第9話 守護神 雷獣

 飛騨からの帰り道、虎千代は顔を沈ませ、口を閉ざしていた。段蔵もあえて元気をなくした虎千代に、話しかけようとはしなかった。


 ー僕はいったい何者なんだ?ー


 虎千代は、思い出していた。飛騨山中で己が骸とした、山伏達の無残な有様を、鬼斬り丸が自分に見せた幻影を。

 父上が冷たかったのも、母様の心中に宿した恐怖も、この力の所為なのか?常人の物ではない。悪鬼そのものだ。僕は悪魔の化身なのか?虎斬り丸も言っていた。血を求めて殺戮を繰り返していたと。あれが本当の僕だとしたら……。幻影の中で僕は、罪もない人々を次々と殺していた。僕に殺された民の憎悪が僕に注がれるは必至。当然だ。僕は、死ななきゃいけない存在だったのでないだろうか。生まれてきてはいけなかったのではないだろうか。無意識の裡に口から衝いて出た言葉で、今鬼斬り丸が袂にある。僕はこいつにいつか闇に引きずり込まれ、闇を好み、闇に帰依し、再び罪もない民を殺してしまうのではないだろうか。自分が分からない。

 虎千代は答えのない自問自答をし続けた。そして、自身に恐怖し、自身を疑い、心の深淵へ埋没していくのだった。越後が近づくにつれ、虎千代の優鬱さは歩を進める毎に増し、心気を衰えさせた。虎千代が林泉寺に帰ると、長尾家の家臣たちが虎千代の帰りを首を長くして待っていた。

 「虎千代様!」

 家臣の一人が顔をこわばらせて虎千代に近づいた。

 「為景様が!」

 「父上がどうしたのだ!」

 家臣は虎千代の問いかけに狼狽しながら「お亡くなりになりました」と為景の死を告げた。

 「父上が……」

 虎千代は当惑しながら家臣と共に春日山城を目指した。葬儀は虎千代の兄晴景が喪主を務め、粛々と進められた。だが、為景の悪政をよしとせず、国人たちによる暴発がいつ起こるやもしれない、という緊張感が拭えない葬儀だった。虎千代は甲冑に身を包み、手には黄金に輝く鬼斬り丸を携えて、参列する陽北衆、国人の前に颯爽と現れ、喪主である晴景の傍らにどかと腰を下ろした。国人たちは虎千代の戦装束に度肝を抜かれ、黙っている他なかった。反乱の糸口を窺っていた者たちや、長尾家家臣団に対して虎千代ありと威風堂々見せつけた。

 虎御前は奥の間に引きこもり、葬儀にはほとんど顔を出さなかった。

為景の死因は自殺だった。自身の刀で首を一文字に掻っ捌いたと、虎千代は家臣に訊かされた。

 為景が死去して四十九日の法要も待たない間に、家中は分裂の危機に瀕していた。戦べた、外交べたの晴景を当主として仰ぐことを不服とする勢力と、晴景を当主に立て、と息巻く家臣との間に亀裂が生じていた。

為景の葬儀で見せた虎千代の勇壮振りが反晴景勢力に高く評価され、兄の景康、景房を押しのける形で、末弟の虎千代が反晴景勢力に担がれた。

十三だった虎千代は、十五歳と鯖を読んで無理やり元服させられ、名を景虎と変えて栃尾城主となった。

 景虎は城の奥に引き籠り、人前に出ることは殆ど無く、陰鬱とした日々を過ごしていた。景虎のことを心配して栃尾城まで足を運ぶ虎御前でさせ、景虎は会おうとはしなかった。景虎は、食事も満足に取れず、眠ることさえ満足にできなくなっていた。ふくよかだった景虎の頬はこけ、目は窪み、林泉寺にいた頃の面影はなくなっていた。奥の間で、景虎は一人、幻影に苦しめられていた。寝ても覚めても、幻影は絶えず景虎を襲った。

「う、うわーーーーーーーー」


―葬儀での一件。お前の手柄だってみんな言っているぞ。そのお蔭で、城主にまでなったって言うじゃねーか。だけどあれは、景虎。お前じゃねーよな。


 幻聴が景虎の耳元で囁く。

 「僕は、何もしてない。何も知らない。あれは、誰かが勝手にやったんだ。僕は隠してない。自分の手柄にした覚えもない!」

 景虎は耳を塞いで蹲った。

 

