04:焦燥

 裏オークションの一件を終えた翌朝。ノアはいつものように、最寄駅へ向かうため、通りを歩いていた。

 本当は、仕事なんてしたくはない。身分は安定していて、充分な給料は頂いているが、それだけで勤労意欲が高まるものではないというのが、ノアの持論だ。

 それでも会社に向かうのは、きっと気の置けない同僚たちがいるせいだろう。

 今日も周りには通勤や通学のため、人がわんさか居る。しかし、その一人一人に気を留めるわけはない。自分もただ、人波の一部というだけ。

 しかし、その朝は違った。


「うっ……?」


 ノアは突然の頭痛と吐き気に足を止める。

 そして、なだれ込んでくる「感情」に、胸を締め付けられる。


「しんどい」

「眠い」

「疲れた」

「休みたい」


 エンパシーが発動してしまっている。止まれ、止まれ、とノアは念じる。しかし、一向に感情の流入は止まらない。

 そのままノアは、道端でうずくまる。大丈夫ですか、と男の声が聞こえる。しかし、その声に応えることができないまま、ノアの意識は薄れていった。




「ノアが倒れた?」


 デスクで大声を上げるサム。


「それで、どこの病院ですか! 今から行かせて下さい、ボス!」

「落ち着け、サム。命に別状はない。それに、ハリスの件で仕事が残っているだろう? それを終わらせてからだ」

「しかし……」

「まあまあ。ボスの言う通りだよ、サム。ノアはそう簡単にくたばらないわよ」


 アレックスがサムの背中を叩く。


「でも、彼の家族は日本でしょう? 僕が行ってやらないと」

「あんたねえ、過保護すぎ。奴もいい大人なんだから、大丈夫だって」

「アレックスの言う通りだ。終業後に行けばいい。俺もそうするつもりだ」


 サムは納得がいかないという顔をするが、ボスの命令とあらば仕方がない。

 終業後、サムとアレックスとボスは、ノアが運ばれた救急病院へと直行する。ノアは眠っていた。


「ノア……」


 サムは相方の呼吸する音を聞いて胸を撫で下ろす。いくら大丈夫と聞かされたところで、こうして対面するまで、彼は不安をぬぐいきれなかったのである。


「ね、大丈夫でしょ?」

「しかしなぜ、倒れたんでしょう」


 それから三人は、担当の医師から説明を受ける。


「感情受容障害?」

「そうです。彼はエンパスですからね。何らかの原因で、エンパシー能力の制御が効かなくなり、それで体調に影響が出たんです」


 医師の言葉を受けて、ボスが質問する。


「それで、すぐ治るものなのですか?」

「いえ。人にもよりますが、最低でも一週間はこのままの状態が続くでしょう。よって、ソレル研究所に移って頂くつもりです」

「そうですか……」


 ソレル研究所には、エンパス専用の療養所が併設されている。それがどんなものなのか、よく知っているのは、もちろんアレックスだ。


「隔離療法ですね」

「そうです。彼にはしばらく人との接触を断って頂き、誰の感情も入り込まない期間を過ごしてもらいます。そうすることで、自己と他者の感情を分けて感じることができやすくなるんです」


 サムは驚いた様子で医師に問いかける。


「それでは、見舞いも禁止ということですか」

「もちろん。詳しくは、ソレル研究所の医師に確認を取って下さい」


 事務的な手続きは、ボスが行うことになった。その間、サムとアレックスは、病院内のカフェで待つことにする。


「感情受容障害というのは、頻繁に起こるものなのですか?」

「そうね。エンパシーが制御できない子供の内は、よく起こるわ。けれど、大人になってからは稀よ。私も起こしたことはない」

「だったらなぜ、ノアは」

「思い当たるとしたら……ノアの女遊びかしら?最近はやめるようになったって言ってたじゃない」

「確かに、だいぶ落ち着いてきたように思いますよ。しかし、それと何の関係が?」


 アレックスは合点がいったようだ。ミルクティーをこくりと飲んだ後、話し出す。


「私たちエンパスはね、普段は感情を受け取らないように制御しているでしょう?それだと枯渇してしまうのよ。他人の感情を受けるということについて」

「すみません、ちょっと、わかりにくいですね」

「ふふ、そうよね。定期的に、誰かの――そう、愛情を感じる必要がある。こう言うとロマンティックだけど、案外深刻な問題よ。だから私は猫を飼ってる。動物でもいいのよ。愛情をぶつけてくれる存在は」

「それで、ノアは沢山の女性と交際していたと?」

「まあ、元々女好きなせいもあるでしょうけどね。彼なりの防御策だったんでしょう」


 サムは、これまでノアの女遊びをたしなめていたことを思い返す。


「僕のせいでしょうか」

「何言ってるのよ。女の子と付き合うのをやめたのは、ノアの意志でしょ?サムが気にすることじゃないわ」


 それでもサムは、自身を責める。エンパスのことを、分かっているようで理解していなかったことに。




 帰宅したサムは、ちぐさに電話をかける。彼女はまだ、ノアがソレル研究所に移ることを知らなかった。


「そう、お兄ちゃんが……」

「はい。見舞いもできないと聞きました」

「でも大丈夫だよ、隔離療法ならすぐ治るから」


 ちぐさの弾むような声に、サムは少し元気を取り戻す。


「僕は、エンパスのことを何も知らないと思い知らされました。ノアが苦しんでいるのに、何もしてやれない」

「サム、いいんだよ。そうやって、想ってくれているだけでも、私たちエンパスは嬉しいんだから」

「ちぐさも、そうですか?」

「うん。あまり会えないのは正直寂しいけど……ちゃんと分かってるよ、サムはいつだって私のことを想ってるって」


 ちぐさと付き合ってみて分かったことだが、彼女は思っていたよりも芯が強かった。サムは彼女にひとしきり慰められた後、電話を切った。

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