(4)

 志帆のクラスメイトへの態度は、相変わらず冷たいままだった。

 むしろ以前より酷くなったのかもしれない。特に夏希さんに対しては誰よりも冷たくて、クラスの中でも夏希さんを心配する声や、志帆の冷たい態度を批判する声がちらほら聞こえる。夏希さんも「大丈夫だよ」と気を使ってくれているけれど、やっぱり辛そうだ。

 志帆からしたら迷惑なのかもしれない。それでも、このままクラスメイトや夏希さんに誤解されたままんて嫌だ。

 だって、マリアさんや私の前での志帆は、あんなに無邪気で優しいのだから。

 私と同じように、中学の時にいじめられていたという志帆。

 初めて志帆に出会った時、今にも死んじゃうのではないかと思うくらい塞ぎ込んでいたと、マリアさんは言っていた。また、あの時のようにいじめに遭うのならば、クラスメイトと仲良くするのは無駄だと、志帆は思っているのかもしれない。

 それでも、今のクラスの中には、誰かをいじめたりするような人は居ないと私は思う。夏希さんだって志帆のことを気に掛けて、仲良くなろうと努力してくれている。

 だから、塞ぎ込んでしまうのは勿体ないと思った。

 ほんの少しでいい。ほんの少しでいいから、クラスメイトや夏希さんの善意を受け取って、良い関係を築いてほしい。

 それはきっと、これからの志帆の為でもあると、私は思う。


 バスを降りると、熱い熱気が押し寄せてきた。

 七月上旬。季節は本格的に夏へ移り変わろうとしていた。

 セミの鳴き声が余計に夏を感じさせる。額に滲んだ汗を拭いて、志帆の自宅へ向かう。

 今日から二日間、私はマリアさんに頼まれて、志帆の自宅に泊まることになった。

 ここ最近は下校帰りに毎日のように志帆の自宅へお邪魔しているのだけれど、恥ずかしいことに二人きりになるとお互いを求めてしまい、ゆっくりと話す時間がない。

 だから、今日こそはしっかり志帆と話そうと、胸に決意した。

 夏希さんやクラスメイトに冷たい態度をとってしまう理由を。

 なんでもいい、志帆がクラスに打ち解けるために、私に出来る事を。


 志帆の自宅の前に着くと、綺麗なピアノの音色が微かに聞こえた。

 最近は、志帆の演奏を聴くことも、志帆の演奏と一緒に歌を歌う事も滅多になくなってしまった。時間のある今日は、久しぶりに一緒に音を奏でることが出来たらいいと思う。

 チャイムを鳴らすと、微かに聞こえていたピアノの演奏は止み、勢いよく階段を下りてくる音と共に、志帆が玄関を開けてくれた。

「ごめんね。演奏の邪魔しちゃった……?」

 私の問いに、志帆が首を横に振る。

 紺色の長袖のトップスに、控えめなピンクのロングスカート。

 季節外れの格好に、暑くないのか心配になるけれど、汗をかいている様子はない。

 肩に掛けている大きなバックに気が付くと、志帆は私からバックを受け取り、玄関内へ置いてくれた。

「ありがとう。お邪魔します」

 ドアの鍵を閉めて、靴を脱いで、志帆の自宅へ上がった。

 今日から二日間、二人きり。

 そう考えると、まるでこれから同棲を始めるみたいで、胸がどきどきした。

 どちらからともなく見つめ合って、

「ん……」

 志帆がキスをしてきた。

 そのまま、そっと私を抱き寄せて、腰に手を回してくる。

 ひんやりとした志帆の体温が気持ちいい。このまま身を委ねてしまいそうになる衝動をぐっと堪えて、

「今日はいっぱい時間あるよ。また夜にしよ……?」

 物欲しそうな志帆の表情に折れかけながらも、少しの間、見つめ合うと志帆が頷いた。

 リビングに着くと、志帆が封筒を渡してきた。

