第10話 会いたくなったら、会いましょう!

 子ども達に尻を叩かれたから書き始めたと思われるのはしゃくだが、行き詰まっていたことは確かだ。その原因は書く意義がまったく見当たらないことだった。小説を書くのはとてもエネルギーがいることだった。音楽を作る人も同じ感覚を必要とするのだろうかと思ったことがある。まったくないものから生み出すということは骨のおれる作業だ。それでいて、過去に発表された作品や物語にある表現を使うことは許されない。睡眠時間を削って努力してディスプレーに向かっていても文が思い浮かばなくて苦しんだし、ストーリーの展開は何かを食べているときや歩いているとき、授業をしているときなどに考えていたので、人の話を聞き逃すなどのミスが頻発した。だから、本を書くということは、あれっきりにしたかった。

 僕が2作目に考えているのは家族の姿についてだ。中学生とはいえ、国語や社会を教えている身なので家族のあり方について考えることがる。中学生は大人が思っているよりも子どもでもあるし、思っているよりも大人であることもある。僕の場合は、親が部落出身だったので、就職や結婚で差別を受けたのだろう。本質は、父の能力(甲斐性)のなさと運の無さなのだが、父が亡くなった後、母の願いでこの県の教員採用試験を受けたのは差別と無縁ではない。母は、まだ健在だが生まれ故郷に戻る気はない。先祖から受け継がれている血のつながりが、穢れているのなら、そのような関係は捨ててしまいたいと思っている。家族を捨てることは許されない罪なのだろうか。

 佑菜は家族に捨てられた。彼女の父は家族よりもギャンブルを選んで失踪した。母は、実の娘よりパチンコ屋で拾った男を選んだ。そして、自分の子どもについては、前の男の血より、新しい男の血を選んで佑菜を捨てた。家族というセイフティーネットが破れて、捨てられた彼女は何を思っているのだろうか?

 日本は血縁という家族に頼りすぎていると思う。そして、家族のモデルは2つしかない。会社勤めの夫と専業主婦の妻のパターン。厚生年金が福祉をカバーする。自営業か農漁業を家族で営むパターン。国民年金がカバーする。もしこの条件から外れたら確実に貧困層となる。例えば、シングルマザーとなる。夫が病気になる。子どもが成人しても働かない。などなど…

 一方で、宝くじに当選したという知らせが親類に伝わり姻族に親戚の親戚まで金の無心に来るとか、遺産相続が骨肉の争い、震災孤児の遺産を叔父が使い込んだ事件を聞くたびに血のつながりの意味を考えてしまう。

 血縁という家族を捨てたり、捨てられた者たちに家族の再生はあるのかというのが、2冊目の小説のテーマだ。長い海外赴任を終えて定年を迎えたが、家族のところに戻ることなく海辺の村に古民家を買った初老の男。天涯孤独になって浜辺に立ち尽くす若い女性。小学生のころから親と離れて山村留学をしてきたが、高校から親と再び暮らすのに絶望を感じている少年。こうして、男は出会いと別れを経験して、血のつながりでない家族を構築していく。構想をざっくり説明すれば、こんな感じになる。権利も義務も発生しない緩やかなつながりが肉親や血縁などの押し付けられたつながりよりも価値があることを問いたいのだ。


 新しい小説の原稿は、初稿脱稿まであとわずかだ。しかし、ここ何日かストップしたままだ。午前3時にベッドから出て。ノートパソコンを開くが一文字も打ち込むことができない。一人で考えていると彼女がこのところ少しずつ空想の領域を広げていて、思考の領域を侵しつつあるのだ。簡単に言えば、寝ても覚めても…状態なのだ。最後に会ってから10ヶ月が過ぎた。スキャンダルから逃げるようにして勤務先と住処を変えた。まるで、幼いときに親が部落から逃げたように僕も逃げたのだと思う。逃げた人は、過去をひた隠しにしてやり過ごそうとするが結局、後ろめたさだけが残り現状は変わらないものだ。僕の彼女に対する未練は、その後ろめたさに似ていて、彼女に向き合えなかった後悔なのだ。

 それに人の記憶というものはいい加減なものだ。不都合な記憶は薄れたり、消去されたりする。些細なエピソードが増幅され、美化される。祐奈と会った10年前の記憶を僕は美化していたのかもしれない。記憶は明確であったし、想像という添加物は加えていないはずだった。過去の二人の出会いや別れ、交わした言葉、約束…。誇張もあるが良心に従って特別な感情は持ち合わせないようにした。1作目は幼なじみが出会ってハッピーエンドで終わった。しかし、今回の2作目は1作目と違って、書いている途中で息苦しくなった。理由は至極単純で、彼女は驚くほど変貌していて想像を超えていたからだ。普通なら彼女の美しさに気後れして、全く関心がないように振る舞うか、ファンとして節度ある接し方をすべきだろう。僕にとって小説を書くということは、彼女に接近するための都合のいい言い訳の手段なのだ。本が発表されれば再びスポーツ紙や女性誌の紙面を賑わす格好のスキャンダルの材料となることが分かっていても書き綴ってしまうのは、彼女に会いたいという気持ちを抑えることが出来ないのだ。

 人間が葛藤するのは、両手の先にあるものが手に触れそうな気がするからだ。まったく触れることが出来ないのなら諦めてしまうだろう。佑菜は2度僕に会いに来た。彼女なりの勇気を振り絞って会いに来たのだろう。彼女は”好き”と言ってくれた。”好き”と”愛してる”の違いについて考えてみたが、意味において大差は無いのだろう。僕の冷静さを失いそうになる気持ちをクシャクシャに詰め込んだ整理箱から、一枚一枚開いて確認してみて、彼女の気持ちを受け止めて僕の気持ちを素直に話すべきだろう。

