第29話 鯊日和

 今日も一人の若者が、その川で糸を垂れている。

 おそらくは釣れてはいないのだろう。なぜなら、魚籠びくはその若者の傍らに転がったまま置いてある。


 他に釣り人とてひとりもいない。

 海へ漁に行くのだろうか、時折小さな漁船が若者の前を通るぐらいで、変化といえば、あとはゆっくりとした川の流れがあるだけだ。

 若者は無造作に仕掛けを巻き上げると竿を手際よくしまい、ひとつため息をついてはそこをあとにした。


 「あのお客さん、今日も釣れなかったみたいね」

 「・・・んっ、あの若者かい?」

 この釣具店の主人は、窓越しに見える若者の姿をぼんやりと目で追いながら、娘の独り言に相づちを打つ。

 「お父さん、この前の川ではいったい何が釣れるの?」

 「そうさなあ、今の時期にははぜぐらいしか釣れんだろう・・・」

 「でも、あのお客さん、毎週餌を買いに来てくれるでしょう」

 「・・・・・」


 次の土曜日。

 また、若者は朝早くにやって来た。

 「おはようございます。ジャリメを一杯お願いします」

 「毎週ご苦労だね。少しは釣れるのかね?」

 餌を渡しながら釣具店の主人は尋ねたが、彼はそれには答えず店の奥の方へと目を向ける。


 「鯊でもねらっているのかね?」

 再びの言葉に若者は我に返ったのか、気まずそうに主人を見ると、ニコリと笑いながら小さく首を縦に振った。

 「お父さん、船宿から餌の注文が入ったって!」

 店の奥から娘の声がする。

 若者はそそくさと餌箱をしまうと、その店をあとにした。


 「あら、今のお客さんいつもの人ね」

 「ああ、前の川で鯊をねらっているんだとさ」

 「鯊?・・・」

 「この川も、昔はたくさん釣れたんだけどなあ・・・」

 主人は若者の後ろ姿を見ながら呟いた。

 傍らで娘は、若者の姿が見えなくなるまでじっと見つめていた。


 次の週もその若者は餌を買いに来た。店の主人は組合の会合のためか、今日は娘が店番をしている。

 「あ、あのー、ジャリメを一杯。す、すみません」

 若者は下を向いたまま餌箱を差し出す。

 「毎週土曜日にいらっしゃるんですね。本当に釣りがお好きなんですね」

 娘は若者に視線を向けながらも小声で尋ねた。

 「・・・・・」


 餌箱を受け取るとき、若者は少しだけ娘の顔を見上げた。

 「鯊、釣れると良いですね」

 「・・・はい」

 若者はか細い声で答えると、もう一度娘に視線を送る。

 娘は言葉で答える代わりにニコッとひとつ笑顔をつくった。



 「お父さん、今日もあの人が来たのよ。やっぱり鯊を釣っているんですって」

 店の主人はそれには答えず、会合用の黒のバッグをテーブルの上にドサっと置くと、ひとつ大きくため息をついた。

 「まったく、この夏で、ここの漁港も閉鎖だそうだ」

 主人は遠くを見つめながら呟く。


 「この店もたたまなきゃならんな」

 「たたむって、このお店をやめるっていうことなの、お父さん?」

 娘はじっと天井をにらみ付けている父の横顔を見つめながら尋ねる。

 「常連客にも知らせてやらんとなあ」

 店の主人は壁に掛けてある魚拓を一枚一枚懐かしそうに指で追いながら、もう一度深いため息をひとつ静かについた。


 