 為景の葬儀の日、景虎は、自分の所為で為景が死んだのではないかと、自責の念に駆られていた。畳に突っ伏していると、ズンと頭が重くなり意識が遠のいた。薄い意識の中で、己の体が勝手に動き出していた。景虎は己が体躯を取り返そうと意識の中でもがいたが、どうにもならなかった。景虎の意思とは別に、体は甲冑を装着し、葬儀の場へと向かった。気が付けば長兄晴景の隣に座っていたのだった。


―だ、が、みながお前を褒めそやし、城主に据えた。お前もさぞ気分が良かったことだろう。


「そんなことはない!家中の者の意に沿ったまでのことだ。己の体が言うことを聞かない。意思にそぐわぬ所業を行う。こんな、恐ろしいことはないではないか」


―でも、誉められたわけだ、結果的に。それで、お前はいい気になっている


「いい気になんかなってない!あれは、僕じゃない。僕の中にいる僕以外の何かの仕業だ!僕とは関係ない!だけど、皆が喜んでくれた。僕を誉めてくれた。城主になってくれと頼まれた。僕は、僕はみんなに応えただけなんだ」


―偽善だ!己が心中を満たす、賛美の言葉に酔い。有頂天になっているんだ。自分の手柄にしてしまおうとな。違うとは言わせねーぞ


「誰なんだ!お前は!姿を現せ!」


―為景を殺したのはお前だよ。お前のことを病んで、死んだんだ。


「やめろーー!!!」


 景虎は自らの両耳を拳で殴り続けた。耳から血流してもなお、声は治まらなかった。


―景虎よ。不浄の子よ、お前の存在そのものが、為景を追い詰め、狂い殺したのだ。お前なんて生まれてこなければよかったんだ。お前なんか誰も愛さない。おまえなんか必要じゃない。お前なんていらない。お前なんか生きていてもしょうがない。お前なんて。お前なんて。お前なんて。……


「あああああああああああああ!己が身に巣食う、悪鬼よ!我が身もろとも死ぬがいい!!」


 景虎は、庭先に走り出ると、庭石で頭を打ち付け始めた。

「死ぬがいい。僕が死ねば。お前も死ぬ。僕が死ねば、みんな喜ぶ!」

 石に打ち付けられた額はパックリと割れ、血が噴き出した。

「はははははは」

 甲高い笑い声が、庭先に響き渡った。景虎が血に染まった顔を上げると、そこには、叔母である穣姫が立っていた。

「死ぬのかい?景虎。あんたの業は、死んでも償えやしないよ」

 景虎が血に染まった顔を穣姫に向けた。

「為景を殺したのはあんただよ」

 景虎は目を見張った。姿なき声と同じことを穣姫が喋ったからだ。

「僕じゃない。僕は何もしていない」

 景虎は静かに拳を握って、穣姫を睨んだ。

「そう。お前は何もしていない。だが、お前の存在が、為景を追い詰めたんだ」

「お前だったのか。僕の耳に話しかけていたのは」

「何を言ってるの?」

 穣姫は目を細めて、蔑みの視線を向ける。

「お前の所為で、僕は、僕は」

 景虎は携えていた鬼斬り丸に手をかけた。が、鬼斬り丸は鞘から抜けなかった。

「くそ!」

 景虎は鬼斬り丸を鞘ごと構えて、穣姫に斬りかかった。ヒラリと穣姫は景虎の攻撃をかわし、足元の覚束ない景虎の背中に手刀を喰らわせた。

景虎は力無く、その場に倒れ込んだ。

「何をとち狂っているのやら。この叔母を殺そうなんて、天地がひっくり返 ってもあり得なくてよ」

 景虎が怒りを滲ませた目を向ける。

「もし、お前が私を殺せたとしても、悲しむのはお前だけどね」

「どう言うことだ?」

「私が死ねば、虎御前も必然的に死ぬからよ。私たちは裏と表。一蓮托生なの」

「狂ってる」

「あら、結構な言われようね。狂ってるのはどっちかしら。一目瞭然だと思うけど。父殺しと言えども、お前は我が可愛い姪っ子。為景殿が死のうがどうしようが私には関係の無いこと。むしろ、お前のお蔭で私は早く自由になれたのだから、感謝しなきゃね」

