3話 手を伸ばす

 水の中に沈んでいるようだった。どこだろう、ここは……。光が上から漏れ出しているようだったが、その割には水の中は暗く、体が芯から冷たくなる。


 それでも、上がる気になれなかった。このままだと死んでしまうことはわかっているが、ぼくは地上から逃れたかった。

 それは、上がったらゆきとして生活しないといけないからか、いやなことでも拒んでいるからか。気が付くと息がゴボゴボと抜け出した。苦しい……。


(ゆき)


 呼びかける音が微かに聞こえた。一度だけだが、それは上から(たぶん地上からだろう)聞こえてきた。

 一瞬は躊躇った。待っているのは、否定したくなる世界だ。


 だけど、いつまでもこの場に留まれるはずがない。ぼくは迷いを払い、勇気を持って上を目指す。反発する水流に押し戻されそうになるが、淡い光が漏れていて、声が聞こえた方に向かって、思い切って前へ進むことで抗った。なかなか前に進めず心が折れそうになるが、躊躇いを振り切り、声の持ち主のことを信じて、上へと向かう。

 

 水面まであと数メートルまで来ると、誰かが手を差し伸ばしたかのように見えた。ぼくがその手をしっかりと掴んだとき、意識が急に水面から浮上する感覚を覚え、視界も急に明るくなるのを感じた。



「ゆき……?」


 手を掴んでいた先にソウ君がいた。……現実なのか?

 ソウ君はすぐに手を引き抜いた。目はおどろいているが、頬がサッと朱に染まった。


「起こしてごめん。呼びかけて反応しなかったら、そのまま俺の教室に戻ろうと思っていた。急にゆきが手を掴んだから、おどろいたよ」


 あ……と思い、恥ずかしさがこみ上げる。風邪の熱っぽさも残っているからか、頬が少し熱くなるのを感じた。

 理由はともあれ、ソウ君の手を掴んでしまった。


「わたしはただ、寝ぼけていて……」


 目線だけやや斜めになる。恥ずかしいが、顔の向きは逸らさずに答えた。 

 手を掴んだのは、夢の中のつもりだった。ソウ君からすると、ある意味ホラーなことで、思いがけなかったことだろう。

 

 夢の緊迫感から解き放たれ、急に落ち着いたからなのか、放心状態になった。

 ソウ君も急に静かになったかと思いきや、彼の目が一瞬見開いた。何かに気づいたようだ。


「どうしたの?」

「お前の左目……」

 

 左目がどうかしたのか?


「ゴミでも付いているの?」

「いいや。ハンカチで拭ってみなよ」

 

 スカートのポケットに手を入れるが、ハンカチがない。

 家に忘れたのでなければ、スクールバック(リュックでもいいのだけど、とくに理由はない)のサイドポケットに入れたまま取り出し忘れていた。バックはロッカーの中にある。


「……ロッカーの中に置いてきたみたい」


 ソウ君は自らのポケットからハンカチを取り出した。


「ちょっとじっとしていて」


 ソウ君はぼくの左目の目元に軽くハンカチを当てた。


「だいじょうぶだ」

「……ありがとう」


 よくわからないまま返事をする。それ以上に疑問に思うのは、ソウ君が少し困ったような表情をしていたことだ。

 そして、一連の動作と表情に既視感を覚えた。どこかで……、それとも気のせいだろうか。

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