第三話

 黄昏れていた仁は五分後に正気を取り戻し、普段と変わらぬ発狂状態のテンションでカサカサと壁を這い回り、教室を目指して移動開始。

 途中、授業終了を告げるチャイムが鳴り響き、休み時間となって廊下に出て来た教師及び生徒たちから凄まじいものを見るような眼差しを向けられるもそれ等の感情を全て快感へ変えた彼は自身の教室前で止まり、廊下に落下すると何事もなかったように立ち上がり、好青年が如き爽やかな笑顔で入室する。

「ただいまー」

 扉を開け、胡散臭さの塊の如き爽やかな笑顔を浮かべている彼に教室中の視線が集まり、無事であることに安堵の息を漏らす者が多数。

 想定していたよりもまともな反応を示した彼等に仁は密かに驚きつつ、自分の席に戻って机の上に上半身を寝かせる。

「あー、疲れたー」

「お帰りー。そしてお疲れー」

「仕事の方はどうだった?」

「ネズミを二匹、捕獲して保険医に渡してきた」

「鼠。駆除。保険医。魔改造?」

「さあ? 保険医があのネズミ共に何をするのかは知らないし、興味もない。ただまあいつかの時みたいにバイオなクリーチャーが誕生するような事態に陥るのは収拾するのが面倒くさいからやめて欲しいけどな」

「って、校長先生からじゃなくて保険医からの依頼だったの?」

「頼んできたのは校長。けど、依頼を出したのは保険医だったのかもな。だからこそ校長は仕事を俺に回してきたんだろうし。ああ、あと、保健室に一年坊主が捕まっていたから逃がしてきた。褒めて、褒めて」

「はいはい。偉い、偉い」

 差し出された頭を撫でるのは幼馴染みの一人である理香。

 まさか本当に撫でられるとは思っていなかった仁は硬直、理香は素で彼の頭を撫でていたが、やがて周囲から厭らしい視線を向けられていることに気付き、慌てて手を引っ込めて吹けない口笛を吹いて誤魔化しに掛かる。

「そんな恥ずかしがらなくてもいいのに。一緒にお風呂にも入った仲なんだし」

「ガキの頃の話じゃねえか」

「というかお風呂に入ったってアンタも一緒に入ったじゃない、東間」

「そうだっけ? 子供の頃のことはあんまり覚えてないからなー」

 確実に覚えているであろう口調で微笑む東間のことを殴りたい衝動に駆られる二人であったが、ここで殴っては何かに負けるような気がしたので堪える。

 拳の握り締めている彼等に追撃の口撃を仕掛ける者はいない。

 好機であるのは事実だが、刺激し過ぎて暴走を招くような事態に陥れば無事では済まなくなる可能性が高く、からかうことのメリットよりも暴走の被害によるデメリットの方が大きいために二人が落ち着くまでは待機する。

「クッ、貴様等……!」

「フフフ。長い付き合いだからね。対処の仕方くらいはわかっているさ」

「別に長い付き合いでなくとも対処法はわかりやすいがな」

「キレたくてもキレられないって結構辛いかもー。でもまあ同情はしないかなー」

「黛、アンタもなの?」

「ゴメンねー、理香っちー、私も年頃の女の子だからー、友達をからかって遊びたくなる衝動に駆られちゃうんだー」

「委員長?」

「遊び過ぎは禁物ですが、程々にでしたら交友を深めることにも繋がります。ですからお二人は安心して弄られてください。酷くなったら私が止めますので」

 柔和な笑みに救いはないことを悟った理香は可能な限り怒りを持続させ、弄られるのを阻止しようとし、逆に仁は全てを諦めたような悟り切った瞳で虚空を見る。

 対照的な二人の反応。けれど友人たちの対応は変わらず、理香の怒りが収束を始めた頃に先程の行為についての言及が始まる。

 短く、しかしあまりにも長い休み時間の弄び。

 授業が全て終わり、放課後を迎えてもなお弄りは続いたが、部活のある者たちはそちらへ向かい、理香もまた部活の助っ人のためという理由で教室から逃げ出す。

 残される仁は椅子の上で座禅を組み、仏の如き万象を平等に扱う様相で全ての言葉を聞き流して適当な反応を返してその場をやり過ごす。

 弄り甲斐のなくなってしまった彼等に仕方なくその場は解散の流れとなり、東間以外が姿を消した教室内で仁は顔を真紅に染め上げる。

「我に返ったみたいだけど、大丈夫?」

「……まさか本当に撫でられるとは思わなかったでござる」

「うん。僕としても予想外だったな。理香も時々、結構大胆なことをするよね」

「おかげで俺は真っ赤になる以外の道がなくなってしまったでござる。物凄く恥ずかしくて今なら体温で茶を沸騰させることができるでござるような気がするでござるかもしれないでござる」

「何を言っているのかわからないけど、恥ずかしいって気持ちだけは伝わったよ」

「それなのに幼馴染みは助けてくれなかったでござる。それどころか俺を見捨てて逃げ出した者と、俺が恥ずかしがっていることを悟っているくせに意地悪な悪友たちと一緒になって俺のことを弄ってきた者という、揃って裏切ったでござる」