「僕は何も……」

 景虎の力が抜け、両膝を地面に打ち付けた。

「だが、そんなに卑下することはない。なにせお前は、為景の子種じゃないのだから」

 穣姫は薄く笑って、景虎を見下ろした。

「いくら叔母上でも、戯言は許しませぬぞ!」

 景虎が怒りで声を震わせた。

「戯言ではない。こと実お前は、我が妹豊姫が、為景殿と夫婦になって直ぐに生まれ落ちたではないか」

「嘘だ!」

「嘘ではない。虎御前に訊くがよい」

「……そ、そんな。……嘘だ」

「お前は、幼い頃、罪もない側室たちや民草を殺した。虎御前は隠し通したが、為景殿は、黒い噂に苛まれ、気を病んでしまわれた。お前が為景を殺したんだよ」

「……嘘だ」

「誰からも愛されず、奇異の目に晒されてお前は城にいたんだ。実母である、虎御前でさえ、お前に恐怖し、畏怖を抱いておる。お前は、生きていても仕方のない存在なんだよ」

 穣姫は薄ら笑いを浮かべて、景虎をなじる。

「じゃぁ。どうして僕はいま生きているんだ!どうして殺されなかったんだ!羅刹が宿ったこの身を八つ裂きにして、業火で焼けばよかったではないか!」

額から流れる血が混ざり、真っ赤な涙が景虎の頬に筋を成した。

穣姫は景虎の頭部を抱きしめた。

「僕は、僕は」

 「だから、あなたには、私が必要なんだよ。私が愛してあげる。現世の全てが敵になろうとも、私はあなたの味方でいてあげる」

 穣姫は紫がかった長い舌を出して、景虎の血を拭っていった。

 「この世で最も憎く、可愛い景虎。愛しますとも、あなたは、本当は私が産むはずの子だったのだから」

 穣姫に顔面を舐(ねぶ)られていると、不思議と心が落ち着いた。

 深く冷たい闇に包まれていく。

 闇の中は不安も疑心もなく。只々無だった。

 キーーーン!!

 「ぐわぁー」

 鬼斬り丸が光を放って嘶(いなな)いた。

 「忌々しい剣め」

 穣姫が鬼斬り丸を掴んだ瞬間、稲妻が鬼斬り丸に落ちた。鬼斬り丸は 無傷だったが、凄まじい量の電流が鬼斬り丸に含まれていた。穣姫はバチ バチと音を立てて放電する鬼斬り丸を咄嗟に手放した。

 キーーーン!!

 耳障りな高い音がさらに音量を上げていく。穣姫は両耳を塞いでその場から姿を消した。

 「ぐぁーー。あああああ」

 一人残された景虎もまた鬼斬り丸の嘶きに悶絶し、気を失った。

草影から一匹の子犬が現れ、景虎にぽてぽてと歩み寄り、景虎の顔をぺろりと舐めた。

 

 光育は、林泉寺の本堂で禅を組み、経をあげていた。キーーーン。「うん?」遠東から聞こえる奇妙な音に、光育は耳を澄ませた。「……雷霆(らいてい)の嘶き」光育は、ガバリと立ち上がって、林泉寺を後にした。


「困ります。誰も通すなと、殿より申し付かっておりますので」

 景虎の直近、直江神五郎が、必死に光育を止めていた。

「うるさい!この天室光育が我が弟子に会うのに、止められる筋合いは無い!!」

「お待ちくださりませ、光育様!!」

 光育は神五郎が止めるのも聞かず、ズカズカと栃尾城の奥へと歩を進めた。

「入るぞ!」

 光育は乱暴に襖を開け放ち、景虎のいる座敷に足を踏み入れた。神五郎は襖の外で片膝を折って、部屋に入ろうとはしなかった。

「痩せたのう」

変わり果てた愛弟子を見て、光育は憂いの目を向けた。

「お師さま。御久しゅうございます」

 景虎は、物憂げにほんのわずかだけ頭を下げて会釈する。景虎の膝の上には、白い子犬が抱かれていた。

「闇に取り憑かれたか」

 光育はジャラリと、懐から数珠を取り出した。


 ウウウウゥゥーーー


 景虎の膝に抱えられていた子犬が、光育に牙を剥いた。

 

