月の光の届かない丘で

@sei_flr

第一幕

九月とは思えないほど肌寒い空の下、コンクリートで舗装された車道のど真ん中で少女はため息をついた。紅葉にはまだ早いこの時期の早朝、北アルプスの山合いを通る車も人も皆無である。

「せめて迎えの車くらい寄越せや。」

楢瀬聖那ならせせいなは山道に不釣り合いなブレザーとローファーを見下ろしながらそうひとりごつと携帯を見た。既にふもとのバス停で下車してから50分が経過していた。車ならあっという間だった山道も歩くとなると話は別だ。既に電波はかなり弱くなっている。目的地はもうすぐそこに違いない。

荷物がほとんどないことが唯一の救いだった。

あと一時間後には授業が始まる。


30分も歩くと、右手の道なりにコンクリート製の高い壁がそびえ立ち、黒塗りに金色の装飾を施した絢爛たる門扉が現れた。楢瀬聖那が通う宮ノ森学院の正門である。


宮ノ森学院は山奥の辺鄙へんぴな土地にたたずむ、初等部から高等部までの一貫教育を掲げる全寮制の女子校だ。カトリックの名門校として、中学受験では高い偏差値を誇り、全校生徒の8割が中等部からの編入組である。

一方で生粋の宮ノ森育ちのお嬢様達は初等部からフランス式の英才教育を受け、初等部卒業後は編入組が在籍する普通科とは交わることなく、少数精鋭の特進科又は音楽科に進学する。初等部に入学が許可されるのは企業の重役の娘や有名な音楽家の娘、政治家の娘など壮々たる後ろ盾を持つお嬢様のみであり、多額の寄付金や高額の授業料が課せられているという噂である。

もちろん、楢瀬聖那は社長令嬢でも俳優の私生児でもなんでもなく、実家は金沢で老舗の和菓子屋を営む、ごく普通の家庭である。中等部から宮ノ森に通うことになった経緯いきさつは話すと長くなるが、シンプルに説明すると、中学受験勉強をはじめた10歳の頃にはまっていた『おちゃめなふたご』という児童文学が大好きだった聖那が、全寮制の女子校という響きにうっとりして受験しただけである。


実家が火災に巻き込まれ全焼したと知らされたのは、二学期がはじまったばかりの昼下がりだった。5限の古文の授業中に院長室に呼び出された聖那の前に、新聞の切り抜きが突き出された。火元は隣店の中華料理屋だったらしい。死者5名。その中の2人の名前は見つけるのに容易たやすすぎた。記事の日付は、4日前を指していた。「1週間の休暇を許可します。」初めて近くで見た院長は消え入りそうな小さな声で呟いた。


山奥の学院内では携帯もパソコンも電波が入らない。痩せた運転手と聖那を乗せた黒塗りの車がふもとの町に着く頃、聖那はようやく火事の全貌を知った。携帯にはうんざりするほどの不在着信と、身を案じる地元の友達からのメールが入っていた。不在着信のほとんどが父方の叔父からだった。《今からそちらに向かいます。》それだけ打つと、携帯の電源を切って制服の胸ポケットにしまった。


結果的に、後始末は1週間では片が付かず、猶予を丸3日オーバーした聖那は今、院長室の前で待ちくたびれている。廊下の窓から見える中庭に人っ子ひとりいないということは既に授業は始まっているのだろう。険しい山道を速足で登ってきたことが急にばからしくなってきた。部屋の中からはさっきからずっと、子供達がやいやい言う声が聞こえてくる。あらかた初等部の児童たちが友達との喧嘩か何かを密告に来たのだろう。待ちくたびれ果てた頃にドアが開き、白いワンピースを着て聖那と同じ濃紺のネクタイを締めた子供達が2人出てきた。初等部からの一貫生は、ブレザーの普通科と違って高等部卒業までこの制服を着る。2人は聖那を一瞥いちべつすると、手を繋いだまま走っていった。


「楢瀬聖那、お入りなさい。」高飛車な病院の呼び出しの様な口調で呼び入れられた院長室は、小柄な院長には不釣り合いな程広く、焦茶色の木造建築と床に敷かれた赤いカーペットが重厚な空気を醸し出していた。

