第三章(2) 私とワタクシ

 夏の夕暮れは風が入らないと思っておりましたが、今日はよく、風鈴が揺れますこと。



 そのようなことを考えながらお庭を見つめておりますと、

お部屋の襖が突然開かれ女性が入って参ります。


 それは、朱里にございました。夫と会う前に私のご機嫌伺いですのよ。



「まぁ、朱里ったら。

 お部屋に入る前は、普通一声掛けるものですのに。」



「いいでしょう、別に何も隠すようなこともないでしょうよ。

 私たちの仲なのだから。」



「それは、そうですけれども。

 朱里。

 別に私のことは気にしなくて構わなくてよ。

 主人が出張の度に様子を見に来てくれなくとも、大丈夫だわ。」



「何言ってるのよ。

 内心は寂しくて仕方が無いくせに。

 だからこうして、親友想いの私が様子を見に来てあげてるのよ。」



 朱里は机を挟んで私の前にお座りになっては、色々な話を聞かせて下さいます。




 けれど、どうしてかしら。全く耳に入って来ませんわ。



 そればかりか、藤枝のことばかりを思い出してしまう……。




 藤枝が山葉家にやってきたのは、私が生れた年にございました。



 きっと、藤枝は私が憎くて憎くてしかたなかったことと思います。



 だって、昔は想いを交わし合った男と、それを奪っていった恋敵との間に

生まれた子どもなのですから……。




 そう。




 お父様とお母様がご一緒になられる前、藤枝はお父様とお付き合いをしておりました。


 けれど、お母様との縁談話が持ち込まれるとお父様はすぐに藤枝をお捨てになり、山葉の戸主権と財力にお抱きつきになられたの。


 藤枝は、お父様とそれを奪ったお母様を心の底からお怨みになり、その想いを晴らすため、山葉家の使用人として働くようになったのでございます。

 皆様も、それ当然の怨みとお思いにございますでしょう。



 お母様は当時、そのことにお気付きにはなられていませんでした。

藤枝の顔と名前を存じていなかったことや、使用人の一切の管理をお父様がしていたこともあったため、当然のことではございますが。



 お父様が、何をお考えになって藤枝をお雇いになったのか。

今となってはお聞きすることもできません。

下心を持ってか、罪悪感にかられてなのか、はたまた別のお考えがあってなのか。




 理由なぞは分からなければ知る気もありません。

藪を突くことは、禍に繋がりかねませんもの。

蓋ができるものには蓋をしておくこと。それが一番にございます。




 ただ、どんな答えにせよ、変わらないことは一つ。

お父様は、藤枝への想いをどんな気持ちであれ、まだ抱き続けていらしたということ。




 他の使用人から、愛人の烙印を押す目星として矢面に立たされるくらいなのですから。お父様が藤枝に目をかけていらしたのは、一目瞭然のことにございます。

本当の妾は、別の使用人であったというのに。




 人間はどうあっても、噂がお好きな生き物にございます。

それが真であろうがなかろうが、尾鰭はすぐに生えますことよ。



 藤枝のお心はただお1つ。



 お父様とは決して交わらない別の道であったというのに……。




 お母様が藤枝を含め使用人の身元についてお調べになったのは、

ちょうどお父様と使用人の噂が立ち始めた頃。




 突かなければ良かった藪を突いてしまったことが、お母様の恐れの始まり。



 それはそうでしょう。

 


 藤枝とお父様の過去、それを知り得たうえでお雇いになったお父様。

そうして泳ぐように流れていく噂。




 それらを繋ぎ合わせれば、

お父様がご自身を捨てて藤枝と駆け落ちをするのではと考えてしまうのは、

至極真っ当な考えかと思われます。




 お母様のお望みは、悲劇をも乗り越えて夫を支えていくような

健気で賢い妻にございますから、本当にお父様に逃げられては困るのです。





 逃げられてしまっては、賢さもなく惨めなそれしか残りませんでしょう。






 そうして何もかも事実を知ってしまわれたお母様は、

その恐怖といずれやってくるかもしれない惨めな結末に堪えきれず、姿をお隠しになられたのよ。



 

 お母様の求める哀れさと惨めさは違うのですから。



 惨めになっては困るのです。




 本当に、愚かな方でした。





 藤枝にはその気など、全く微塵にもございませんでしたのに。



 使用人としてやってきた藤枝は、お父様と私、どちらから復讐をするべきか、お悩みになっておられました。






 恋敵であるお母様への復讐にございますから、お母様の大事であろうものを

奪う、壊すといった、普通の考えで至った選択肢にございましょう。





 けれどまだ幼い中、厳しいしつけを行うお母様に泣く私を見て、

彼女の母性が働いたのか、元より彼女が持つ人間の温かみがお流れになったのか。




 それは分かりません。




ただ、そのような日々にある私を見て藤枝は、復讐心を凪いでしまわれました。





 そうして、私に……。





 私に、姉のように母のように優しく、時には諭しながら接してきて下さいました。





……馬鹿な方よね。




 そのような感情に惑わされさえしなければ、こんなことにはなりませんでしたのに。




 また別の……別の生き方があったかもしれませんのに……。





 私もまた、彼女の部屋にいたずらのつもりで忍び込み、

古い日記を読み返しさえしなければ、

このようなことを知りもしなかったのでしょうね。






 

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