 ガッーーー

 と、子犬が大口を開けて吼えると、口腔から光育目掛けて稲妻が走った。光育は、数珠を握りしめた片腕を突きだして、稲妻を弾き返した。

「お前の主をどうするわけではない。悪いが、そこをどいてはくれぬか?」

 さすがは、高名で知れた『林泉寺』の住職を長年やってきただけあって、光育が子犬にかける声は、いかにも高僧、と思わせる優しい響きだった。

 光育の微笑に納得したのか、子犬は牙を収め、尻尾を振りながら、ぽてぽてと部屋の片隅まで歩いていって、ちんとお座りした。

「ほう、僕の為にありがたいお経でも、読んで下さると言うのですか」

景虎が元気をなくしたまま、嫌な笑みを浮かべる。光育を見る景虎の目は やぶにらみになっていた。

「有難いか、有難く無いかは、お主次第じゃがな。お主このままじゃ、闇に呑まれて、命を落とすぞ」

 眼の奥に光を宿して、光育が焦点の合わない景虎を睨む。

「いいんですよ。死んでも。むしろ僕が死んだ方が、光育様だって嬉しいんじゃないですか?へへっ」

 へらへらと笑う景虎の目が、所在なげに虚空を泳ぐ。光育はふ~。っと、深いため息をついて、手を合わせた。


オン・ベイシラマナヤ・ソワカ オン・ベイシラマナヤ・ソワカ 

オン・ベイシラマナヤ・ソワカ オン・ベイシラマナヤ・ソワカ

オン・ベイシラマナヤ・ソワカ オン・ベイシラマナヤ・ソワカ


「お祓いですか?そんなの効くわけないじゃないですか。僕は物の怪に取りつかれている訳でも、病でもないんだから。僕自身の問題なんだ。お師さま。悪いが今日は気分が悪い。出て行って頂けませんか?それとも、呪詛でも唱えようと言うのですか?悪いがそれも効きませんよ」

 景虎はどす黒い光を瞳の奥に宿す。


オン・ベイシラマナヤ・ソワカ オン・ベイシラマナヤ・ソワカ

オン・ベイシラマナヤ・ソワカ オン・ベイシラマナヤ・ソワカ

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「効かないって言ってるだろうが!!神五郎!!この老いぼれを摘み出せ!!」

「しかし」どぎまぎとして、神五郎は立ち上がれないでいる。

「何をしておる!!」甲高い怒声が、神五郎に浴びせられる。

「は!」神五郎が立ち上がろうとしたその時、

「入るな!」と光育が額から汗を流して恫喝した。

「切る」景虎は、刀台に掛けてある、鬼斬り丸に手をかけた。

が、鬼斬り丸は当然の様に抜けない。

「クソが!」景虎は鬼斬り丸を投げ捨てて、脇差を抜いた。


臨・兵・闘・者・皆・陣・裂・在・前


 渾身の力を込めて光育は早九字を切った。

「効かぬわ!!!」羅刹の様に目を吊り上がらせる景虎は、大きくかぶりを振って足を一歩踏み出した。

 次の瞬間、峻烈な光が光育から放たれた。早九字の文字が刻み込まれた玉が宙に浮かび、景虎を取り囲む。

「何だこれは?これは?鬼斬り丸の洞窟で見た、止めろ、来るな!止めろ、止めろ!」

 脇差を闇雲に振り、おろおろとしている景虎の姿は、まるで死期が近づいた病人が、死神(しにがみ)を追い払っているようにも見える。

 景虎を囲む玉の輪が狭まり、景虎の体が締め付けられていく。

「なんなんだこの光は?苦しい。息が出来ない。そんなに僕を殺したいなら、ひと思いに殺せばいいじゃないか!殺せ!殺せ!殺してくれ!!!」

 玉が放つ光に悶絶し、景虎は狂ったように叫んだ。

「景虎!!」悲鳴を上げたのは、虎御前だった。光育の使いの者が、虎御前を栃尾城に呼んだのだ。

「虎御前殿よい所へ、こちらへ」全身に汗をかいて、呪文を唱え続けていた光育が、虎御前を景虎の前に立たせた。状況が読めず、目を泳がせる虎御前に光育は

「虎御前殿、今こそ、景虎に真実を。そなたの守護印呪を唱え成されませ」

 虎御前は、苦悶の表情を浮かべる景虎と光育を交互に見やり、手を震わせながら、印を結ぶ。


オン・マカシリ・エイ・ソワカ オン・マカシリ・エイ・ソワカ

オン・マカシリ・エイ・ソワカ オン・マカシリ・エイ・ソワカ

オン・マカシリ・エイ・ソワカ オン・マカシリ・エイ・ソワカ


 虎御前の体が柔らかな光に包まれ、白光の輪が広がっていく。光が虎御前と景虎を包み込んだ。パラパラと景虎を捕えていた早九字玉が畳に落ち、光育の許へと転がっていく。

 白光の中に吉祥天が現れ、景虎を優しく抱きしめた。

 景虎の脳漿に鮮明な映像が投影される。そこには、龍と鬼子母神の子として、後ろにいる吉祥天が生れ落ちた時から、甲冑を身に纏った男神との恋物語までもが、映し出されていた。両親に反対された二人は駆け落ちしたが、失敗し、吉祥天は両親の元へと連れて帰らされた。時が経ち、吉祥天が転生することとなった。生れ落ちた場所が、上田長尾家景隆の屋敷であった。

