第28話 いつもは
五時十五分、いつもは会社の終業のベルのはずだが、今日は残業があるという。
二時間後、いつもは着替えるスーツを片手に持ち、私は夜の街へと繰り出した。
いつもは曲がる角の道も今日は工事中。しかたなく次の路地を曲がりスナックへと向かう。
そのスナックはうらぶれたビルの二階にある。一階にはコンビニエンスストアーが、三階は麻雀荘だが、いつもは開いているこの店も、今日は看板が出ていない。
いつもは軽く駆け上がる階段を、今日は重い身体を背負うように一段ずつ上って行く。
私は曇りガラスのドアーを静かに開けた。
そこには、いつもはカウンターの中にいるはずのマスターが、今日はホールで歌っている。いつもはきれいに磨かれたグラスもない。
いつもはまったくいないお客が、今日はボックス席も満員だ。大盛況でなによりだ。
「やあ、まあ適当に座って・・・」
いつもはもっと愛想の良い挨拶をくれるマスターだが、今日は忙しいのだろう。いつもは私の指定席であるカウンターの右から二番目の席にも、もうすでに女性が座っている。
私は胸のポケットからタバコを取り出すと、口にくわえた。
いつもはマスターが着けてくれるライターの火を、今日は隣の彼女がつけてくれた。
嬉しいこともあるものだ。
「お飲物は何になさいますか?」
私は一応、バーボンやコニャックなど様々なお酒が並ぶ棚を眺めてはみたが、いつもはあるはずのあのお気に入りのウイスキーがない。
「マスター、いつものは?・・・」
その時には、マスターはもうすでに別のウイスキーを私の前に置いている。ところが、いつもは二つ入っているはずの氷が今日はひとつも入っていない。
それをコースターの上に置いていく。いつもはコルクでできたコースターだか、今日のそれは何の変哲もない紙のコースターだ。
私はウイスキーを口に含むと、タバコの煙をひとつ天井に向けて吐きかけた。
それから、マスターは私の前にいつもは見せもしない裏メニューを広げた。
「おつまみは、何になさいますか?」
いつもはオードブルを頼む私も、裏メニュウーを見せられてはこう答えるしかない。
「いつもはとても恥ずかしくて頼めない、チョコレートパフェを・・・」
間もなくすると、私の目の前にはバナナが刺さったチョコレートパフェが置かれる。
私はそれを摘むと、アルコールで潤った口の中に放り込んだ。
いつもとはひと味違った至福の時間が、ゆっくりと流れていく。
マスターが急に私の前からマイクを持ち去った。
いつもは私が歌うはずの私の十八番を、向こうのボックス席の若者が気持ちよさそうに歌っている。私はマイクを握ると、いつもは歌うこともない爆風スランプの「ランナー」を熱唱する。
何杯グラスを重ねただろうか。どうも今日はなかなか酔えないみたいだ。
時計の針は、もう十二時をかなり回っている。いつもはもうとっくにお開きの頃合いだが、今日は違う。
私は大きな声でマスターに呟いた。
「いつもは付けだけど、今日はちゃんと現金払いだからね!」
マスターはニコッと笑うと、私にこう囁いた。
「はい、今日は月末ですものね・・・」
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