第8話

水野康子は、その時、銀座の街を歩いていた。

今日は旧友と会う約束でお昼前に家を出たが、この一年ずっと心が晴れることがなかった。


何か、おかしい。心の中がモヤモヤする。

主人の水野浩二は、去年の夏に別荘で自殺をしていたと警察から連絡があった。

まさか、自分の主人が自殺を試みるなんて、予想だにしていなかった。


それまでは、平凡な毎日を送って、夫婦で北鎌倉の別荘で、余生を過ごそうと約束していたのだ。また、主人が借金を抱えている、誰かに恨みをもたれているというような兆候もまったくといってなかった。


その主人がなんで、自殺をしなくてはならないのか?


今年で、水野康子は、五十八歳を迎える。突然、なんの前触れもなく、逝ってしまった主人に戸惑いを隠すことはできなかった。まさに、水野康子にとっては晴天の霹靂だったのである。


それ以来、悪い思い出しかなくて、北鎌倉の別荘は新築で建てたものの、どうも脚が遠のいてしまう。


もしかして、主人には何か康子には言えない隠された秘密があったのか?


相談の一つでも生前にしてくれれば、良かったのにと康子は歯痒い気持ちで一杯だった。

残念ながら、水野浩二との間に子供を授かることもできなかった。兄弟も、兄が一人いるが康子が三歳の時に両親が離婚して、兄は父親に引き取られ、康子は母親に引き取られた。


父親とはそれからずっと会っていない為、生きているのかも分からない。そして、実の母親も康子が中学生の時に、ある日突然、消息不明になっていた。今となっては、康子は天涯孤独の身となってしまったのである。


「康子さん、待ったかしら?」


銀座の和食のレストランの席に座っていると、中学校からの旧友の望月幸子が現れた。


望月幸子は、中学生の頃から色白でふっくらとした体形をしていたが、今はさらに肉付きがよくなって、お腹の辺りにまた余分な肉がついているようだった。

真夏になると薄着になるので、特にTシャツを着ていると、体型がありありと分かる。


康子は首を振った。


「私もちょっと前に来たのよ」


「あら、そう?それなら良かったわ。それより、あなた、またしばらく会ってない間に随分痩せたんじゃない?」


康子は、主人の水野浩二が自殺した去年、ショックのあまり、食事もろくに喉に通らず、事件当時から比べると六、七キロは体重が落ちているだろう。


「あなたの旦那さん、本当に気の毒だったわねえ・・・」


幸子の目尻に出来た皺が一層、相手を思いやっているように見えた。


「それより、あなた、あの豪邸の別荘はどうするつもり?あれから一年も経つでしょう?」


康子は深く頷いた。


「どうするも、こうするも、何もする気が起こらないのよ。主人と短い間だったけど、一緒に楽しく過ごした別荘だったし、土地を売って、あの家を壊すのも考えるだけで気が滅入るわ・・・」


幸子は、話を聞きながら、必要以上に相槌を打ちながら聞いている。


「そうよねえ。だって、ほとんど、あの別荘使ってなかったんでしょう?新築を壊すのも。勿体ないしねえ・・・」


康子はふと顔をあげた。


「幸子さん、一緒に二人であの別荘に同行してくださらない?」



その時、麻衣子は俊之と部屋の中から出て、二人で車に乗って逃げようと相談していた。


「今、午後の十一時よ。もう、さっき両親が寝たのを確認したわ・・・」


「そうだな。俺もこんなホラーハウスみたいなところにはもういたくないなあ。麻里江の両親が寝ている間に、こっそり車で抜け出すか・・・」


俊之は、緊張の面持ちで麻里江の顔を見た。


「そうよ、俊之、逃げましょう」


二人は、家の中の電気がすべて一階も二階も消えている様子を確認すると、二人で荷物をまとめて、足音を立てないようにそっと自分達の部屋のドアを開けた。


家の中は静まり返っていて、誰も起きている様子はない。


ただ、キッチンの元栓がしっかりしまっていないのか、静寂の中に、水の雫が滴り落ちる音がした。


麻里江も、俊之同様に緊張していた。ここで、逃亡を失敗してしまっては、あの家族に何をされるか分からない。自分の家族にも関わらず、麻里江の家族に対する不信感は強く募るばかりだった。


麻里江と俊之はボストンバッグを持って、車のキーを持ち、静かに玄関のドアを開けた。


外の空気は真夏にも関わらず、澄み切っていて、麻里江は無事に家を出たことに安心して大きく深呼吸をした。


空を見上げれば、まるで星が宝石箱のようにまばゆくちりばめられている。

その時、麻里江は初めて、「監禁」されていたという感覚が自分の中に落ちていくのを感じた。家を出た時のなんともいえない開放感は言葉では言い表せなかった。


ただ、その余韻に浸っている時間はない。

俊之とそっと家の地下にある車庫に行って、車に飛び乗った。


「よし、行くぞ」


俊之は決心したように、車のキーを回してエンジンを吹かそうとした。


「あれ?」


車のキーを回しても、エンジンがかからない。

俊之は慌てて、車のキーをもう一度思い切り捻った。


「ちょっと、どういうこと?」


麻里江達はパニックに陥っていた。

俊之はすかさず、車のボンネットを開けて中を確認した。


「バッテリーが抜かれている!!」

その時だった。


「何をしているんだね?」


低く唸るような声が背後から聞こえた。


闇の中には長身の男性が立っていた。

よく目を凝らしてみれば、それは父親だった。


「無駄な抵抗はよした方がいい。君たちは、もうこの家からは出られないんだ・・・」


「お父さん!一体、何を企んでいるの?まさか、お父さんたちが伸さんを殺したんじゃ・・・」


ピシャッ


麻里江の頬を父親の大きな手が叩きつけた。


麻里江はその場で、倒れて唸っていた。


「お父さん、暴力はよしてください。一体、本当にどうなっているんですか?」


父親はじっと俊之の目を見つめながら、呟いた。


「春日家の威信のためにも、これ以上変な真似をしたら、ただじゃおかないぞ」


父親は踵を返して、そのまま家の中へと戻っていった。


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