 虎御前が15の時、井戸で水を汲んでいると「随分、探したぞ。ラクシュミー」と背後から優しい声がした。

 振り返ると、甲冑を全身に纏った闘神が立っていた。虎御前は気を失って、その場に倒れ込んだ。

 その夜、「そなたの、肉体を貸して頂けないだろうか?」吉祥天から理由を聞かされた虎御前は、元来の信心深さからか、静かに頷いて了承した。

 それは、奇しくも、為景から求婚を迫られていた時だった。吉祥天は虎御前の枕元に立ち、意識に語りかけた。

 御前は、しばしば前世の自分に体を貸与した。貸与している間の記憶は、虎御前には無かった。ほどなくして、景虎が生まれた。景虎は父であろう男神の優しく力強い腕に抱かれ、健やかに眠っていた。吉祥天は傍らで、優しく微笑んでいる。そこで、映像は途切れた。

 険しく吊り上った景虎の目が、救われたように和らぎを取り戻していく。

「母上」

 虎御前は印を結びながら涙目を、景虎に向ける。

「僕の、僕の父上は誰なのですか?」

 背中から優しく体を包む吉祥天に、景虎は首を捻って聞いた。吉祥天は微笑み、景虎の掌を、人差し指でちょんと差した。

『臨』の文字が浮かび上がる。早九字の臨の文字は、毘沙門天を意味する。林泉寺で長年修行してきた景虎。もちろん、それぐらいのことは見知っていた。

「僕の父上は、毘沙門天様なの?」

 首を捻って、吉祥天に顔を向けると、吉祥天は微笑んだまま、コクリと頷いた。涙を零す虎御前に景虎が視線をやると、御前も吉祥天同様に頷いて答えるのだった。景虎と虎御前を包んでいた光が弱まり、消失した。

「そんな、そんなことって……」

 全身の力が抜ける。だらりとうな垂れ、倒れ込む景虎の体躯を光育がガシリと受け止めた。

「毘沙門天は、四天王の中でも最強と言われておる。しかし、天界一の悪童。万の邪鬼を引き連れて、非道の限りを尽くしていたのもこと実。タクシャカ竜王と鬼子母神の反対を受けた吉祥天は、天界ではどうすることも出来なかったのじゃよ」

「現世に生れ落ちた吉祥天様を追いかけて、毘沙門天様が私の元に現れたという訳なのです」

「そして、母上は僕を身ごもった」

 虎御前がゆるりと首を立てに振った。

「だけど、人と神の間に子が生まれるのですか?光育様!」

 光育に詰め寄る景虎の肩に、虎御前がふわりと手を掛けた。

「私はこの身をお貸ししただけ。吉祥天様と毘沙門天様のお子が、私のお腹 に宿っただけのことなの」

「僕は……神の子なのですか……」

 虚空を見上げて景虎が零した。

「毘沙門天は善悪の両面神。吉祥天しかり、母を人の子を喰らう鬼子母神に持ち、父は視毒で見るものを死に至らしめる、タクシャカ竜王である。今は天に帰しているが、善神悪神の両面がお前には備わっている。闇に心奪われれば、悪鬼となりて、現世を地獄と化することとなろう。善神と化するならば、乱世は鎮まり、日の本は景虎様の加護により、戦の無い平和な世の中となり得るでしょう」

 光育は景虎に手を合わせて、頭(こうべ)を下げた。

「だけど、僕は母上の子ですよね」

 不安げな表情を浮かべる景虎。

「勿論ですよ」

 虎御前は両手で力一杯景虎を抱きしめた。

「母上の匂いだ」

 景虎は虎御前の胸に顔を埋める。景虎の胸中にぽう(・・)と光が燈り、柔らかな熱を帯びて広がり始めた。

「暖かい」

 景虎は憑き物が取れたように、穏やかな顔をしていた。子犬が景虎に歩み寄り、ぺろぺろと景虎の顔を舐めた。

 「守護に雷獣まで使わせるとは、毘沙門天様も親馬鹿よのう」

 まったく、と言う風に、光育は小さくかぶりを振るのだった。

  

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