「お掛けなさい。」

既に脚はパンパンだった。

「楢瀬聖那の今後の処分を決定しました。」

聖那は思わず腰を浮かした。思えば当然のことだった。両親を失った聖那は最早もはや学院にとって「金のなる木」にはなり得ない。とはいえ、まだ家の火災保険や両親の生命保険、賠償金などが一体幾らになるのか想像も付かなかったが、両親の貯金と合わせれば学費には足るはずだ。脳裏にルームメイトの郁と莉乃の顔が浮かんだ。ふざけてばかなことをしていたクラスメイトや、二ヵ月後に迫った普通科の修学旅行のことを考えた。今まで築き上げてきた大切なものを失いたくない。

「院長先生、わたし…」

なにやら書類を見ていた院長が初めて顔を上げた。

「なにも私はあなたを追い出そうとしているわけではありませんよ。」

ああ、学費を援助してくれるのかな、それともバイトを許可してくれるとか?そんなことを考えられるくらいには冷静だった。

「楢瀬聖那の学費を免除し、生活費を援助します。ただし、特進科への転科が条件です。」

予想は半分当たって、半分外れた。特進科では初等部において優秀な成績を残したえりすぐり達が少人数教育を受ける。聖那はさっき入口ですれ違った初等部の子供達の視線を思い出した。

「ちょっと待って下さい、私は中等部からの編入生です。それに、成績だってトップってわけじゃないし。それに、特進科の方がずっと学費だって高いはずです。」

それに、大切な友達と離れたくない。

「普通科の生徒に生活費までの援助をすることは理事会の方針に反します。幸い、あなたの成績はかなり優秀で、素行も問題ない。理事会は特進科への転科を条件に、あなたを守ると言っているのです。」

確かに、人里離れたこの学院で、文房具やお菓子、洋服などの必要品は親に手紙を書いて送ってもらうのが常だった。それ以外でも親の不在は生活に負担をかけるのは明白だった。

「前例は。いままでにこの様な転科の前例はあるのですか。」

「過去に二度。」

最後の足掻あがきもむなしかった。

この10日間でもう環境の変化への耐性がついていた。仕方あるまい。聖那は息を吸うと、できるだけお上品に感じ良く微笑んだ。

「特進科への転科を希望致します。」

今までいかめしかった院長の顔に安堵の色が浮かんだ。

「聖那、よい決断でした。ここが今日からあなたの家です。」

いや、前から住んでたけどな。心の中で突っ込みながら聖那は老婆に向かって微笑んだ。


うんざりするほど大量の書類にサインした後にあてがわれたのは学院の西の端に位置する寮だった。横浜らへんにありそうな古めかしい木造の西洋建築は、まさに小さい頃の聖那が憧れたイギリスのパブリックスクール風でハリーポッターの映画に出てきそうな雰囲気である。

3棟立つ寮のうち、真ん中が聖那が住むことになる白百合寮だ。

玄関を入るとピアノと革張りのソファが置かれたホールがある。天井は吹き抜けになっており、二階から上は回の字の構造になっているようだ。

「今いるここがラウンジです。奥の扉がダイニングルームに繋がっていて、左側の扉はキッチンですが、いつもは施錠されています。右側はライブラリなのでお好きな時にどうぞ。地下にはお風呂と音楽練習室、食料貯蔵庫と寮母室があります。」

院長は早口で説明すると後ろを振り向いた。

「あとは寮長に説明してもらいなさい。」

気がつくと院長の背後に栗色の髪と陶器の頬を持つ美少女が立っていた。普通科でもその美少女ぶりが有名な片倉紫苑先輩に違いなかった。

「白百合寮寮長の音楽科5年、片倉紫苑です。よろしく。」

凛とした澄んだ声に我に返る。

「シスターマルタ、聖那の着替えはどこに?」

あのどう見ても日本人の院長はシスターマルタと言うらしい。そして聖那は自分がまだ普通科の制服を着ていることに気づいた。

「部屋に既に用意してあります。聖那の荷物もシスター達が運んでくれました。」

片倉紫苑は膝を折る独特な挨拶をして聖那に向き直ると、行きましょう、と一声掛けた。


部屋はウッドロッジ風の木造の壁にワインレッドの絨毯が敷かれ、小さな格子窓と二台のベッド、大きなソファの前には脚の短いテーブルが置いてある。普通科の清潔ながら殺風景な部屋とは雲泥の差だった。カーテンとソファカバー、ベッドカバーは白い百合のマークが入った赤いキルトで統一されている。ベッドの上に、白い制服が畳んで置いてあった。どうやら同居人の気配はなく、1人でこの部屋を使うようである。

