005

「またずいぶんレトロなクルマだこと……」

 地下駐車場には、デトロイトの自動車博物館に飾ってありそうなT型フォードが鎮座していた。「“オージー・ポージー、フォードは愉快”ってワケね」

「一時期、自動車のデザインがあんまり洗練されすぎて、どれもこれも見分けがつかねえくらい似たり寄ったりになっちまってな。その反動で、今はこういうクラシックカーの復刻モデルが流行ってるんだ。もちろん古臭いのは見た目だけで、中身は最新鋭のシステムが積み込まれてる。ナノ・カタリスト・エタノールで動くモック・カルノーエンジンを搭載、なんと燃費は100km/Lだぜ」

「100km/L! そりゃスゴイ!」30km/L超えでハシャいでいた時代から比べると、ケタ違いの性能だ。

「まァ乗れよ」運転席に乗り込もうとした黄泉を邪魔するように、平坂は車体に腕を突いた。

 黄泉は感心した様子で、「おお、もしかしてコイツが、21世紀初頭に流行した『壁ドン』ってヤツか」

「アタシ、他人の運転は信用できないタチなのよね。ポール・ウォーカーの二の舞はゴメンだわ」

「信用できねえのは、人工知能の運転でも?」

「……ああ、自動運転……手動には切り替えられないの?」

「あいにく10年前に制定された法律で、一般人の手動運転は全面的に禁止だぜ」

「警察でしょ? 何とかならないの?」

「自動運転管制システムは他社の管轄だ。もちろん緊急出動時なら話は別だが……よくよく考えてみりゃア、おまえさんの運転免許はまだ失効したままだから、どっちにしろダメだったぜ。あきらめな」

「そんなァ――」

 嘆きのあまり、平坂の口からうめき声がこぼれた。なんともったいない。せっかくのクラシックカーなのに、借りてきたネコのように行儀よく座っていろとは。もったいなさすぎてもったいないオバケが出てもおかしくない。

「そんなに自分で運転できないのがイヤか? 自動運転のほうがラクなのに」

「一度でも『2001年宇宙の旅』を観て、人工知能に自分の命を預けられるヤツがいるとしたら、ソイツは自殺志願者かスリルジャンキーよ」

「……だったら歩きにするか。まァそのほうが、移動中も観察もしやすいだろうしな」

 黄泉から提案されるまでもなく、今がどういう時代か知るコトは必要だろうと、平坂とて考えていなかったワケではない。

 プロファイリングは数多くの実例から割り出した共通点をもとに、犯人像を構築していく。ようするに統計学の一種だ。例えば異常性犯罪者は、8歳から12歳くらいの時期に両親が離婚しているばあいが多いので、容疑者のなかに母親と同居する未婚者がいればマークする。

 しかし、この時代では片親がアタリマエになっているかもしれないし、核家族が解消されて3世代同居が一般的な可能性だってある。そういった社会と価値観の変容しだいによっては、過去のプロファイリング技術が機能不全に陥っていても、なんらおかしくない。

 人間の性質というものは、そうそう変化するものではないが、それでも50年は軽視できない隔絶だ。時代に合わせたアップデートが必要になるかもしれない。

 もっとも、アステリオス製薬のビルから出てみて、平坂は拍子抜けした。想像していた未来世界と違って、外の景色は50年前とほとんど変わっていなかった。

 記憶とたがわぬ青い空。白い雲。真っ赤な太陽。

 立ち並ぶ灰色の高層ビル群。コンクリートジャングル。草木の生えぬ不毛の大地ジャンガラ――いや、それはさすがに言い過ぎだ。すぐ近くに緑豊かな公園があることを平坂は知っている。

 ここは西新宿6丁目、十二社通り。

 道行く人々のファッションセンスも、見たかぎりおかしなところはない。大昔のSFみたいに全身タイツでなくて安心した。オフィス街にしては若干カジュアルな気はするし、女性は露出が多めな気もするが。

 ちなみに平坂が今着ているのは、保管されていた自分の服である。白いシャツにインディゴブルーのデニム。撃たれたときに血が付いたハズだが、シミひとつ残さずキレイなもの。

