第9話

翌朝、麻里江はぼんやりと虚ろな目で、家の裏の庭に出て、色とりどりの花々を眺めていた。


実家にはビニールハウスがあったが、この別荘には、ビニールハウスの変わりに広大な植物庭園があった。これは、すべて花が好きな母親の趣味だった。


朝顔、オシロイバナ、ひまわり、ハイビスカスなどあらゆる色彩の花が生き生きと庭園を華やかに演出していた。


そのような美しい自然の光景でも、麻里江の心を癒すことはなかった。


後ろに気配を感じて振り向くと、麻衣子がのーっとした覇気のない表情で立っていた。


「ねえ、麻衣子。麻衣子はこの別荘から出たいと思わないの?」


麻里江は、ヒマワリを撫でながら、振り向かずに聞いた。


「この感じだと無理でしょう。私だって、伸さんがいなくなって、少しでも早くこの家から出て、警察に捜索願を出したいと思っているのよ・・」



麻衣子はなおも呟いた。


「お姉ちゃん達、昨日俊之さんと車で脱走しようとしたんでしょう?お父さんから今朝聞いたわ。私も同じことをしたら、「ただじゃおかない」ってお父さんに脅されたの」


麻衣子の声の雰囲気からして、もうこの家から出ようという気力は感じられなかった。



麻里江は、仕方なく一旦家の中に戻ると、聞きなれない男性の声が二階の居間から聞こえた。

階段を上がって、様子を伺いに行くと、母親とおじいさんがお茶と和菓子を食べながら、和やかに歓談していた。


「あら、麻里江ちゃん。こちらにいらっしゃいよ」


母親はいつもの笑顔で、麻里江に手招きをして、一緒に紅茶でも飲まないか誘ってきた。


麻里江は首を振って、下の階に戻ろうとしたが、


「まあ、この子ったら、すっかり拗ねちゃって」

と母親が悪戯っぽい声で、笑いながら言った。


麻里江はゆっくりと渋々テーブルの椅子に座った。

目の前に座っているのは、この前、麻里江が最初の日に庭に行った時に、隣の別荘の庭に水を撒いていた管理人のおじいさんだった。


「すみませんね・・・。こんな管理人みたいな身分の者がお宅みたいな豪邸にお邪魔してしまって・・。わたし、申し遅れました、柳田茂と申します・・・」


風貌からして、前から気づいていたが管理人の仕事をしているのか、よく日焼けした肌をしていて、実際は五十代後半くらいなのだろうが、それより幾分若く見えた。


「お母さんがね、庭の手入れをしていましたら、お家にどうぞと仰るもので。いやー、本当に実に素敵な別荘だ。わたしゃなんか、一生かけてもこんな家には住めませんよ・・」


柳田茂は、顔に皺があって、猿みたいな顔をしていたが、笑った顔にはなんともいえない愛嬌があった。


「そういえば、この前庭で手入れをしている時に、お嬢さん以外のカップルが家にいらっしゃっていましたねえ。この広い家でしたら、何組でも泊まれるでしょう」


母親は一瞬顔を曇らせた。


「え、ええ。麻衣子の下に妹がいまして、その妹の彼氏と同伴で泊まりにきましてね・・」


すると、管理人は不思議そうな表情で母親の顔を見た。


「ああ、そうですか。でも、その割には随分とこのお家の中は静かですなあ・・」


「ああ、彼氏の方は急用があるって、先日帰ってしまったんですのよ。せっかくのバケーションですのにねえ」


母親は動揺を見せまいと、ひきつった笑顔で管理人の方を見た。


「ははあ。たったのショートステイだったわけですね。ああ、勿体ない」


管理人は、紅茶を美味しそうにすすりながら、笑顔で話していた。


一通り、管理人は会話をすると、


「じゃあ、わたしゃ、ここら辺でおいとまさせて頂きます・・」


と言って、席を立ち上がった。


麻里江は、管理人でもいいから、本当のことを話したかった。

お願いだから、帰らないでという気持ちが喉元まで出掛けたが、このしがない管理人に話したところでしょうがないと、肩を落として諦めた。



その夜、両親とハルおばあさん、麻衣子と俊之でご飯を食べた。


誰もほとんど口を利かず、気まずい雰囲気のまま食事を終えた。

ハルおばあちゃんは相変わらず、食が細く、体力もないのか、食事の途中で車椅子を両手でゆっくりと回し、部屋に戻っていった。


麻里江は、部屋に戻ると俊之とベッドで横になった。


「私たち、本当にこの家から出られるのかしら?いずれにしろ、バケーションはたったの五日間なのよ。それが、終われば私だって会社に勤めているから、何日も不在になったら、会社の方から連絡があるはずよ」


「そうだな。携帯電話も通じないんじゃ、会社の方だって不審に思うだろうし、いずれ警察の方で動き出すことを願っているよ」


俊之も、心労で最初のバケーションで来た日に比べて、頬が少しこけているようだった。


麻里江も、さすがに疲れて寝ようかと思ったが、一階のお風呂場に向かった。

風呂場に行くと、まだ誰もいない様子だった。

麻里江は安心して、脱衣所で服を脱ぎ、温かい湯船に浸かった。


熱いお湯が体の全身の隅々まで染みわたる。

こうやって、リラックスできたのはなんだか、ものすごく久しいような気がした。

まだ、バケーションが始まって、三日目なのに、色々なことがありすぎて、最初の日に俊之と湘南をデートしたことが遠い昔に思えてくる。

麻里江はいつの間にか、ほんの一瞬だけ、悪魔のような出来事を忘れて、鼻歌を歌っていた。

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