第10話

「ほら、あそこよ」


水野康子は、望月幸子と北鎌倉からタクシーに乗って、自分のある別荘の住所を基に、別荘を目指していた。


丘の下から見上げる自分のかつて主人と楽しく過ごした別荘は、逆に物悲しく寂れた印象に見えた。

人間は、その時の心理によって、物の見え方がこうも変わるものかと、康子は思った。

時計を見ると午後の四時だった。


「あら、噂通り随分立派な豪邸じゃない?」


望月幸子はその大きい上半身を乗り出して、タクシーの窓に今にも頬がつきそうなくらい、まじまじと外の景色を眺めていた。


タクシーは急で長い坂道を勢いよく、上がっていった。


「立派な豪邸に住んでいらして羨ましいですなあ」

タクシーの運転手は目を細めると、タクシーのお釣りを康子に渡してきた。


康子はタクシーを降りると、久しく来ていなかった別荘を下から仰いで見上げた。

真夏の太陽に照らされた別荘は、遠くで見るよりも威厳を放っていた。


康子は、あの痛ましい主人の自殺があってから、一年くらいこの別荘に来ていなかった。

隣の別荘も豪邸だが、うちには勝てないわ。と内心負けず嫌いな康子は思った。


丘の上には、康子の別荘とその隣の別荘のみだった。


幸子は、興味深そうに隣の別荘を下から上まで舐めるように眺めていた。


「なんか、隣のお宅は、人が今いるみたいね」


幸子の言葉を背後で聞きながら、康子は、鍵を持ってドアを開けようとした。


しかし、不思議なことにドアは施錠されていなかった。


―――おかしいわね。確か常に鍵はかけているはずだったけど。


でも、水野浩二が自殺して、その後警察の捜査が入り、何日間にもわたる事情聴取があり、疲労困憊していたため、もしかしてあの慌ただしい中、家を去る際に、鍵をかけ忘れたのかもしれない。康子はそう自分に言い聞かせた。


ドアを開けた途端、部屋の中から新しいセメントの新築の香りがした。

そうだ、本当にこの家は建築が終わってから一年しか経っていないんだと実感した。


康子は、あまり慣れてない自分の一階の居間のドアを開けた。

そこは、およそ百八十平米はあるだろう、広いリビングルームだった。

そこの奥にはキッチンがあった。

そこには、食べかけの残りのお皿が置いてあった。


―――確か、私はこの一年ずっとこの家に居ていなかったはずだけど・・。誰か侵入したのかしら?


康子の中に不吉な予感が走った。

食べかけの食べ物が一年前の物なら、相当腐敗が進んでいるはずが、まるで三日前か四日前に食べたような形跡だった。


「なんか、気持ち悪いわねえ。あなたがいない間に誰か勝手に家の中に入って食べ物を食べていたのかしら?」


隣を見れば、幸子も不審な表情で首を傾げている。


康子は気持ちが落ち着かないまま、二階に上がっていった。



―――もしかして、今この家に誰か住んでいるのかもしれない・・・。


二階には部屋が四つ平行に並んでいる。

一番左の部屋が寝室だった。ここで、主人が一人で別荘に泊まっている時に自殺を図ったのだった。

今でも、その光景は鮮烈に康子の記憶に焼き付いている。


家族の身元確認のため、遺体を見せられた。

主人はベッドの上でリストカットを自らして、どす黒い生々しい血が、左手首から大量に流れていた。


あまりの残忍な光景に一瞬、その時、康子は目を背けた覚えがある。


ただ、不思議だったのは、その時いつも主人が掛けていた銀縁の眼鏡がなかったことである。

いつも、寝るときは外しているので、不自然ではないが、几帳面な性格の夫は寝る前に必ず、眼鏡をベッドの横のスタンドの引き出しに入れていたはずなのに、探したがなかったのである。


康子は動物的な本能で、そう確信した。


「幸子さん、一緒に隣の別荘に行きましょう。私今日招待されているのよ・・・」



麻里江は、その時、二階の居間で家族と夕飯の支度をしていた。


麻里江は母親から今日は来客があると聞いていた。


どうやら、隣の別荘の亡くなった主の、奥様らしい。

一体、何を企んでいるんだろうとまた麻里江の中に不安の渦が心を覆い尽くした。


「お母さん、なんでお隣の方の連絡先を知っていたの?」


「ああ、一年前にご主人がお一人で、別荘で自殺されたでしょう?あの時、うちにも警察の事情聴取が来て、その時、その奥様もその場にいらしたのよ。何かご不便なことがあれば、いつでも連絡してくださいって、お母さんがうちの連絡先を渡したの」


「ふーーーん・・・」


麻里江は、気味が悪いと思いながら、今日の夕飯のシチューのニンジンをまな板の上で切っていた。


麻里江は、その人が来たら、両親のいないところで、ここから逃亡したいから協力してもらうようお願いしようと薄々考えていた。


―――こんな気味の悪い家族から一刻も早く逃げてやる・・。


麻里江は、きつく唇を噛みしめた。


麻里江は一通り、夕飯の準備が終わると、居間のソファに腰かけた。

隣では、俊之の目が虚ろになりながらテレビを見ている。


ピンポーン


その時、ドアのベルが鳴った。


母親は急ぎ足で、一階にエプロンをつけながら向かっていった。


「今日、隣の亡くなった御主人の奥様がくるんですって」


麻里江は周りに聞こえないように、俊之の耳元で囁いた。


その時だった。一斉に二階の居間の電気が消えて真っ暗になった。


麻里江と、俊之は何があったのかと二人で抱き合っていた。

すると、後ろに何か気配を感じた。


「ハルおばあちゃん!!」


もうその頃には遅かった。ハルおばあちゃんは脚が悪いはずなのに、すっと真っすぐ立って、麻里江と俊之に向かって、催涙スプレーをかけてきた、


二人は一斉に周りが見えなくなって、倒れたところに、ハルおばあちゃんは予想以上に遥かに強い力で、麻里江と俊之の両手首と両足首に素早い動作で、太いロープを縛ってきた。


おまけに、麻里江は、何か布が口に当たるのを感じた。

急に呼吸をするのが苦しくなり、パニックになった。

その頃には、麻里江も俊之も気を失っていた。

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