 次の土曜日も店の主人は寄り合いに出かけていた。いよいよ漁港の閉鎖が現実味を帯びて来たのだ。

 娘は早くから店を開け、あの若者が来るのを心なしか待っていた。

 「おはようございます。ジャリメを一杯」

 もう毎週聞いている若者のフレーズである。


 娘は餌箱をその若者に渡しながら、努めて明るい表情で言う。

 「いつも有り難うございます。実は来月でこのお店を閉めることになりまして・・・」

 「店を閉める?・・・そ、それは困る・・・」

 若者は下を向き肩をふるわせながら、じっと一点を見つめもう一度呟く。

 「それは困ります。僕が釣りをする意味がなくなってしまう・・・」

 若者はキッと娘の方を見つめると、もう一度同じ言葉を繰り返した。



 「やっぱり、閉港は決定だそうだ。俺たち釣具屋や漁に携わってる仲間はどうやって生きろっていうんだ!」

 店の戸を勢いよく開けながら、主人が帰ってきた。


 「やあ、君か。すまんな、来月でここも閉店だ」

 「今、お嬢さんから話は聞きました」

 若者は餌箱を右手に持ったまま、身を乗り出すように尋ねる。

 「お店は・・・、皆さんはどうされるんですか? ぼ、僕は・・・こ、困ります・・・」

 「・・・・・」

 もう一度、若者は娘に何かを語りかけたが、それは言葉にはならなかった。


 「お父さん、あの人や他のお客さんのためにも店を続けられないかしら?」

 「漁港が無くなれば、もう店を続けることはできんだろう・・・」

 父は娘の瞳の中に、店を閉じる寂しさとは違う他の何かを感じたような気がしていた。



 次の土曜日もあの若者はやってきた。もちろん、店の番を娘がしていたことはいうまでもない。

 「いつものジャリメで良いですか?」

 「は、はい・・・」

 「今日は私もご一緒させていただいてもよろしいですか?」

 娘はいつにも増して明るい笑顔を投げかける。

 「お邪魔かしら?・・・」

 「邪魔だなんて・・・」

 若者は照れくさそうに笑いながら、娘のその眼差しを見つめた。


 しかして結局、その日も鯊はおろか、雑魚一匹も釣れることはなかった。

 帰り際、若者は娘にぼそりと呟く。

 「魚は釣れなくても良いんです。今日はあなたと一緒で楽しかった・・・」

 娘は少しうつむきながら微笑むと、若者のその背中を見送った。


 その夜、いつにも増して娘は饒舌だった。

 「お父さん、あの方ね、町役場に勤めていらっしゃるんですって」

 「ほう・・・」

 「あの方ね、釣りよりも本当は絵を描くことが趣味なんですって」

 「絵ねえ?・・・」

 「あの方ね、私より4つ年上なの」

 「4つか。ずいぶんと若く見えるな・・・」

 「でしょう。で、あの方ね・・・」


 「ああ、分かった。で、あの方とは来週も釣りをなさるのですか?・・・」

 主人はからかうように娘を覗き込む。

 娘は耳を真っ赤にすると、コクリとひとつ首を傾げた。



 その次の土曜日、あいにく今日は朝から雨が降っている。

 娘は恨めしそうに空を見上げては、何度も店の戸口に目をやっっている。


 「おはようございます」

 八時を少し回った頃だろうか、約束通り若者はやってきた。

 娘はまたいつもの笑顔で出迎えると、あらかじめ用意しておいた釣り餌を若者に手渡す。

 「今日は大きな鯊が釣れると良いがね・・・」

 店の主人もこの時ばかりは、そんな二人の姿に目を細めている。



 「今日もお魚さん、釣れませんね・・・」

 「・・・・・」

 「鯊、いるんですかね?」

 「・・・・・」

 「お店・・・、無くなっても釣りに来ていただけますか?・・・」

 「・・・あ、あの・・・」

 「はい?」

 「あの・・・、僕とずっとこれからも、いつでも、そしていつまでも釣りに来てくれますか?」

 「・・・・・、はい。・・・・・」

 と、その時、竿先に微かなあたりが。


 若者がゆっくりと糸を巻き上げると、そこには小さな鯊がひとつついていた。


 「鯊、いましたね」

 「うん・・・」

 若者はそっとその口から小さな釣り針を外すと、鯊を川へと戻してやった。

 「せっかく釣れたのにどうして?」

 「いいんだよ。これでいいんだ・・・」

 そう言うと、若者はまた糸を垂らす。


 「あっ、いつの間にか雨、あがりましたね」

 「ああ」


 秋の穏やかな日差しの中に並んだ二つの影。

 変化があるといえば、そこにはゆっくりとした川の流れがあるだけだった・・・

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