003
サイアクな夢を見た。せっかくの非番に銀行強盗と遭遇し、人質の身代わりを買って出たまではよかったが、よりによってクシャミによる銃の暴発で死ぬとは。なんたるマヌケ。もしこれが現実だったら、恥ずかしさのあまり死にたくなっただろう――平坂はそんなコトを考えながら目を覚ます。今日は非番だ。ちょうど平日だし、銀行での用事を忘れず済まさなければ――
「……アレ? ここ……どこ?」
そこは明らかに自分の寝室ではなかった。
漂白したように色の抜けたカベと床、天井。窓がひとつもないので、地下だろうか。
しばらくして、平坂のもとに白衣の男がやって来た。「ヤァ、気分はどうだね?」
「イイように見える?」
「私は内科医じゃアないんでね、即答しかねる。とはいえ、検査結果が君を健康体だと示しているが」
「……ここは病院、よね?」
「答えはノー。ここはアステリオス製薬という企業の研究施設だ」
確かに男の首から下げられたIDには、「アステリオス製薬新宿研究所 所長
「もっとも、臨床医学というものは患者を研究対象にしているワケだから、大学の附属にかぎらず病院とはつまるところ、研究施設以外のナニモノでもないのだなァ実際。そういう意味ではここは広義の病院でもあるだろう」
「ゴタクはイイから、アタシの問いには簡潔に答えなさい。じゃないと公務執行妨害で逮捕するわよ」
「その様子だと、記憶はハッキリしているようだな。だが念のため確認だ。いくつか質問に答えたまえ。問診だ」
「だから質問するのはアタシだっての。研究施設って、アタシは人体実験のモルモットなワケ?」
「君の名は?」
「コンニャロウ――」
平坂は目の前のクソッタレに大外刈りをかけた上、逆に自分のほうが転ばされたコトにして公務執行妨害で逮捕したくなったが、らしくないと短気を抑える。おのれは理性的な人間だったハズだ。脳ミソが筋肉で出来た同僚の男どもとは違う。
「……平坂らいかう」「年齢は」「29歳」「出身地は」「東京都新宿区北新宿」「職業は」「警視庁捜査一課の刑事」「母校は」「早稲田大学」「好きな食べ物は」「レストランはやしやのオムハヤシ。ねえ、こんな質問に何の意味が」「好きな俳優は」「そりゃアもう断然クリント・イーストウッド! でも最近は息子のスコットの活躍にも期待してて」「好きな作家は」「荒木飛呂彦。ねえ知ってる? ジョジョの空条承太郎のモデルって実はクリント・イーストウッドで」「スリーサイズは」「……黙秘するわ」「年齢は答えたくせに」「どうでもイイでしょ! それよりさっさと次の質問っ」「銀行強盗の人質になって、暴発した銃弾が脳天に命中したコトは憶えているかな?」
平坂は息を呑んだ。なぜそのコトを知っているのか。
アリエナイ。なぜならそれは、自分が見た夢のなかの出来事のハズ。そうでなければおかしい。もしアレが現実だとすれば、今こうして生きているワケが――。
「あいにくと夢ではない」こちらの思考を読んだように、饗庭が告げる。「すべて現実に起きたコトだ」
「ウソよ。何かの間違いだわ」
「自分が生きているのが、そんなにフシギかね? 脳不全になったくらいで、ヒトは即死しない」
「脳不全?」耳慣れない単語だ。平坂は首をかしげる。心不全や肝不全ならわかるが。
「ああ、君には脳死と言ったほうがわかりやすいかね」
「脳死って――それじゃア死んだのと同じコトじゃない。やっぱりおかしいわ。アタシはこんなにピンピンしてるっていうのに」
「厳密な意味では、君は法的に脳死と診断されたワケではない。君自身は臓器提供の意思表示にサインしていたが、ご両親が頑として承諾しなかったそうでね。脳死の診断は臓器提供するコトにならないかぎり実施されないよう、法律で決められていた。なにせ診断方法が過酷すぎて、ギリギリのところで踏みとどまっていた患者にトドメを刺しかねないからね。例えば、耳の穴から氷水を流し込んだりとか、顔をピンで刺したりとか、あとは人工呼吸器を外してみたりとか。しかし、脳死という表現は実に上手く考えられているな。建前では脳が死んだ状態とされているが、無知な大衆は字面からして、脳がダメになって死んだと捉えてしまうだろう。臓器提供を推進する上で好都合だったに違いない。だが私の研究がこうして結実した今、脳死という概念は完全に死んだと言っても過言ではないだろう」
「ナルホド。ようするに、アタシを新技術の人体実験に使ったってワケね。非人道的だとか犯罪行為だとか、刑事としてそれを指摘するのは、ひとまず置いておくわ。結果的には助けてもらったみたいだし。でも、具体的にはどうやって治したの?」
「なに、至極単純な理屈だよ。脳不全に陥って時間の経過した患者を救う方法は、ひとつだけ――新しい脳に取り換えればいい。すなわち脳移植だ。君のiPS細胞から培養したクローン脳をね」
