第10話 戦国鬼

食欲は改善し、睡眠が取れるようになった景虎の肉体は、日に日に回復していった。

景虎は側近の直江神五郎に命じて、城内の質素倹約、領内の治安維持、野党の撃退と、忙殺の日々を過ごしていた。

そんな矢先、為景の死を機と見た反長尾派の豪族連合が反乱を企てた。

「景虎様」

段蔵が音も無く景虎の寝床に現われた。

「どうした?」

景虎は目を閉じたまま答えた。

「陽北衆、国人連合が我が城に向けて兵を挙げました」

重々しい空気を尾に引いて段蔵がいった。

「うむ」

景虎は威厳を漂わせて頷き、かっと目を見開いた。景虎はがばと布団を剥いで素早く正座し、段蔵と向い合った。

「段蔵さん、ど~うしよう。戦かな?」

景虎は目尻を下げ、情けない表情を浮かべて段蔵の黒装束の裾を掴んだ。

「おそらく。その数、八千。後一刻ほどで栃尾城は敵に包囲されるでしょう」

段蔵は落ち着いた様子で景虎に告げた。

「はっっせん!どーーーうすんの?うちは千ちょっと、ぐらいしかいないんだよ~」

景虎は掴んだ小袖を大きく引っ張って段蔵を揺さぶった。

段蔵の体は、右へ左へとされるがままに大きく舟を漕いだ。

「危機的状況だな」

段蔵は体を揺らされながら顔だけは平然として言った。

「だな。じゃないよ!どうしてそんなに普通なのさ。やばい、ヤバいって、全滅しちゃうよ、ぜってー!」

景虎の段蔵を揺らす手に力が籠る。 

「全滅しちゃうかもな」

段蔵は変わらず平然と答えた。

「かもな。じゃないよ!軽い!軽いよ、段蔵さん!兄ちゃん達に伝令出そうか、伝令?!春日山からじゃ間に合わないか~」

「すまんが手を放して貰えないだろうか?少し吐き気を催してきた」

段蔵がうっと喉を鳴らして、景虎に訴えた。

「あっ!ゴメン!」

景虎はいつの間にか力一杯掴んでいた段蔵の小袖から両手を放した。

「四方を囲まれるは必至。援軍も期待できませぬ。この初陣、景虎様に武運が有れば、生き残り、無ければそれまで」

段蔵は静々と景虎に進言した。

「それまで、か」

景虎は感慨深げに空(くう)を見詰めた。

「それがしも死力を尽くさせて頂きます」

段蔵はそう言って姿を消した。

「段蔵!互いに命が有ればまた会おうぞ!」

一人残された景虎が寝床で叫ぶと、

「御意」 

段蔵の姿なき声が闇に滲んだ。

景虎は床の間の刀台に手を掛け鬼斬り丸を掴んだ。

鬼斬り丸の柄を握り数寸ほど鞘から抜き身した。

すっと鞘から紫電を放って刃が顔を覗かせた。

「鬼斬り丸よ、義は我にあるか」

景虎はパチンと刃を鞘に納め、怒号を上げた。

「出陣じゃ!!具足を持てーーー!城から打って出る!」

景虎は愛馬の放生月毛に跨り、独り城門を飛び出して敵軍に突入した。

「殿がお一人で行ってしまわれたぞ!殿に続け!」

家臣の者たちが慌てて景虎に追随した。

景虎は自身に敵の目を引きつけて、自兵の損失を最小限に抑える作戦だった。

景虎が鬼斬り丸を鞘から抜くと、鬼斬り丸は青白い閃光を帯びて佇んだ。

「鬼斬り丸、思う存分生き血を吸うがよい!」

景虎が鬼斬り丸を翳すと、鬼斬り丸から放たれていた閃光が何間も伸び、たった一振りで無数の首が地を這った。

「ははははは!我は長尾景虎!名を上げたければ我を討つがよい!」

景虎の猛将振りは凄まじかった。

景虎が駆け抜けると、大地を埋め尽くす豪族連合軍に死体の山が築かれた。

景虎の鬼神の如き戦ぶりに恐れをなした豪族連合は、我先にと撤退し始めた。

てんでに逃げ回る敵兵を長尾の家臣たちが、背後から狩っていった。

景虎の一騎駆けにより自軍の損害殆どなく、数では圧倒的に不利だった豪族連合に完勝し、景虎は華々しく初陣を飾った。


「陽北衆のやつら、十四、五のガキ相手に何やってんだ!」

寝床で豪族連合の敗北を聞かされた黒田秀忠は枕木を蹴り上げて、怒りを露わにした。

栃尾城周囲の豪族である陽北衆や国人に反乱を嗾(けしか)けていた秀忠は、目論見が外れ苛立っていた。

秀忠は、越後守護代だった景虎の父、長尾為景の信頼厚い家臣の一人だった。

為景は秀忠の人柄にほれ込み、越後守護である上杉定実の家臣に推薦したほどだ。

為景の死後、後継ぎとなった長尾晴景の軟弱ぶりに秀忠は業を煮やし、独立しようと画策していた。

「晴景めでは守護代なんぞ務まるわけがない。景康、景房にしても然りじゃ!」 

秀忠は何かを含んだような笑みを浮かべて、床の上にどすんと腰を下ろし胡坐をかいた。

秀忠は傍らで怯えたように裸体を丸めていた側女の頭を乱暴に掴みあげ、己の股間に埋めさせた。

「儂以外に誰が守護代を務められるものか。為景四兄弟を亡きものとしてしまえば、定実様も文句を言えまいて」

秀忠は側女の髪を掴み、より深く股間に押し込んだ。女は喉に突き刺さった秀忠のものに嘔吐(えず)きながら、涙を流してもがいていた。

「失敗だったようですね。秀忠殿」

襖の向こうで、嗜めるような声がした。秀忠は股間のものを揉みしごいていた女を押しどけ、慌てて土下座した。

「次こそは、次こそは景虎めを亡き者に」

震える声で、秀忠は畳に頭を押し付けた。

「頼りにしてますよ、秀忠」

影は淫靡を含んだ声を残して消え去った。


景虎は胸元が大きく開いた南蛮渡来のドレスに身を包み、青の釉薬で片目を瞑る大黒様が描かれた、取手付き白磁器の取手を人差し指と親指で摘み、空いた手で受け皿を持って紅茶を嗜んでいた。

膝の上には雷獣が尻尾を振って座っている。

「ん~。いい匂い。日本茶とは違ってお花の香りが心地いいわ~」

景虎がロッキングチェアーで身を揺らしながら、薔薇の香りに酔いしれていると、慌ただしい足音が廊下に響いた。

「御免!」

野太い声と共に、障子が勢いよく開帳した。

甲冑の胴巻きに矢を突き刺した直江神五郎が、息を荒げたまま頭を垂れて景虎の前に現れた。

直江神五郎は、虎御前が幼い景虎に是非と晴景に頼み込んで付けて貰った重臣の一人だ。

神五郎は栃尾城代として春日山城の評定に出席していた。

「どうした、顔を上げよ」 

景虎が只ならぬ神五郎の様子に語気を強めた。

神五郎は肩で息をしながら素早く顔を上げた。

景虎の胸元と腰周りが肌を見せ、辛うじてピンクのラメ生地で胸が隠されていた。

胸の中心から腰に向かって流れるシャーリングが景虎の妖艶さを引き立たせている。

景虎の異形な姿に神五郎は肝を潰して唖然とする。神五郎の大きく揺れる肩が凝固した。

「よい。気に致すな。どうしたのだ?」

景虎は威厳のある低い声で、目を見開く神五郎を制する。

呆気にとられていた神五郎が我に返り、声を荒げた。

「上杉定実様家老黒田秀忠様謀反!春日山城にて景康様、景房様討死!晴景様は直(のう)峰(みね)城まで命からがら落ち延ばれましたが、黒田軍勢い止まらず!春日山城落城も間近かと!」

「景保、景房両兄上が……」

景虎は脱力し膝を畳に打ち付けた。

景虎の瞳の奥で青白い焔が燃え、怒りに身を震わせた。

「おのれ、秀忠め!父上の御寵愛をうけた身でありながら、兄上たちおも」

戦慄(わなな)きながら立ち上がり、景虎は怒号を上げた。

「神五郎!三宝荒神形兜付朱皺漆紫糸素懸威具足を持てぇい!」

首から胸元にかけて鏤(ちりば)められた、宝石の砂塵が景虎の憤怒した顔を華やかに映した。

放生月毛に鞭を打ち、景虎は黒田秀忠の居城である黒滝城に向かった。

景虎の後を必死に追う神五郎達家臣との距離が見る間に引き離されていった。

「段蔵いるか!」

大きく揺れる馬上で景虎が叫んだ。

「は!」

頭上で段蔵の声がした。

段蔵は爆走する放生月毛の馬速に合わせて、木々を飛び移り、景虎の後を追っていた。

「秀忠の首を取る」

景虎は怒りで唇を震わせた。

「しかし、黒滝城は黒滝要害と言われるほどの城です。そう簡単には……」

段蔵が枝々を飛び移りながら、景虎に進言し掛けたところで、景虎はにやりと含み笑いを零した後、だらりと肩の力を抜いて、相好を崩した。

「だからぁ、段蔵さんにぃ。秀忠を城から出してもらおうかと思って」

「なんと!」

段蔵は驚いて声を裏返す。

「城攻めはこっちもあっちも被害が大きくなるじゃん。だから、秀忠だけ城から出てきてもらえたら、ラッキーじゃない」

「そりゃ、ラッキーだが」

段蔵が鼻に皺を寄せて声を曇らせる。

「段蔵さん、裏工作得意でしょ!」

景虎が努めて明るい声を投げた。

「得意だが……」

段蔵は困難な指令に難色を示した。

「がんば!」

景虎は手綱から手を放し、両手で拳を作って段蔵を鼓舞した。

「ちっ!わかったよ」

段蔵はちっと舌を打ち、景虎を追い越して黒滝城へ向かった。

段蔵がその気になったのを確かめると、すぐに前方に視線を移し、手綱をギュッと強く握り直して、「頼んだよ。段蔵さん」と、祈るように呟いた。 


「伝令!長尾景虎一騎掛けで黒滝城に猛進中、景虎の後方より直江神五郎の軍勢約2千!」

秀忠は甲冑姿で伝令の言葉を聞いていた。

「思ったより、早かったではないか。景虎、殿」

秀忠は嘲笑するように景虎の名を零した。

「一騎掛けに対して一騎打ちで臨むが礼儀かと」

「分かっておるわ!虎千代如きクソガキに俺様が臆するとでも思ってか!」

秀忠は手にしていた盃を家臣に投げつけ、太刀を手にしてすくと立ち上がった。

「景保、景房同様ぶち殺してやるわ!」

「は!」

家臣は急いで、秀忠の前から立ち去った。

早馬を飛ばしてきた秀忠の家臣は、廊下を駆け、辺りを見渡して人影がないことを確認すると、裏庭に降り立ち床下に潜った。

甲冑姿から黒装束に着替えた段蔵が、床下から現われた。

「これでよし」

段蔵は得意気に両手の土を払った。

跳躍し二間以上ある城壁を乗り越えて黒滝城を後にした。

「……為景様」

秀忠は暗く沈んだ目を足元に落として独り語ち、少しの間を置いた後、深く長い溜息を吐き、迷いを断ち切るように大きく頭を左右に振って、凛と顔を上げた。固く口を結び、目を吊り上げて秀忠は甲冑の重く鈍い音を掻き鳴らした。