「裏切りなんて人聞きの悪いなー。僕はただ、楽しんでいただけだよ。そもそも君が頭を差し出さなければこんなことにはならなかったんじゃないかな?」

「これも全て東間の仕業なんでござる」

「いきなり責任転嫁されても反応に困るんだけど」

「責任転嫁などしていないでござる。ただ、全てを東間きゅんの責任にすれば俺はこれから何をしても許されるのではないかと」

「こういうのも頭のいいバカに分類できるのかな?」

「失礼な。俺は頭のいいバカなどではない。天災兼バカなのだ!」

「うん。天才じゃなくて天災なんだね。間違っていないから否定しないよ」

「……よくわかったな。俺が天才じゃなくて天災と言ったことを」

「長い付き合いだからね。発音のニュアンスで大体わかるよ。それに君は自画自賛をすることはあっても自分のことを正しく認識しているから」

「それはそれでなんかムカつく発言ですなっと」

 机の中に押し込められていた勉強道具一式を鞄に詰め、席を立った彼に続くように東間もまた鞄を持って彼の後ろに立つ。

 直後、背後から刺されることを警戒するように緊張感と恐怖感を漂わせながら幾度となく振り返る仁の尻を蹴りたくなる衝動に駆られるも、彼の思い通りになるのは面白くないと自制し、彼が教室を出るのを待つ。

「……蹴らないの?」

「そういうのは理香の役だからね。僕は傍観者に徹するよ。それに君も僕に蹴られたって嬉しくないだろう?」

「東間きゅんが男の娘だったら嬉しい」

「次に東間きゅんって言ったら絶交するよ」

「じゃあ東間きゅんきゅんで」

「…………」

 好青年らしい爽やかで微塵の下心も感じさせない笑顔を顔に張り付けた彼は目の前の幼馴染みの顔を掴み、見た目からは想像できない握力で彼の頭を握り締める。

 骨が軋む音が教室中に鳴り響き、連動するように上げられる悲鳴はしかし放課後の教室内には誰もいないので東間以外の耳には届かない。

「反省するなら解放してあげるけど?」

「カバめ! この俺が反省するとでも思っているのか痛い痛い痛い! このままだと耳の穴から脳汁的なものがぶちゅりと出て来そうなんですけど!?」

「大丈夫だよ。何か出てきたとしても、それくらいで人間が死ぬようなことはないだろうから、耐えられると思うよ」

「東間! お前は人間という生物を過大評価し過ぎている! 人間とは奪い、妬み、殺し合いを繰り広げる利己的な生き物! そこにお前の信じる正義などない!」

「君はもう少し人間を信じた方がいいよ。で、このまま頭を握り潰されるのと、反省するのとどっちを選ぶ!?」

「反省します! 反省しますからどうかお許しを、東間きゅん!」

「反省する気が欠片もないことだけは伝わったよ。あと十秒くらい続けるね」

「アッー!」

 心の底からの叫び声。痛めつけられることに少しだけ快感を覚えた仁の悲鳴に寒気を覚えた東間はそれでも彼の頭を握り続ける。

 本格的に命の危機を覚えた仁は十秒経過する前に火事場の馬鹿力を発揮して彼の掌からの脱出に成功し、駆け足で教室を出る。

「もう。そんなに急がなくてもいいじゃないか」

「廊下に出れば流石にお仕置きを続けることはできまい!」

「本音は?」

「そろそろ行かないと理香のブルマ姿を見逃すことになるでござんす」

「欲望に正直だね。理香のブルマ姿なんて見飽きているくせに」

「好物はいつでも何処でも何度でも食べても美味しいから好物なのだ。ちなみにブルマが好きなんじゃなくて理香のブルマ姿が好きなので、ブルマそのものには欠片の興味も持っていないことをここに宣言する」

「でも盗む時は盗むんだろう?」

「金欠時、売れると判断したなら。ちゃんと売ったお金の一部を本人に提供しているぞ。それもブルマの代金の二倍以上のお金を」

「そういう問題じゃないってツッコミを僕はあと何回やれば君に理解してもらえるのかな? 何度目の忠告になるか、忘れたけどいくらおおらかな心を持った人だけに狙いを絞っているからって、やり過ぎると本格的に女子を敵に回すことになるよ」