あまりにアッサリ告げられたので、平坂は言葉の意味を飲み込むのに時間がかかった。
「脳移植って、そんなコトがホントに可能――っていうか、可能だとして何の意味が――」
脳を新しいカラダに移し替えるというのなら、まだしも理解できる。脳だけになって生きる人間なんて、フィクションで何人も見てきた。
だが、脳死患者に新しい脳を移植したばあい、その人間はいったい誰だ? 患者が新しい脳を得たのではなく、脳が新しいカラダを得たコトになるのではないか。いや、クローン培養した脳というコトは、言ってみれば白紙の状態。そんなものを移植したら、何も知らない赤ん坊みたいになると考えたほうがむしろ自然だろう。何にせよ、脳移植を受ける前と別人になってしまうハズだ。そうでなければおかしい。
けれども、先ほど饗庭にされた質問への回答でハッキリしているように、平坂の記憶と人格が継続されている事実に、何ひとつ疑う余地はない。
「そう、たとえ脳を入れ替えても、君は君のままだった。これは脳が
「ガネーシャ?」
「おや、ごぞんじない? ガネーシャはヒンドゥー教の象頭神で、シヴァとパールヴァティーの子だ。仏教では歓喜天として知られている。また一説によると、一神教になる以前のユダヤ教における、ヤハウェと同一視されていたという。しかし、やがて偶像崇拝が禁止され、あとに残された象頭神の偶像は、ビヒモスという名の悪魔にされてしまったとか」
「いや、ガネーシャくらい知ってるけど。なんでそんな名前に」
「そうだろう。気になるだろう。さて、なぜ私がガネーシャの名をプロジェクトに冠したかというと――」
そのとき饗庭の言葉をさえぎるように、『――話題がすぐ脱線するのはアンタの悪いクセだ、博士。そろそろ本題に移ってくれよ。いいかげんこっちは待ちくたびれたぜ』
スピーカー越しに第三の男が割り込んできた。どうやら別室で様子を見ていたらしい。
「誰だか知らないけど、レディーの寝室をのぞき見とはイイ度胸だわ。窃視および盗撮の容疑でブタ箱にぶち込んでやる」
『オヤオヤ、この眠り姫ときたら、まだ自分が刑事サマのつもりでいらっしゃるらしいぜ』
「……どういう意味?」
『おまえさん、自分がいったいどれだけの時間、眠り続けていたと思ってやがる?』
そう指摘されて、平坂はおのれのマヌケさを思い知った。再起不能の人間をいつまでも後生大事に抱え込んでおくほど、警察は馴れ合いの集団ではない。むしろ早めに見切りをつけて、退職金を払ってくれたほうがいい。
しかし、その認識は甘かった。
『そもそも刑事という職業自体がもはや存在しねえ。警察組織は民営化したからな』
あまりに突拍子のない話に、平坂は鼻白んだ。「テキトーなコトぬかしてんじゃアないわ。警察が民営化ァ? そんな構想があるなんて聞いたコトもない」
『おまえさんが知らねえのもアタリマエだぜ。なぜなら今は西暦2066年だからな』
「――ハァ?」平坂はおのれの耳を疑った。何かの聞き間違いかと思った。「ふざけないで。さすがに冗談キツいわよ」
『冗談なんかじゃねえ。ここはおまえさんにとって、50年後の未来だ』
「証拠は? 証拠はあるの? あるなら見せてみなさいよ」
『――博士』
饗庭はベッド脇に置いてあるリモコンのボタンを押した。すると平坂の正面に突如、鮮明な映像が現れた。スクリーンも何もない空間に、ニュース番組が映し出されたのだ。“ハリウッドの巨匠、スコット・イーストウッド監督の新作『グッド・バッド・アグリー』が、いよいよ来週公開です。本作は今から百年前に公開された伝説の映画『続・夕陽のガンマン』のリメイクで、監督の亡き父クリント・イーストウッドの代表作でもあります。撮影するにあたり、監督はスペインで大規模なロケを敢行――”
今度は目を疑った。平坂の記憶ではまだまだ駆け出しの若手俳優だったスコット・イーストウッドが、すっかり年老いているではないか。父親の若いころにそっくりだと思っていたが、その姿は今やうりふたつだ。
それに、このニュースを中空に映し出している技術は、平坂の有する常識から明らかに外れている。
『これで納得したか?』
「信じられない……いったい、何がどうなってるの……」
「ご両親の希望で、君は臓器提供されるコトなく延命され続けた。そのうちiPS細胞による再生医療が発達したコトで、ドナーとしての必要性が失われ、さらに技術の飛躍的な進歩によって、脳死患者の長期的な延命がはるかに容易となった。また、将来的に脳不全からの回復が現実味を帯びてきて、言うなれば脳不全患者は、大昔のSFにある冷凍睡眠みたいな扱いになったのさ。今の医学では治せないが、未来では――とね。そうして50年後、ついに君を目覚めさせるコトができたワケだ」