「打って出る!城門を開けぇぇぇぇぇい!」


黒滝城まで後半里という所まで、放生月毛は馬脚を唸らせていた。

「秀忠が出てまいりました」

姿無き段蔵の声が景虎の耳に入った。

「段蔵さんありがとう。これで、無益な死人が出なくてすむよ」

景虎は前方を睨むように見据えると、馬腹を蹴って速度を上げた。

黒滝城が景虎の目に入った、その時、両脇の藪から無数の長槍が景虎を襲った。

「罠か」

段蔵はしまったとばかりに零して、棒手裏剣を藪の中へ投げ込んだ。

景虎は一髪の間合いで槍先を避け、鬼斬り丸を鞘から抜いた。

「段蔵さん!話が違うじゃない!」

虚を突かれた景虎は冷や汗をかきながら、段蔵に怒りの声を上げた。

「一騎打ちって、言っといたんだけどなぁ」

段蔵はポリポリと頭を掻いて、首を傾げた。

黒田軍の雑兵が槍衾を作って道を塞いでいた。

「命が惜しくば、道を開けい!」

景虎の警告虚しく、無数の6間槍が景虎に叩きつけられた。

「クソ!致し方あるまい!」

景虎は憎々しげに言うと、放生月毛の耳元に

「頼んだぞ」

優しく声を掛ける。

放生月毛は合点承知!と言わんばかりに漆黒の瞳を輝かせ、青く澄んだ大空目掛けて飛越した。

頭上を飛び越された黒田兵はこぞって呆気にとられ、首を捻って背を走り去る景虎の姿を茫然と眺めるばかりだった。

景虎の目に秀忠の姿が映った。

秀忠は馬上で槍を大仰に振り回して、猛然と景虎に突進してきている。

「秀忠!」

景虎は奥歯を鳴らし、怨嗟を露わにした声を漏らした。

「景虎!貴様如き餓鬼にくれてやる首は持ち合わせておらぬは!景保、景房同様死ぬがいい!」

秀忠は馬を飛翔させ、日輪を背に景虎に襲い掛かった。

「死ぬのはお前だ!秀忠!!」

景虎は鬼斬り丸を上段に構え、秀忠を人馬もろとも斬り伏せようと刃を振り下ろした。

しかし、鬼斬り丸から放たれる青い閃光が消え、鬼斬り丸は錆びついた鈍ら刀となっていた。

秀忠の槍先が景虎の頬をかすめる。

秀忠は景虎の背後を奪い、二手目の槍を放った。

景虎は背を完全に捕らえられていた。

「しまった!」

景虎はやむなしと身を竦めた。

キン

段蔵が投げた手裏剣が秀忠の槍先の軌道をずらした。

景虎の左腕に秀忠の槍がざくりと突き刺さった。

「ちっ!」

心の臓を狙っていた秀忠は舌を打って、頭上で槍を回して、三手目の動作に入った。

景虎は秀忠と距離を取る為、放生月毛を走らせた。

「逃がすか!」

秀忠の怒号が飛び、三手目の槍が放たれた。

槍先は景虎の脇腹をかすめた。逃げる景虎を秀忠が執拗に追う。

「鬼斬り丸!どう言うことだ!この戦、私に義が無いと申すか!兄を殺されておるのだぞ!」

景虎は逃惑いながら鞘に納めた鬼斬り丸に声を震わせて叫んだが、鬼斬り丸は押し黙ったままだった。

「くそ!」

景虎は鬼斬り丸をバンと叩いて、脇差を抜いた。

秀忠の槍が背後から豪雨の如く放たれた。

「ははははは!死ね!景虎!為景様が守り抜いた領土安寧の為、貴様はここで死なねばならんのだ!!」

秀忠の槍先を景虎は必死で凌ぐ。

が、鉄製の甲冑が見る見る襤褸雑巾のように毛羽立っていった。

「しゃーねーな」

意を決した景虎は、手綱を力一杯引いて放生月毛を反転させ、脇差で秀忠の槍先を叩き落とした。

「ガキが、なかなかやりよる」

秀忠は長刀をすらりと抜き、馬上で景虎を切りつけた。

景虎は秀忠の一撃を鍔で辛うじて受けた。

「領土安寧とはどういう意味だ」

景虎は目を吊り上げて、秀忠に訊いた。

「貴様如きガキに話したところで、埒もない」

秀忠は景虎の鍔を撥ね上げた。

段蔵の手裏剣を短刀で交わしながら、景虎の喉元を狙って、長刀の刃先を突いた。

「死ね!景虎」

パンと乾いた音が弾け、秀忠の右腕がだらりと垂れた。

「何!」

顧ると、神五郎率いる鉄砲隊が列をなしていた。

「遅れ馳せながら、直江神五郎ただ今参上!」

神五郎は玄武が描かれた軍配を振り翳して、高らかに叫んだ。

「今のは、ほんとヤバかった~。死ぬかと思ったよ」

虎千代が苦笑を浮かべた。

一瞬神五郎に気を取られていた秀忠の背に、段蔵の毒手裏剣がドスドスドスと肉を潰す鈍い音を立てて突き刺さった。

「クソが!」

秀忠は渾身の力を込めて最後の一太刀を振り上げた。後方では、神五郎が

「構えーーーい!」

と二発目の号令をかけていた。

「打つな!」

景虎が叫ぶと、突然の中止命令に神五郎が泡を食い、玄武が右往左往している。

「こいつは私がこの手で、仕留める」

景虎は愛馬を乗り捨て、地に足を付けた。

秀忠も転げ落ちるようにして、景虎に続いた。

「鉛玉の餌食にするには惜しいってか。虎千代も甘いな」

大木の枝に立ち、傍観していた段蔵がやれやれと言う風に零した。

「来い!秀忠!」

景虎がぎゅっと力を込めて短剣を握りしめた。

秀忠は段蔵が放った毒が全身に回り出し、立つのもやっとと言う風だった。

「虎千代如きにこの俺が地に膝を付くというのか。こなくそ!」

秀忠は折れ掛けた膝を両手で抑え込んだ。

ふらつきながら上体を起こし、剣先を震わせて、長刀を構えた。

「どうして、兄上たちを殺した!」

景虎は怒りと言うより、蹌踉(そうろう)としながら戦闘を続ける秀忠の姿に疑問を生じずにはいられなかった。

元々秀忠は為景の腹心であり、長尾家の為に長年尽くした重臣の一人だった。

「どうして?」

秀忠は鼻を鳴らし

「笑止!」

と、吐き捨てた。

「どうしてあなたが?私には分からない」

景虎はゆるりとかぶりを振って、哀しい目を秀忠に向けた。

ゴボと秀忠が喉を鳴らすと、どす黒い血が口角から流れた。

「晴景では、いかんのだ!!」

朝日連峰に秀忠の声が轟いた。秀忠は鮮血を霧吹いて、片膝を地に付けた。

「晴景では……」

「どうして、兄上では駄目なのだ。それに、景康、景房両兄は関係ないではないか!」

「だから、お前は子供なんだよ」

秀忠は馬鹿にしたように目を細めた。

「何!?」

景虎は怒りを露わにして柄を握りしめた。

「武田と!!」

秀忠は大声を張り上げて、ゆっくりと重い口を開き始めた。

「晴景は武田と手を結び、上杉定実様を討ち、越後を我が物にせんと画策しておったのじゃ」

「……まさか」

秀忠の言葉に景虎は目を大きくさせた。

「そのまさかじゃ。為景様が守り抜いてきた、南越後と村上の領地を武田に引き渡すという条件でな!」

秀忠は苦々しい表情を浮かべ、拳を地面に打ち付けた。

「村上とは長年同盟を結んできたではないか」

景虎は分からないという風に首を振った。

「その長尾に後方から攻められれば、幾ら戦上手の義清とは言え、成す術なかろう」

「それでも、景康、景房兄様は関係」

秀忠の話に言葉を失っていた景虎が、声を張ってそこまで言ったところで、

「関係あるのだ!」

秀忠が割って入った。

「武田との話を持ってきたのはそもそも景康、景房の二人なのだからな」

「そんな……」

景虎は落胆し、両膝を地に打ち付けた。

「だから、俺が為景様の遺志を継いで、この領地を、民を……」

秀忠は話しながら意識を失い、どさりと体躯を横たわらせた。


秀忠の謀反から一年半が経ち、景虎は十五歳になっていた。

黒田秀忠は、景虎が強く要望し、段蔵に解毒剤を処方させたお蔭で、一命を取り留めた。

上杉定実に景虎が嘆願し、秀忠は元の黒滝城主としてことなきを得た。

越後守護上杉定実は、殊の外景虎を可愛がった。

お気に入りの景虎の頼みとあれば、造作も無いことだった。

「景虎よ、こっちこい。気に致すな、もそっと、こっちに」

定実は越後守護と言う地位にありながらも戦国大名の風格なく、流々と続く家柄に胡坐をかいた優男だった。

齢五十は悠に過ぎていると言うのに、つるりとした色白で、頬を赤く染めた血色のいい顔をしていた。

定実が女だけでなく、衆道にも手を出すほどの好色ぶりは、越後では有名な話だった。 

定実は美少年で高名だった景虎を嘗め回すように視姦し、舌なめずり、にやけた顔を景虎に向けた。

黒田秀忠の処分について景虎が「穏便に」と、懇願すると、定実は目を細めて

「そちの好きなように致すがよい」

粘りつく気色の悪い視線と声を表に出して、薄ら笑いを浮かべる。

景虎は栃尾城への帰り道、背中に悪寒を走らせるのだった。

「どうでしたか?」

供侍に扮して景虎を待っていた段蔵が、馬を並走させて訊いた。

「秀忠殿の咎は反故にして頂いた」

景虎は何故か苦々しくいい、定実の城門が見えなくなると、やっと緊張がほぐれたのか、

「それにしてもあのオヤジ、気味悪り~」

と、顔と口調を崩して首筋を掻いた。

段蔵が、くくく、と、うつむき加減で、声を殺して笑う。

景虎はゆるんだ頬を引きしめて、

「でもまぁ。使えるものは何でも使わねぇとな」

と、目を座らせた。

長尾の家臣団の間では、景虎の温情裁きに好意的なものと、甘い姫殿と揶揄を飛ばすものとで、物議を醸し出していた。

反景虎勢力の者たちからは、秀忠との戦は大義上の表向きで、影では秀忠と密約が結ばれており、晴景を亡き者にする為の布石だと、公然と揶揄された。 

秀忠との戦闘で受けた景虎の傷は、直ぐに癒えたが、黒い噂が若い景虎の心を蝕んだ。


醜悪な風貌の男が、黒滝城を訪問していた。男の左眼は無く、土竜の皮を鞣して作った眼帯を嵌めている。

「それで、再度景虎を討てと」

秀忠は重々しい声で男に答えた。

「左様。次は晴景殿をお動かしなされませ」

男はニヤリと不気味な笑みを浮かべる。

「ほう。あの気弱な、女色しか興味のない晴景をどう使うというのだ」

「反景虎勢力を総動員させて一気に景虎を討つ」

「その後はどうするのだ?」

「越後守護上杉定実を追放し、越後を奪う」

「それで?」

「我が親方様が越後に入られた暁には、黒田様にはそれ相当の所領を約束させて頂く」

「武田晴信殿の書状はあるのか?」

「これに」

男は懐から書簡を取り出し、秀忠に手渡した。

秀忠は巻物をパラリと広げ一読すると、口の端を吊り上げた。

「確かに。山本源助殿と申されたか。この秀忠必ずや、晴景を動かして見せようぞ。晴信殿には、吉報を待たれよと、お伝え下され」

源助は秀忠の手を両手で握りしめた。

「これで、武田家と黒田家は固く結ばれるでしょうぞ。拙者は直ぐに親方様に報告致さねば」

そう言って、源助が立ち上がろうとした。秀忠が人を呼ぼうとすると源助は秀忠を制して

「一人で立てまする。御心配無用」

と言って、義足を畳に立て、器用に立ち上がった。

源助は左足の大腿(ふともも)の中ほどから下が無く、鉄で作った義足を装着していた。

源助は、傍らに置いていた松葉杖を突き、足を引きずるようにして部屋を出て行った。

源助と入れ替わるようにして、穣姫が秀忠の前に現れた。

穣姫は、後ろ手に襖を閉めると、秀忠の耳元に唇を寄せた。

「英断、英断。これで次こそは」

甘ったるいが、訓戒を含ませた声で穣姫はそこまで言うと、秀忠の耳を長い舌でペロリと舐めた。淫靡に着崩された赤襦袢の襟元から、真っ白な肌が見える。

秀忠はゴクリと生唾を呑み、動けないでいた。まさに蛇に睨まれた蛙である。

「分かっておりまする。拙者の望みは、為景様が守り抜いた領地を守ることでございます。その為であれば、この身を業火に焼かれようとも、後悔は致しませぬ。しかし、景虎は、穣姫様の甥御殿ではござりませぬか。どうして、そこまで景虎を毛嫌いなさるのですか?」

穣姫は、腕を伸ばして秀忠と距離を置くと、ふっと短いため息をついた。

「豊姫はたった一人の理解者。私たち姉妹は一心同体だった。しかし、豊姫が私を裏切った。あの子は、私の愛する人を寝取ったのだ。愛しい景虎。本当は、私が産むはずだった!豊姫が為景の側室に姉もなどと、余計な憐れみをかけたお蔭で、この十数年、針のむしろだったわ!全てあの子が持っていく。あの子は、美麗で、明るく、人に愛され、望まれた。賛美を受けるのはいつも豊姫だった。一方、醜女で陰気な私は、親からも周りからも、眉を顰められ、なじられ、忌み嫌われた。それだけなく、あろうことか、豊姫は景虎までも、私から取り上げたのだ。憎い。憎い。憎い」

目を吊り上げる穣姫が、懐刀をスラリと抜いた。

「何をなさるのです。穣姫様」

「死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね」

突然、穣姫は狂ったように諸刃を畳に突き刺し、ザクザクと音を掻き立てた。

「死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね!」

常軌を逸した穣姫の姿に秀忠は恐怖し、一歩、後ずさった。

「秀忠!定実の家老になれたのは誰のお蔭じゃ?一族繁栄の為、お前は私に下僕の誓いをしたのではないのか?晴信に進言し、源助を使わしたもわらわじゃ、この話。上手くいけば、武田を利用し、越後一国に留まらず、奥州、上州とおぬしの物になるのだからな」

片膝を付いて、穣姫に礼を取る秀忠。

「はははははは。分かればよい。気分がよい。気分がよい。秀忠。わらわを思う存分弄ぶがいい」

穣姫は白刃を壁に投げつけて立ち上がり、ばっと両手で襟元を開いた。白く豊満な胸を露わにして、物欲しげに秀忠の股間を撫でる穣姫。

飢えた狼のように胸を貪る秀忠の頭を抱えて、穣姫は悦に入るのだった。


ほどなくして、秀忠は晴景の許へと向かった。

「晴景様、この黒田秀忠。晴景様に忠誠を誓い長尾家の安寧の為、尽力致す所存。ついては、武田晴信殿の後ろ盾が有れば、景虎はもとより、景虎贔屓の定実めも、討つことが出来ましょう。さすれば、晴景様が越後守護となりて、越後の安寧が齎されることでしょうぞ」

「しかし、秀忠。景虎が領民から慕われていることもこと実じゃ。景虎を討つとなれば、長尾家が分断することもあり得るのではないか?」

不安を顔に浮かべて、口に着けていた落雁を晴景がちびりと齧る。

「景虎は、晴景様を討ち己が守護代にならんと企んでいるのですぞ。いつ、段蔵が殿の寝床に現れてもおかしくはないのです」

「だ、段蔵が!」

晴景は背後を振り向いて、声を震わせた。

「先手必勝です。この秀忠、景虎に辛酸を舐めされられて一年。臍を噛む思いで生きてまいった。もう一度、己を襲ってこようとは夢にも思っていますまい」

「景虎に救ってもらった命で、景虎を討つのか?」

「致し方ありますまい。晴景様に守護なって頂くことこそ、お父上長尾為景様の御意志かと。為景様の命であればこの秀忠、鬼にも蛇にもなりましょう」

「……秀忠」

「晴景様の為なら。この命1つで、越後が晴景様のものになるのなら。安いものでしょう」

「秀忠。お主そこまで、儂のことを。ありがたく思うぞ」

「これで、晴景様も枕を高くして寝れまする」

数日後、黒田、晴景連合軍が景虎の栃尾城を襲った。

先方は黒田秀忠。後方に晴景が坐していた。

「我が兵たちよ!実兄晴景様を亡き者にしようと企む、悪鬼景虎を我らで打ち払おうぞ!景虎を討ちとった者には褒賞は思いのままじゃ!」

秀忠が兵卒たちを焚きつける。

「おおおおおお!!!!!」

兵たちの雄叫びが越後の山々を震わせた。

「突撃!!!」

秀忠の号令と共に、兵たちが城に押し寄せた。

褒賞に目を眩ませた飢えた狼たちは、我先にとひしめき合い、栃尾城の一の門に群がる。

「秀忠!!そんなに死にたいなら、独りで死ねばよいものを。兄上まで巻き込むとは、卑劣極まりない。我、鬼神となりて、貴様を討つ!!」

耳をつんざくような声が城の四方に響き渡る。

黒田兵たちが辺りを見渡す。声はすれども姿は見えず。水を打ったような静けさが城を包んだ。

空に黒い点が浮かんだ。

次の瞬間。

ドーーーーーーーーン!!

地響きと共に大地が揺れた。

景虎が単騎、雑踏へ飛び込んでいた。

手には焔を纏った鬼斬り丸が握られている。

後から後から押し寄せる黒田軍を、鬼斬り丸の一振りが蹂躙していく。

鬼斬り丸の業火が、ひしめく黒田兵を焼き尽くした。

怒り心頭。景虎は秀忠目掛けて一直線に走り出した。

「神五郎構わぬ、撃て!」

景虎が城を背に叫んだ。

一拍おいて、腹に響く鈍い音が碧い空に木霊した。

ズドーン。ズドーン。

大筒が栃尾城から黒田軍に向けて鉄球の雨を降らせた。

鉄球が景虎の耳すれすれを、吹き抜けていく。

景虎を包囲していた黒田兵たちが、次々と敗走し始めた。

焦土と化した戦場の先に、秀忠が間遠に見えた。

「秀忠!!」景虎は目を吊り上がらせて、放生月毛の馬速をあげた。

こうなることを織り込み済みだったかのように、秀忠はニヤリと不敵に笑う。

「この黒田秀忠!!神に選ばれし者。貴様如きに倒せるものか!!!あがあああああ」

天に咆哮を上げて、くわっと目を見開く。秀忠の顔が干からび、皮膚が崩落し始めた。うろこが顔面を覆い、目尻が裂け縦目となり、鋭い牙がにょきにょきと口元から現れた。首から下は、針金のような体毛が全身から生え、狼のようにも見える。だが、尻尾はヘビそのもので、のたうっている。

頭蛇体狼の魔物と化した秀忠は、大口を開けて業火を噴出した。

鼻先を焼かれ、ギョッと目をはる放生月毛は、轡(くつわ)を引かれ正気を取り戻すと、魔物に背を向けて走り出した。

「ちょっと、ちょっと、ちょっと待てって!」

景虎が手綱を引いても、放生月毛は、いやいやして、体(たい)を変えようとしない。

「しょうがないなぁ」景虎が放生月毛から飛び下りると、しめた!とばかりに放生月毛は一目散に逃げていった。 

おどろおどろしい声が戦場に響く。

「この俺様が越後を、日の本を手にするのだ。貴様如きガキに邪魔などさせぬ」

「人ならざるものとなったか、秀忠」

「神の力を得し、今、怖いものなど何もない。景虎よ、我にひれ伏せ!媚びよ!我が僕(しもべ)となるのだ」

斜に構えて話を訊いていた景虎は、鼻白んで、

「終わった?」

と小馬鹿にしたように、目線だけ秀忠に向けた。

「怖いもの知らずも、大概にせぬと命を落とすぞ。死ね、景虎!」

「仏の顔も一、二度まで!!一回目はせっかく大目に見てやったのに、二回目とはね……ぜってぃ。ないわー。お前」

かぶりを振る景虎。その隙に秀忠が間合いを詰めた。

刃物のように鋭い爪が景虎を切りつける。紙一重で避けたつもりだったが、白く瑞々しい景虎の顔に、三筋の創傷がうっすらと浮かぶ。

「は、早い」

面食らう景虎に間髪入れず、秀忠の二打目の蹴りが繰り出さる。

 どふと鈍い音を立てて、景虎の腹部が悲鳴を上げた。

 まともに蹴りを喰らった景虎が、吹っ飛ぶ。

秀忠は攻撃の手を止めない。倒れ込む景虎に馬乗りになり、

「死ね!!!」

口から火焔を吐き出した。

白い影が一瞬、秀忠の視界を通り過ぎた。

秀忠が吐き出した火焔は、なにもない土石を焦がしただけだった。

影が走った方に振り向くと、頭から尻までが一間ほどもある、真っ白な大犬が、景虎を咥えて対峙していた。

大犬が景虎をそっと地面に寝かせると、段蔵がどこからともなく現われ、景虎を抱きかかえ、凄まじい跳躍で秀忠から景虎を引き離した。

ガルルル。ガ!!!

大犬は牙をむいて、秀忠に咆哮を上げた。大犬の口から、稲妻が走り秀忠を攻撃する。

秀忠はすらりと稲妻を避けて、大犬に火焔を吹きかけた。大犬は空高く跳躍して、二檄目を窺っている。

「させるか!」

大地を蹴って、大犬との間合いを詰めた秀忠は、両肉球を組んで大犬の頭部を強烈に殴打した。

大犬は大地に打ち付けられ、地は隕石が落ちたようなクレーターを作った。

秀忠は長く鋭い牙を剥き、大犬目がけて急降下する。

牙が大犬を捕える瞬間、段蔵の炸裂弾が秀忠の耳元で爆発した。

大犬に気をとられていた秀忠は、炸裂弾を受けて、体を横に流された。

額からしたたる、己が血をペロリとなめて、秀忠は標的を段蔵に移した。

驚異的なスピードで段蔵に詰め寄る秀忠。段蔵もやすやすとは、間合いに秀忠を入れない。縦横無尽に疾走し段蔵は、秀忠との距離を保つ。二つの黒い塊りが目にも止まらぬ速度で、景虎の前を駆け抜ける。

一撃で勝負が決まってしまうほどの強烈な攻撃を、秀忠は段蔵に繰り出している。

軒猿随一の俊足を誇る段蔵だが、攻撃をかわすので精一杯だ。

懐の炸裂弾はあと一発。

―こいつで決めなければ、こっちがやられる。

ちっと段蔵は舌打ちして、勝負に出た。がっ。大地を踏みしめて段蔵は天高く飛翔した。空中戦であれば足は止められる。

 案の定、秀忠も追随して飛んできた。

 「飛んで、俺様の動きを止めたつもりかもしれんが、条件は同じ。死ね!段蔵!!」

鋭い爪が、段蔵に振りおろされた。

段蔵は体を反転させて攻撃をかわすと、懐に忍ばせていた炸裂弾を秀忠の口腔内に、ねじ込んだ。

「死ね!化け物!!」

秀忠が「あがぁ」と異物にむせる。段蔵は炸裂弾を吐き出させないように、必死の形相で、喉の奥へ奥へと腕を挿入させる。

もがいていた秀忠が、にやりと不気味な笑みを浮かべた。

その直後、秀忠は段蔵に猛烈な蹴りを喰らわした。

段蔵の体が大地を窪ませる。「ぐは!!」背中を打ち付けられて、段蔵の口から血が噴き出した。

ズシーン。地響きと共に秀忠が着地し、段蔵を一瞥する。

「はぁはぁはぁ」段蔵は息を切らせて、胸を大きく上下させながら、矢のような視線を秀忠に送る。

ドカーーン!

秀忠の体内で炸裂弾が爆発した。

「終わったか」

短いため息をついて、段蔵が安堵していると

「これしきの火薬で、神が殺せるとでも思っているのか?」

大量の黒煙の中から、秀忠が無傷で現われた。

「くちゃ、くちゃ、ぺっ!死ね!!」

秀忠は口から何かを吐き出すと、横たわる段蔵に牙を剥いた。

ガシ!!

段蔵の頭部まであと数㎜というとこで、秀忠の牙がピタリと停止した。

「段蔵さんは殺させない」

鬼斬り丸の刃先で牙を食い止め、景虎が秀忠を睨みつける。

秀忠は後方に跳躍して、景虎と距離をとった。

「ほう。俺様の牙を止めるとは、なかなかやりよる。だが、下等な人間が束になっても、俺様にはかないはしない」

ヒュンと秀忠が姿を消した。次の瞬間、景虎の頭上から、鋭い爪が振り降ろされる。景虎は秀忠の攻撃をすんでのところで止め、一閃。しかし、鬼斬り丸は空を切る。二手三手と秀忠は息もつかせぬ早業で、ラッシュをかけてた。

「死ね!!景虎!!!」

ピシャーー!!

