(2)

 眠い目を擦りながらアルバイト先の喫茶店へ向かうと、店先の花壇にアサガオが咲いていた。

 早朝の優しい日差しが眩しい。これから更に暑くなるのだと思うと気が重たかった。

 二年生になって四ヶ月が過ぎようとしていた。

 この四ヶ月で本当に色々なことがあったようなそんな気がする。

 長かったような、短かったような複雑な気持ちだ。

 あと一週間程経てば、夏休みだ。

 夏休みの予定は特に無い。

 だから、夏休みはとにかく喫茶店のアルバイトを沢山入れてもらった。

 週五のロング。夏休みはがっつり働いて、そのお金を貯金して、十月くらいには欲しいアコースティックギターが買えそうだ。

 勿論、学業もしっかりとこなしている。

 最近は眠れない夜に、机で黙々と課題だったり復習をこなしている。いつの間にか机の上で眠っていることが多いけれど、なんとか朝には起きれている。

 あれから志帆とは何もない。

 といってもまだ2日しか経ってないけれど、それでも随分と長く感じるのは何故だろう。

 先週、マリアさんは珈琲豆を買いに来なかった。

 寂しさとは裏腹に、心の何処かで安堵している自分がいた。

 マリアさんに合わせる顔がなかった。

 志帆はマリアさんにどこまで話したのだろうか。

 一方的だったから、マリアさんに悪い様に言われても仕方がない。

 それでも不安で、あんなに良くしてくれたマリアさんに嫌われてしまうのだと思うと胸が苦しかった。


 お昼のピークが終わり、アイドルの時間が訪れた。

 店内の清掃。資材の補充。店先の花壇の水やり。

 それらを済ませる頃には、店内にお客様はひとりも居なくて、レジの奥のカウンターチェアに腰かけて、落ち着いたジャズの曲を背に窓から外の景色を眺めた。

 志帆は今頃どうしているだろうか。

 自分で突き放しておきながら、ふと考えるのは志帆のこと。

 自分でも訳が分からなかった。

 ジャズの曲が終わり、落ち着いたピアノの曲が店内に流れた。

 静かで切なくて、でもどこか明るい雰囲気を醸し出していて――

 不意に志帆と一緒に音を奏でた時の事を思い出して、思わず涙が零れそうになった。

 レジカウンターにうつ伏せになって、涙を堪える。

 胸が痛い。アルバイト中に情けないと思いながらも、感情を抑えることが出来なくて涙が零れた。

 来店を知らせるベルの音と共に扉が開いた。

 咄嗟に顔をあげて、制服の袖で涙を拭う。

「い、いらっしゃいま……」

 開いた扉の方を見ると、そこには二週間ぶりのマリアさんの姿があって、

「……マリアさん」

 私の言葉に、マリアさんはいつものように優しく微笑むと、

「なんだか久しぶりね。今日も可愛いわねくるみちゃん」

 お決まりの台詞で私に声を掛けてくれた。


 何も変わらないマリアさんの態度に戸惑いながらも、いつものように何気ない会話をして、ご注文のコーヒーを淹れた。

「お待たせしました」

 カウンター席へ座るマリアさんにコーヒーをお運びする。

「ありがとう」

 マリアさんがそう言って、コーヒーを口にした。

 緊張して汗が出てきた。

 私はどんな顔をしてマリアさんの前に居ればいいのだろう。

「くるみちゃん」

 不意に名前を呼ばれて、

「は、はい」

 咄嗟に情けない声で応えてしまった。

 そんな私を見るとマリアさんは、どこか寂しそうに微笑んで――、

「そんなに怖がらないで。お姉さん寂しいわ」

「っ――――」

 何かで強く打たれたようなそんな感覚に襲われた。

 そっと強張った身体が解れていって――代わりに私を襲ったのは、罪悪感。

「マリアさん……私……」

 私が言い終える前に、

「今お仕事中でしょ? 辛くなっちゃうと思うし、無理に話さなくていいわ」

 マリアさんは人差し指を唇に添える仕草と共に、首を少し傾げてそう言った。

「でも……」

「くるみちゃんこの後予定は?」

「……特にないです」

 私の言葉に、マリアさんは優しく微笑むと、

