいきてゆく 完 *



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