「けっこう暖かいわね。そういえば、今って何月?」

「2月だ」

「ウソでしょ真冬じゃない! 地球温暖化がそこまで進んだっていうの?」

「いや、ジョークだ」

「なんだァそっかァ。よかったァ……」

「ホントは8月だぜ。地球はいよいよ氷河期に突入した」

「……マジで?」

「冬はガチでヤバイから覚悟しとけ」

「ヤダなァ……アタシ、寒いの苦手なのに……」

「いや、ウソだけどな。刑事がそうカンタンにだまされるなよ。気を取り直して、まァとりあえずメシでも食おうぜ」

 黄泉に連れられて、5丁目にある古臭い怪しげな雰囲気の台湾料理屋へ。

 メニューを見ると、円の下にMDCという単位で値段が記されている。「仮想通貨のミダスコインだ。今じゃア日本円より一般的だな。むしろ円じゃねえと払えねえのなんて、イマドキ税金ぐらいだぜ」

「へえ――」

 店員のオバサンが香りのよいお茶を運んできた。「ご注文はお決まりですか?」

「魯肉飯」

「あ、アタシも同じので」

 店内にはたくさんのサイン色紙が飾られている。赤塚不二夫やアラーキー、小松左京・筒井康隆・星新一・光瀬龍の連名なんてものもあった。

 ほかにも著名人のサインがいくらでもあったが、なかでも平坂が目を惹かれたのは、元FBI行動科学科特別捜査官ロバート・K・レスラーのサインだ。平坂がジョディ・フォスターの次に尊敬する人物である。なぜこんな場所でアタリマエのように混ざっているのか。

 彼は署名とともに、ニーチェの有名な一説を引用している。

「“怪物と闘う者は、その過程で自分自身も怪物になることがないよう、気をつけねばならない。深淵をのぞきこむとき、その深淵もこちらを見つめているのだ。”――プロファイラーの心得を、これほど端的に言い表した言葉はないでしょうね。サイコパスどもの思考をトレースするのは、危険がともなうってコト」

「だから、プロファイリングを教えてくれとは言わなかったのさ。ヤバイコトは全部おまえさんにまかせるぜ。一度失くした命、今さら惜しくもねえだろ」

「そのセリフを言っていいのは、当の本人だけだから」

 それにしても黄泉の口ぶり、平坂にプロファイリングさせたがっている犯人というのは、よほどおぞましいヤツなのかもしれない。

 もっとも、そんな危ないヤツが潜んでいるかもしれないというのに、街は平和そのものだった。というより、イイ意味で平和ボケしていると言うべきか。

「パッと見、治安はよさそうね。警察が民営化したなんていうから、どんなものかと思ってたけど」

「複数の企業が競合してるからな。不正しようにも、おたがいがおたがいを監視し合ってる。なかには同業者のアラ探しが専門のトコもあるくらいだ」

「そんなにたくさんあるの?」

「業界1位はわれらがALGOS警備保障、もとは親会社のイチ警備部門だったが、独立してからここ数年で急成長を遂げた。次いで警察庁が民営化したNPA東日本、さっき言った自動運転の管制システムを管轄してる。それから老舗の帝都アーカイブ社は、長年の信用調査で培った情報網がウリだ。この3社を筆頭にして、小規模の探偵事務所も含めれば、都内だけでも数百の民間警察会社が乱立してる。最近はコンビニより多いなんてジョークもあるが、さすがにそりゃアおおげさだな」

「そういえば、事件をどの会社が担当するかは、どうやって決めるワケ?」

「通報のばあい、そいつがどこの電話番号にかけるかによるな。ただし、ALGOS警備保障はボタン一つで通報できる防犯ブザーを販売してる。支払いは基本的に通報者へ請求される。もっとも、国民の大多数が加入してる保険金で全額まかなわれるし、確定申告すればその分だけ税金が控除される。それから、各社あちこちに営業所――昔でいう交番だな、そこに警備員を配置して巡回させてる。通報がくるより先に、警備員が騒ぎを聞きつけて現場へ駆けつけたばあい、費用は税金でまかなわれる。だからどの地区を管轄するかは、定期的に入札する仕組みだ。ほかにも要人警護とか警備関係でも、官公庁の仕事は入札で決まる。おれのカノジョがALGOSの営業部指名願室に勤めてて、年末年始は入札参加資格の登録更新で毎年忙しそうだぜ」

