第二章(2)私とお父様

 

「凛子、ただいま戻ったよ。」



 縁側でお庭をどれ程見つめていたのかしら。


 お父様が帰っていらしたことにも、私の隣りに立っていらしたことにも、

全く気が付けませんでしたの。



「まぁ、お父様。

凛子は、お出迎えに行かせて頂こうと思っておりましたのに。

すみませんでしたわ。

お帰りなさいませ、お父様。」



 お父様は小さな唸り声をお溢しになりながら、私の隣りに腰をお下ろしになられました。


 こんな風に並んでお父様と座りお庭を見つめるだなんて、初めてのことです。

私の記憶ではお父様とそれらしい関係の思い出なんて、一度もありません。



 「凛子、戻るのが遅くなってすまなかったな。

お母様に続いて藤枝までいなくなってしまって、寂しいだろう。

お前は、使用人の中でも藤枝とは一番親しくしていたように見えたからな。

 

 さぞかし悲しんでいるのではないかと思ってな。

これでも飛ぶように戻って来たのだよ、凛子。」



 どことなく悲しげに眉を寄せ、笑みを浮かべるお父様。




どちらに対しての悲しみなのかしら。




 「確かに藤枝とは、どの使用人の方よりも親しくしていたけれど、

それはお父様も同じでなくって。」




 お父様は私の問いかけに顔を曇らせます。



あら、そんな顔もなさるのね。でも、誰に対してなのかしら。



お母様、藤枝、私、それとも……ご自分かしら。




 「それはもしかしてお父様と藤枝の関係のことかい。

凛子は、昔から勘が鋭い子だったからなぁ。


そうか。


では、もう大方を、昔のことも知ってしまっているのだね。」



 これ程までに後悔に満ちた笑みを、私は見たことがございません。

お父様の顔は何かを咎めるようにも見え、何かを悔いているようにも感じられました。




 「えぇ、大体のことは承知していますの。

お父様、私、そんなにも勘が鋭くありましてよ。」



 「ん、あぁ、凛子は小さい時から色々なことに敏感というか、繊細ともいえるのかな。兎に角、鋭い子だったよ。



 お父様が帰った時なんて、今日は伽羅の匂いのお家からお戻りになったの、

なんて尋ねたりするくらいの子だったからねぇ。」



 お屋敷には、ほとんどお戻りになられないお父様が私の幼少の頃のお話をなさいます目。


 慈しみというのか、思い出の文を開く時のような懐かしさに満ちたものでございました。


 初めて見るお顔。そんなお顔ができるのに……どうして、いつも帰ってきては下さらないのかしら。




私、ずっと皆に可哀想だと言われているのですよ。




 「意外ですわ。

ほとんど、お家には戻って来ては下さらないのに、私の子どもの頃の出来事を覚えていて頂けているなんて。」



 「あっはっはっは。

凛子は、手厳しいねぇ。

確かに、お父様は家にはほとんど帰って来なかったが、たまに帰って来た時は、これでもかっというほど、凛子のことを目に焼き付けていたんだよ。」



「そんなお調子の良い言葉は、私には通じなくってよ、お父様。

それなら、他の女性のところなどに行かずに私に会うために、

こちらに帰って来て下されば良いことですもの。」



「……。」



「あ、私ったら。

ごめんなさい、お父様。

お気に障ってしまったのなら、許して下さい。

 私ったら、いつもお口が過ぎると藤枝に叱られていましたのに……。

またやってしまいましたわ。」




「あーいやいや、そうじゃないんだよ、凛子。

お前は、何も気にする必要はない。


 そうだな、こんな時にいうことが相応しいのか、お父様には分からない。

だが、お母様のいない今の間に、お前に知っていて欲しいことがあるんだ。



 凛子、お父様はね、何も好き好んで毎日毎日家に帰って来ないんじゃないんだよ。


 お父様だって、本当は毎日家に帰りたいさ。

凛子ともこうして、ただ話をするだけの時間を作って庭を眺めたり、散歩をしたりしたいんだ。

 けれど、お父様はそれができないんだよ。

 何故ならね、それはお母様との約束だからだ。」


水の中に、頭から浸かって誰かの声を聞いたことがおありかしら。



 そんな時と同じような感覚で、お父様の言葉が耳をこだまします。


 

 私の内情を察したのか優しく、ぎこちなく肩を抱き寄せては、お父様は口をお開きになります。



「驚くのも当然だよ。

 誰が聞いたって普通の人なら皆、凛子と同じ反応をするだろうし、同じ気持ちになるさ。


 お父様も、正直、お母様が分からなくなることが多くてねぇ。


 もう凛子も気が付いていると思うが、

お母様は他人の同情や憐みを受けて可哀想だけれども、健気な奥様に見られたいと考えるような人だ。


 そんなお母様はねぇ、お前がお腹に宿ったと分かった時に、お父様に家にはほとんど帰って来るな、女をつくってそちらに帰れと言い出してねぇ。


 初めは揶揄っているだけだと思っていたんだが、夜、帰っても屋敷に入れてもらえないようになってね。

 仕方なく、お父様はお母様の言う通りにしているんだ。


 お父様はこの家の頭首ではあるけれど、戸主権は元々母様の物で、

婿養子のお父様はやはり、お母様には逆らえないのだよ。



 山葉家は、代々、女の人が戸主を務める大富豪の家だからね。

凛子も、いずれ女戸主になって婿を迎えるんだよ。


 その時はお父様の肩身の狭さを思い出して、その人には優しくしておあげなさい。


 お母様のようになってはいけないのだよ、凛子。

 お前はお母様に似ている所が多いから、気を付けないと。


 意識していれば、お母様のような人にはならないから。


だから、素敵な優しい女性になりなさい。


 どんな理由であれ、たまにしか帰ってこないお父様には、

そんなことを言う資格等ないのかもしれないけれどね……。」



 笑顔とするには、あまり相応しくない顔で私を見つめるお父様。



……そんな、そんなお顔もなさるのね。



 私、お父様の色々なお顔を初めて知りましたの……。



 いつも、豪快な笑みを絶やさず、御自分の人生を思うままに歩まれている。

そんなお父様だと思っていましたのに。

 本当は、そのような生温いものではなくて、風景画に押し込められた人間と同じ。戸主権や財に惑わされさえしなければ、それ程までに身を縮めて生きる必要などありませんでしたのに……。






でも、もう……。





何もかも、遅くありましてよ、お父様……。



 


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