稲妻が秀忠の横っ面を殴打した。

足をふらつかせ辛うじて立っていた、雷獣がドタンと横倒れた。

秀忠が揺らされた頭を元に戻した瞬間、凄まじい風音が秀忠に吹き付けられた。

ボタン

鬼斬り丸の紫電瞬(またた)き、切り落とされた秀忠の蛇頭が地を這った。

狼の体躯がバターンと音を立てて倒れ、黒煙を上げて炎上し始めた。

「おのれ景虎。我は死なぬ。我は死なぬぞ!!!!!!オレハ・テン。カ・ミ・ナ・ノ・ダ」

全身から放たれる火柱に顔面を焦がしながら、秀忠は息絶えていった。

景虎は秀忠の死を見届けると、段蔵の許へと駆け寄った。

「段蔵さん!!」

「はぁ。はぁ。俺は大丈夫だ」

息も絶え絶えな段蔵だったが、景虎に心配かけまいと、必死に笑って見せる。

「大丈夫じゃないよ!!!!!」

景虎は段蔵の左腕を両手でぎゅっと握りしめ、涙を浮かべる。

「何を泣いているんだ。泣き虫だな。景虎は」

萎れ顔で肩をしゃくる景虎の頭を、段蔵が右手で優しく撫でる。

「だって、段蔵さんの腕が、腕が!」

段蔵の左腕は、秀忠の体内に炸裂弾を押し込んだ時、根元から食い千切られていた。

「お前のためだ。腕の一本や二本無くなっても惜しくはない」

「だって、だって。段蔵さん忍びなのに」

「俺ぐらいの忍者になれば、これ位で他の忍者と釣り合いが取れるってもんだ。まだ、残党がいる。お前は早く城へ帰れ。俺は後始末してから、城に戻るから。フィッ!」

しょげ返る景虎を横目に、段蔵が指笛を鳴らして雷獣を呼んだ。

ヘッヘッと舌を出して雷獣が駆け寄ってきた。

「景虎を頼む」

雷獣は織り込み済みだというように、大きな口で景虎の襟首を咥えてポイと背中に乗せ、飛んで城へと向かった。

「段蔵さーーーーん」

後ろ髪を引かれながら、景虎は戦場を後にした。

段蔵は右手で体を押し上げて立ち上がり、燃え盛る秀忠に近づいた。

「ぐああああああ」

段蔵は炎で右腕を炙って止血し、その場に倒れ込んだ。

ポタポタと大粒の雨が段蔵の顔を濡らした。雨脚は徐々に強まり、天が号泣しているかのような暴風雨が、忌々しい戦場を洗い流した。

黒田秀忠の一族は慣例に従い自刃して果て、黒田家は滅亡した。


「段蔵」

重々しい澱んだ空気が辺りを包む。時空が歪み、寝ているのか立っているのかさえ分からない。あばら屋の板の間で寝ていた段蔵は、目を閉じたまま

「ほう。これは珍しい、親父殿が放蕩息子に会いに来るとは」

「風魔の方針が変わった。景虎を殺(や)れ」 

一拍の間を置いて、声が段蔵の背中を飛び越える。しかし、人の姿かたちは無く、威迫する声だけが発せられた。

「俺は風魔とは縁を切ったんだ。他を当たってくれ」

「わしがあれだけ送り込んだ透破どもを、片腕一本で斬り捨ててきたお前だ。今や隣国で神の化身とまで謳われる景虎を殺れるのは、お主しかおらぬ」

「武田の透破衆を差し向けたのは親父殿だったのか」

段蔵が目を吊り上がらせた。

「おぬしがどう思おうが、切っても切れぬ縁もある」

「知ったことか」

「じきに武田が我ら北条と盟を結ぶ。後詰がいなくなれば、甲斐の狙いは越後だ。晴信が千代女にいたくご執心でのう」

声は嫌な笑みを含む。

「千代女が」

段蔵は一瞬言葉を失った。

「母者を悲しませるな。段蔵!!」声が語気を強める。

「相変わらず。やることが一々下衆だな」

段蔵が奥歯をかみしめて、憎々しく言うと

「誉め言葉として捉えておこう。段蔵、お前の体に刻み込まれた風魔の血は消 えることはないのだよ。くっくっくっ」

声を殺した笑いが、隙間風と共に戸の外へ吹き抜けていった。

ふ~。短いため息をついて段蔵は、跳ね起き、小屋を飛び出すと、声の主らしき人影が、満月の光の中に飛翔していた。

段蔵は、握りしめていた棒手裏剣を懐にしまい込んだ。

「越後に長居しすぎたか」

段蔵はひとりごちて、闇の中へと姿を消した。


景虎の寝床に、冷たい風がすーっと流れた。

物音一つしない闇に、「段蔵さん」景虎が声だけ投げた。

「……」

「どこか行くの?」

闇の空気が少しずれ、段蔵はやれやれと額に手をやった。

「上方へ」

雲が流れ、月明かりに反射して、段蔵の影が障子に浮かぶ。

「いつ帰ってくるの?」

「……」

「上方だったら、堺で異人の服買ってきてよ。最近凝ってるんだぁ」

「……」

「帰ってこない気なんだろ」

「……」

「ヤダ!」

ガバリと布団をはね上げて景虎は、パンと障子を開け放った。

景虎の目にはすでに涙が浮かんでいる。

道中姿の段蔵は、くいと菅笠を深く被り表情を隠した。

「段蔵さんは僕にとって、唯一無二の存在なんだ。どこにも行っちゃヤダ」

「片目、片腕を無くし、忍びとしては、半人前の仕ことしかできませぬゆえ」

「それでも、他国の忍びたちを追い払ってくれているじゃないか。その腕だって、僕の為に無くしたんだから、負い目を感じることなんてないんだよ」

「この腕は、それがしが未熟ゆえ。……草は草として、土に帰るだけのことでございます」

微妙に変化した段蔵の表情を、景虎は見逃さなかった。

「……死ぬ気なんでしょ」

「……いや、そのようなことは」

言いよどむ段蔵の胸に景虎が飛び込んだ。

「ヤダ、ヤダよ!段蔵さん死んじゃヤダ!」

段蔵は胸元で泣きじゃくる景虎の肩を片手でそっと掴み、腕を伸ばした。

「……俺は……風魔だ。風魔のやり方に嫌気がさし、里を抜けだして、軒猿で厄介になっていたのだが。それが、風魔にばれた。風魔は里の総力を挙げて俺を殺しに来るだろう。景虎にも迷惑が掛かる。俺の存在が風魔にばれた以上、ここにいることは出来ない。それに、晴信が越後を狙っている。俺が殺した忍びの中に透破が多く混じっていた。これは、北条と武田が手を結んだことを意味する」

「意味わかんないよ!」目尻に雫をためて、小首を振る景虎。

段蔵が景虎の肩にかけた手に力を込める。

「敵になるんだよ!俺たちは!俺はお前を殺せと風魔の棟梁である小太郎から命を受けた。達成できなければ、俺の母者や妹、俺に係るすべての人間が闇に葬られることになる。俺が死ねば!死ねば、お前を殺さずに済む」

段蔵の肩が震える。

「段蔵さん」景虎の優しい笑みと声が風に乗り、段蔵の耳に吹きかかる。

景虎が段蔵の顔をのぞき込み、「段蔵さん」ともう一度呼んだ。

ふ~。と段蔵は長い溜息をつく。

景虎は段蔵がかぶっている菅笠を外し、頬から首筋にかけて手を這わせた。

「この傷も、この傷も、全部僕を守るためにつけた傷だ。これも。これも」

雨の匂いを含んだ風がふわりと部屋に入り込んだ。

段蔵は雨の匂いに乗って、涙の跡が頬に残った景虎にそっと口づけをした。

景虎は身を硬直させて、止まっていた涙を再び頬に伝わせた。

段蔵の唇は景虎から離れようとはしなかった。

景虎が後退しようと力を入れても、段蔵がそれを許さない。

体がふわりと解放され、段蔵の片腕がゆっくりと景虎を包んだ。

段蔵は景虎の濡れた頬を指でそっと拭い、顔を近づけて、景虎の耳元で囁いた。

「好きだ」

「ダメ。ダメだよ。段蔵さん」

言葉とは裏腹に、景虎は段蔵の胸に顔を埋めた。

段蔵は景虎の頭を撫でながら、「好きだ」寂しそうな、哀愁のこもった声。

景虎は押し黙って、段蔵の小袖をしかと掴んでいる。

「出会ったときから、ずっと。ずっと好きだった」

景虎の耳にそっと唇を寄せて段蔵が囁く。

そして、もう一度、段蔵は景虎の唇に唇を重ねた。最初で最後の甘く切ない、別れの口づけに、景虎は心を奪われていった。

段蔵が「景虎。景虎。景虎」と名前を連呼して、景虎を抱きしめる。

「段蔵さん、段蔵さん。」

互いの指が絡み、崩れるように横になった。二人はこうなることが、まるであたり前かのように、一つになった。

景虎と段蔵が布団に一包みになっている。景虎が紅潮した頬を段蔵の胸にすり寄せた。

まったりとした甘い空気が部屋に充満している。

「段蔵殿」

襖の向こうで神五郎の重々しい声がした。

景虎は乱暴に着物をはおり、乱れた胸元を必死に整えようとしている。

「うむ」神五郎が居るのを知っていたかのように、段蔵は無機質に答え、愁いを帯びた瞳を景虎に向けて、小袖をはおった。

「神五郎、しばし待て!」

景虎が慌て気味に言い放つ。

「ごゆるりなされませ」神五郎はすべての事情を知っているかのように、落ち着いた声を襖の向こう側から投げた。

一通り容姿が整ったところで、段蔵が表情を一変させた。

先ほどまでのとろけるような、甘い声も仕草も無くなり、真剣な表情を浮かべて、片膝をつき、主従の礼をとる段蔵。

「殿。お願いが御座います」

改まる段蔵に景虎はりんと胸を張り、主として向き合った。

「何なりと申せ」

「不肖加当段蔵。殿の手でこの首を撥ねて頂ければ恐悦至極」

「ど、どうして?」

威風堂々張った胸がすぐにしぼむ。

「段蔵の願いを叶えることこそ、栃尾城主いや次期越後守護となられる、親方様の役目と存じ上げる」

すーっと静かに襖が開き、神五郎が姿を現した。

「ど、どういうこと?」

顔を歪ませる景虎の肩に、ふわりと段蔵の手がかかる。

先ほどまで温かみのあった段蔵の手が、今は冷たく氷のようだ。

「俺は軒猿として、あまりにも多くのことを知ってしまった。お前が女であること、晴景や定実の愚鈍さを含めた、立ち入った越後のこと情を」

「それだけではござらぬ。越後の地形、城の構造から備蓄に至るまで、段蔵は知り尽くしているのです。他国に漏れれば、越後は丸裸にされたのも同然」

毅然とした神五郎の声が、景虎をたしなめる。

「段蔵さんが、そんなことするわけないじゃないか!」

黒髪を振り乱して、景虎が声を割り込ませた。

「分からぬ」

段蔵の鋭い視線が景虎を射抜く。思いもよらぬ段蔵の言葉に景虎は狼狽し、言葉を失った。段蔵がふっと優しく相好を崩して

「分からぬものに対して人は畏怖を生む。もしかしたらと疑念を抱く。昔から言うではないか、死人に口なしなんだよ」

「そんな。だって、だって、段蔵さんは」

「段蔵は一流の忍びゆえ、畏怖、疑念を抱く、人の妄想の残忍さを嫌と言うほど知り尽くしているのです。段蔵が消えたことで、殿にどのような不幸が起こるやもしれぬ。そう考えたからこそ、この神五郎めに、段蔵は真実を明かして頼みに来たのです。殿が斬れぬ時は、拙者に切って欲しいと」

「だって、段蔵さんは僕の為に戦ってきてくれたじゃないか。殺せるわけないじゃないか。義だって理だってないような殺生は僕には出来ない!」

涙を流す景虎の手に、段蔵は鬼斬り丸をそっと握らせた。

「抜いてみるがいい。義が無ければそいつは抜けぬ。神刀の審判を仰ごうではないか」

段蔵は縁側を下りて、真っ白な玉砂利の敷かれた庭にドカリと胡坐をかいた。

粘性の高い唾液が景虎の喉を絞める。ゴクリと生唾を飲みこんで鬼斬り丸の柄に手をかけた。

ブワーンと紫の妖気を纏った鬼斬り丸の本身が、鞘からするりと現れた。

「そんな」景虎は力無くその場にへたり込んだ。

「さぁ。今宵は満月だ。すっぱりいってくれ」清々しい笑みを浮かべて、ペシペシと段蔵は自分の首を叩き、表情を一変させて「景虎、頼む」と目を閉じた。

「殿」神五郎がへたり込む景虎の背中を押す。

「できないよ」涙声で訴える景虎に神五郎は背を向け「ご免!」脇差を抜いて段蔵に歩み寄った。

「神五郎!やめて!」

神五郎の裾を掴んで離さない景虎を引きずるようにして、神五郎は縁側に足を進めた。

「分かった!僕がやるから!」景虎は鬼斬り丸を握りしめ、よろよろと立ち上がった。

重い足を一歩一歩踏みしめて、景虎が段蔵に近づく。

一切の動きを止めた段蔵は、一塊の岩のように鎮座している。

景虎は段蔵の背後に立ち、鬼斬り丸を上段に構えた。瞳に靄がかかり、段蔵の背中が揺れる。

「段蔵さん」震える声と腕。月明かりに照らされて、鬼斬り丸がより一層、幻想的な光を放つ。

カラン。景虎の手から鬼斬り丸が落ち、乾いた音を立てて地に転がった。

その刹那、ざくりと肉を押し潰す鈍い音が、景虎の耳をついた。

「ご免」

ずぶずぶと神五郎の脇差が、段蔵の体躯に沈んでいく。

「神五郎!」景虎が神五郎の手を止めようと両手をかけたが、神五郎は全体重を刀に乗せて白刃を段蔵に突き立てた。

血が段蔵の小袖にみるみる滲み、深紅に染めた。

「段蔵殿。あの世で会おう」神五郎はそう言って、脇差に肘を押し当て、真一文字に刃先を突き上げた。

「……景虎……愛している」最後の言葉を残して、段蔵は静かに息を引き取った。

「段蔵さーーーーーん!!!!!」

臓腑が剥き出しになった段蔵の体を抱いて、景虎が咆哮を上げた。

景虎の涙が、段蔵の満足そうな優しい死に顔を濡らす。

 庭の木陰がざわりと音を立てて、闇に紛れた。


3 甲斐の虎

息の長い雨が数日前から降り続いていた。雷が間遠に薄く鳴っている。

「おい!片目!まだ出来ぬのか!何の為に貴様なんぞを飼うていると思ってか!源助!!この晴信いつまでも仏心は持ち合わせておらぬぞ!」

武田の棟梁、晴信はなかなか進展しない南信濃攻略に苛立っていた。晴信は手にしていた濁酒が入った椀を源助に投げつけて源助を咎める。源助は椀をよけず額で受け止めた。

「はは!今しばらく、今しばらくお待ちください」

源助は畳に額を擦りつけて、苛立つ晴信に赦しを乞うた。源助の全身は汗ばみ、歯の根が合わず、声が震える。

慌ただしい足音が近づき、下座の廊下で戦装束の男が膝を立てて頭を下げた。

「伝令!親方様に申し上げます。馬場様、高坂様、南信濃全て制圧!」

「あい分かった。馬場、高坂に速やかに帰還せよと伝えい」

晴信は大げさに応えた。

「は!」伝令の男は頭を下げて、急いで部屋を後にした。

「馬場、高坂は確実に戦果を上げておる。それに比べ貴様は、小笠原、村上の軍勢に対して、闘わずして勝利を収めるなどと、大風呂敷を広げるだけ広げて、戦果は未だ無し」

晴信が一段下げた声で源助を叱責した。

「今しばらく、今しばらく!」

源助は恐々と頭を下げた。

「後、ひと月」

晴信が人差し指を立てて、重い声で言った。

「は!」源助は下げた頭をさらに下げ、晴信の命を訊いた。

 「貴様の首。分かっておるな!ひと月で何かしらの戦果を挙げい!!」

 館が震えるほどの怒号が源助に浴びせられる。

 「必ずや!」

「それと、越後の上杉が後方より信濃に下ってくれば我軍勢は挟まれてしまう。景虎の動向、調べよ。それと同時に、越後と講和を結ぶ。奴は、類稀なる律義者だと聞き及んでおる。一度講和すれば、向こうから攻めてくることはあるまい。源助、会えるように手はず致せ!!」

晴信は声色を変調させ、獣のような眼光で源助を刺すと、部屋から出ていった。

「は!!」

 源助は額に血が滲むほど押し付けていた畳から、ゆっくりと頭を上げた。

 「後、ひと月」

大粒の雨脚が屋敷を砕かんばかりに打ち叩いた。

悪政で名高かった父武田信虎を駿河国に追放し、武田家の当主となった。信虎の治世は度重なる外征の軍資金確保のため、領民に重税を課した。怨嗟の声が国中に響き渡った。信虎の追放は領民からも歓迎された。しかし、信虎を主と仰ぐ家臣たちも多く、次男の信繁を当主にとの声も大きかった。晴信はお家騒動に発展させないため、奔走していた。そんな折、異形の男が仕官を申し込んできたのだった。

源助の風貌は醜男で左眼は無く、土竜の皮を鞣して作った眼帯を嵌めていた。また、左足の大腿(ふともも)の中ほどから下が無く、鉄で作った義足を装着していた。移動時は松葉杖を突き、足を引きずるようにして歩いた。

 源助が晴信に仕官を申し込んだ時、晴信は濁流のように溢れ出る、源助の圧倒的な知識量に舌を巻いた。

「測量技術を用いて地図を作り効果的な戦術を」

「爆薬の元となる硝石の生産方法は、ヨモギの根に小便をかけると化学反応を起こして」

「鋼板に鉛と銀を溶かして塗り、箱型にすれば食料の保存が可能となり」

「啄木鳥戦法と言うのは」

話せば話すほど源助の脳漿は冴えた。

「秘技や秘伝なんていうものは、科学で幾らでも解明できまする。武経七書も然り!」

源助は身振り手振り、大げさな言い方で晴信に力説した。晴信は源助の森羅万象を掌握する学問の深さに、心底聞き惚れていた。

「ははは」晴信は豪快に笑い「おぬしの話を聞いていると、神も仏も科学とやらで、丸裸にされそうだな」と皮肉にも感心にも取れる言葉を源助に放ち、パンと勢いよく膝を叩いた。

「見てくれの悪さを差っ引いても、おぬしの知恵は大将首に値するぞ」

と、称賛し源助の仕官を認めた。晴信は源助に足軽大将格の待遇を約束し、知行百貫(年俸800万円程度)を与えた。

源助が晴信に仕官して間もなく、晴信は、隣国諏訪氏との同盟を反故にし、進軍し勝利した。それまで、同盟国だった諏訪を攻めた理由はただ一つ。

「欲しい」 

晴信が『尋常隠れなき美人』と称される諏訪頼重の娘に一目惚れした。戦利品として、当時まだ十四歳だった姫を晴信は側室へと所望した。重臣たちは揃って反対したが、源助が諏訪への懐柔策になると進言し、重臣たちを説き伏せた。この功績が認められ、源助の知行は一気に二百貫(年俸1600万円程度)に増大し、晴信の信頼を得ることとなった。

源助は己の屋敷に戻ると、わき目も振れず奥座敷に向かった。分厚い座布団にドカと腰を下ろし、声を荒げた。

「後、ひと月じゃ!」

「親方。遅かったじゃないですか~」

精悍な顔立ちをした少年が、柱に背をもたげて立っている。

「おお、重治首尾はどうだ!」

重治の顔を見た源助は、飛び跳ねるようにして立ち上がった。

「粗方上がっていますよ。彦太郎さんがお頭を連れて来いって」

「そうか!間に合ったか!行くぞ!」

屋敷の地下に設置された研究室へと三人は足を運んだ。


重治の親兄弟は戦渦に巻き込まれ皆殺しにされた。唯一生き残った重治も瀕死の状態だった。

「百戦百勝は善の善なるものにあらず。戦わずして人の兵を屈するは善の善なるものなり。彼を知り己を知れば百戦して殆うからず。兵は国の大ことにして、死生の地、存亡の地なり。察せざるべからず」

こと切れる寸前の幼子が、弱々しく諳んじる孫子を耳にした源助が、重治を抱きかかえ忍びの里に連れ帰った。重治は源助が教える、物理工学、電子科学、薬学、鉱石学等々様々な学問を乾いた大地が雨水を蓄えるように吸収していった。源助はそれまで、摩訶不思議な術として認識されていた忍法を科学として捉え、研究していた。源助は重治の才を見抜き、忍術科学班上忍頭彦太郎のもとに5つに満たない重治を預けた。十歳になった重治は他の忍びを抜きん出て、彦太郎の片腕となっていた。彦太郎はこの才能溢れる子供を実弟のように可愛がった。彦太郎もまた、戦がもたらせた孤児の一人だった。

 滑車で作動するように細工された鋼鉄製の扉が自動的に開く。源助が地下研究室に雪崩れ込むようにして入ってきた。彦太郎は慌ただしい来訪者に振り向きもせず、治療台上の物体に手を掛けていた。簾のように天井から垂れ下がった、数千本もの配線が治療台上の物体に集中して降り注いでいる。

 「彦太郎!できたか?!」

 彦太郎はふ~。と小さなため息を漏らすと、源助に向きを直して膝をついた。

「お頭、完成いたしました。後は、作動させるだけでございます」

彦太郎は改まった口調で源助に言った。

「ご苦労!皆よくやってくれた」

「は!!」

源助が労いの言葉をかけると、その場にいたすべての忍びたちが膝を折り、源助に頭を下げた。

「配置に就け!!時は、一刻を争う」

源助は興奮で粟立つ腕を大きく振りかぶり、手刀で空を切る。

「は!」

源助以下全ての忍が、色眼鏡を装着し配置に付いた。

「我等影忍の力!科学の結集!森羅万象の神々に抗い給うた、最終忍術!今ここに完成させるのだ!」

重々しい機械音がコンクリート壁を殴打し、無数の配線や機械から火花が飛び散る。透破衆が慎重にコントロールパネルの調節を行う。台上の物体から閃光が迸った。ウイーンと鈍い機械音と共に、台上の物体が動き出した。四方八方から照射されるレーザー光線が物体に集約される。

