第10話元旦の朝

 霊障と言う言葉の意味を辞書では探せないだろう。いわゆる俗語であり、学問的には証明されない迷信の類であると言う解釈からであろう。私の周囲で使われる霊障と言う言葉の意味は供養を怠る祖先が子孫に怨み、子孫に肉体的な障害をもたらすと言うことである。肉体的な障害は遺伝的として医学的な説明が出来るかも知れない。だが、そこに留まらず広く拡大解釈せざる得ない出来事が出会うのである。血縁関係もない人物の霊障を夜間の巡察中に、建物や庭の岩に明確な姿で見かけたのである。

 幸せホームと言う老人介護センターに務めるようになり体験したのである。

 断っておかねばならない。

 老人介護センター「幸せホーム」は人の最後を看取る家である。入所者にとって生きては門をくぐり出ることのできない最後の家である。

 人は言葉や態度を通じて魂を伝え合い、影響しあう存在であり、それ故に幻覚を見たのだと割り切ることもできよう。また死期の迫る人々や人の死と密接に関係するせいで強烈な印象を受けるせいだと言う解釈も成立するかも知れない。だが、それでもあまりにも印象が明瞭で強烈すぎるのである。

 例えば最近では次のような体験をした。

 実は今回の話は去年十月頃のレクレーション行事にさかのぼる。高齢の魔術師がダンボールの中に老婦人を招き入れたが、誤って出さずに、この世から異界に送り出してしまったのである。一人の老婦人が抹殺されようが、ホームでは大きな問題ではない。人々は無関心であった。私だけがひそかに気にかけ、クリスマスイブを迎えたが、その夜、小さな陶器製の人形に変えられた彼女に再会したのである。彼女はクリスマスツリーに吊り下げられた箱の中に納められていた。不思議な魔術として記憶に長く残るが、それで終わるはずであった。ところが翌日にその老婦人が幸せホームの門をくぐってきたのである。そして一週間も経たない元旦の朝、ホームで静かに息を引き取った。

 門松は冥土への一里塚と言う一休和尚の歌を連想させる見事な死であった。

 今、自分の手元には彼女の生前の姿を現す小さな陶器製の人形だけが残る。

 あの日、ダンボール箱に姿を消した老婆を見たのは現実だったのだろうか。ダンボール箱と思っていたのは棺桶だったのではないだろうか。みずから棺桶に入っていったのではないだろうか。

 生きたまま、焼き場に回されたのではないだろうか。

 多くの死が、すべて曖昧なのである。

 四十九日間、南無阿弥陀仏と念仏を唱え、供養するしかない。

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