 封筒を受け取り、中身を確認すると、

「食費と、どこかに遊びに行っておいでってマリアが」

 志帆のメモ帳と封筒の中のお札を交互に見て、

「こんなに……だめだよ」

 困ったような志帆の表情に、

「どこか、遊びに行きたいの……?」

 私の問いに、志帆が大きく首を横に振った。

「じゃあ……自炊しよう? 二日間、家でゆっくりして、一緒にお買い物に行って、一緒にご飯を作ろう」

 私の言葉に、志帆は嬉しそうに微笑んで頷いた。


 早めにお買い物を済ませて、お昼は志帆と一緒にサンドイッチを作った。

 志帆と一緒に食べる食事はやっぱり美味しくて、最近は夏バテで全く食べることの出来ない志帆も、サンドイッチを二つ、ぺろりと完食してしまった。

 片づけを終えて、二階にあるピアノのある部屋で、久しぶりに志帆のピアノの演奏を聴いた。

「また上手になってるね……すごい」

 志帆が自重する様に微笑んで、首を横に振った。

 志帆の演奏を聴く度に、素直に凄いと感動する反面、志帆に置いて行かれてしまうような、そんな感覚に襲われて寂しくなる。

 志帆がメモ帳に言葉を書き込んだ。

「久しぶりに歌ってくれる?」

 そう書かれたメモ帳を見せると、志帆は恥ずかしそうに楽譜を私に渡した。

「……うん。もちろん」

 微笑んで志帆から楽譜を受け取る。

 少し発声の練習をして、志帆の演奏と共に歌った。

 曲名は、雪の雫。

 行く宛の無い孤独、終わらない苦しみ。懸命に生きる少女の姿。

 どこか悲し気に音を奏でる志帆の表情は、今にも消えてしまいそうな程、儚げで――、

 歌い終わった私に残ったのは、以前の様な解放感や達成感ではなく、

「……志帆のお母さんはどんな人だったの」

 驚いたような表情で、志帆が私を見つめる。

「志帆がピアノを弾き続けるのは……お母さんの影響だって……」

 志帆がメモ帳に言葉を書き込んだ。そして、真剣な表情で私に見せる。

「マリアから聞いたの?」

 そっと頷いて、返事をする。

 何かを諦めたように楽譜を閉じて、志帆が椅子から立ち上がった。

 真っ直ぐ私を見据えて、志帆が私に迫ってくる。

「志帆……?」

 壁に押し付けられて、志帆にキスをされる。

「ん……」

 口を塞ぐように深いキスを繰り返して、志帆は私からゆっくりと離れる。

 頭がふわふわする。朦朧としかける感覚を堪えて、志帆を見上げた。

 志帆が唇を噛み締める、向けられた視線は、私を見ていない。

 静かに怒る志帆の表情を、その時、私は初めて目にした。


 それからは何事も無く、近所の湖の畔を散歩したり、夕食は志帆の大好きなオムライスを作ったりして、あっという間に夜が訪れた。

 別々でお風呂に入って、髪を乾かしあった。

 髪が伸びたことに志帆が気付いてくれて、実は志帆に憧れて伸ばしていることを告白すると、嬉しそうに微笑んで喜んでくれた。

 歯を磨いて、戸締りをして、電気を消してベッドに寝転んだ。

 深いキスをする。お互いを求めて、身体に力が入らなくなるくらい何度も果てて、気が付けば夜中になっていた。

「起きてる……?」

 志帆が身体を動かして、私に向き合った。

 暗闇に目が慣れて、志帆の顔がはっきりと見える。

「寝ちゃったかと思った。眠たくないの?」

 志帆が頷いて、手を繋いできた。ほんのりと冷たい感触が伝わってくる。

 幸せだ。このまま一緒に、志帆の温もりを感じながら眠りたい。

 そんな誘惑を押しのけて、

「あのね……訊きたいことがあるの……」

 志帆が不思議そうな表情で首を傾げる。

 何度も訊こうと思って、その度に呑み込んでしまった言葉を、思い切って口にする。