「忍法!黄泉帰り!」

源助が騒音の中叫ぶとレーザー光線が集合し、物体の頭上を突き刺した。

人の形をした物体は、無数の配線を引き千切りながらゆっくりと診療台を下り、モーター音を響かせて立ち上がった。ドライアイスとショート寸前の機器から発生した煙幕の中、仁王立ちした物体の目が赤光した。


昨夜まで降り続いていた雨が嘘のような五月晴れの中、小鳥が賛美の歌を囀っている。

景虎は桃色のプライペートルーム専用羽織に身を包み、侍女に教えてもらった鈎編みで、襟巻を編んでいた。

子犬姿の雷電が、景虎の傍らで昏々と眠っている。寝息を立てる雷電の頭を優しく撫でながら、平和ってこういうことなのだろうと実感する。

「かわいい❤」

無邪気に前足で顔を掻く雷電を見て、ほくそ笑んでいると、廊下からドタバタと急ぎ気味の足音が聞こえ、パンと部屋の障子が勢いよく開いた。

「謙信様!なんですか、昼間からこの体たらくは!あ~あ、こんなに編んじゃって。三間(約5m50㎝)はあるじゃないですか!」

神五郎が部屋に入ってくるなり小言を放ち、眉間に皺を寄せて景虎の編んだ襟巻をつまみ上げた。

「今は、学問の時間じゃないのですか?」

神五郎はそう言って、目を細める。

「だってさぁ。勉強していると虎ちゃん、眠くなっちゃうんだもん」

景虎は口を尖らせて、伸びをする。

「また、そんな口の聴き方をして。自分のことを虎ちゃんって呼ばない!それに出家して、ご自分で謙信って名前変えたでしょ!」

景虎改め謙信は、憤慨する神五郎の鼻先に顔を近づけた。

「な・何ですか?」

家中に名高い越後随一と謳われる美貌が、鼻先に来られては堪らない。衆道の趣味の無い男どもでさえ、謙信の美しさに見とれるほどだった。謙信は十七歳という美の絶頂期。近習として長年仕えてきた神五郎とはいえ、さすがに照れる。

「強そうでしょ❤」

謙信が艶っぽい唇から白い歯を覗かせる。

神五郎は謙信に背を見せて少し距離をとり、咳払いを一つして、謙信に向きを直した。

「殿は我らが上杉軍団の棟梁なのですよ棟梁。しっかりしてください」

「僕はしっかりさんだよ」

謙信が頬を膨らませて、そっぽを向く。

去年、定実のはからいにより、兄晴景とのお家騒動に終止符を打ち、謙信は長尾家当主となった。長尾家が安泰になったのを見届けるかのように、越後守護上杉定実が逝去。守護代であった謙信が越後守護の座に着いた。守護着任を機に、謙信は栃尾城から居城を春日山に移した。

定実逝去から半年後、関東管領上杉憲政が、北条氏に国を追われ、謙信を頼って越後に身を寄せた。謙信は憲政と養子縁組し関東管領の役職を譲り受け、上杉謙信と名を改めた。憲政は隠居し、今は春日山城下で安穏と暮らしている。

段蔵が死んで丸々一年。景虎は山寺にこもり、人前に姿を現さなかった。

山から下りてくるなり、目まぐるしい政治の世界に引き込まれ、あれよと言う間に関東管領まで上り詰めていた。

謙信の役職が上がるにつれ、謙信のことをよく思わない元晴景派、定実家臣たちの反乱相次ぎ、戦に追われる毎日だった。

「どこが。ど~こ~が。しっかりしているんですか?ひと月に一回は必ず山寺にこもってしまわれる。定評で拗ねて出て行かれたっきり、戻ってこないな~。また、山かなぁ。って思ってたら、勝手に出家して名前まで変えてくる始末」

「べつにいいじゃない。出家したくなったんだも~ん。神五郎に迷惑かけてないでしょ」

「ビックリするでしょ!!いきなり主(あるじ)が出家して、坊主になっちゃったら!」

「神五郎。もう年なんだからさ。そんなに興奮して血圧上げたら、倒れちゃうよ」

「拙者は生まれてこの方、病なんか患ったことは御座らぬ。話をはぐらかさないで頂きたい」

「脳卒中怖いよ~。冬場に厠(かわや)行って、そのまま死んじゃうかもよ~」

「そんなみっともない死に方は致しませぬ」

神五郎がキッパリと言い放つ。

「それより、晴信君、信濃まで来ているらしいね。うちまで、攻めて来るかな?」

 謙信は小指の爪を齧りながら神五郎に訊いた。

「おそらく」

 神五郎は目を伏せて、重々しく応えた。

「僕に勝てると思ってんのかな?」

「晴信は孫子、六韜(りくとう)などの兵法を駆使して、無敵を誇る騎馬隊を自由自在にあやつり、着実に隣国を責め滅ぼしておりまする」

「孫子ねぇ。古典ジャン。古典。今何時代?古いよぉ」

 謙信は馬鹿にしたように言うと、傍に置いていた壺の中に手を伸ばした。

「殿。古くても、古典でも、何時代でも晴信は戦に勝利しているのです。信濃平定の暁には、わが国に責めてくるは時間の問題かと」

「攻めて来たら。ぶっ殺す。それだけじゃん」

 謙信は壺から取り出した芋けんぴをパキリと折った。

 「さりとて、武田晴信は」

 神五郎が謙信の浅い思慮に苦言を重ねようとすると

「くどいぞ神五郎!毘沙門天の名のもとに我軍は無敵である。私がこれまで負け戦をしたことがあってか!」

謙信は寝台から立ち上がり、表情を一変させて神五郎を嗜めた。

「おおせの通り」

神五郎が膝を折って礼をとった。

「軒猿を放て。晴信の動き逐一報告いたせ」

「は!」神五郎は声を張って謙信に返答すると、申し訳なさそうに、そろりと顔を上げ「それが……」と言葉を続けた。

「まだ、何か有るの?」

謙信はピンと張り詰めた気を一気に緩め、面倒くさそうに寝転がる。

 「武田晴信家臣、山本源助と申す者が、御目通りを願いたいと」

謙信はむくと上体を起こした。

「武田が!どうしてそれを早く言わないんだよ。神五郎!お前部屋に入って来てから、結構、無駄話長かったよ~。使者が来てんなら、それ先に言わないとでしょ!」

「だって、殿が編み物やってたから」

神五郎は頬を膨らませて拗ねてみせる。

「そんな顔してもダメ!!早く使者を客間に通せ」

「御意」


源助はかしこまって、謙信の前でひれ伏している。

普段着から正装に着替え、謙信が上座で胡坐をかいている。

「晴信様よりの伝言で御座います。一度謙信公と会見いたしたいとのこと。晴信様は、駿河、遠江、三河へと兵を進める所存、後方の謙信公と講和を結び、京都へ向かわれる御つもりで御座います」

「晴信は京を目指すか。天下人にでもなるつもりか」

神五郎がぼそりと零す。謙信は神五郎を手で制する。

「謙信公に置かれましては、親方様は、共に天下をと、申されておりました」

「私は、朝廷より関東管領職を頂いておる。北条氏とのいくさを控えており、天下を望むなど考えたことも無いわ」

「晴信公との会見の件何卒!」

源助が畳に額を押し付ける。

「まぁよい。晴信公との会見の件は後日連絡いたす」

源助は畳に額を付けて一礼。義足を立てて立ち上がり、大仰に体を捻って謙信に背を向けた。

「源助殿」

謙信は源助に近づき、眼帯を嵌めた戦傷だらけの顔をそっと撫で

「戦人(いくさびと)の良い顔じゃ。神の加護がありますように」

 神仏に祈るように両手を合わせた。

「ご免」

源助は浅黒い異形な顔を赤茶に染めて、足を引きずって客間を後にした。

「どう思う神五郎」

手を合わせたまま、謙信が声をひそめた。

「罠に御座りまする」

「やっぱりそうか~」

「晴信は実の父親おも殺すような冷血漢に御座います。殿に何か有ればこの神五郎、追い腹を斬らずには居られませぬ」

「……しかし、攻めて来れば致し方ないが、北条の動きも不穏だ。晴信が攻めて来れば、兵を二分せねばならぬ。こちらにとっては分が悪い」

「それは、そうで御座いますが」

「晴信公ほどの大名であれば、会合の場でいきなり切りつけてくるなど無粋なやり方はしないでしょ。越後を本気で攻める気なら、正面から来るっしょ」

「では、行かれるおつもりですか」

「いや、晴信公に出向いて頂こう」

「来ますか?」

「向こうが会いたいといっているんだ。来なければそれまでだよ」

 

 晴信との会合は、国境の寺で行う運びとなった。

先に着いていたのは晴信だった。晴信は正装で、きちんとした作法で謙信を迎えた。

非道、卑劣と謳われる晴信からは想像もできない姿だった。。

謙信もよそゆきの格好で、晴信から三間(約5m40㎝)ほど離れた場所にようおいされていた座布団に腰を下ろした。

対峙して一刻もの間二人は一言も話さなかった。長い沈黙が寺の本堂に流れる。開け放たれた窓から、向陽に暖められた心地よい風が、謙信の頬を優しく撫でる。先に開口した方が負け、といった暗黙のルールでもあるかのように、二人は押し黙っていた。茶坊主があっち行き、こっち行きして、空いた茶碗の対応に追われている。

「あーーーあ」

唐突に沈黙を破って、晴信が大口を開けて伸びをした。

 びくっと肩をすくめて、謙信が目を丸くする。

「辛気臭いのはどーも苦手でね」

てらいのない晴信の笑みにつられるようにして、謙信もくすくすと微笑んだ。

「野でも駆けませんか?」

 晴信が腰を浮かせる。謙信はコクリと頷いて返答した。

「はいやーー!」

いち早く馬に跨り、走り出したのは晴信だった。

謙信も放生月毛に跨り、晴信の背中を追った。

「はいやーー!!」

一進一退、晴信と謙信の早馬デッドヒートが繰り広げられる。

 晴信は急峻な崖を馬で駆け降りた。謙信も放生月毛に鞭打ち、追走した。

 「なかなかやりますな」

 ニコリと爽やかに歯を零す晴信に

 「晴信殿こそ」

 と、謙信が馬上で返す。

 少し野の広がった川沿いで晴信が手綱を引いた。

晴信の馬が嘶き、急停止する。

「どうどうどう」

晴信は馬首を愛でるように優しく擦って落ち着かせると。鞍から腰を浮かせて、地に足をつけた。謙信も倣うようにして馬を下りた。

川面に陽光が反射して、煌めいている。小川のせせらぎと、夏を待ちわびる小鳥のさえずりが辺りを包む。遠目に百姓たちが嬉々と田植え唄を奏でて、腰をかがめていた。

晴信は川辺に腰を下ろして膝を抱え、感慨に耽けるように百姓たちをぼんやりと眺めた。手持ちぶさただったのか、雑草を一掴み引きちぎり、口にあてる。晴信の吹く草笛の音色は、目前に広がるのどかな情景を見ことに表現している。

謙信は抱えた膝の上に顎を置いて、ぼんやりと景色を見つめ、晴信が織りなす音曲に身をゆだねる。

晴信は草から口を放し優しい口調で話し始めた。

「私は百姓たちが田植えをする風景が一番好きでねぇ。戦の無い平和な世を築かなければと心底思わされる」

 謙信は薄く笑みを浮かべて、首を縦に振った。

「私のことを悪鬼だ、羅刹だ、と噂するものもいるが、百姓たちが安心して暮らせる国を作ることこそ私の役目だと信じておる。その為ならば、私は悪鬼にでも羅刹にもなってみせる」

これが武田晴信か、初めて見る晴信の姿は、謙信にとって衝撃的なものだった。実父を追放し、諏訪の娘欲しさに武力をちらつかせる、暴君なイメージはどこにも感じられなかった。

戦国を生き抜く武将らしい、威風堂々としたたたずまい。精悍な顔立ちに涼やかな目元。見るものを思わず振り返らせる美男子振り。一見、歌舞伎役者のような風情を醸し出している。黒い噂を抜きにすれば、むしろ、好印象の方が先に立つ。

「そろそろ、本題に入りませんか」

 一転して神妙な顔を作る謙信。

「そうですね。で。どうですかね」

 晴信は晩飯の献立でも訊くような軽口で、謙信に訊きかえした。

「晴信公こそ」

「私としては、あなたとは戦いたくない」

「私というより、後方より来るなと聞こえますが」

「はははは。正直なお方だ。我が甲斐の周囲には北条、今川、斎藤、がいる。どこも強い大名ばかりだ。後方にはあなただ。わが国は、四方を強敵にさらされている」

「それで」

「私は、天下を目指す所存だ。どうです。共に天下に上りませんか」

「そのお答えは、以前あなたの家臣にもいたしました」

「律義者よのう」

「なっ……」

馬鹿にしたような晴信の口調に、謙信が眉を吊り上がらせる。晴信は緩めた顔を引きしめ

「関東管領職なんぞ、あなたの首を締めるだけですよ」

「朝廷から頂いた役目を反故にはできぬ」

「それですよ」

「えっ」

「その朝廷があなたを利用してるに過ぎない」

「そんなばかな」

「あなたが北条、武田とやりあえば、互いに傷は大きく、衰弱した足利幕府に庇護されている朝廷としては、抵抗勢力となりうる、者達の減弱を引き起こすことになる。そうなれば、未だに、足利氏を敬う大名を集め、足利氏再興へと乗り出す所存」

「しかし」

「今の幕府に何が出来る!!幕府としての統括も出来ず。今や群雄割拠の戦国の世だ。戦があちこちで起こり、民百姓は、安心して暮らすことも出来ない。誰かが一刻も早く戦国の世を終らせ、平安をもたらせなければならない。そこでだ、戦国最強と謳われるそちと、手を組みたいのだ」

熱く語る晴信が、謙信の手を両手で包むようにしてガシリと握った。

謙信は晴信のとっぴな行動に驚き、咄嗟に手を引っ込めた。

晴信は気にも止めず、

「わしは、天下人になる。民百姓の為にも」

ひとりごちるように呟き、突然謙信に向かって土下座した。

「頼む謙信殿この晴信に手を貸してくださらんか」

「晴信殿お手を。お手をお挙げ下され」

当惑気味に謙信が晴信の両手を握る。

「それでは」

晴信は希望に満ちた目を謙信に向けた。謙信の考えも、根っこのところでは晴信と同じだった。

「民百姓の為ともなれば、是非も無し。私は、あなたといくさになるような真似は致しません」

「ありがたい」

「共に民百姓の為、戦国の世を終結させるために」

「共に」

晴信と謙信は見つめ合いながら黙って頷く。


鬱蒼とした灰色の雲が空を覆い、じとじとした小雨が数日間降り続いていた。

「こう雨が続いては気が滅入る」と、晴信は侍女に申し付け、風呂を沸かさせた。

四半刻ほど湯に浸かり、風呂から上った晴信は、無頓着に着衣を纏わず、フンドシ姿で奥の間に入った。

「体が鈍っちまうな。よし。ふん、ふん、ふん、ふん、ふん」

フンドシ姿でしこを踏む晴信。 

「殿」

開け放たれた障子の脇から、源助が静々と現れた。

「ふん、ふん、ふん」源助の登場に驚いた様子も見せず、晴信は飛び跳ねながらエアー猫だまし、くるくる舞の海、三所攻めと相撲の技を繰り広げている。

「いやー源助ちゃん!元気してた?相撲ってのはやっぱ、あれだね小兵で技いっぱい出すやつがいると面白いねぇ。どう思う」

「は!」

晴信のくだけた挨拶に、源助は恐縮し、かえって身を固くする。

「固い。固いなぁ」

頬を崩落させて話す晴信とは対照的に、源助は態度を変えず、恐々と佇んでいる。

「は!」

「それが固いのよ。肩こってる?」

晴信が源助の肩を揉み始めた。

「はふう」

くすぐったいような、気持ち良いような、申し訳ないような、気持ち悪いような、複雑に気持ちが入り混じった。「はふう」

「源ちゃん、感じやすいんだねぇ」

「恐縮です」

「まぁいいや。こないだは、ごめんねぇ」

謝るように片手を振って、晴信は浴衣を羽織った。

「いえ、とんでもございません」

「あーでも言わないと、他の家臣に示しがつかんでしょ。俺としては、買ってるのよ。源ちゃんのこと」

「有り難きお言葉」

「で、どないだ、按配は」

 話しながら、しこのフォームを気にする晴信。

「今宵、五百の兵をお借りいたしたく、参上に上がりました」

「ほう五百とな。村上、小笠原は、連合軍で来るだろうねえ。そしたら、五千はいるよ」

信濃葛尾城主、村上義清は、槍の名手でその名を轟かせ、信濃の東部から北部を支配下に収めた実力者。兵力差もさることながら、義清の武勇によって信濃北部政略は失敗続きだった。

「了解しております」

晴信の危惧を払拭するように源助はニヤリと笑って応えた。

「まあよい。お主の戯言に付き合ってくれるわ。五百の軍勢しかと預けた」

「一兵の雑兵も無駄にすること無く、北信濃を手に入れて見せまする」

「貴様の大風呂敷、楽しみにしておるぞ」

「は!」

雨がやみ青空が顔を出した。数日振りの陽光が、晴信を照らした。

 

「伝令!武田軍!約五百!我領地に進軍中!」

「なに?五百だぁ。この村上を愚弄しておるのか。晴信は!目に物みせてくれるわ!全軍出撃!武田を蹴散らし、信濃だけでなく、甲斐をも我が物にしてくれるわ!」

 義清は怒り心頭、朱槍を握りしめた。義清の朱槍は二間一五貫目という巨大なものだった。義清は五尺ほどの小男だったが、身長の倍ほどある槍を自在に操った。

「あなた。また、戦なのですね」

乳呑児を抱いた正室お登勢が義信の肩に顔を埋めた。義清は肩に乗せられたお登勢の頭を優しく撫で

「心配するな。このわしが晴信なんぞに、やられるわけが無かろう。またあの若造に一泡食わせてやるわ」

「御武運を」

 心配そうな顔を浮かべる妻に義清は、屈託のない笑みを浮かべて

「今宵は、お前の芋煮が喰いたいな」

そう言って、お登勢の顎先をちょんと指で弾いた。

 「はい。腕によりをかけますね。楽しみに帰って来て下さい」

 お登勢が唇を震わせながら微笑んだ。

 義清は「坊主を頼む」お登勢に軽く頭を下げて、踵を返した。

愛妻家で知られる義清の顔は、もはやそこには無く、戦人(いくさびと)の貌(かお)へと変化している。

「馬を引け!!村上軍の恐ろしさ、武田にとくと思い知らせぃ!!」

 村上軍の先方隊は義清の片腕、安中一藤太。安中は2千の騎馬隊を率いて、物見の情報があった、武田軍の進軍経路へと馬を走らせていた。義清は騎馬隊の後方から追走する形で、村上軍の指揮を執っている。

