第二幕

種田紅葉たねだくれはは、14歳ながら自分の才能の限界を感じていた。チェリストの母親とピアニストの父親のサラブレッドと期待されていたが、コンクールでの結果が出ない最近はもうその名も忘れ去られているだろう。

学院での生活は幸せに満ち溢れていたが、音楽科の授業は苦痛だった。それでも、自分は選ばれし者だという自負が支えであったのに。

紅葉は遠くの席で使いづらそうにナイフとフォークを持つ編入生を盗み見た。

食事の前に紫苑さんから普通科からの転科生が紹介されたが、正直その垢抜けないおどおどした表情に拍子抜けした。既に転科生の噂は寮内にとどまらず、至る所で噂に噂を呼んでいた。なぜこの時期に突然。なぜ普通科から突然。よほど優秀なのか、よほど金を積んだのか。他に理由があるとしたら何が。

だからどんな洗練された人が来るのかとワクワクしてたのに。

自分のテリトリーに外部の人が侵入して来るのは気持ちのいいものではなかった。この生活もあの白い制服も、私たちだけの特権なのに。皆口にはしなかったが不満は渦巻いていた。


食後の紅茶がしょっぱかった。

斜め向かいに座ったルームメイトの有村レイラをそっと伺うと、すずしい顔でカップを口に運んでいる。よくもまあこんな不味いものを。

スパイには向かない自信がある。というよりも、母親譲りのお喋りのせいで隠し事には向いていない。種田紅葉は、自分がなぜアカデミーに選ばれたのか、一年経った今でもよく分からなかった。


いつもと変わらない入浴を済ませ、いつもと同じ時間に就寝する。何度経験しても、お茶会の前の緊張は疑心暗鬼を産む。裸足のまま、9月の夜の冷たい廊下を歩き、紫苑さんの部屋にたどり着く。消灯後の外出は固く禁じられているため、人とすれ違う心配はないが、きしむ木造の廊下はその度に肝を冷やす。一足早く出発していたレイラは既に紫苑さんの隣を陣取っていた。


真帆さんと紫苑さんの部屋はいつ来ても紅茶の香りがしている。甲斐甲斐しく紅茶を入れる真帆さんは珍しく髪を下ろしている。

コインどこにありますか?

お茶会では布袋に入ったコインを引き、バツ印のコインを引いた人がその日のお題を出すのが慣例だった。コイン袋を探すレイラを紫苑さんが制した。

「普通科からの転入生、楢瀬聖那について相談があるの。突然呼び出してごめんなさい。」

あのしょっぱい紅茶は今だに慣れない。ただの合図なのだから激甘にするとか酸っぱくするとかすればいいのに。

「どうやら御両親を事故で亡くしたのがきっかけで特進科に通うことになったらしいよ。」

真帆さんがバトンを引き継いだ。

「なんでそんなことでこっちに来るのよ」

レイラが口を挟む。

「そうは言っても色々問題はあるのよ。とにかく、転科を院長先生がお決めになったの。問題はね…」

真帆さんは赤い紅茶を啜った。


彼女は赤い封筒を持っていたわ。



アカデミーがいつ誕生したのかは分からない。明治時代に始まる学院の歴史のどこかで突発的に作られたのかもしれないし、あるいは、初めから意図を持って置かれた組織なのかもしれない。いずれにせよ、アカデミーに所属することは、「選ばれし者」の称号を受けたことに他ならなかった。もっとも、アカデミーの構成員は秘密にされ、本人たち以外は知りえなかったが。

学院のシスターを兼ねる院長が、特進科及び音楽科の生徒の中から毎年1人、アカデミー生を選ぶ。アカデミーに選ばれた者には4月の始業式の朝、寮のポストに、赤い封筒が投函される。そして、見事誰にもアカデミー生であることを気づかれなかった生徒のみがその資格を保持し続けられる。誰がアカデミーに選ばれたかの探り合いで、4月の学院は異様な高揚に包まれるのが習わしとなっていた。


初等部から学院にいる生徒は、個人の適性に応じて特進科か音楽科のいずれかに属し、全寮制の名門お嬢様学校の名にふさわしい英才教育を施される。彼女たちにはまた、学内で不穏な動きがあると、チャペルの入り口のマリア像の足元のポストに匿名の手紙を入れ、アカデミーに密告する風習があった。さしずめ、アカデミーは学院の秩序を守る自警組織の様なものか。現在アカデミーには中等部と高等部の少女が6人在籍している。


アカデミーの1人、夏目真帆は聡明な少女時代を過ごした。自分が周囲の誰よりも優秀なことは明らかだったし、生まれ持った容姿も、手足が長いせいか見劣りはしない。おまけに、曽祖父の代からの不動産業は軌道にのり、最近はリゾートホテルの経営にも手を出し成功していた。しかし真帆は聡明だったために目立たないように振る舞い、できる限り普通の少女を演じた。結果的にそれは吉に転じ、女子校特有の妙な反感を買うこともなく、後輩にも恵まれた。

無二の親友である紫苑は初等部3年の途中で急に転入してきた。紫苑は9歳とは思えないほどに大人びていたが、それでいて子供らしい危うさも備えていた。周囲の幼さに辟易していた真帆は、一瞬で紫苑の虜になった。紫苑の歌声は素晴らしかった。絹の様に繊細で、小鳥を慈しむかのように愛らしい。音楽の授業中には夢中で歌う紫苑の横顔を盗み見ては恍惚を覚えたものだった。人並み以上に恵まれている容姿を持った自信はあったが、紫苑にはかなうはずもなかった。それを、真帆は良しとした。

それでも初等部からの友人にはいまだに紫苑をよく思わない者も多い。転校生など滅多にいない初等部に転入してきた紫苑には絶えず好奇の目が向けられてきた。

真帆は転科してきたという少女に紫苑を重ねた。



「彼女、随分居心地が悪そうだったね。」

レイラは聖那に対して反感を抱いているようだった。

「部屋は西田友加里と同室にしようと思うんだけど、どうかしら?」

「また変な組み合わせを。」

「仕方ないじゃない。春の部屋替えで彼女と組みたい人がいなくて余ってたのよ、2人とも高2だし丁度いいわ。」

「友加里ほどアカデミーに入りたがってる生徒はいないでしょうに。彼女上手く隠し通せるかしら。」

真帆の言うことには一理ある。西田友加里はアカデミーに入りたいと公言してはばからない変わり者だった。しかし、医者の父親を持ちながらも勉強はからきしダメ。彼女がアカデミーに選ばれる可能性はほぼゼロだった。

「だからいいのよ。ばれてくれた方がとっとといなくなって好都合だわ。」

レイラは紫苑さんに擦り寄りながらそう言った。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

月の光の届かない丘で @sei_flr

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