「それなら、お仕事が終わったら二人でディナーでもどう?」


 時間通り十七時にアルバイトを終えると、店前の駐車場でマリアさんが車で待っていてくれた。

「おまたせしました……すみません」

「気にしないで。急に誘ったのは私なんだから。くるみちゃん何か食べたいものはある?」

「いえ、特には……」

「それなら、イタリア料理のお気に入りのお店があるの。そこで大丈夫かしら?」

「はい。お願いします」

 車が発進した。どうやらそのイタリア料理のお店は、南区にあるらしい。

 南区は中区にあるこの街中から、約三十分程の所にある。

 マリアさんの落ち着いた運転と、車の乗り心地が良くて眠気が襲ってきた。

「最近は眠れてるの?」

 突然のマリアさんの言葉に、

「……はい」

 咄嗟に嘘をついてしまった。

「もう少しかかるから、少し寝てもいいのよ」

「いえ……ありがとうございます」

 マリアさんの変わらない優しさが胸に染みた。

 目を閉じて、涙が零れそうになるのを堪えた。


「本当にごめんなさい……」

 目が覚めると車はイタリア料理のお店の駐車場に停まっていて、運転席に座るマリアさんは静かに読書をしていた。

「大丈夫よ大丈夫。くるみちゃん、涎垂らして寝てたわよ」

「うう……本当にごめんなさい……」

 恥ずかしい。情けない姿をみせてしまったことに、羞恥心と申し訳なさが込み上げてきた。

「どれくらい待ちました……?」

「ほんの十分くらいよ。やっぱり最近眠れてないんでしょ」

 どこか悲し気なマリアさんの表情に、

「……はい。でも大丈夫です」

「ホットミルク」

「ホットミルク……?」

「気休めかもしれないけれど、眠る前にホットミルクか豆乳を温めて飲むとぐっすり眠れるみたいよ」

「そうなんですね……ちょっと試してみます」

「それがいいわ。ほら、行きましょ。お姉さん腹ペコだわ」

 車を降りて、イタリア料理お店に入った。

 暖色系の照明。店内はレトロ調で温かい雰囲気を感じた。

 どうやらマリアさんはこのお店の常連さんみたいで、店員さんはマリアさんと私を見ると、優しく微笑んで会釈をしてくれた。

 店員さんに案内されて、店内の奥にあるカーテンで仕切られた個室風のテーブル席へ向かう。

「今日はお嬢さんはいらっしゃらないんですね」

「ちょっとね。今日はこの子とデートなの」

 悪戯気にマリアさんが言った。

「可愛らしいお嬢さんですね」

 店員さんがどうぞごゆっくりと微笑んでその場を後にする。

「仲がいいんですね」

「よくここには来るから顔を覚えられちゃって。中々いい雰囲気のお店でしょう?」

「はい……とても。個室風になってるのも凄く素敵です」

「凄くいいわよね。私もここ好きよ。志帆が人目を気にするから一回お願いしてみたら毎回ここに案内してくれるようになったの」

 胸がチクリと痛んだ。

「そうなんですね……」

「さて、くるみちゃん何食べる?」

 マリアさんがそう言って、メニュー表を一つ渡してくれた。

 どこか高級感のあるメニュー表を開き、メニューを確認した。

「ピザだとマルゲリータとか、パスタならアラビアータとかカルボナーラがお勧めよ」

「うー……どれも美味しそうです……」

「正直どれも美味しいわ。ゆっくりでいいわよ」

 本当にどれも美味しそうだ。でも全部食べ切れる自信がなくて、悩みに悩んだ末私は、

「マリアさん沢山食べれますか……?」

「全然余裕よ。もしかして食欲無い?」

「はい……マルゲリータを頼もうと思うんですけど……食べきれる自信がなくて……」

「大丈夫よ。成長期のお姉さんに任せて」

 そう言って胸を張るマリアさんの仕草が可愛らしくて、

「はいっお願いします」

「ふふふっ。ようやく笑ってくれた」

 嬉しそうに微笑むと、マリアさんは言った。

「元気無さそうだから心配してたの。やっぱりくるみちゃんには笑顔が似合うわ」


 料理を食べ終えて、お店を出た。