「50年……」
時間の重みが全身にのしかかってくる。平坂の感覚で50年前といえば1966年だから、ビートルズが来日した年だ。母がなつかしげに何度も語っていた過去。それと同じだけの月日が、知らぬ間に過ぎ去ってしまった。
「――そうよ! パパとマ――アタシの両親は?」
「真っ先に家族の心配とは、さすがに50年前の人間ともなると違うな。……残念だが、ふたりともすでに亡くなっている。詳細を知りたければ、あとで記録を見せよう」
「そんな……」
ムリもない。50年だ。両親どころか、同級生さえ生きているかどうか怪しい――そこで平坂は、不可解な事実に気がついた。饗庭は脳死状態を冷凍睡眠に例えたが、それはあくまで比喩に過ぎない。SFで描かれていたように、肉体の時間を凍結できるワケではないだろう。平坂はアタリマエに年老いていなければおかしい。
しかし――ジッと、手を見る。その手は枯れ木のようにしわがれてはおらず、みずみずしくうるおいに満ちた、玉の肌をしていた。明らかに老婆の手ではない。その声も小鳥のさえずりがごとく軽やかで、若々しい。
「――鏡! 鏡を見せて!」
饗庭がリモコンを操作すると、目の前に浮かんでいたニュースが切り替わり、1枚の鏡になった。そこには変わらぬ若さを保つ、平坂自身の姿が映っている。
いや、むしろ若返ってさえいるような――。
饗庭は得意げに、「若さと美貌は、女性にとって死活問題だ。目が覚めたらしわくちゃの老婆になっていたんじゃア、かわいそうだと思ってね。脳のついでに、全身を新しい細胞と総入れ替えしておいた。もちろんまるごと君のクローンを作ったんじゃア意味がないし、そもそもクローン人間の作製は法律で禁じられている。だからいくつかのパーツに分けて培養し、1ヶ所ずつ挿げ替えていったのさ。――ああ、お偉方がせかすので少々雑な仕事になってしまったが、手術痕はお望みなら跡形もなく消せるから、そこは安心してくれたまえ」
確かに肌のあちらこちら、痛々しい縫い目だらけだった。まるでツギハギ、パッチワーク。服で隠れているが、もしやカラダじゅうがこうなっているのではないか。これではまるでフランケンシュタインの怪物だ。
とはいえ、それは正直どうでもいい。キズモノになるくらい、警官になったときから覚悟はできている。ロボコップみたいにされなかっただけマシだ。
それより気がかりなのは、「パーツを総入れ替えしたって、それはつまり――脳どころか、もとのアタシのカラダはひとかけらも残ってないってコトじゃない!」
「今さらそれを気にする必要はないと思うがね。なぜなら事実として、君のアイデンティティは間違いなく保たれているのだから。脳が
「まァそれは確かにそうかもしれないけどさァ……どうもイマイチ釈然としないのよね……ていうか、なんで〈テセウス・プロジェクト〉じゃないワケ? ガネーシャなんかよりずっとシックリくるんだけど……」
「やはり語るしかないようだな。わが〈ガネーシャ・プロジェクト〉について」
『――だから博士、頼むからいいかげん本題に入らせてくれ。油断するといつもこうだ。だいたい、プロジェクトの詳細は極秘事項だろうが』
「しかし彼女は当事者だ。すべてを知る権利があると思うがね。年長者として言わせてもらうが、隠しごとをすると、あとでロクなコトにならんものだ」
『ハイハイ、せいぜい肝に銘じときますよ。ここにいたんじゃラチが明かねえな。もういい、今すぐそっちへ行く。オシャベリなアンタの口をふさいで、おれが直接話を進め』「――何じゃこりゃア!」
突然大声を上げた平坂に、博士はハトが豆鉄砲くらったような顔をして、「イキナリ何だね?」
「アタシの! アタシの顔が!」
「うん? だから縫い目は綺麗に消せると――」
「そうじゃなくて! 何なのよコレ! アタシは今、おどろいてるのよ? それから混乱してるし、怒ってもいる! それなのに、ああ! それなのに!」
饗庭はド忘れしていたコトを思い出したような口ぶりで、「ナルホド、そっちのコトだったか。あいにくだが、そればっかりはしかたがない。ずっと寝たきりだったのだからね。一応、四肢が萎えないよう筋肉を動かす機器は使っていたんだが、今の時代の科学力をもってしても、表情筋に対して効果的に働くものは存在しないのだよ。まァ今後のリハビリしだいだろう。せいぜいがんばりたまえ」
鏡には、まるで人形のように無表情な女が映っていたのだ。どんなに感情をおもてに出そうとしても、平坂の顔は彫像のように固まって、動かなかった。
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