「あ、カノジョいるんだ」

「そのうち会わせてやるよ。自慢じゃねえが、これがメッチャクチャ天使ちゃんでな」

 あまりにもハラの立つニヤケ顔だったので、平坂はそのアホヅラを壁に押しつけて、すりつぶしてやりたくなった。

「……それより、複数の会社が担当する事件が、あとから同一犯のしわざってわかったばあいは?」

「ソイツはいろいろだ。合同捜査するコトもあれば、裁判所に申し立てて、どの会社が事件を担当するか白黒ハッキリさせるコトもある」

「アタシに協力させようって事件のばあいは?」

「後者だ。これまでに3件起きた被害のうち、2件の通報がALGOSあてだったからな」

「フーン、アタシを引っぱり出したからには当然だけど、やっぱり連続殺人なワケね」

「その話題は置いとこうぜ。まずはおまえさんがこの時代を知るほうが先決だし、そもそもメシがマズくなる」

 注文の品が運ばれてきた。魯肉飯は日本語で言うと肉そぼろ煮込み丼だそうだが、そぼろにしては大きめの、カップヌードルに入っている謎の肉にも似た、ゴロッとしたものが載っている。味はシンプルなようでいて、複雑な風味がある。種々の香辛料を使用しているのか。下に敷かれたシャキシャキのレタスとの相性もいい。付け合わせのスープがまた繊細な味わいで、舌をやさしく包み込むよう。

 ふと、向かいのテーブルに座る若いOLたちの会話がもれ聞こえてきた。先程の病室でのニュース映像と同じように、腕時計から浮かび上がった画面を見つめながら、「ねえねえ、見てこの銘柄、マジやばくない? 神銘柄」「マジだ。ヤバイ。なにこの値上がり、神ってるし」「でしょ? 今買わなきゃ損だよ損」「いやいや、このカンジじゃさすがにそろそろ天井でしょ。みんな売りに転じるころじゃない? そうなったらイッキに下がるよ。ヘタに手ェ出すとヤバイって」「いっそ下がるほうに賭けてみるってのは?」「レバレッジはどのくらいで?」「5倍くらいイっちゃうゥ?」「チョットふたりともォ……安易な空売りはガチでヤバイって」「ダイジョブダーイジョーブ。イケるイケる。あたし今日の運勢は神だから」

 どうやら株の話題らしい。どんなすごい銘柄なのか知らないが、はたから眺めている平坂からすれば、むしろ彼女たち自身のほうがおもしろかった。なにしろリアクションのたびに、それはもうすさまじい変顔をするのだから。モノマネ芸人もビックリな表情筋のやわらかさ。今の平坂とは大違い。

 反面、語彙はおそろしく貧困だが。

「現代の若者はみんなそうだぜ。あいつらに比べれば、おれの世代はまだマシなほうだが、おまえさんからすると、かなりボキャブラリーってヤツに欠けてるんだろうぜ。実際、ときどきおまえさんや博士の言葉を理解できないコトがある」