「私部屋の外で待ってるから着替えてらっしゃい。」

院長の前とは打って変わった人懐っこい明るい笑顔でそう言うと紫苑は半歩引いてドアを閉めた。

白い襟付きのワンピースに同じ生地のベルトを締め、普通科の時から付けていたネクタイを締めると、まるで昔からこの制服を着ていたかのような気持ちになれた。清楚で可憐だと憧れていた制服は、聖那が着ても清楚で可憐なままで安心する。

「紫苑先輩」

ドアを半分開けて呼ぶと、紫苑は笑いながら紫苑さんって呼んで、と言って部屋に入って来た。手には箱を持っている。

「夕飯までに色々説明しなきゃね。」

そう言いながらベッドに腰掛ける。ミス宮ノ森と高名な紫苑さんの隣に腰掛けていることを郁と莉乃に自慢したかった。

「この寮には中等部と高等部の生徒が住んでるの。向かって左側が山百合寮で初等部の生徒たちが、右側は姫百合寮で中等部と高等部の残り半分の生徒たちが住んでるんだけど、特進科と音楽科合わせて1学年36人だからうちの寮だけで100人くらいいるわね。」

そこまで一気に喋ると紫苑さんは持って来た箱を開けマドレーヌをくれた。

「お腹すいたでしょ。」

気がつくともう4時を過ぎている。登山した上にお昼も食べていないのに、不思議と空腹は感じなかった。それでもありがたく頂く。

「朝と夜は1階の食堂で全員でご飯を食べるから、遅れないように。食前にお祈りがあるけど適当に手を合わせてればいいわ。起床は6時で消灯が24時、夜中に部屋を抜け出したら罰があるから気をつけて。お風呂は空いてる時間に適当に入ればいいけど、食事の時は制服で髪も乾かさないといけないから食後がいいかな。基本的に寝る時以外は制服を着ててね。洗濯物は名前を書いた袋に入れてお風呂の横の箱に入れておくと、畳んで次の日の夜に部屋に運んでくれる。必要な物は寮母に言えば高額な物じゃなければ用意してくれるわ。」

なにか質問は?そう言って紫苑さんはマドレーヌをちぎって口に入れた。

「あの、私この部屋を1人で使うってことですか?それと、院長先生に貰ったプリントに毎月パーティーがあるって書いてあって、私ドレスとか持ってないから…」

学校指定のカバンから院長室で貰った大量の資料を取り出す。大体のことはここに書いてあった。

資料以外にも契約書だとか転科届だとかとにかく沢山の書類がごちゃまぜになっていて恥ずかしい。

「ルームメイトは私が決めるから、とりあえず今晩は1人で寝てね。ドレスくらいなら寮母がすぐ用意してくれるから大丈夫、パーティーって言ってもお誕生日会みたいなものだから、全然気負う必要ないわ。あと、私たちは院長先生じゃなくてシスターマルタって呼ぶから気をつけてね。」

資料をめくりながら紫苑さんが答える。聖那を転科させると決めてからこの資料を作ったのか、それとも前に転科した2人の時に作ったものなのか。それにしても手が込んだ資料だった。

「待ってこれ。」

紫苑さんが資料の中に挟まっていた赤い封筒を見て鋭い声を上げた。ドアの方を一瞥いちべつすると、眉を寄せて押し殺した声で、これについて何か聞いてるかと問うた。聖那が驚いて首を振ると、大きく深呼吸して封筒をじっと見つめる。何かしでかしてしまったかと不安になっていると、紫苑さんは今日はおしまい、と笑顔で立ち上がり、この封筒明日まで貸して、と言い残して部屋を出て行った。

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