菅笠を差した一人の男が、先頭を駆ける安中の目に入った。

「武田の手のものか!」

 安中の槍が男をロックオンする。

 バリバリバリバリバリ

 男の指先から無数の弾丸が飛び出し、安中の体を蜂の巣にした。

「一藤太!!!」義清の悲痛な叫びが山肌を殴打する。「おのれ、一人で何が出来る。踏み潰してくれるわ。騎馬隊全軍突撃!」

数千の馬群を目にしても、男はひるむこと無く、平然と腕を突きだす。右手の平から数十センチはあるロケット弾が発射され、騎馬隊に打ち込まれた。

ドカーーン。

爆発音と共に人馬もろとも肉塊となり、生臭い山を築いた。

 「なんだ、あれは。怯むな!!押し潰せ!!」

 見たこともない攻撃に義清は驚きながらも、進軍の手を止めない。

 次に男は、左腕を伸ばした。手の平から赤く光る球がにゅーっと押し出されるように現れた。玉には、『PRESENT FOR LITTLE BOY』と小さく刻み込まれていた。

 赤い球はシュパッ!と雲一つない青空に放たれた。球は、上空50Mほどの位置でピタリと停止した。次の瞬間。ピカッと強烈な光を放って破裂した。

 物凄い高温の熱風が頭上から吹き降ろされる。周囲の森が焼け、河が干からびた。人馬は焼けただれ、黒こげになって地を這った。一瞬の出来ことだった。

 一刻ほど経ち、男の立っていた場所の土が、ごそりと鳴る。土の中から、男が現れた。男は着物をパンパンと払い、土にまみれた菅笠を振って土を落とす。

ガサ、ガサ、ドサ

義清は爆風で飛んできた馬に押され、大岩に挟まれていた。

黒こげになった馬を退かせて、辺りを見渡すと、自然豊かだった街道沿いは、焦土化し、死臭が立ち込めている。先ほどまで広がっていた青い空が消えて黒い雨がぽつりぽつりと降っていた。

一瞬にして灰となった悲惨な戦場の中で、乱れた着物の襟を整える男を見つけた義清。男が義清の方へと顔を向けた。

左半分が機械、右半分が人の肉をつけた男の顔が義清の目に入った。

「……貴様、人ではないのか」

どさりと倒れた義清の体半分は、肉が焼け、骨が炭となり粉砕していた。義清の体躯は、大粒の黒い雨が覆い土と化した。

降りしきる雨の中、男は菅笠をかぶり、甲斐へと帰って行った。


早馬の駆ける音が、躑躅ヶ崎(つつじがさき)館(やかた)に鳴り響く。

かがり火、燃え盛る中、晴信は床机(しょうぎ)に座り、腕を組んで黙祷していた。

「伝令!山本源助殿、村上・小笠原軍、見こと大破し、大勝利を収めました。尚、我軍の死傷者は無し」

「何!源助の大風呂敷がとうとうやりおったか!我軍の死傷者は無し?一人もか」

 晴景は床机から飛び上がり、嬉々として両手を叩いた。

「一人も、しかもたった一日の間に」

「一日!あやつ、妖術でも用いたか。はははは。天獅子が勝利を祝っておるわ。ははははは」

勝利に酔いしれる晴信。満天の星空の中、レグルスがひと際光り輝いていた。

 

 義清の悲報は甲斐だけでなく、越後、信濃等々隣国に飛んだ。

 「何!義清が!」

謙信はガタンと立ち上がり、悲報を伝えた神五郎の肩を掴んだ。

 「御意」

 「お登勢殿は?」

 「野戦での討死とのこと。お登勢殿とご子息はご無事です」

そうか、と謙信は力が抜けたようにその場に座り込んだ。

晴信の越後侵略を危惧した神五郎が、謙信に詰め寄る。

「軒猿の話によれば、村上、小笠原軍5千余り、たった一人の剣客によってほぼ壊滅したとのことです」

「たった一人で?ふーん、有り得ないでしょ」

本気にしない謙信に神五郎が神妙な面持ちで、……それが、と声色に畏怖を含めて話を続けた。

「その剣客が……あの、飛加藤にそっくりであったと」

「えっ?段蔵さんは……二年前に死んだじゃないか」

顔色を変えて、謙信が大きな瞳を見開く。

「確かに。二年前、それがしがこの手で段蔵の心の臓を突き破ったのですから」

「段蔵さんの墓は?」

「堀返しました。骨一本、出なかったとのこと」

「段蔵さんは、自らの忍術で生き返ったとでも言うの?」

「分かりませぬ。ただ、似ていたと言うだけですから」

「神五郎。その男。兎に角調べ上げろ」

謙信の命を受けて、神五郎が奥の間を後にした。

「段蔵さんが……生きていた」

胸に広がる温もりが、謙信を覆った。謙信の頬に、きらりと輝くほうき星が尾を引いた。

 

 「奥方様!武田の手のものによって、親方様討ち死に!」

なかなか帰らぬ義清の様子を見に行っていた家臣が、業火に焼き尽くされた地獄絵図を報告した。家臣は懐から戦場で奇跡的に焼け残っていた、義清の印籠をそっと畳に置いた。

妻は印籠を手に取り、その場に崩れ落ちた。声にならない喉を絞めた嗚咽をあげて、御くるみに包まれた我が子を抱きしめる。目を伏せて動きを止めていた家臣が、戸惑いながら進言する。

「背を焦がし、命からがら生き帰ってきた兵が言うには、たった一人でわが軍を灰にした武田の侍が、飛加藤様に瓜二つであったと」

あまりの驚きに目を見張り、家臣の顔を凝視する。号泣していたお登勢の涙が、ピタリと止まる。お登勢の貌は引きつり、悲哀よりむしろ恐怖すら垣間見られる。乳呑児を強く抱きかかえ、家臣を下がらせた。

「……兄上が生きていた」

突然、赤子が大声をあげて泣き出した。「よしよし」お登勢は子をあやしながら、涙を零した。


源助の帰還を待ちわびていたように、晴信が大門前で出迎えた。源助は晴信の前で片膝をついた。嬉々として晴信は源助の肩を叩き、五千もの軍勢を一瞬にして灰に変えた、玄術ともいうべき所業の手法について問うた。頭を垂れ何も語らぬ源助に、晴信は別段気分を害する様子も見せず、まぁよいよい、と追及しなかった。

頬を緩めたまま晴信は「飛び加藤の名は知っておるか?」さらりと言った。

あからさまに狼狽する源助を横目に、晴信は鼻を鳴らして

「今日よりお主は、山本勘助晴幸と名乗るが良い。八百寛文増加。我が軍師となり、戦を指揮いたせ!!」

「はっ。ははーーー。有り難き幸せ!!」

額を地面に押し当て、感謝の意を表明する勘助。晴信は上機嫌のまま城へと入って行った。

「相変わらず、耳ざとい」

ちっと舌打ちする勘助の目には、どす黒い光が宿っていた。


段蔵が血だらけで佇んでいる。腰には、大将首が幾つもぶら下がっていた。数人の忍び達が一斉に手裏剣を段蔵に打ち込む。段蔵は宙返り、攻撃を避け、機銃戦闘機のように弾丸を忍びたちに浴びせた。辛うじて弾丸を回避した忍びの一人に段蔵が詰め寄る。

「待て、飛加藤!いや段蔵!ワシだ!佐間の助だ。覚えておらんか、軒猿で一緒に仕事をした中ではないか」

「知らぬ」

 重くしゃがれた声が静かに放たれる。

「謙信様、いや景虎様の下で共に働いたではないか!」

「景虎……様」

「そ、そうだ。景虎様だ」

「知らぬ」

「お主、記憶が……景虎様を忘れたのか」

「知らぬ」

 指先を佐間の助に向ける段蔵。

「待て、段蔵!景虎様から頂いた饅頭をみなで食べたではないか。共に透破衆を倒したではないか」

「知らぬ、知らぬわ!!」

機銃音が血塗れの戦場に鳴り響いた。

返り血を浴びた己が姿を見る段蔵。奥歯が鳴り、手足が震えだした。何処からとも無く耳の奥で声がする。

「信濃は何と言ってもお蕎麦!お蕎麦食べに行きましょうよ。五平餅売ってるかな?楽しみだな~」

見覚えのある光景が頭に浮かぶ。

ザァーーーー

砂嵐が映像を遮り、ぷつりと真っ暗な闇が脳内に広がり思考が停止する。

 「この傷も、この傷も、全部僕を守るためにつけた傷だ。これも。これも」

 「段蔵さん、段蔵さん」

ザァーーーー

「あなたの子を宿しました。私はこれから一年山寺にこもり、この子を産みたいと思います」

ザァーーーー

「段蔵さんへの思いを一生忘れないように、あなたを兼ね、永遠に続く愛。名は兼続と名づけますね」

ザァーーーー

甲高い女の声が、頭の中に渦巻く。怒りと憎しみ、人を殺すことに必要な感情のみをプログラムされていた段蔵の脳に歪みが生じる。赤子の鳴き声が木霊し、狂気が最高まで上り詰めていく。

景……虎……景虎、景虎、景虎、景虎景虎景虎景虎景虎景虎景虎景虎景虎景虎景

景虎景虎景虎景虎景虎景虎景虎景虎景虎景虎景虎景虎景虎景虎景虎景虎景景虎

景虎 景虎景虎景虎景虎  景虎                  景虎

景虎 景虎 景虎 景虎  景虎 景虎景虎景虎           景虎

景虎 景虎 景虎 景虎  景虎 景虎  景虎     虎景景虎  景虎

景虎 景虎 景虎 景虎  景虎 景虎  景虎           景虎

景虎 景虎 景虎 景虎  景虎 景虎  景虎           景虎

景虎 景虎 景虎 景虎景虎景虎 景虎  景虎景虎景虎景虎景虎景  景虎

景虎 景虎 景虎 景虎  景虎 景虎  景虎           景虎

景虎 景虎 景虎 景虎  景虎 景虎  景虎           景虎

景虎 景虎 景虎 景虎  景虎 景虎  景虎     景虎景虎  景虎

景虎 景虎 景虎 景虎  景虎 景虎景虎景虎           景虎

景虎 景虎景虎景虎景虎  景虎                  景虎

景虎景虎景虎景虎景虎景虎景虎景虎景虎景虎景虎景虎景虎景虎景虎景虎景虎景

景虎景虎景虎景虎景虎景虎景虎景虎景虎景虎景虎景虎景虎景虎景虎景虎景景虎

景虎 景虎  景虎景虎    景虎景虎      景虎景虎    景虎     

景虎 景虎  景虎        景虎         景虎   景虎

景虎 景虎  景虎        景虎      景虎景虎    景虎

景虎 景虎  景虎景虎      景虎景虎景虎景虎        景虎

景虎 景虎  景虎 景虎     景虎景虎景虎          景虎         

景虎景虎景虎景虎景虎景虎景虎景虎景景虎   景虎         景虎

景虎     景虎   景虎          景虎       景虎

景虎     景虎    景虎          虎景      景虎

景虎     景虎     景虎           景虎景虎  景虎

景虎     景虎景虎景虎景虎景虎景虎景虎景虎景虎景虎景虎景虎景虎景虎                  

景虎景虎景虎景虎景虎景虎景虎景虎景虎景虎景虎景虎景虎景虎景虎景虎景虎


「……景……虎。……俺は……一体」

地に両手をついて、肩で呼吸する段蔵。

耳の奥の声が次第に声量を上げていく。


お前は利用されただけなんだ

忍びなんて人以下の存在だ

死を望んだのはお前自身だろう

死に怯え生きながらえている

望みがあると思っているのか

死ねば楽になるのに、お前は未だ死ねずにいる

愚かだ、愚かとしか言いようがない

死ね、死ね、死ね、死ね、


「がぁぁぁぁぁーーーーーーーー」

苦悩が全身を駆け巡る。漆黒の闇が胸中を圧迫する。広がる暗雲を吐き出すように、大口を開けるが何も出ない。血の混じった大量の流涎が大地をしめらせるだけだった。


謙信が一人、気もそぞろに、何もない宙を眺めている。おもむろに己が手を見つめ、肩に手を触れる。


……晴信様。己が漏らした声で謙信がはっと息を呑む。

「僕は今何を考えているんだ。汚らわしい!女を捨て、毘沙門天の名のもとに、神にこの身を授け、上杉軍の棟梁として、男として生きることを選んだのではないのか。男に触れられ、今になって女の部分が出て来たと言うのか。しかも、晴信は敵ではないか、明日になれば牙を剥いて越後に兵を進めてくるかもしれない、悪漢ではないか。ならば何故、段蔵さんを手にかけたか分からなくなる。己が分からぬ。分からぬ」

頭を抱えて苦悶する謙信。屋根裏の暗闇から、眼光がきらりと光っている。すっと眼光が消えると、謙信は不適な笑みを零した。

 

 お登勢が命からがら、数人の供を連れ、赤子を抱いて春日山城に現れた。

 謙信は神五郎のみを残して、人払いさせた。

 「お登勢殿。お久しゅうございます」

謙信はお登勢に頭を下げた。

「はい。兼続は元気ですよ」

お登勢はふっと微笑んで、胸元で寝息を立てる兼続の顔を神五郎に見せた。

「かたじけない」

お登勢は頭を下げる神五郎の肩を掴んで起こすと

「義清殿が快く引き受けたこと。私はそれに従っただけです」

 「しかし、拙者はそなたの兄である段蔵を」

神五郎が蚊の鳴くような声で零した。

「確かに。私も初めは、正直あなたを恨みました。私には優しい兄でしたから。しかし、今は感謝しています」

「感謝?」

「兄は悩んでいました。風魔の棟梁として生きていくべきか、謙信様の影として生きていくべきか。兄は謙信様の影として、死ねたのですから。本望でしょう。今なら、私も兄の気持ちがよくわかります」

お登勢は天を仰ぎ見た。斜陽に照らされ、桃色に染まった綿あめのような、いわし雲が、ふよふよと泳いでいる。お登勢は兼続に目を落として

「義清様をたらし込んで情報を武田に流す。それが、晴信の命令でした。風魔の雇い主である晴信の命令は、同時に風魔の命令。風魔の命令は絶対。それまで、晴信のおもちゃだったものが、義清のおもちゃになるだけのこと。くノ一の宿命と運命を恨むしかありませんでした。でも、義清様は人としての温もりを私にくれた。それで、風魔を捨てる決心がついたのです。ミイラ取りがミイラになっちゃいました」

お登勢は目尻に涙を浮かべて、てへと舌を出した。

「そうであったのか」

謙信は目を伏せたまま、お登勢の話を訊いた。

「私と義清様の間に子は生まれませんでしたから。この子が私たちの子ですよ。義清様も目に入れても痛くないという風に、可愛がっておられましたから」

「返す返す申し訳ない」

神五郎が頭を下げる。

「直江様。頭をお上げください。どなたとの間の子かは存じ上げませぬが、きっと高貴な方とのお子なのでしょう。生涯私はこの兼続を守り続けまする」

「私からも礼を言う」

謙信がお登勢に頭を垂れる。

「そんな、謙信様。勿体のうございます。加藤段蔵が妹、望月千代女。一世一代の大仕事でございます。見事成し遂げて見せましょう」

胸を叩く千代女の顔は、母の力強さを感じさせるものだった。

「ただ」

と、千代女が顔を曇らせる。

「親父殿がどう動くかが問題です」

「親父殿?」

「はい。初代風魔小太郎。またの名を風魔玄風齋。父は風魔を守る為ならば妻や我が子までも殺してしまわれるようなお方」

「小太郎はどこに?」

「分かりませぬ。風のように現れ、霧のように去ってしまう。神出鬼没。今ここに訊き耳を立てていても、おかしくないような人なのです」

家臣の一人がばたばたと慌てた様子で廊下を踏み鳴らす。

 「何事だ!」

 神五郎が襖の向こうにいるだろう家臣に叫んだ。

「武田晴信公より火急の用があると。使いのものが参りました」

「相分かった」

神五郎は謙信に視線を移す。謙信はうむと頷く。

「直ぐに通せ」

「武田晴信」

千代女は顔を曇らせ、嫌悪を露わにする。

「分かっておる。お登勢殿は兼続を連れて別の場所へ」

神五郎が襖を開け、供の者に言いつけ、お登勢を連れて行かせた。

「火急とは穏やかではないな。直ぐに使いの物を通せ」

しばらくすると、神五郎は勘助を客間に連れてきた。

「勘助殿ではないか」

謙信の言葉に勘助はひれ伏して、挨拶を返した。

「ご無沙汰しております」

「火急とな。どのような用件であるか」

「晴信公よりの書状がこれに」

勘助は懐より取り出した書状を謙信に手渡した。謙信は書状を神五郎に手渡し、読めという風に、顎をしゃくった。

油紙を外し、書状に目を落とす神五郎。神五郎の顔がみるみる赤面していく。

「……」

「どうしたのだ、神五郎」

どぎまぎとして、手紙を握る手を震わせる神五郎に痺れを切らした謙信が、声をかける。神五郎は手紙を両手でぴんと張り、謙信に見せた。そこには、紙一面に

 好き

 と書かれてあった。

「なんだ?」

 謙信が首を捻った。勘助に目をやると

「は!」

勘助は主人の手紙を見ようとはせず、畳に頭を押し付けた。

神五郎が二枚目の手紙に手をかけ、謙信に目で合図を送った。謙信は黙って頷く。神五郎は表情一つ変えず、一枚目の手紙をくしゃっと丸めた。

「あっ!」

感嘆の声を上げる勘助。

謙信が鋭い眼光で勘助を刺した。勘助はうつむいて、肩をすくめる。神五郎が二枚目の手紙を読み始めた。


今思い起こせば先だっての野駆け、楽しゅう御座いました。私にいかような印象を持たれたのか、気にはなりますが、私自身と致しましては、あなた様との同盟の件、樹立したものとして考えてよいのでしょうか。今一度お会いいたしたく思っている所存で御座います。また、身勝手なお願いでは御座いますが。お願いの儀も御座れば、こちらから参上致したく思う所存です。

「いやー来ちゃいました」

唐突に晴信が頭を掻きながら客間に入って来た。

その場にいた全員が目を剥いて驚く。

「いつからそこにおられたのですか?」

謙信が目を丸める。

「私が書いた、渾身の一枚目をくしゃっとされた辺りから」

晴信はジト目で、畳に転がる一枚目の手紙を見つめる。

神五郎が慌てて手紙を拾い上げ、必死に皺を伸ばした。

「勘助ご苦労。下がってよい」

「は!」

 晴信の言葉で勘助が客間を後にした。

「二人で話をしたいのだが」

晴信は真剣な表情で謙信に言った。

神五郎が謙信の顔色を窺うと、謙信は顎をしゃくって、心配そうな顔を浮かべる神五郎を客間から出て行かせた。

 神五郎が出て行くのを見届けて、晴信が口を開いた。

「御久しゅう御座る」

「前回お会いしてから、そんなに経っていないではないか?」

「田植えの季節でしたな。もう刈りいれ時期です。あれから三月余り、私にとってはあなたに会えぬ一日一日が、とても長く感じられた」

「何を……」

狼狽する謙信を無視して、晴信は言葉を紡ぐ。

「あなたに、会えぬ日が続けば続くほどあなたへの思いが募っていくばかり、あなたと共に、時を過したいと言う思いが日に日に強くなって行く」

「何を言っておられるのか、私には意味が」

突如晴信は、謙信の口をふさいで、両手で抱きしめた。

「な、何をなさるのです!!」

謙信の痛烈なビンタが晴信の横っ面に炸裂した。

「私は、男だ!!晴信殿は衆道の気でも御ありか!」

「もういいんです」

声を荒げる謙信とは対照的に、晴信は目に悲哀を漂わせる。

「何が?よいと申すのか!」

「いいんですよ。強がらなくても」

「晴信殿が言っている意味が分からぬ」

「己を偽るは、辛く、悲しい。今昔の世から男は男、女は女として生き行きて幸せと言うもの。他人を騙して生きるは、た易いが、己は己を騙せぬもの、例え定めがどうであれ、己を偽るは、苦悩と共に生きるのと同様」

