08:期限を

 陽奈への返事は、その場ではしなかった。

 正式に、転勤先が決まったら。そう濁して、僕は逃げた。

 時間が欲しかったのだ。自分の気持ちを整理する、時間が。

 陽奈と電話してから、数日後、水曜日の会社帰り。夕美からきたメールはたった一言、「ラーメン」とだけあった。

 僕は味の好みを聞こうとして、止めた。きっと僕と同じ系統が今でも好きなのだと思ったからだ。

 その店にはカウンターしか無く、女性を連れてくるには一見不向きな場所なのだが、夕美は席よりも味にうるさいだろうということで、そこに決めた。予想通り、評判は上々で、実に満足した表情で彼女はスープをすする。


「ここ、チャーハンも美味しいんだ。さすがに今日はもう、お腹いっぱいだけどね」

「でも、酒なら飲めるんだろ?」

「そう言うと思った」


 僕たちは、波流のいるバーへ向かった。


「おっ、今日は二人揃ってご来店だね。ありがとう」


 波流はいつもの調子で話しかけてくる。僕はふと、彼女の職業について考える。彼女だって、辛いこと、困ったことが沢山あるだろうに、カウンターにいるときは、こうして明るく振る舞っている。それがバーテンダーという仕事なのか、と思う。


「何難しい顔してんの。注文は?」


 夕美に促され、僕はビールを注文する。乾杯の後、僕たち三人は、さして当たり障りのない話題で盛り上がる。けれど、何となく白々しい気がして、身が入らない。

 もしも夕美に、なぜ今日呼び出した聞いても、彼女は答えないだろう。ラーメン食べたかったから、とでも言われるに決まっている。

 そんな気持ちのブレに、夕美も波流も敏感だ。いや、女性はみんな、そうなのか。


「志貴、また陽奈と何かあっただろ」


 案の定、聞かれてしまった。


「……それで、返事はまだだけどさ、早くした方がいいとは解ってるんだ」


 僕は、陽奈の言ったことをできるだけ取りこぼさずに話した。こんな日に限って店は暇で、波流も全ての話を聞いてくれた。

 彼女らに話したことで、少し気が楽になったことを自覚する。もう社会人のくせに女々しいな、と思うが、他にどうしようもなかっただろう。


「焦らない方がいいんじゃない? 下手すりゃお互いの一生に関わることなんだから」


 波流がそう言う。


「けど、自分の中で期限は決めろ。仕事の納期と一緒だ」


 夕美はそう言う。

 全くもって正しい忠告に、僕は素直に従うことにする。


「次の日曜。それまでに、どうするか決めて、陽奈に言うことにする」


 波流はうんうんと大きく頷き、夕美は空になったグラスを揺らす。

 さあ、これで逃げ場を無くした。だが同時に、時間も作った。僕は日曜までの間に、答えを作り出す。

 決意が固まると、お酒も美味しく思えるもので、明日も仕事だというのに、僕は調子よくビールを追加した。

 そうこうしていると、何組か客がやってきて、波流はそちらの対応に追われ出した。夕美も僕と同じくらいのペースでビールを飲み、それでいてどこか遠くを見つめながらタバコを吸っていた。


「志貴。駅はそっちじゃない」

「え? あ、うん」


 さて、調子に乗りすぎた。

 僕はどうも、誰かと一緒だと、多く飲みすぎてしまう傾向にあるらしい。夕美に先導されながら、路地を抜けていく。


「コンビニ寄ろう。水買ってやる」

「大丈夫だよ」

「どのみちタバコが切れたんだ」


 夕美がイライラしている、と気づく。酔っ払いの男を連れて歩くのだから、当然だが。

 さすがに水くらい自分で買おうとしたが、財布が中々出てこず、結局買ってもらう羽目になった。駅前の喫煙所で、僕は大人しく水を飲む。


「さっきの話だけどさ」


 夕美は僕の顔を見ずに、続ける。


「とりあえず断れよ。言っちゃなんだが、新しい仕事に差し支えるし、職場での評価も下がりかねない」


 そんな発想が無かった僕は、陽奈を連れて行くと決めたわけでもないのに、つい突っかかってしまう。


「それは言い過ぎだよ。僕だって、仕事と私情の分別くらいつくんだ。両立だってできる」

「……そうだな、悪い」


 さらなる反論が来ると身構えていた僕は、拍子抜けしてしまう。

 そして、思い出す。

 前も、こんなことが無かったか?

 高校生の、あの時。

 そうだ、あの時も。


「夕美……」

「さあ、とっとと帰るぞ。明日も仕事だろ」


 夕美はタバコを消し、駅へ歩もうとする。彼女の家は、確か僕と反対方向の駅だ。だから、改札を出たところで別れることになる。


「夕美!」


 僕は夕美の腕を掴む。彼女は抵抗しない。ただ、じっと僕を睨んでくる。その瞳は、勉強した後の帰り道の、あの時のままだ。


「僕は、まだ自分の気持ちが分からない。それでも、日曜までに絶対整理してみせる」


 夕美は小さく頷く。


「そのためには、夕美の気持ちが知りたい。本当の気持ちを」

「なんだよ、それ」


 もしかして、そろそろ終電なのだろうか。駅へ向かう人々の群れはせわしなく、僕たちを気に留める人など居ない。


「陽奈が言ってたんだ。陽奈は、夕美が僕のことを好きだと知ってて、僕と付き合ったって」

「ああ、そのこと。そんなことまで、陽奈は言ってたか」


 観念したかのような夕美の声。僕は手を離す。


「高校の頃、な。好きだったよ。だから、あんなことをした」


 聞いてしまえば、自分の首を絞めることになる。けれど、聞かないわけにはいかない。


「今は?」


 夕美は、何も答えなかった。

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