 とても美味しかった。食欲がなくてマルゲリータを二切れしか食べることが出来なくて申し訳なかったけれど、マリアさんが無事に平らげてくれた。

 誘ったのは私だからと言って、お代はマリアさんが出してくれた。

 それでも申し訳なくて、なんとか少しでも出そうとすると、代わりにマリアさんは「またお姉さんとディナーに付き合って」と言ってくれた。

 マリアさんの誘いで夜景を見に行った。

 この街の南区は太平洋に面していて、南区や中区の所々に夜のビルと海を眺める夜景スポットがある。

 イタリア料理のお店から約二十分程の所に、マリアさんのお気に入りの夜景スポットがあるみたいだ。

 気が付くとまた、目的地に着いていた。

 連日の睡眠不足と満腹感が重なって、また車で眠ってしまった。

 マリアさんは気にしないでと言ってくれるけれど、本当に申し訳ない。

 車を降りて、バリケードに近づいた。

「綺麗……」

 あまりの景色の美しさに、思わず息を呑んだ。

 夜の暗闇に消えかかった夕暮れは海を照らし、港の静かな灯りは、そんな海を小さく見守っている。

「ここ、お気に入りなの。人気も少ないし」

「本当に……綺麗です」

「喜んで貰えてよかったわ」

 マリアさんと一緒に、しばらくその景色を眺めた。

 夕暮れがゆっくりと消えていって、夜の暗闇が海を包む。

 消えてしまった夕暮れの代わりに海を照らすのは、港の静かな灯り。

 小さく息を吐いた。

 マリアさんに、志帆のことを謝らないといけないと思った。

 そう思った直後に、

「くるみちゃん」

 マリアさんがそっと私の名前を呼んだ。

「どうしました?」

 ゆっくりと私の方を向くと、酷く申し訳なさそうな表情でマリアさんは言った。

「志帆のこと……ごめんなさい」

 思わぬ言葉に、息を呑んだ。

「志帆のことをお願いねなんて言っちゃって……きっとくるみちゃんにとって負担だったと思う。本当にごめんなさい」

 マリアさんが頭を下げた。

「そんな、頭をあげてください。マリアさんは……何も悪くないです」

「ありがとうくるみちゃん」

 マリアさんが頭を上げて、小さく微笑んだ。

「志帆は……何か言ってましたか」

「特には何も……でも」

 視線を夜景に戻すと、マリアさんは続けた。

「凄く自分を責めてたわ。全部私が悪いって。あんなに弾いていたピアノにも触れなくなっちゃって……」

「そうなんですね……」

 胸が痛んだ。志帆がそんな風に考えているなんて思っても無かった。

「ねえ……くるみちゃん」

「……はい」

「もし、くるみちゃんの気持ちが落ち着いて、また志帆と仲良くしてあげてもいいかなって思えたら……その時は……また仲良くしてあげてくれないかしら」

 そう言い終えて、慌てて私を見るとマリアさんは続けた。

「べ、別に無理しなくていいの……本当にくるみちゃんが心の底からそう思えたらでいいから、志帆と仲良くしないからって私のくるみちゃんへの態度は変わらないから……だから、その」

「大丈夫です。少しだけ時間をください……。まだ自分でも……どうしたらいいかわからなくて」

「……ありがとうくるみちゃん」

「全然です。私こそ心配して下さってありがとうございます」

 許せない事も、不安も沢山ある。

 戻りたい気持ちも、もちろんある。

 それでもこんなことになるのは、もう嫌だ。

 だから、寂しや悲しさに呑まれて間違った選択をしないように、今はただ自分の心を、考えを整理する時間が欲しかった。

「さて、遅くなっちゃうし、そろそろ戻りましょうか」

「そうですね……今日はありがとうございました」

「いいえ、こちらこそ」

 マリアさんと一緒に車に戻った。

 シートベルトを装着して車を発進しようとすると、何かに気が付いたマリアさんは慌てて私に言った。

「そうだったわ。余計なことをしてくるみちゃんを困らせないように、志帆から強く言われてて……。だから、今日のことは内緒でお願いね」

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