「分かった風な口を利くな!!」

 謙信が苛立った声を上げる。

「謙信殿。あなたの苦悩、私にも少し分けてはくれまいか?」

 晴信は子どもに語りかけるような優しい目を謙信に向ける。

「何を分けろ言うのだ。あなたに何が分かるというのだ。何様のつもりだ!」

「何様でもない、人として話しておる。人は一人では生きてはいけぬ」

「私は、何時だって一人で生きてきた。謀略と裏切りの絶えぬ戦国の世に於いて、私は、たった一人で闘い抜けてきた。今更、今更何を!!」

「そうだ、調子が出てきたではないか、謙信殿。吐き出すがいい、今日まで耐えてきたのだ、思う存分吐き出すがいい。そうやって、人は吐き出すことで、また、生きてゆけるのだから」

「もういい!!黙れ!!」

謙信は、たまらず脇差を抜いた。

「私を切ることであなたの苦悩が少しでも和らぐのならば、私は、喜んで切られよう。あなたの剣からあなたの叫びが、ひしひしと聞こえてくる」

「黙れ!!あああああ!」

 謙信は振りかぶった脇差を一閃させた。

ざくりと肉を切る鈍い感触が謙信の手に伝わる。晴信はあえて避けず、謙信の一撃を肩で受けた。

「これが、あなたの苦悩か」

晴信は謙信の手の平ごと柄を握った。

謙信は、はっとして脇差から手を離す。ゴトと重い音を立てて脇差が畳に転がった。

「晴信殿!」

 肩に滲む晴信の血を見て、謙信が声を震わせる。

「あなたの苦悩の一部、少し分けて頂き嬉しく思う。うっ」

晴信はこらえ切れず、片膝をついた。

「晴信殿!」

 寄り添うようにして謙信が晴信の肩を抱いた。

「さすがは、天下一の剣よのう。カッコつけてはみたが、さすがにこたえる」

 晴信は痛みを押さえながら、愛嬌ある顔を浮かべる。謙信と晴信の目がぴたりと合わさる。数秒だが、心通わせるには十分な時間が流れ

「ふふふ」

「ははは」

見つめ合う二人はほぼ同時に笑みを零した。少し経って、謙信が素に戻り、家臣を呼ぼうと声を上げた。

「血が。誰か!!」

「かまわぬ。このままもう少し、2人で居たい」

晴信は謙信の手を取って、熱い視線を送る。

ならば、と謙信は着物の袖を裂いて、晴信に当てた。

「骨までは行ってない」

「うっ」

晴信が苦悶の表情を浮かべる。

「我慢しろ!武田の棟梁だろうが」

「すみません」

素直に首を垂れる晴信に、謙信の顔がほころぶ。

「すまない。どうかしていた。晴信殿を斬りつけるなど、戦になっても致し方ない。この通りだ、許してほしい」

謙信は真顔で、晴信に頭を下げた。

「謝ることはない。私が望んだことだ」

「晴信殿……」

晴信は謙信の腕をとって、自分の胸に引き寄せた。

「共に天下を目指そうぞ」

謙信の耳元で囁くように晴信が言った。

背中に電流のような刺激が走り、謙信は静かに頷いた。

「そうか!!そうか!」

晴信は飛び跳ねて喜んだ。子供のように嬉々とする晴信に、女性本能をぐすぐす揺さぶられる謙信。

「で、晴信殿。願いの儀とは何だ?」

畳にひらりと落ちていた晴信の手紙を拾い上げて、謙信が訊いた。

「あーそのことか。まぁあたいしたことではないのだが」

「たいしたことではないのか?火急の用であると、勘助殿が」

晴信はぐじぐじといじけたように、足先で畳に円を書く。

意味不明の晴信の行動に、謙信が目を丸くする。

「ど、どうなされた?」

「口実だから……あなたに会う為の」

晴信は拗ねた子供のように口をすぼめて、躊躇しながら小声で漏らす。

「口実!?」

謙信が大きな黒目をさらに広げる。

「そう。口実」

「そうか、口実か!はははははは」

謙信の笑いにつられるようにして、晴信も大口を開けて笑った。

「口実でも良い、どう言った口実で参ったのだ?」

笑い過ぎて涙を浮かべる謙信が晴信に訊いた。

「我甲斐の国は、海がない、先だってのいくさで、塩がなくなり、困っておる。そこで、貴殿の国は、海に面しているので」

「塩をくれと」

「左様」

「塩がなければ、兵を養えまい。好きなだけ持っていくが良い」

「有り難い。恩に着る」

「今日の詫びだ」

「そうか、では、有り難く頂く。また会える日を楽しみにしておりまする」

「私も」

謙信は笑みを浮かべて晴信に同調した。

勘助を連れて晴信が甲斐へと帰って行った。

晴信を見送り、謙信は神五郎を奥の間に呼びつけた。

「神五郎」

「は!」

「晴信をどう見る」

「なかなかの曲者かと」

「やはりな、お前もそう見るか」

「それより殿、佐間の助がやられました」

「佐間の助が!」

佐間の助は、越後お抱え忍者集団軒猿の首領。もちろん謙信も見知っていた。

「はい、忍びのものによるとやはり、飛加藤であったと。しかも段蔵は過去の記憶の一切を失っているとのこと」

「記憶が……そうか。でも、段蔵さんやっぱり生きていたんだ」

安堵の色を仄めかす謙信に、神五郎が顔をしかめた。

「段蔵が武田についたとなれば、越後にとってこれほどの脅威はありませぬ」

「分かっておる。神五郎、何としてでも、段蔵を探し出すのじゃ」

「は!」

足早に神五郎が部屋を出て行った。

神五郎が出て行くのを待っていたかのように、姿なき声がした。

「親方様。先日の忍び、やはり透破衆でございました」

「やはり、喰えぬやつよのう晴信は。……軒猿を総動員して晴信を見張れ」

「御意」

ひゅるりと風が舞い、声と気配が消えた。

所かわって躑躅ヶ崎(つつじがさき)館(やかた)。晴信と勘助が二人っきりで対峙している。晴信は思慮深げにうつむき、額に人差し指を押し立てて、眉根を寄せている。

「んーーーん」

「どうかしたのですか?」

心配そうに晴信の顔をのぞき込む勘助。

「んーーーん」

「親方様」

晴信がぱっと顔を上げた。

「やっぱ。謙信ちゃんかわいいかったなぁ。なぁ勘助」

「はぁ」

妙なテンションの晴信に、当惑を隠せない勘助。

「なんかさぁこう強がってる曲に、なんか、かわいらしいとこ有るじゃない。有るじゃない。そう言うとこが、たまんないのよねえ」

「はぁ」

「一目惚れってやつかな?二回会ったから、二目惚れ。きゃー!何言わせんだ!!」

バシバシと勘助の肩を叩いて晴信が照れる。

「殿、謙信殿は、女の身なれど、最上、北条とのいくさに於いて確実に勝利し、領土を拡大せしめているのです。何か裏があるのやも」

「勘助ちゃん深読みしすぎよ。謙信ちゃん見たでしょ」

「は!」

「まさしく、菩薩って感じじゃない。「神のご加護を」って感じじゃない」

「しかし、それは、奴の戦略やも」

「勘助!!」

晴信は毛を逆立てて声を荒げ、がしりと勘助の肩を掴んだ。ゴクリと固唾を呑む勘助。

勘助を睨みつける晴信の目がふにゃりと溶け、晴信は勘助の顔を両手で挟み込んだ。

「目が曇ってるよ~。腐りきっちゃってるよ~。勘助。違うんだって。俺らとは、こう騙したり、騙されたり。騙されたりしてさ~。こう人の温もりとかさ~。慈愛みたいなものから、遠ざかってたからさぁ。メロメロッと来ちゃったんだよね~。おいら」

「殿は騙される方が多いんですから」

「今回は違うって。信用なさい!」

凛と胸を張る晴信。

「殿がそこまで言われるなら。拙者はもう何も申しませんが」

勘助はそこで言葉を切った。

「殿、一大事でございまする!」

家臣の一人が廊下を駆けてくる。晴信は露骨に舌打ちして

「っんだよ。騒々しいな。今、めちゃんこラブリーな気分に浸っていたところなのにぃ」

「一大事にございます」

息を上げて、家臣が膝まずく。

一大事の一言で、晴信が表情を一変させて神妙な顔になる。

「何だ」

「今川義元様。尾張の織田信長によって桶狭間にて討ち死に!」

「何!真か!」

「真に御座います」

小大名の一つである、織田が大大名である今川を討ち果たしたというのだ。

「ははははは。時は来た。東海一の大大名である今川が死ねば、心置きなく京まで一気に登れると言うものよ!ご苦労。下がれ」

「はっ!」

「殿!駿河、三河に攻めるとなれば、上杉に後方から突かれれば我軍は」

勘助が難しい顔をして苦言を呈した。

「心配するな勘助!謙信殿は攻めてこぬ。いくさの用意じゃ!今川を攻め滅ぼしてくれるわ!!先陣は勘助に任せる!」

「は!」

勘助はごそごそと立ち上がり、晴信の前から姿を消した。

屋根裏がゴトリと鳴り、黒装束に身を包んだ彦太郎が晴信に低い声をかけた。

 「晴信様。越後の虎、親方様の術中に見ことにはまっておりまする」

 「ご苦労。引き続き、謙信の動き逐一報告致せ」

 「は!」

 彦太郎は音も無く消えて行った。


数千、数万の大軍に一人で立ち向かう、段蔵。大地を埋め尽くすほどの大軍が、段蔵の持つ長剣の一振りで、蟻の群れでも払うかのように一掃される。小山の上から勘助が一人傍観していた。

「次の敵は、今川じゃ。今、今川は、義元を殺され、右往左往しているに違いない。まず、駿府を落とせ!段蔵!好きなだけ、人を殺すがいい。人の感情の一切を封じ込め、人を殺める為だけの思考しか持たぬ、殺人兵器。どんな防具をも破壊しつくす最強の砕(サイ)防具(ボーグ)剣士!!!天才軍師山本勘助晴幸の最高傑作、行け段蔵!!!」

勘助の怒号が晴嵐となり、段蔵が纏う漆黒のマントを翻した。


越後領内では奇妙な事件が続発していた。ピタリと止んでいた豪族の反乱が息を吹き返し、次々と謙信を襲った。豪族たちは一様に黒田秀忠同様にこの世の物ではない異形な姿をしていた。

謙信は、怪物退治に追われる毎日を送っていた。

「どうなっているんだ」

一人山寺にこもって、経を唱える謙信。さすがの謙信も、日々の怪物退治で、疲弊の色を隠せないでいた。

禅を組む謙信の脳裏に様々な思慮が交錯する。

穣姫の動きが妙だった。何日も帰ってこないと思えば、ある日突然ふらりと、春日山城に戻ってくる。不可解な行動をする叔母に謙信は手を焼いていた。

母の虎御前は父為景が亡くなって、山深い寺の尼となり、人目を避けるようにして生きていた。先日謙信が虎御前に会いに行った時、謙信は絶句した。

越後随一と謳われた虎御前の容姿は、見る影を無くしていた。

頬はこけ、目は落ち込み、覇気の欠片も無くなっていた。

虎御前に怪物たちのことを話すと、やはり、と何か知っているような口ぶりで、小首を振った。

越後焼山に行きなさい、と弱々しい声で虎御前は謙信に進言した。

光育に焼山のことを話すと、光育は難しい顔をして、あの世の扉を開くか、と顔を曇らせて、視線を落とした。


謙信は、意を決し修行僧の装束に身を包み、雷獣の雷電を連れて、独り焼山へ向かった。

峻嶮な頸城(くびき)山塊の峰々を渡り、ようやく焼山が謙信の目に入った。

焼山は、怒り狂ったように雲熱を立ち登らせていた。

焼山に近づくにつれ、雲熱が放つ高熱ガスが謙信の入山を拒んだ。ガスを避け、身をかがめて山頂を目指すが、火山弾がさらに謙信の行く手を阻む。

一尺ほどある岩の欠片が流星群のように頭上から轟音を上げて、投下された。

火山弾はドカドカと鈍い音を立てて大地に大穴を開けていった。

死に物狂いで草木一本生えぬ急な岩山を、這うようにして急斜面をよじ登る。

光育の顔を沈ませた意味が少しわかった気がした。

遠目に祠が見えた。近づいてみると、祠は石を積んだだけの粗末なものだった。

その祠の後ろには、虎御前が言っていた洞穴が、ぽかりと口を開けていた。

謙信は洞穴の奥を覗き込むと、そこには一切の光が無く、生臭さがむっと鼻をついた。

雷電は顔をしかめ、くしゃみを連発した。

用意していた松明と鬼斬り丸をぎゅっと握りしめて、真っ暗な闇に体を沈ませていく。

祠の中は人一人入ると、行き来が出来ないほどに狭小だった。

鬼斬り丸があった飛騨の祠とは比較にならないぐらい、どんよりとした重い空気が謙信の肩にのしかかる。

物音一つない洞穴の中は、異様な静けさに包まれていた。

ジャリ、ジャリ、と謙信と雷電が踏む小石の音だけが大仰に聴こえる。

押し潰されそうなほど重くのしかかる、目に映らぬ気が謙信の行く手を阻む。

どれほど歩いたのか、見当もつかない。

嫌な汗が全身を濡らした。

息苦しく、酸素が無いように感じられた。

それでも謙信は懸命に足を出した。

雷電は匂いに慣れたのか、涼しい顔をして、てくてくと歩いていた。

しばらくすると、雷電が、急に立ち止まり、う~。と闇に唸り声を上げた。

奥の方から、獣の咆哮のような声が微かに聞こえる。

顔に玉のような汗を浮かばせる謙信の口元が、ぎゅっと絞られる。

足を出すたびに咆哮は大きさを増し、狭かった洞窟が急に道幅を広げ、天井が高くなり、目前に大きな空洞が現れた。

鼓膜を破らんばかりの咆哮が、耳に突き刺さる。

謙信は目を見張って、視線を登らせる。

優に四間(約7m)はあるだろう大犬が、謙信に牙を剥いて唸っている。漆黒の毛に覆われた大犬の頭は三つ。しかし、体躯は一つ。

おとぎ話で聞いたことのある、いにしえの怪物、ヤマタノオロチのようないでたち。明らかにこの世の物ではない化け物が、目の前にそびえ立っていた。

大犬の後方で、青白い光を放つ大きな洞穴がポカリと口を開けている。洞穴の中は夜明けのような、碧い光で満たされていた。

雷電も大犬に変化していたが、一間ほどの大きさの雷電とでは、比較にならない、漆黒の三つ頭。

大犬は狂ったように首を振って吼え、涎をびしゃびしゃと辺りにまき散らす。

「人間よ、去れ。ここから先は黄泉の国。生きて通すわけにはいかぬ」

大犬がおどろおどろしい声を轟かせる。

「この先に進むには、貴様を倒さねばらないのか」

謙信が鋭い眼光を大犬に向ける。

「はっははははは」三頭の大犬がそれぞれに大口を開けて笑い飛ばす。「人間如き、下等な生き物が俺様たちを倒すだと?笑わせやがる。なぁ兄弟」真ん中の大犬が右の頭に顔を向ける「ああ。俺達黄泉の扉の番人、ケロべロスブラザーズを殺せる奴なんぞ、いるわけがない、なぁ兄弟」右の頭が応えると、左の頭が「このちっこいのもやる気だぜ」と顎を振って唸る雷電に視線を落とした。

一瞬、ケロべロス三兄弟の動きがピタリと止まる。

一拍間を置いて、「でーひゃひゃひゃひゃ」と、ケロべロスは顔を見合わせて笑い始めた。

怒りを露わにした雷電が、跳躍して稲妻をケロべロスに浴びせた。

雷電の稲妻は見事に命中した。ケロべロスは稲妻を避けようとはせず、わざと受けたようにも見えた。ケロべロスは雷電の攻撃を受けても微動だにせず、平然とした顔をしている。

「蚊が飛んでやがるぜ」

雷電の稲妻を頬で受けた左頭が、牙を剥いて大首を振った。

左頭の鼻先が雷電の腹部に当たり、雷電はキャンと甲高い悲鳴を上げて、洞窟の岩肌に体を打ちつけた。

謙信は松明を投げ捨て、鬼斬り丸に手をかける。鬼斬り丸はすらりと抜け、紫光を放つ。

「ほ、ほう。小僧、神器を使うのか」

中頭が裂けたような大口の端を吊り上げる。

謙信が跳躍して大犬に斬りかかった、ケロべロス三兄弟の牙が、一斉に謙信を襲った。

ガキーン。鬼斬り丸が放つ光の刃先と三頭の牙が合わさり、鈍い音を立てる。弾かれるように謙信は宙を舞い、地に足をつけた。

幾ら神の子とはいえ、空中を飛び続けるような真似は出来ない。

雷電がよろめきながら立ち上がり、謙信に近づいて謙信を咥え、ぽいと背中に乗せた。

「ライちゃん。大丈夫?」

謙信の声掛けに雷電は軽く頷いて応え、上昇した。

「雷獣如き天神の愛玩動物が!我らに刃向うとは言語道断!」

ケロべロスは猛スピードで雷電を取り囲むようにして、ぐるぐると弧を描く。

高速回転するケロべロスの残像が、六本の牙を無数に増やした。

駆け抜けるケロべロスが発する風圧で、雷電がバランスを崩した瞬間、すかさずケロべロスの牙が謙信を襲う。

ガギーン、ガギーン、やっとの思いで謙信は鋭い牙を受けているが防戦一方。打つ手がない。謙信が纏っていた装束がみるみる、襤褸雑巾のように裂かれていく。

「こなくそ!」

打開策を見いだせない謙信が臍を噛む。

「うああああああ」

謙信は規則的に周回するケロべロスの額めがけて、やけくそ気味に鬼斬り丸を突き刺した。

ケロべロスの回転が不規則になり蛇行し始めた。

雷電はケロべロスの体躯に当たり弾き飛ばされるも、ケロべロスから距離をとった場所で、辛うじて体勢を立て直した。

ケロべロスの足が遅くなり、無数に見えていた大犬の体が一つにまとまりだした。

ズシーーンとケロべロスの体躯が横たえ、衝撃が洞窟全体を揺らす。

紫光を放つ鬼斬り丸が、中頭の額にぶすりと突き刺さっていた。

中頭はだらりと首を垂らして息絶えている。

「あーーーーーーーっ!まんなか!!」

右頭が悲痛な叫びをあげる。

「まんなか!!!」

左頭も同様に叫んだ。

「よくも、まんなかを~」

左右の頭が目に涙を浮かべて、声を合わせる。

横たえたケロべロスの体躯が、ゴゴと岩壁を崩して立ち上がり、左右の頭が顔を見合わせた。

「行くぞ、ひだりの」

「おうともよ、みぎの」

左右の頭は覚悟を決めたように頷き、謙信を睨みつけた。

「まんなかの仇!!!」

左右、声を揃えて謙信に牙を剥いた。

その刹那、鬼斬り丸が後光のように八方に光を放って輝いた。

まんなかの額が干からび始め、乾いた大地のようにひび割れた。乾きは左右の頭にも及び体躯も水分が抜け、ぽろぽろと崩れだす。

 ケロべロスは悲しげな遠吠えを上げて、傾れもがきながら崩壊していった。

瓦礫の山と化したケロべロスの残骸に、鬼斬り丸が垂直に突き刺さっている。謙信は鬼斬り丸を瓦礫から抜いて鞘に納めた。

 ケロべロスが守っていた大穴から、

「あああああああああああ」

と、女が喉を押し潰したような悲鳴が聞こえた。

 謙信と雷電は瓦礫の山を踏み越えて、青白い穴の中へと入った。

「ああああああああああああ」

謙信は愕然と立ちすくんだ。

一〇〇坪はあるだろう空間に、石でできた長方形のベッドが一台。その周りを囲むように数千の卵らしき殻が山積みにされていた。ベッドの反対側の岩壁には、何処かに続く大きな洞穴が三つあんぐりと口を開けている。