 でも、人間は考えてしまう。相手を好きになることは未来を予測して運命を委ねるようなものだ。僕の思考が突き当たってしまうのは、未来にあるのだ。佑菜と家族になるということは、彼女の桁違いの生涯年収をきっと奪うことになるのだろう。スキャンダルを乗り越えても会社勤めと違う働き方と東京と地方での別居で早晩破綻するのは見えているだろう。多分、彼女は初恋を知らないはずだ。祖母との暮らしに困窮し、ダンスの練習と芸能界という閉鎖的な空間で中学高校時代を過ごした彼女は同年代の異性との付き合いは皆無だろう。つまり、年上の異性に生じるあこがれや尊敬を初恋と勘違いしているのだろう。同級生との他愛のない会話や決定していない将来の夢を語り合うという通過儀礼を彼女は経験していないのだ。このまま時が過ぎれば、僕は思い出の人になって記憶の隅にかさぶたのように残っていればいいのだと思った。

 

 しばらくパソコンに向き合っていたのだが、埒が明かないのでガスレンジにポットをおろして湯をわかすことにした。ガスの燃焼音が響く部屋に振動音の繰り返しが混ざって聞こえる。机の上に置いてあるスマホを手にすると「月野さん」からの着信の表示があった。タップして頬にスマホを当てると聞き覚えのある声がした。

「松野先生。ずいぶんご無沙汰でしたね。覚えてますか?月野です。」

「僕、電話番号変えたんです。雑誌に佑菜とのことが記事になりまして、前の勤務先から追い出されました。同じ県内ですが違う教育管区に移ったので、同時に番号も変えたのです。音信不通にしていて申し訳ありませんでした。」

「そうでしたか。先生はすばらしい才能をお持ちなので、次の作品も我が社から出版したいと願っていたのです。10ヶ月前に新しい作品の構想自体は打ち合わせをしていましたが、その後どうなっていますか?」

「最終章に取りかかっています。連絡はしませんでしたが、期限の約束は守って執筆を続けていました。」

「ありがとうございます。先生、よい教え子たちに恵まれていますね。先生のことが心配で◯川出版まで電話してくださったんです。電話番号も生徒さんたちから聞きました。生徒さんたちが原稿を預かって、私まで宅配便で送ってくれることになっています。明日にでも渡してください。」

「分かりました。明日までに完成させます。あいつら受験生だし、修学旅行が2週間後に迫っているんです。僕の原稿を読む暇なんて無いはずなんですが…。」

「先生、勇菜さんのこと知っていますか?」

不意を突かれて僕は息を飲み込んでしまった。担当編集者から彼女のことを知らされるとは予想していなかったからだ。

「ど…ういうことですか。松岡さんに何かありましたか?」

「仕事を入れすぎているんです。先生も彼女がテレビドラマと映画に切れ目なく出ているのはご存知だと思いますが、今月も映画1本とドラマ1クール分を同時に撮影しているんです。彼女、家にも帰らずスタジオに寝泊まりしているらしんです。」

「えっ、そうなんですか?でも、事務所のほうがスケジュールを管理しているんじゃないですか。」

「マネージャーは私の友人です。逆に事務所の方が、健康管理に気を使って仕事を減らしているのに勇菜さんがプロデューサーから勝手に仕事を引き受けてしまうのだそうです。まるで何かを埋め合わせるかのように仕事を狂ったように入れていると嘆いていました。」

「何かを埋め合わせる…?何か不幸なことでもあったのですか?」僕は誰か肉親を失っていしまったのかと考えたが、唯一の肉親である祖母を佑菜が高校2年のときに亡くしていることを思い出して孤独な彼女を落胆させる出来事が何なのかわからなくなっていしまった。

「先生は、本当に鈍感ですね。勇菜さんは先生に会いたいんです。マネージャーも痛々しいぐらいだと言っていました。彼女は、会うと先生に迷惑がかかると思っているのか、名古屋に出かけても以前のようにわがままな単独行動をせず、ホテルにこもりっきりだそうです。」

「名古屋には何度か来ているのですか?」

「そのあたりは分かりません。とにかく会いたくなったら、会えばいいのに二人ともやせ我慢のしすぎだということです。」

「でも、会ったらまたスキャンダルになって事務所に迷惑がかかるのではないですか。」

「勇菜さんは、私生活を切り売りしない人みたいですね。Facebookとかインスタもブログもやらないし、話題になることを逆に避けるところがあるみたいだし…。」

「だったら、やっぱり会うことはよくないね。もっとも、僕は会いたいと思わないし…。」

「えっ、そうですか?生徒さん達は、違うことを言ってましたよ。それよりも勇菜さんは、歌やダンス、演技などの表現することを生きがいにしているのだとマネージャーが言っていました。会って周りが騒ごうが彼女には関係ないのです。先生のほうが、逆にくよくよ考えすぎです。」

「はあ…。」

「私は、徹夜で編集していたので仮眠をとります。原稿よろしくお願いします。先生、もう勝手に逃げないでくださいね。失礼します。」

スマホの画面をタップしてカバンの中にしまい、カップにインスタントコーヒーの粉を入れて湯を注いだ。立ち上る湯気を僕は凝視した。





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