「三百三十二度目の忠告をありがとう。大丈夫だ。理香や委員長を敵に回さないように細心の注意を払いつつ、下着ドロの類いを捕縛して貢献しているから」

「下着ドロを捕まえている本人がブルマドロだって事実が周知の事実であることに僕は驚きを隠せないよ、本当に」

「とまあ、もたもたしていると真面目に理香のブルマ姿を拝めなくなりそうなので急ぐぞ、東間きゅんよ」

「そうだね。理香のブルマ姿なんてどうでもいいけど、君を放置しているとまた犯罪に走りそうだから一緒に行くよ」

 東間きゅんと呼ばれたことに対する制裁として遠慮無用の拳を彼の顔に叩きつけ、鼻血を流させた東間は満足そうに己の拳を撫でる。

 幼馴染みの満足げな姿に仁も満足そうに微笑み、止め処なく溢れ出る鼻血を落ち着けようと男子トイレに駆け込み、トイレットペーパーで鼻血を処理。

 ついでに出す物を出してスッキリ顔でトイレから出ると、男子トイレだと思っていた場所が女子トイレであったことに気付くがやはり気にしない。

「いや、少しは気にしようよ。いくら慌てていたとしても女子トイレから堂々と出て来るとかどんな変態さ」

「こんな変態」

「即答、ありがとう。いい加減にしないと僕も通報しなくちゃいけなくなるから、ちゃんと自制してよね」

「失敬な。女子だって追い詰められれば男子トイレに入るだろう。例えばゾンビが大量発生している状況下とか」

「緊急事態なら確かに許されるけど、今は緊急事態じゃないよ?」

「俺にとっては緊急事態だったのだ。誰かさんに思い切り殴られて転げ回りたくなるところ、気付かぬまま女子トイレに突入するだけに留まったのだからむしろ褒めるべきだと愚行致しまする」

「また僕に責任を押し付けようとしているようだけど、全面的に君が悪いよ。そもそもポケットティッシュを携帯しているのにどうしてトイレットペーパーを使う必要があるのさ」

 問われた仁は数秒、無言で考え込み、窓際に移動すると窓を大きく開ける。

 校庭で行われている部活動。気合いの込められた叫び声は空に響き渡り、開けられた窓から校舎内にも轟く。

 気合いがあれば試合に勝てるはずはない。精神論はバカにできないが、精神論だけで勝てると思い込めるのは現実の見えていないバカだけ。

 しかしやる気に満ちているのは頼もしいこと。今度の大会ではきっと良い成績を残せるであろうと確信した彼は上から目線で静かに首を縦に振る。

「俺たちがいなくなっても、後輩たちは立派に未来を支えてくれるであろう。俺たちは未来への礎となるべき存在なのだ」

「確か理香ってバスケの助っ人に行っているんだっけ」

「体育館に急ぐぞ、東間。モタモタしていたら真面目に理香のブルマ姿を拝む前に部活が終わってしまう。そのような事態だけは避けなければ」

「誰のせいで無駄に時間を使ったと思っているのかな? 僕のせいにするのはワンパターンが過ぎるからやめた方がいいよ」

「無論、東間きゅ――」

 先手を打たれた仁は口を閉ざし、親の仇でも見るかのような険しい眼差しで東間のことを見据え、己の負けを認めるように頭を垂れると早歩きで体育館へ。

 虚しい勝利を掴んだ東間も苦笑しながら仁の後に続き、体育館の扉を蹴破ろうと跳躍した彼の足を掴んで地に叩きつけ、再び鼻血を垂れ流す彼を引きずりながら静かに体育館の扉を開ける。

「失礼します」

「失礼するぞ。丁重なお持て成しを期待す」

 飛んできたバスケットボールを咄嗟に仁を盾にすることで防いだ東間は反射的な行動とはいえ幼馴染みを盾にしてしまったことを反省。

 一方で容赦なく自身を盾にした東間に仁は惜しみなき称賛を示すように親指を立てて素敵な笑顔を浮かべ、酷くなった鼻血を抑えるためにポケットティッシュを鼻の穴に詰め込む。

「ご、ゴメンナサイ! 大丈夫ですか!?」

 二人に駆け寄るのは彼等にとって見ず知らずの一年生。

 恐縮し、申し訳なさそうな態度から彼女が投げたボールが仁の顔面に命中してしまったのであろうことを推察した東間は強張っている彼女の表情筋を解きほぐすためにとても柔らかい、安心させるような優しい笑顔を見せる。

「大丈夫だよ。僕も彼も頑丈さだけは一級品で、特に彼は例え顔を破壊されても自力で元に戻せる凄腕なんだから」

「確かに元に戻せるが、痛みを伴わないわけじゃないぞ」

「仁、後輩の子にはもっと優しく接してあげないと」

「優しいだけが優しさではない。時に厳しさも優しさに分類されるのだよ」

「あ、あの」

「ああ、ゴメンね。彼の言っていることは大半が戯言だから、気にしないで」

「ざ、戯言ですか?」

「彼の名前は影月仁。わかるでしょ?」

「……ああ。あの人があの有名な影月先輩なんですか」

 納得したように頷いた女生徒は再び頭を下げると練習に戻る。

 どのような意味で有名なのか、理解している三人の内、二人は穏やかさを持つ微笑みを浮かべ、当人たる仁は体育館の隅に移動して床にのの字を書き始める。

 完全に拗ねてしまった彼に声を掛ける者は誰もいない。東間や理香にさえ無視されているという現状に底知れない憤怒を覚えた彼は復讐を決意し、高速匍匐前進で女子更衣室を目指し始めたが、彼の行動を先読みしていた理香に背中を踏みつけられ、動きを封じられてしまった。

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