 ベッドの上では、女らしき生き物が今まさに、股間から卵を産んでいる最中だった。ぬらぬらと濡れた、人の頭ほどある大きな卵がにゅーっと顔を出した。

「あああああああああああ」

 女の悲痛の叫びが洞窟の岩肌を殴打する。

 卵を産み落とした女は、濡れた卵を紫の長い舌でぺろぺろと舐めて、ぬめりを取っていく。卵を舐めながら、女は冷やかな目を謙信に向けた。

 女の髪の毛は赤茶色でミミズほど太く、肩まで伸びていた。女の髪はヘビのようにうねうねと蠢いていた。顔は青く、痩せこけている。顔の大きさに合わない異様に大きな目をぎょろりと剥いた。

「これは、これは、謙信殿ではないか」

女がぺろりと卵を舐める。ヘビのような縦目に睨まれ、謙信の体が硬直する。

「ど、どうして俺の名を」

絞り出すようにして、謙信が声を出した。

「はははははは、この私を忘れちまったのかい?」

謙信の背筋が凍りつく。

「……まさか」

「そう、そのまさかだよ」

余りにも違っていた。しかし、言われてみれば面影は残っている。もの言い、仕草。叔母の穣姫そのものだった。

穣姫が舐めていた卵が割れ、中からキュー、キューと生き物の鳴き声が聞こえた。穣姫は大事そうに殻の上の部分をそっと取る。キュー、キュー。卵から現われたのは、先ほど謙信が倒した、ケロべロス同様三頭ある黒い子犬だった。子ケロべロスは目を閉じたまま、キュー、キューと鳴き声をあげていた。

穣姫は愛おしそうに子ケロべロスを見つめ、指先で頭を撫でる。

「豪族たちを魔族に変えたのは叔母上だったのか」

謙信が苦々しく吐き捨てた。穣姫は子ケロべロスを優しく抱き上げ、愛でながら

「私が変えたのではない、奴らが望んだのだ。この子たちの意志だけでは、人には取り付けぬ。人が望まぬ限りな」

長い舌を出して、穣姫がにんまりと笑う。

「魔族に取りつかれることを人が望むだと?」

顔を歪める謙信に穣姫はかんらと声を上げる。

「人の欲望は留まる所を知らぬ。己の欲の為なら、悪鬼羅刹にでも魂を売るものなのだよ」

 「馬鹿な!」

 謙信が大きくかぶりを振る。

 「それが証拠に、豪族たちは次々と私の子供になっていったではないか。魔の力と引き換えに、己が魂をやつらは喜んで売っていった。為景だけは、違ったがな」

 「父上が」

 謙信の顔がこわばった。

 「為景は私の力を必要としながらも、拒み続け、歪んだ精神が奴を蝕んだ。馬鹿なやつだ。素直に受け入れれば、もっと楽に生きることができたものを」

 「それで父上は」

 「そうだ。魔の力に魅かれ、拒みきれなくなった為景は、徐々に魔族にとり憑かれていった。しかし、最後まで抵抗し続けた良心の欠片が奴を自殺に追い込んだのだ。それだけではない。子供の頃、お前の深淵に宿っていた闇を引きだしてやったのも私だ。お前は喜んでいたよ。人を殺し、血に塗れながらね」

うつむいて穣姫の話を訊いていた謙信の目が赤く染まり、ぎしりと奥歯が鳴った。

 「許さん!」

 謙信は顔を持ち上げざま、電光石火の一閃を放った。

 穣姫はひらりと謙信の攻撃をかわし、フュィ。と指笛を吹いた。

岩壁に開いていた三方の洞穴から、穣姫の子供たちがのしり、のしりと姿を現した。

一匹は人の形をしているが、全身が岩でできていて、天を衝くほどに大きな体躯をしていた。

一匹はムカデのように無数の足の生やした大蛇。足から生えた鋭い爪を掻き立てて歩いてくる。

最後の一匹は、白虎の背中に大きく黒い翼がついていた。

いずれも、城門ほどある巨大な体躯をしている。怪物たちはそれぞれに咆哮を上げて、荒れ狂っていた。

「私のかわいい子供たち。母の命を狙う。悪しき侵入者を八つ裂きにして頂戴」

穣姫は子ケロべロスを抱いたままひょいと跳躍して、怪物たちの後ろに立った。

 謙信は唸る雷電に跨り、カチャリと鬼斬り丸をを構えた。

 洞窟を揺らすほどの咆哮を上げ、怪物たちが一斉に謙信を襲う。


謙信の後ろに岩男が回る。白虎が岩男の肩越しから、長く尖った牙をいからせて、背の大羽を広げて向かってくる。正面の大蛇は体をよじり、そり立ち、無数の鋭い爪を立てる。魔物たちは、体内に渦巻く、どす黒い怒りを吐き出すように咆哮を上げた。

雷電が宙に浮かび、怪物たちの一撃を交わすも、二撃、三撃と怪物たちの攻撃が矢の様に繰り出される。

 怪物たちの攻撃を皮一枚で交わす謙信。雷電も必死にしのいでいる。

 怪物たちは大きな体躯に似合わない、素早い動きで謙信を翻弄する。

 「はははは、殺せ、殺せ、殺せ、謙信を殺すのじゃ。お前は私のかわいい子供たちを次々と殺していった。かわいい、かわいい、子供たちを!私の悲しみがお前に分かるか!!」

 穣姫の叫びに耳を傾ける暇もなく、怪物たちの攻撃が飛ぶ。

 さすがの雷電も三匹相手では、分が悪い。

正面からは岩男に獅子ムカデ。上からは白虎。防ぎきれず、景虎は雷電の背中から弾き飛ばされた。

天地がひっくり返り、宙でもんどりをうって、洞窟の天井に打ち付けられる。強烈な反力に謙信と雷電は地に叩き落とされた。

 地面にうずくまる謙信と雷電に、三頭が一斉に飛びかかる。

グジュ。肉のつぶれる鈍い音が謙信の耳の奥に響いた。

ポタポタと雫が謙信の頬を叩いた。横たえたまま、仰ぎ見ると雷電の白い体躯が真っ赤に染まっていた。

 「……ライちゃん」

謙信を庇うようにして三頭の前に立ちはだかった雷電の臓腑は、毒牙に抉り出されていた。

 ドスーンと悲しい音を立てて、雷電に土がつく。

謙信は両手を伸ばし、血がどくどくと流れ出る雷電の体に覆いかぶるようにして、抱きついた。

 雷電はへっへっと、子犬のように舌を出して、静かに目を閉じた。

 「雷電!!!」

謙信が雷電の血が混じった白い毛にしがみつく。悲しみに浸る間もなく、怪物たちの牙が謙信を捕える。

怒りに震える渾身の一閃が、白虎の首を落とした。

「うああああああああああ」

箍が外れた謙信は我を忘れ、血の涙を流して鬼斬り丸を振り翳す。切っ先が何間も伸び、岩男の股から頭までを斬り上げた。恐れをなして、そそくさと逃げようとする大蛇の背に飛び乗り、首を掴んで切り取った。

どくどくと怪物たちから流れ出る血で、洞窟は紅海と化した。

「よくも、よくも!」

穣姫は両眼から紫の涙を流して、謙信に飛びかかった。穣姫の鋭く尖った爪が謙信に振り降ろされる。

ガギ。間一髪、鬼斬り丸で穣姫の爪を受け止めたが、鬼斬り丸は先ほどまで放っていた光を無くし、錆ついた鈍ら刀となっていた。ぽろぽろと鬼斬り丸の刃が零れ落ち、柄のみとなる。

「どうなってんだ?」

謙信は舌を打って、柄を穣姫に投げつけた。

「自慢の刀もそれじゃ、どうしようもないね」

薄ら笑いを浮かべて、穣姫が爪を構える。謙信は脇差を抜いて、切っ先を穣姫に向けた。

「死ね!謙信!!!」

穣姫の爪が謙信の顔に赤線を描く。防御しながらも一手、二手、と謙信が刀を繰り出すも、穣姫はひらりひらりと交わして、刃先が空を切るばかり。

謙信のもろ出しになった白い肌を少しずつ、少しずつ切り裂いていく。爪先が謙信の眼球を抉ろうと目前まで迫る。

「うわああああ」

謙信が必死にはなった一閃で、爪先が黒目に少し触れたところで、ピタリと止まった。

ボタリ。突き上げた脇差が、穣姫の片腕を切り落とした。

ブーーン。穣姫は平然と、もう片方の爪で謙信を斬りつけた。謙信は即座に後退して爪をかわす。

穣姫は跳躍し、卵を産んでいた石台の前に降り立った。

「フン」

と穣姫が石台に手を翳すと、石台は独りでに立ち上がり始めた。

闇色の霧が石台の下から巻き上がり、石台を覆った。

「見るがいい、貴様が犯した罪だ」

石台が完全に立ち上がるとそこには、

「……段蔵さん?」

右半身を闇に呑まれた、段蔵の姿があった。段蔵は鎖でつながれ、身動きできないでいる。目をつぶっていた段蔵がゆっくりと瞼を開いた。

「か、げ、と、ら」

「そうだよ。僕だよ!段蔵さん!」

謙信が段蔵に近寄ろうとした、その時。穣姫は段蔵の顔面に爪を突き立て謙信の動きを封じた。

「俺は、俺は」

どもりながら話す段蔵の影は薄く、今にも消えてしまいそうだった。

「この死にぞこないが。こやつは、死にきれず、黄泉の入り口で彷徨っていたのだ」

「段蔵さんをどうするつもりだ」

「お前の目の前で、いたぶり殺すも一興」

穣姫はけたたましい笑い声を上げて、段蔵の顔を爪で掻いた。段蔵は痛そうに顔を歪ませた。

下唇を噛み、手を震わせる謙信。

「泣け!叫べ!わらわにひれ伏せ!この世はいい。狂気と欲望に満ちた戦国。みなが己の正義のために他人をおとしいれ殺戮していく。煩悩が奏でる旋律は聖歌にすら聞こえる。財欲・色欲・名欲。五(ご)塵(じん)が織りなす虹の美しさは、楽悦の極み。死に逝くものの叫びはわらわの血となり肉となるのじゃ!!」

髪を振り乱す穣姫の目の焦点は、どこにも合っていない。狂喜が穣姫の顔をさらに歪ませる。

感極まった穣姫が、ザクリと段蔵の心の臓を抉りだし、手の平に乗せ

「ひゃぁ、ひゃ、ひゃ、ひゃ!」

目を剥き、裂けた口を大きく開けて、不快な笑い声を洞窟に鳴り響かせた。

「よくも、段蔵さんを。よくも、よくも!!」

全身の血が逆流する。謙信は、肩を震わせ、唸りを上げて、握っていた脇差を穣姫に投げつけた。脇差はブーメランのように回転して穣姫に向かって、一直線に翔けた。

「効かぬわ」

穣姫は残った片腕を振り上げて脇差を払う。

ザクリ、ザクリ

紫電一閃。穣姫の上げた腕と生首が地を這う。

「ば、ばかな。わらわが……」

首だけになった穣姫は、口をぱくつかせながら息絶えていった。

「段蔵さん」

謙信が段蔵に付けられた鎖を外そうとした。しかし、残像に手をかけるが如く、手が空を切り、鎖だけでなく、段蔵にさえ触ることができなかった。

「どうなってんだよ?」

途方に暮れる謙信。段蔵の影はさらに薄まり消えて行こうとしていた。

「段蔵さん。段蔵さん!!」

胸が締め付けられ、目頭が熱くなる。

「……俺はいつでもお前の傍(そば)にいるから……いつでも」

段蔵は優しく微笑みながら消えていった。

「段蔵さーーーん」

謙信は何もない、冷たく湿った石台にすがりついて泣き崩れた。

―いつでもお前のそばにいる

段蔵の声が耳の奥でこだました。

「ケケケケ」

背中越しに奇声が聞こえ、振り返った瞬間、穣姫の首が犬歯を剥き出しにして謙信を襲っていた。

謙信は体をひるがえして首をよけて、脇差で渾身の一閃を放った。

穣姫は括目したまま死に絶えた。

息を荒げ、へたり込むようにして穣姫の生首を眺めていると、穣姫の貌は憑き物が取れたように穏やかさを取り戻すと、ぐにぐにと表皮、顔面筋が蠢き、相貌がみるみる変わっていった。

息を呑んで穣姫をただただ黙視していた、謙信の目が見開き、顔が歪む。

変化しきった穣姫の顔は、謙信の母、虎御前そのものだった。

「母上」

いざって、謙信が生首に近づこうとしたとき

 突然、がらがらと洞窟壁の一部が崩れ瓦礫が四方八方に飛び散った。

崩れた壁に大穴があき、後光が差す。光を遮るように手を翳す謙信の目に、人影が映った。

光が和らぎ、最初はぼんやりとしか見えなかった人影が、次第に形を留めはじめる。

奥からゆっくりと、謙信に近づいてくるそれは、奇妙な乗り物に乗っていた。直径5m程の円盤の前方には戦車のようなどでかい主砲があり、円の周囲には三六〇度攻撃できるよう、機銃のバレル(銃身)が取り付けられてあった。さしずめ、空飛ぶ戦車といったところだ。

 その戦車の上に凛と立つ影は、二間(3m60㎝)ほどある大男だった。右手には、三叉戟(先が尖って三又に分かれた一見フォークのような槍みたいな武器)、左手に宝塔を持ち、手の平で小人が数人、円陣を組み、真剣な顔でジェンカを踊っていた。

筋肉を隆々とさせた大男が纏っている鉄コートのような鎧の胸には、夜叉が二鬼顔面を突き出して、鋭い目をぎょろぎょろとうろつかせている。腰にはバックル代わりに獅子の顔面。獅子は咆哮を上げて猛狂っていた。

優しい顔立ちとは、対照的な、前のめりマシーンにヤンチャさ全開イケイケファッション。

あんぐりと口を開けて唖然とする謙信。しかし、生き物溢れる甲冑に身を包むこの男の顔に、謙信は見覚えがあった。

「……どこかで。あっ」感嘆の声を上げる謙信の前に立つ男は、謙信が山寺で毎日のように目にしていた、仏像そのものだった。「毘沙門天様」ひとりでに言葉が漏れた。

毘沙門天は哀しそうな目を穣姫に向けた。

「ラクシュミー。帰ろう」

毘沙門天はそのいかつい貌からは、想像できないような優しい声で言うと、虎御前の体と首を、その太くたくましい腕で抱きかかえ、くいくいと指先を曲げ、雷電の死骸を念力でを持ち上げて、空飛ぶ戦車に乗せた。

謙信が毘沙門天に近づこうとしたが、体がびくとも動かない。

「母上!!!!」

涙を流して叫ぶ謙信を横目に、子ケロべロスがよっこいしょ、よっこいしょと空飛ぶ戦車に乗り込んでいる。

毘沙門天は、ひょいと子ケロべロスを抱え、動けないで地に張り付けられている謙信に優しく微笑み、再び強烈な白光を全身から放って去っていった。

自由がきくようになった体を起こして謙信は、光の洞窟の中に入ろうとしたが、目に見えない力で弾き飛ばされた。

「母上。母上!!!!!」

拳を地面に叩きつけて号泣する謙信。

―どう言うことだ?あれは確かに穣姫だった。母上に顔が変わったのも穣姫が僕を混乱させるためなのか?これは、穣姫の策略なのか?訳が分からぬ……

脳内に暗い靄がかかり、思考が停止していく。呆けたように、茫然としていると、一人の老人が、謙信を弾き飛ばした青い薄明りの中から現われた。白髪をウニのように逆立て、細身のワンレンズタイプ色眼鏡をかけた老人は、顎に蓄えた立派な白髭を撫でている。

「しょうがない入り婿じゃて」

老人は、しゃがれた声で小首を振り、虚空を見つめる謙信を無視して、「あ~あ。こんなにして」と地面に転がっていた鬼斬り丸の柄を拾い上げ、パンパンと土を払った。

老人が鬼斬り丸にふっと息を吹きかけると、鬼斬り丸は目映いばかりの紫光を放って、元の姿を取り戻した。

謙信に老人が近づき、側に落ちていた鞘をとって、バチンと鬼斬り丸を鞘に納めた。

「お~い」

老人は呆ける謙信の顔面の前で手を振って声をかけた。

「しっかっりせ~い」

ハエでも追い払うように老人の手を払う謙信。

バチコーン

痛烈なデコピンを老人が謙信の額に放った。

「何するんだよ!!!」

おでこと顔を赤く染めて謙信が怒鳴る。

「しっかりせい!言うておろーが!!!この馬鹿もんが!!!」

「誰だか知らないけれど、ほっといてよ」

謙信は三角座りして、膝頭に顔を突っ伏した。

「そんなことでは、死んでいった虎御前が浮かばれんな」

落胆したように老人が首を振る。

謙信は咄嗟に立ち上がって、老人の両肩を掴んだ。

「やっぱりあれは、母上なの?」

涙を浮かべる謙信に、老人は静かに首を縦に振った。

「僕は、僕は、母上をこの手にかけたというのか?」

謙信は唇をわななかせて、両手の平に目を落とした。

「ラクシュミーは……」

消え入りそうな声で老人が話す。

「ラクシュミーである虎御前とアラクシュミーである穣姫は表裏一体。アラクシュミーが死ねば、必然的にラクシュミーは死ぬ。二人は同一なのだからな」

謙信の脳内がかき乱される。謙信は左右に大きく首を振って、ポニーテールに結った黒髪を大きく揺らし

「あなたの言っている意味が分からない!!」

目を吊り上がらせて噛みつく謙信に、老人は嘆息して言葉を続けた。

「虎御前と!!!穣姫が並んで座る姿をお前は見たことがあってか!?」

はっとして、謙信はその場にへたり込んだ。

幼き頃から、二人が同じ場所にいる所を見たことが無い。

「そ、そんな……」

「虎御前の影が穣姫なのだ。ゆえに、虎御前は為景に婚姻を迫られた時、自分の影である穣姫も共にと条件を出したのじゃ。虎御前いやラクシュミーは清廉潔白な善そのもの。醜悪が完全に排除された善の集合体である吉祥天女。一方、ラクシュミーの内にひそむ醜悪が具現化した存在がアラクシュミーである暗黒天女。善悪は表裏一体。穣姫は虎御前の影」