「エッ? ウソ、ガチで?」

「そうそう、そのくらいわかりやすい言葉でしゃべってくれなきゃアな」

 ヤバイだのカワイイだのと、若者の語彙が貧しくなっているというハナシは、平坂の時代からあった。それがさらに進行したというコトか。

「少ない語彙で相手に気持ちを伝えるために、今の若者は表情が豊かになったんだ。表情を読み取る能力もな。逆に言えば、おまえさんみたいな無表情はヤバイ」

「あァ? ヤバイ?」

「いや、えっと……そう、やりづらいってヤツだ」

 平坂の顔色は伝わらなくても、さすがに声色で察したようだ。あるいは無表情だと、どちらかといえば怒っているように見えやすいだけか。

 黄泉はわざとらしくせき払いして、「とにかく、現代社会では人間関係を円滑にする上で、表情は欠かせない要素だ」

 さしずめ、言葉をもたないサルの時代に戻ったようなものか。もともと表情というのは、相手に敵意の有無を示すためのものだったというし。

「その点、おまえさんにはデカいハンデがある。何を考えてるのかサッパリわからねえ。もっとも、探偵としてはその無表情がむしろ好都合かもだ」

「そこはポーカーフェイスと言ってほしいわね」

「厳密に言うとポーカーフェイスってのは、相手に心のうちを読ませねえ表情のコトで、かならずしも無表情ってワケじゃ――」

「いいから、ポーカーフェイスったらポーカーフェイスなのッ」

「……そのポーカーフェイスは、相手に考えを読ませないってだけじゃアねえ。ただツラを突き合わせてるだけで、プレッシャーを与えられる。尋問にはもってこいだろう」

「だからって、ずっとこのまま能面貼りつけてるつもりはないから。たとえ血反吐まき散らしても、リハビリに耐えてみせる」

「確かに、おまえさんは笑顔のほうがカワイイだろうさ。マジ天使に違いねえ」

「いやまァ、確かに大学時代の元カレは『君は笑った顔が一番キュートだね』って何度もほめてくれたけど、天使ってのはさすがに言い過ぎだって」

「べつに気にしなくていいぜ。なにせ近頃は、フンコロガシも天使って評される時代だから」

 平坂は危うく茶を噴き出しかけた。「うぉおい! ナニソレ? むしろ気にするわ! なんだってそんな――」

「天使はカワイイもの限定で、より汎用的に使われるのは神だ」

 そういえば、先ほどOLたちも「神」と口にしていた。「アタシの時代からあるネットスラングだけど、それがスッカリ一般化したってコト?」

「ああ、特に最近なんかは、そういう風潮をおもしろがったとあるコラムニストが、〈ガラテア教〉って名付けて去年の流行語にもなった」

 ガラテアといえば、ギリシャ神話でピグマリオンが造った象牙の彫像だ。現実の女に嫌気が差した彼は、みずから彫った立像の完璧な出来栄えに見とれ、とうとう恋をしてしまう。ピグマリオンの秘めた想いを知った女神アフロディーテは、恩寵のしるしとして、ガラテアに命を吹き込んだ。そしてピグマリオンは、ガラテアと結婚したのである。

「ガラテア教の教義はズバリ『神とは形容詞である』だ。そもそも昔から『神業』『神がかり』『神々しい』とか言うだろ? 優れた芸術や大自然の偉大さ――そういう、人々を否応なく感動させるもののなかに、神は宿る。だから熱心なガラテア教徒は、さまざまな美に触れてみたり、みずから創作したりして神に触れるコトを目指す。『神は細部に宿る』を合言葉にしてな。そして神が宿っていると認められれば、モノなら聖遺物、場所なら聖地、ヒトなら聖人として崇められるって寸法だ」

「いいものに対して神とか天使なら、よくないものにはなんていうの? 悪魔とか?」

「ああ、それはだな――」

 突如、株の話題をしていたOLのひとりが、頭をかきむしりながら絶叫した。「グワーッ! ウソでしょ! 全然値下がりしないじゃん! ああんもうヤバイよヤバイよ! このままだと貯金が吹っ飛ぶ! ふざけんなよマジ鬼おこだわ! この銘柄マジうんこ!」

「…………」

「まァ、あんなぐあいだ。そのうちカルト化されたら面倒だが、まだ特定の団体があるワケでもねえし、今のところはどこの会社も静観してる」

「ずいぶんおおげさね。単なるジョークじゃない。アレよ、空飛ぶスパゲッティモンスター教と同じ」

 突如、黄泉の顔から血の気が失せる。「オイ! その名を軽々しく口にするんじゃアないぜ!」

「エッ? いやチョット、なにをそんなに怯えて――」

「それ以上いけない! あの狂信者どもの話は! どこで聞かれてるかわかったもんじゃねえ!」

 黄泉はグラスに残ったお茶をイッキ呑みし、呼吸をととのえると、何ごともなかったかのようにすまし顔で、「そろそろ出ようぜ。続きは街を歩きながらだ」

 平坂は店員に水を頼み、饗庭からわたされた薬――寝たきりで消化器官が弱っているので消化を助けるため――を飲んだ。しばらくは毎食飲まなければならないらしい。それで好きに食事ができるのなら安いものだ。

