第二章(3)私とお父様


「お父様……。

お可哀想。

お母様がそのようなことを仰っていただなんて。

私、全く知りませんでした。お父様は、お母様には逆らえませんものね。


 ねぇ、お父様。

 私、優しい女性になりますわ。

お母様のように、世間の目ばかり気にしている女性にはならなくってよ。

 私は、思うまま自由にある。


それでいて賢い淑女になってみせますわ、お父様。」







 私の心には、何が流れているのかしら。






 藤枝、貴方なら分かっておいでになって。






 「そうか、そうか。

お父様は、その言葉が聞けて、とっても嬉しいよ、凛子。

 直に、お母様も戻ってくるかもしれないが、そうなっても今の事は……。

今日の話は忘れないでおいて欲しい。


凛子は間違えないでくれな。」



私の頭を撫で付けるお父様。



お父様は、どこで間違えてしまったんだろうなぁ、と小さくお溢しになられます。





 「分かりましたわ、お父様。

 けれど、いくらお母様の言い付けだからって、

使用人に手を出すのはいけなくってよ。


 お母様が、お怒りになりますわ。

 ご自分より身分が低い相手で、ましてや使用人ですもの。

 ですから、お気を付けになって、お父様。」





使用人なら、惨めだと憐れまれるにはうってつけ。




だのに、お母様は何を怯えていらしたのかしら。






 私は、悪戯っ子のように笑んで見せます。




「はっはっはっはっ。

凛子に一本取られてしまったな。


ははははははっ。



 お父様は、別に見境がない訳じゃないんだよ。

本当に好きに思えたから、心を通わせあったんだ、どの女性とも。



特に、初恋の人とはね。」




「あら、愛いのね、お父様ったら。

初恋だなんて。それは、お母様のことかしら。」




「初恋はねぇ、実らないものらしい。

どうしたって、ダメなものらしいなぁ。

今度こそは、と思ったんだが。」





何のことを話していらっしゃるのやら。





私が尋ねようとすると、お父様のお腹から空腹の虫が声をあげます。





 「じゃぁ、お話はまた後にして、今日はお父様と食事にでも行こう。

話し込んでいるうちにもう夕暮れ時だ。

お父様はお腹がぺこぺこになってしまったよ。

 



さ、お母様がいない間、二人で少し羽根を休めようじゃないか、な、凛子。」







そうね。お父様。








その疲れた羽根を、お休みになられるといいわ。






 そう仰って立ち上がるお父様に続き、私も腰を上げます。




 辺りは日が沈み、随分と暗く思える頃合いになっておりました。




 庭の木に止まっているのであろうひぐらしが、


その背を必死に震わせ何かを叫んでおられますわ。








カナカナカナカナカナカナカナカナ









 何をそんなに叫ぶ必要があるのかしら、ふふふっ。







カナカナカナカナカナカナカナカナ








「行こうか、凛子。」





 廊下をお歩きになられようとしたお父様の背に、私は思い出したかのように声を掛けます。






「あ、待って、お父様。」






「ん、どうしたんだい、凛子。

おめかしは、別にしなくても大丈夫だよ。」



 「もう、お父様ったら。

そうではなくて、凛子、お父様にお願い事がありますの。」



 「お願い……とは、どんなことだい。

お父様ができることなら、なんだってしてあげようではないか。

だから、言ってごらん。」







カナカナカナカナカナカナカナカナ










「あそこにある、穴の蓋を元に戻して欲しいの。



 蓋が少しずれているのよ。



それに気が付かないで誰かが通ってしまっては危ないわ。



私も、お庭をお散歩する時に転びたくはないですもの。」





「なんだ、そんなことか。

 分かったよ。


お父様が行って蓋を穴に被せてくるから、少しここで待っていなさい。」






「えぇ、私、ここでお父様を見つめておりますわね、




じっと。」








カナカナカナカナカナカナカナカナ






 お父様は砂利を踏み鳴らし、その空洞を少し覗かせている穴へと近付いて行かれます。










ざっざっざっざっ。




 





カナカナカナカナカナカナカナカナ










ざっざっざっざっ。









カナカナカナカナカナカナカナカナカナカナ










ざっざっざっざっ。









カナカナカナカナカナカナカナカナカナカナ










 ざっざっざっざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざっ。








カナカナカナカ……












 ……カタン……。










 じりじりと鳴く、名も知らぬ虫の音に耳を傾け、私は一人、お庭を見つめておりました。





 お父様が白い手に引き擦り込まれてから、月が空高くに見えるほどの時間が経ちましたのに。


 




 閉じられたままの穴は、あの日のように口を開くことはございません。






 虫の騒ぎの中に静かに息を潜めつつ、

そっと鎮座しているだけに見えるその穴に、私は歩みを向けております。






ざっざっざっ。






 お庭から見ている時は、

もう少し遠い場所にあるように思われましたこの穴は、

そう離れている訳でもございませんのね。









ざっざっざっ。









カタン。








 私はゆっくりと腰を屈め、穴に被さる蓋に手をかけ、

砂利と摩擦する音すら気にも留めず、横にずらして参ります。










ざざざざざざざざざっ。








カタン。



 




 半分ほど開け前のめりになって穴の中を覗き込んでみますと、




 


私は思わず微笑んでしまいました。

 





 月や星の灯りでも、十分に中が確認できたんですもの。

 






だから私は、底も測り知れないような穴の闇に向って、声を掛けました。












「まぁ、そこにいらしたのね、お母様。」

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