 「母上と伯母上は同一人物。……僕が落とした首は、やはり母上なのですね!」

声を震わせる謙信。

 「そうじゃ」

 老人が静かに頷く。

 「そんな。それでは、私はこの手で母を殺したというのか……」

 「……」

 「うああああああ」

謙信は、荒れ狂う大海原のように蠕動する行き場のない怒りにのたうち廻り、鋭く突起した地面や洞窟壁に、頭を打ち付け始めた。 

額が割れ、鮮血がほとばしる。

幾ら肉体を痛めつけても心の傷が癒えること無く、ただただ、怒りがこみ上げるばかりだった。

「謙信!!!」

老人は小さな体からは想像できないほどの怪力で、謙信の肩を掴み、血で染めた謙信の顔を自分に向かせた。

「ラクシュミーは、己の役目が終えたことを悟ったのじゃよ。お前の成長を見 届け、自分にできることはもう何もないと。このまま、ただ漫然と生き長らえていれば、暗黒天女として妖魔を生み続けるだけだと。……だからお主を焼山に向かわせた。そして、お主に断ち切って欲しかったのじゃ。己が宿命を」

 「母上の宿命?」

「そうじゃ。ラクシュミーはアラクシュミーと戦い続けてきた。しかし、人々の憎悪がラクシュミーの放つ善導を寄せ付けなくなった。おのずとアラクシュミーが産む闇が力を持ち始めた。ラクシュミーは己の力ではもはやどうすることも出来なくなっていた。砂山が波に呑まれるようにな」

「母上は、アラクシュミーとなって、妖魔を生み続けていたというのか?母上は、自分ではもう抑えることのできないほど強大になった魔の力を僕に断ち切らせようと、焼山によんだ」

  「そうじゃ。妖魔たちは、魔道開かれ闇から生まれし憎悪の具現。アラクシュミーが産んでいた妖魔たちは、いわば人の憎悪、欲の塊。妖魔たちは人の醜悪を餌とする。お主がこれまでに殺してきた妖魔となりし豪族たちは、その欲深さゆえ、影に己が身を乗っ取られし哀れな姿」

「伯母上は母上の影……僕の影は……」

血に塗れた顔で虚空を見つめ、吐息だけの声を漏らす。

「お主の影は……わしじゃ!!!」

叫ぶと同時に、老人は風のように消えた。洞窟内に暗雲立ち込め、稲妻を放って、天を衝く巨大な龍が目の前に現れた。人々の畏怖を欲しいがままにする鬼の形相。数百、数千もの人馬を一撃でなぎ倒す刺々しい巨大な尾。

龍は歯を剥き出し、鋭い爪を誇張させて、謙信を威嚇した。

「これがお主の影じゃ。お主の中に宿る醜悪の虚像がこれだ。お主が闇に捉われ、影に実体を奪われるようなことがあれば、お主はこの姿で人々を殺戮し、人間道を不毛の地へと変えるだろう」

「これが……僕」

「そうだ」

謙信はへたり込み茫然と龍を見上げ

「僕は、僕はどうしたらいいの?何をしたらいいのか見当もつかない。僕は弱虫で、泣き虫で、意気地なしで、誰かに支えて貰わないと、息さえ吸うことができない僕が、人間界をどうこうするなんて、大それたこと考えられない」

涙を浮かべる謙信に龍は

「竜王の均衡を取り戻せ。他の八大竜王が牙を剥くなら、それを殲滅せしめ、竜王と成れ、さすれば、子子孫孫未来永劫倭国に安寧が齎されるであろう」

謙信はさらに顔を歪ませ、弱々しく首を振る。

暗雲から青い閃光が放たれた。目を細めて、顔を背ける謙信。

ポンポンと誰かが謙信の頭を叩く。顔を見上げると、老人の姿に戻った龍が優しい目を謙信に向けていた。

「あなた様は」

只ならぬ能力を持つ老人に謙信は、敬意のこもった声で問いかけた。

「ん~。なんちゅうかな。その~」

口ごもる中に照れが見え隠れするもの言いで、老人は思い切ったように

「お爺ちゃんだっ、よ~」

と、努めて明るく、『いないないばぁ』の要領で、両手の平を顔面の横で開いた。

「お爺ちゃん?」

余りにもとっぴな展開と、目の前のとんちきな行動をとる老人に、謙信はついていけず、あんぐりと口を開けるばかりだった。

「まぁ。さっきのでっかいの。見たろ?」

老人は顎をしゃくって後方を指し

「さっきの無口ででっかいのが、お前のお父ちゃんだ」

「やっぱり、毘沙門天様が……僕の」

「そうだ。あやつは悲しみのあまり、禁を破ってここまで出てきてしもうたんじゃ。ラクシュミーを迎えにな」

老人はそこで言葉を切って、長いため息をつき

「わしも本当は悲しみに暮れておる。なにせラクシュミーは、わしの一人娘なのだからな」

と、付け加えた。

「僕は……」

謙信は言葉を失った。老人はへたり込む謙信に目線を合わせるように、しゃがんで、

「じゃが、こうなった今、お前に伝えておかねばらんことがある」

厳しい顔を謙信に近づけた。

「この国は八大竜王の均衡で守られてきた。しかし、その均衡が歪み始めておるのじゃ。恥ずかしい話じゃが、我ら龍族は、何万年もの間、竜王の座を争い、それぞれが勝手に竜王を名乗り、戦を繰り返してきた。神々は我らの争いに終止符を打たんと、伊弉諾に倭国を作らせた。倭国を八つに分け、土地を守護する役目を賜ることで、長く続いた争いが一旦、幕を閉じた」

「それでは、おじい様は」

「私が徳叉迦(たくしゃか)竜王である。またの名を蒼龍ともいう」

「見るものを死に追いやるという」

蒼龍のことは謙信も経典で読んだことがあった。視毒で見るものすべてを死に追いやる龍族で最も獰猛な竜王。

「そうだ。だ・か・ら色眼鏡で世間を見とるんじゃないか」

徳叉迦はサングラスをくいと持ち上げ、天井を仰ぐ。

「人心乱れ、煩悩に支配される時、龍王咆哮を上げ飛翔し、大地、大海を揺るがさん。人間道を四悪道に陥れ、戒を与えん。脱人現われ、竜王を従え大地、大海を治め、人々に安寧を取り戻さん」

「聞いたことがあります」

謙信は光育に教えてもらった経典の一文を思い出した。

「竜王は倭国において、人を戒めるための存在。すなわち、人心醜悪に乱れる時、人間道を地獄道に陥れ、大地を無に還す。無から秩序を作れというのだ。神は」

「無に還す存在」謙信の背筋が冷やりと凍る。

「今、人間界は邪心に溢れ、修羅道と化しておる。神々が龍王の復活を望まれた。黒龍が尾張で復活し、呼応するように赤龍、黄龍が目を覚ました。地龍、天龍、海龍、炎龍。他の竜王たちも近いうちに目を覚ますであろう。竜王たちが時を越え、人の体を借りて、再び竜王戦を始めようとしておるのじゃ。他の竜王を殲滅し、己が絶対無二の竜王になるためにな」

「人の体を借りる?」

「そうじゃ、竜王は天界の神じゃが、人間界においては、実体がない。じゃ  から、人心に寄生し肉体を操るのじゃよ。人間が望み、龍王の力を必要とするならば、の話じゃがな。お主が鬼斬り丸と契約しただろう。同じような要領じゃ。神器の力を得るのと、龍王の力を得るのは同じじゃからな」

「ならば、お爺様も人心に取り入り、竜王となるべく私の前に現れたという 訳ですか?」

謙信の問いに徳叉迦は「そうじゃのぉ」困ったように小首を振って、話を続ける。

「お主次第じゃな。お主の中の邪悪な心が勝っていれば、龍王の魔力に取り込まれるだろう。お主が善道をもって、魔力に打ち勝てば我が力は、お主の意のままに操れる。善悪は表裏一体。ラクシュミーのようにな」

徳叉迦は一息に話すと、悲しい目を足元に落とした。

「僕はどうすれば」謙信の力強い視線が徳叉迦に注がれる。

「お主も力を望むか?」

「はい」謙信は目の奥に光を宿して、首を縦に振った。

「ならば、覚悟はできておるな。お主に邪心が有れば、我が竜王の力に支配され、人間道を地獄に陥れることになるぞ」

「御意」

「では、お主に入るぞ。お主が脱人であることを祈る」

徳叉迦は重々しく言って、両手を広げた。

黙祷して地に坐す謙信を徳叉迦が両手で包み、一体化する。徳叉迦の実態が消え、色眼鏡がぽとりと地面に落ちた。

「謙信。謙信。聞こえるか」徳叉迦の声が耳の奥で聞こえる。

謙信がゆっくりと目を開くと、そこには徳叉迦の姿はなく、声だけが聞こえている。

「お爺様?」謙信が辺りを見渡す。

「お主の中じゃ。光で溢れておるのぉ。こりゃ眩しいわ。底の方に危うい闇がどす黒く渦巻いておるが、良く抑え込まれておる」

「これだけですか?」謙信は拍子抜けしたような声を出した。

「まぁ。これだけじゃ。あぁ。その落ちている眼鏡かけときなさい」

「はぁ」首を傾げながら謙信が色眼鏡を拾い上げ、色眼鏡をまじまじと見つめ「これかけるんですか?」と、渋い表情を浮かべた。

「そう、かけるの。不意に知り合いが死んじゃったら嫌でしょ?」

耳の中で徳叉迦が、軽~いノリで言った。

「えっ?」驚きで目を見開く謙信。

「そうだよ。視毒。備わっちゃってるかんね。注意してね」

どこまでも軽い徳叉迦。謙信は慌てて色眼鏡をかけた。

 「それじゃ、まぁ。そう言うことで」

 蒼龍が無理やり話を締めると、強烈な白光が洞窟を包んだ。

白光で閉じた目を開くと、蒼龍が再び老人の姿で立っている。

蒼龍の後方では、毘沙門天と虎御前が優しい笑みを浮かべて、空飛ぶ戦車に乗っていた。

蒼龍は謙信に歩み寄り、謙信がかけていた色眼鏡をはぎ取って装着した。

「ちょっと返してくんる。やっぱこれがなきゃ、きまらんでのぉ」

「母上……毘沙門天様」

愕然として謙信の声が漏れる。

「そうじゃ、これがお主の両親じゃ。お主しかおらんのじゃよ。この乱世を  鎮めることの出来る奴は。何と言ってもこの蒼龍の実の孫なのじゃからな」

蒼龍はへたり込む謙信の頭を優しく撫でた。

「両親に毘沙門天にラクシュミー(吉祥天)を持ち、祖父に蒼龍、祖母に鬼子母神ときたもんだ。お主、めちゃんこ強いにきまっとるじゃないか。自信を持て、なんだったら、あのプシュパカ・ラタ貸しちゃろか?」

蒼龍は毘沙門天と虎御前が乗っている、空飛ぶ戦車を指差した。

「ひ、必要になれば」謙信が当惑しながら答えると

「お主には、わしらが憑いとるんだ。心配するな」

蒼龍はオチャメにウインクして微笑んだ。

「謙信、私たちは天界でいつでもあなたを見守っていますよ」

虎御前はそう言って、毘沙門天の太い腕に抱きついた。ほらあなたも、という風に虎御前が毘沙門天の腕を引っ張る。

「え~。あ~。なんだ。その~。喧嘩上等!刃向う奴はぶっ殺せ!!」

毘沙門天が中指を立てて、謙信に檄を飛ばす。

「もう、あなたったら❤」

若かりし頃の虎御前にしか見えないが、きっとラクシュミーなのだろう。謙信が生まれてこの方一度も見たことのないような、無垢な笑みを浮かべて、虎御前が毘沙門天の腕をパンパンと叩いている。

謙信はいつの間にか母殺しの罪悪感から解放されていた。

― だって母上はあんなに幸せそうなのだから

手の甲で涙を拭い、片膝をつけて、謙信は蒼龍に凛と顔を向けた。

「蒼龍様!不肖上杉謙信、両親、お爺様の支えがあればこその未熟者。この命一つで倭国を安寧に導けるのならば、この命、民草の為、天にお預けいたしまする!」

「エライ!!」蒼龍はⅤサインをずいと謙信の顔に近づける。

次の瞬間、峻烈な光が放たれた。謙信がゆっくりと目を開けると、そこは春日山城の庭園だった。

辺りを見渡したがもうそこには、虎御前、毘沙門天、蒼龍の姿はなく、ただ、ししおどしの鳴る音が、庭先に広がっているだけだった。

謙信は、地面に転がっていた蒼龍のサングラスを拾い上げて装着し

「我、天下泰平の為、義を以て倭国を安寧に導かん!」

鬼斬り丸を天に突き上げ、吼えた。鬼斬り丸の鞘に模(かたど)られた金龍が、陽光に反射してキラキラと輝きを零す。謙信が放った決意の雄叫びは、雲一つなく、どこまでも青い越後の空に溶けていった。

 アラクシュミーが産み落とした八百万(やおよろず)の妖魔が、人々に憑依し、倭国各地で猛威を振るった。

隣人、兄弟が、ある日突然、妖魔と化した。人々は妖魔に恐怖し、疑心に駆られ、互いに殺し合った。世はまさに、地獄絵図そのものとなっていった。

躑躅ヶ崎(つつじがさき)館(やかた)。夜半(よわ)の月明りで、晴信は兵法書を読んでいた。突然、床の間に飾っていた、武田家家宝の鎧、『盾無し』から眩いばかりの光が放たれ、赤く染まった月を背に赤龍が晴信の前に現れた。

「貴様の望みは何だ」

牙を剥く赤龍に晴信は、臆することなく「天下を」と答えた。

赤龍は裂けた口をさらに吊り上げてニヤリと笑い、月に向かって飛翔していった。

「ごほ、ごほ、ごほ」

咳き込み、苦悶の表情を浮かべる晴信。口の端を手の甲で拭うと、べっとりと赤い血が尾を引いていた。

「時間が無いのだ。時間が」晴信は、祈るようにひとりごちるのだった。

尾張の国に暗雲立ち込め、数万を超える妖魔が岐阜城上空を埋め尽くしていた。妖魔が作る厚い層の上に、黒龍が不気味にとぐろを巻いて浮かんでいる。天守で耳の尖った優男が一人、目を赤く光らせて妖魔たちを眺めていた。

七色に輝く流星群が煌めく星々を遮って、九州、四国、中国、東北、各地に降臨していく。

 箱根山中。吹雪が視界を遮る。凍てつく凶暴な冷気が段蔵に吹きすさぶ。

段蔵は、三度笠を深々とかぶって、次なる戦場へと急いでいた。突然、十数人の黒装束を纏った軒猿が山肌を飛ぶようにして段蔵の前に立ちはだかった。軒猿達は全身から湯気を立て、殺意を露わにしている。

一拍於いて、軒猿たちがくな(・・・)いや短剣を手に猛然と段蔵に襲いかかった。

 段蔵の目が赤光する。段蔵は背にかけた刃長五尺は有る長剣を電光石火で居抜き、一太刀で三人の軒猿を切り殺した。

白銀の街道が赤く染まる。段蔵の冷淡な太刀が一手、また一手と振り下ろされ、声を上げる間もなく軒猿たちは死に絶えた。

 「た・す・け・てくれ。段蔵」 

僅かに息の残っていた軒猿の一人が、口から血を流して命乞いをしている。自分の名を呼ぶ見覚えのない男の手が弱々しく伸び、返り血で染まった段蔵の袴を鷲掴む。段蔵はにやりと不敵な笑みを零して、男の背中に切っ先を突きたてる。

ズキン。段蔵の頭が痛む。フラッシュを焚くように、苦悶の表情を浮かべ、目の前で血を流す軒猿達の笑っている顔が脳内に浮かぶ。

段蔵は激しく頭を振って、頭痛と男たちの笑顔を振り払う。

かつて同じ釜の飯を食った仲間の血で彩られた紅白の街道を、段蔵が後にする。


数万の兵に取り囲まれ、独り敵と対峙する段蔵。

「俺は何のために生まれ、何のために戦うのだ。分からぬ。分からぬ。分からぬ!!!脳漿で浮かんでは消える、あの女は誰だ!敵なのか?味方なのか?分からぬ、分からぬ。俺は、俺は、俺は!!!!」

全身からナパーム弾が放射され、敵陣が壊滅していく。またもや峻烈な頭痛が段蔵を襲った。手で額を押さえ膝を折る段蔵。

「……景虎」

 直江神五郎は自室で刀の手入れをしている。打粉で刀身を軽くポンポンと叩き、口に咥えていた紙で、綺麗に白粉を拭き取る。刀身に映る神五郎の顔は、深く縦皺が刻まれていた。

 バリ、グギ、バリ、バギ

 怪音を響かせて、神五郎の背中が縦に裂ける。背中の肉を突き破って鋭い牙が生え、背中に大きな口が現れた。神五郎の背に開いた大口は、だらしなく口角からよだれを垂らして、畳を濡らした。大口の中で蠢く何百という触手がうねり、天井を衝いた。

「データはすべて揃った。今まで武家に従い、犬猫同然に扱われてきた我ら民草が立つ時が来たのだ!百姓の上前を撥ねて生きることしかできない、寄生虫から、我らの手に政を奪い返すのだ。民百姓を見下す武家ども。武家に位を渡すだけで生き延びている天朝やそれに群がる公家衆。古来の宗教に胡坐をかくだけでなく、女を襲い、暴虐の限りを尽くす似非坊主ども。積年の恨みを回天の一撃に込め、全てを亡き者とし、民百姓が安心して生きることの出来る世を作り上げるのだ!!!時は今!!森羅万象科学の力が我らに味方する!!」

背丈七尺あるだろう大男が腕を突き上げる。

そこに集まった数万の群集は、天地が割れんばかりの歓声を上げて呼応した。

端整ですっきりとした顔立ち。切れ長の目に二重瞼。肩まで伸ばした異人のような紅い毛は、天然パーマで軽くウエーブがかかっている。

男は、四方五十町(約5.5㎞)に届く美声で聴衆の熱狂を煽る。背が高く、天使のような美男子に、集まった数万の男女が酔いしれた。

演説を終えた大男が壇上から降り、愛馬である青毛のペルシュロンに跨った。

「小太郎!」「小太郎!」「小太郎!」「小太郎!」

数万の小太郎コールが大地を揺るがす。

「小太郎様。準備は完了です」

彦太郎が前を走る背中に声をかけた。

「分かった。急ごう」

二人が馬を下りたのは演説を行った場所から、南に三里ほど走った湖の畔だった。彦太郎が、水辺にたたずむ大岩の一部を押した。大岩は、ゴゴゴと唸りを上げて口を開き、階段が現れた。二人が階段を降りはじめると、再び大岩が嘶き、口を閉じた。数十m階段を下りたところで、巨大な鉄城門が姿を見せる。鉄城門に取り付けられた監視カメラがぎょろりと二人を睨む。二人の顔紋を認識した数トンある鉄城門が、ギーと重たい音を奏でてひとりでに開いた。

中に入ると、重治が小太郎に片膝をつき

「準備はすべて整いました。後は親方様の下知を待つだけ」

そう言って頭を垂れた。

「うむ」

小太郎が重治の後方を見やる。

数町はある広さの地下研究室に、所狭しと居並ぶ数万個の水槽。

淡(たん)碧(ぺき)の光を放つ水槽の中で数万に及ぶ段蔵が、胎児のように身を丸めて浮かんでいる。

 「親方様、これはどうしましょう?」

 彦太郎が勘助の義足と眼帯を手にして小太郎に訊いた。

 「もう使うことはあるまい。捨てておけ」

仄暗い巨大研究室。水槽内で絶え間なく放出される気泡が、満天の星々のように煌めいている。

           

終わり


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

戦国鬼 @kisiri-tooru

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