 会計のためにレジ前に移動すると、店に入ったときは気がつかなかったが、奇妙な装置が設置されていた。

「チョットそこに手のひらを置いてみな。ダイジョーブ、何もこわくねえから」

 黄泉にうながされて、平坂はその装置に手のひらを当ててみた。すると1秒ほどで軽快な電子音が鳴り、店員から会計が済んだコトを告げられた。「ありがとうございました」

「今のが、アステリオス製薬が誇る個人番号照合管理システムMatching Individual Number Operating System――通称〈M.I.N.O.S.〉だ」

「ミノス?」

「あの読み取り装置で、汗や皮脂からDNAを解析して、ひもづけられたミダスコイン口座から、支払いが引き落とされる仕組みになってる。ちなみに支払金額に応じて0.5パーセントのポイントがついて、そのまま現金と同じように使用可能だ。首都圏ならサイフなんか持ち歩かなくても、まず困るコトはねえ。それから〈M.I.N.O.S.〉は銀行のキャッシュカード、運転免許証、健康保険証、IC乗車券としても使える。今じゃ〈M.I.N.O.S.〉なしの生活なんて考えられねえ」

 ようするに今の支払いはすべて平坂持ちというワケか。イマイチ釈然としない。遺伝子情報を勝手に登録しているコトについても、きっと指摘したところでムダだろう。

「……アレ? チョット待って。決済通貨はミダスコインなのよね?」

「ああ、だからおまえさんの休眠口座にあった貯金は、残らずミダスコインに両替しといてやったぜ」

「ちょ、何を勝手に――ていうかレートはッ? レートはいくらだったの!」

「そういや最近、円安ぎみだったけなァ……」

「うぎゃアーッ!」平坂はあやうく発狂しかけた。

「オイオイ、むしろ感謝してほしいぜ。日ごとに上下はしててても、長期的に見れば日本円は右肩下がりなんだ。両替が遅くなればなるほど損しちまう。円市場を乱すからミダスコインなんて言われてるくらいだし。だいたい〈M.I.N.O.S.〉に登録したからには、ミダスコイン持ってねえと始まらねえし」

「……その〈M.I.N.O.S.〉とやらがそれだけ普及してるってコトは、アステリオス製薬は相当な数の国民からDNAを採取してるんでしょうね」

「ええっと――確か現在、国民全体のおよそ8割くらいだったか」

「そんなに!」平坂は仰天した。いくら便利なサービスとはいえ、自分の遺伝子情報を登録しなければならないというのは、プライバシー意識が強かった平坂の世代からすれば、かなりハードルが高いと言わざるをえない。それがまさか、この時代では8割の国民が利用しているとは、さすがに驚愕を禁じえない。

「そこは製薬会社だからな。遺伝子治療やオーダーメイド医療で、患者のDNAを記録できるチャンスはいくらでもある。チャンスが多ければそれだけ売り込みもしやすくなる。あとは時間の問題だ。〈M.I.N.O.S.〉のサービス開始から今年で20年め、8割はムチャな数字じゃねえ」

「まァそれに8割っていっても、そもそも人口がたいしたコトないってオチでしょ?」

 平坂の時代には、すでに日本は少子高齢化の時代に突入して久しく、人口減少が始まるきざしを見せつつあった。50年も経てばあれだけいた高齢者もみな亡くなり、かつ新たな国民はわずかしか生まれてこないとなれば、結果は目に見えている。

