第40話残影

 日本海に面した中国地方を旅行した時のことである。

 稲妻が走り空全体を明るく照らしていた。

 自動車道を下りて中国山地を横切る道路に入る頃には雨も降り始めた。

 局地的な豪雨で雨音が間断なく車のフロントガラスを叩いた。

 ワイパーを最高速にしても、すぐに次の雨粒がガラスに滲み、前を走る車の後尾灯の明かりも滲んでしまった。

 気性の荒いマルチーズの子犬を連れての旅である。彼女は激しい雨音など気にせず助手席で丸くなっていた。

 日本海に面する町に入ると雨はやみ、白いモヤが地上に流れた。

 晴れていれば満月の夜である。

 すでに深夜を過ぎていたが、空は明るかった。

 日本海沿いの道路を南に走った。

 ナビゲーションが左折し山間部に向かう道路に入るように指示をした。現在地表示もずれる古い代物であるが、見知らぬ土地の深夜のドライブでは頼るしかない。

 左折し古い小さな橋を渡った。

 橋の欄干が濃いもやの中で人影に見えた。

 寝ぼけている訳でも目の迷いでもない。

 その時からである。

 それまで助手席で丸くなっていた子犬が身を起こし、ヒィ、ヒィと、か細い声で泣き声を上げ、結んだ紐を引っ張り、爪を立てて私の膝によじ登ろうとする。

 始めてのことであった。

 不気味に感じたが、ナビゲーションが示す方向に進むしかない。

 道は狭くなるばかりであった。

 左側の土手に人家がある。どの家も眠りに付き、明かりはない。

 右側は狭い田畑が広がり、下には川が流れている。

 人家が途切れると、孟宗竹の林になった。

 それも途切れると、広場が広がり、大きな木が白い夜景の中に黒い枝を道に垂らし浮き出た。

 風はなく、小枝は身震いして雨滴を落とした。

 その頃には子犬は泣くこともできず、ただ必死に私の膝の上に這い上がろうとする。


 白いもやの中に人影が現れた。

 カーキ色の陸軍軍服をまとっている。

 大の字に立っているが、両腕は力ない。

 右手に抜き身の日本刀を握っている。

 丸いメガネをかけた童顔の男であった。

 道の中央に立ち、立ち入りを禁止しているようであった。

 まるで結界の一翼を担っているようでもあった。

 この世の存在ではない。

 子犬は毛を逆立てているが、吼えることすら出来ない。日ごろから念仏を唱える訓練を欠かしたことがないが、強い怨念に口を動かすこともできない。強張ったまま、数十メートル先の男とにらみ合う形になった。不自然な均衡がどれぐらい続いたか不明である。

 それを破ったのは朝の到来を告げる鶏のなき声であった。

 朝の到来とともに、彼はモヤの中に吸い込まれるように消えていった。

 正体を調べることは難しいことではなかった。

 すぐに磯部浅一と言う軍人に探し当てることが出来た。

 童顔で丸顔、丸い眼鏡も一致していた。

 二二六事件の中心人物として銃殺された男である。事件当時は民間人であったが、他の者と違い主権者に裏切られたと言うすさましい怨念を残したまま銃殺されたと伝えれている。

 彼の残影を見たのであろう。

 多くの日本人の深層心理の底に、未だ大規模な軍事クーデターを起こした彼らの残影は残っているが、現実に闇の中に姿を目にする者はおるまい。

 私が彼の残影に出会ったのも、近くに彼ゆかりの地でもあったせいかも知れない。

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