「どうして……夏希さんに冷たくするの……?」

 少しの間、見つめ合う。ばつが悪そうに志帆が視線を逸らした。そんな志帆の手をぎゅっと握る。

「夏希さんだけじゃない……クラスの皆にだって……。私、心配だよ。皆と仲良くして欲しい」

 悲し気な表情で、志帆が私を見つめる。

 握る手を解き、志帆は机の上からメモ帳を手繰り寄せて、言葉を書き込む。そして、どこか嘲笑うように、私にメモ帳を見せた。

「マリアから聞いたの?」

「……聞いてないよ」

 真っ直ぐで冷たい志帆の視線が、私に突き刺さる。

 志帆が私をゆっくりと押し倒して、その上に跨った。

 細い腕を伸ばして、私の首に手を添える。

 無言でじっと見つめて、志帆は私に問いかける。

「何も聞いてないよ」

 志帆が手に力を籠める。

「――私がいるから。ちゃんと傍に居るから。だから、今すぐにとは言わないけれど、皆と仲良くして欲しい」

 志帆の視線は私を捉えて離さない。

「だって、志帆が好きだから……好きな人が嫌な風に言われたら苦しいし、嫌だよ」

 首を絞める力が弱まり――志帆が俯いた。

 身体を起こして、志帆を抱き締める。

「私もね……怖いよ。また、あの時のようにいじめに遭うんじゃないかって怖くて……聖月学園に入学してからも塞ぎ込んでた。でもね――」

 真っ直ぐと、志帆を見据えて。

「隣のクラスで、周りが楽しそうに話している中、一人なのに堂々としている志帆を見た時、かっこいいって思った。周りに怯えずに、あんな風になれたらいいなって。でも、どこか寂しそうで心配で、その時の私には志帆に声を掛けることなんて出来なくて……気が付けば志帆を見かける度に目で追いかけてた。二年生になって、志帆と仲良くなって、こうやって付き合うようになって、本当の志帆は優しくて、子供っぽい所もあって、思っていた以上に寂しがり屋さんなんだって……だから、クラスの皆に志帆を誤解されるのが悔しい……」

 志帆が私の頭を優しく撫でてくれた。

「少しずつでいいから……私が傍に居るから、だから、皆と仲良くしてほしい……」

 少しの間の後、志帆が頷いてくれた。

 よかった。また首を絞められるのではないかと怖かった。

 志帆の細い身体を抱きしめて、そっと呟く。

「ありがとう、志帆」


 身体の異変に気が付いて、目を覚ました。

 視界が暗い。今が朝なのか、それともまだ夜なのか、何も見えなくて何も分からない。手首には何かが巻き付けられていて、どこかに固定されているようで、頭上から動かすことが出来ない。

「……志帆?」

 不安になり、そっと彼女の名前を呟く。

 冷たい感触が私の頬を撫でた。すぐ傍に志帆が居ることに安心した。

「怖いよ。放して」

 私の言葉を無視して、志帆が私の身体に触れる。

 志帆は何を考えているのだろう。

 近くで、私のスマートフォンの通知の音が鳴った。

 志帆が私のスマートフォンを弄っている。

「何してるの……? 誰から……? 志帆?」

 文字を打つ音が聞こえる。スマートフォンを閉じて、志帆が私の上に跨る。

 指で唇をなぞられる。志帆が私の耳元へ顔を持っていき、そっと耳たぶを口に含んだ。

 舌を這わせたまま、頬から、首筋へ、鎖骨辺りに何度も強く口づけをして、志帆は身体を起こした。

「志帆……? 怖いよ……外して……」

 冷たい感触が首筋に伝わって――、

 まるで私を殺そうとするように、強く、強く、志帆は手に力を込めた。

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