 しかし、黄泉の答えは意外なものだった。「現在の日本の人口は、ざっと2億人ってトコだな」

「エッ? どうして? アタシのころより、ほぼ倍増してるじゃない」

「それについては、のちのち説明する予定だから、今は気にしねえでいい」

「あ、そう……それにしても2億人って、8割でも1億6000万人……それだけの膨大なDNA登録情報から、よくあんな一瞬でデータを照合できるのね」

 ヒトゲノム配列は約30億塩基対、データ量は単純計算で750MB、2億人分なら15EBにもなってしまう。データベースの容量もさることながら、わずかなあいだにここから通信して照合したとなると、驚異的な速度だ。

「そこはチョットした工夫があってな。実は大元のデータベースには、個々人の塩基配列そのものが保存されてるわけじゃアない。実際に記録されているのは、特殊なアルゴリズムによって、塩基配列を特定の英数字12ケタに変換したものだ。そこに遺伝子情報――どんな病気に罹りやすいかとか――と、そのほかのプロフィールがひもづけされてる。コイツはかつて政府が導入失敗したのと同じ〈個人番号〉ってのが正式名称なんだが、〈短縮DNA〉って通称のほうが一般的だな。各店舗の読み取り装置にもアルゴリズムが組み込まれてて、採取したDNAを瞬時に短縮DNAへ変換、データベースと照合するってワケだ」

「ナルホド。なんとなァく見えてきたわ」

 長年治安を守ってきた経験と実績のある旧警察庁NPAや、明治創業で国内最古の探偵事務所として名高い帝都アーカイブ社をさしおいて、新参のALGOS警備保障が業界1位になりえたか。親会社であるアステリオス製薬が、国民の8割におよぶDNAデータを握っているというコトは、その気になればいくらでも犯罪捜査に利用できるのだ。

 本来、犯罪捜査におけるDNA鑑定は、容疑者のなかに真犯人が含まれている必要がある。たとえ現場に犯人のDNAが残っていたとしても、比較対象がなければ何の意味もない。

 しかし、あらかじめ国民のDNAを管理しているのであれば、そこからたやすく犯人を見つけられる。また現状のデータでは該当者が登録されていなかったとしても、容疑者を人口の2割にまで絞るコトをできる。ゆきずりの犯行ならともかく、犯人が被害者の身近な人間ならば、十分すぎるほどの手がかりだ。

 いや、コトはDNA鑑定にとどまるハナシではない。2013年に、エドワード・スノーデンの告発で大問題になったNSAの通信傍受だが、例えばクレジットカードやひもづけられたサービスの支払い状況から、世界じゅうの人間の行動を収集できた。日本国内限定とはいえ、〈M.I.N.O.S.〉でも同様のコトが可能だろう。言うなれば、犯人は事件を起こす前から監視されているに等しい。

「なんてこった! ホントのところ、ここは『一九八四年』だったのね!“ビッグ・ブラザーがあなたを見ている”」

「いや、だから2066年だって」

「まァどっちかというと『ガタカ』の気もするわ。ところで街頭監視カメラとかけっこう設置されてるの? 今のところ見かけた覚えないけど」

「街頭カメラはNPAが管理してるが、そんなにあちこち設置されてねえ。繁華街の大通りくらいだな。旧警察庁が増やそうとしてたんだが、ヨッパライの醜態とかたまたま撮れたおもしろ映像を、職員のひとりがネットで公開してたのが発覚して、大騒ぎになってな。その影響で、監視カメラ網の整備拡大は立ち消えになっちまった」

「そういえばNPAが自動運転システムを管理してるってハナシだけど、車載カメラは? アレだって使いかたしだいじゃア、広範囲に監視システムを布けるんじゃない?」

「そいつも街頭カメラの延長で、世論が許さなかったのさ。そもそも車載カメラってのは、事故のとき証拠を記録しておくためのモンだ。自動運転で事故は起こりえないンだから、わざわざプライバシーを侵害するようなマネする必要性はねえ。むしろ何かよからぬ目的があるンじゃアねえかって、無用な疑いを招くかもしれねえ。だったら車載カメラなんぞつけねえのが、賢い選択ってヤツだぜ」

 とは言いつつ、アステリオス製薬の〈M.I.N.O.S.〉は受け入れているワケだから、この国の大衆が50年前より賢くなったというコトはなさそうだった。

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