(6)

 それから、私は放課後になると、毎日のように志帆の家へ通った。

 志帆の家には、白いグランドピアノが置いてある一室があって、私と志帆はその部屋で何度も音を奏でた。

 高くて子供のように幼い自分の声は、今でもコンプレックスだけれど、志帆はこんな私の声を、可愛いって、綺麗だよって褒めてくれて、私はそれが嬉しくて、以前よりはこの声を好きになることが出来たような気がする。

 二人きりの部屋。春の風が優しく吹き込む、白いグランドピアノしかないこの部屋で、志帆が作った曲を、志帆の演奏で、私が声で紡いでいく。

 それは、とても心を満たされる一時で、志帆と音を奏でるその時は、加奈と理穂のことや、過去にあったいじめのことを忘れさせてくれるような、そんな気がした。

「ため息なんてついてどうしたの、くるみちゃん?」

 三時限目の終わり、次の声楽の授業に備えて第一音楽室へ向かっている途中、夏希さんに言われて、私は自分がため息をついていたことに気づいた。

 思い当たる節はあった。

 志帆にベッドで迫られたあの日以来、変に志帆を意識してしまうようになったことだ。

 志帆の手に少し触れたり、顔が近くなったりするだけで、胸の鼓動が速くなったり、志帆と別れて家に帰ると、無性に寂しくなって明日が待ち遠しくなったり、友達という感情とは違う何かが、私の胸の中にあった。

 こんな感情は初めてだ。

 志帆は私のことをどう想っているのだろう。

 そもそも、同性に恋愛感情を抱くのは、いけないことなのではないか。

 そんなことを、毎日のように悩んで過ごす日々は、なんだか重苦しくて、

「夏希さんは好きな人っていますか」

 茫然と呟いてしまい、咄嗟に口を押えた。

「どうしたの急に」

「いえ……その、深い意味はないんです」

 夏希さんはおどけたように笑うと、

「いるよ。好きな人」

 今度は、どこか真剣な表情で言った。

「男の人ですか?」

「どうして?」

「そ、それは」

 思わず口を滑らせてしまい、後悔が私を襲った。

 俯く私に、夏希さんは、

「……女の子だよ。もしかして、くるみちゃん、白鳥さんのことを好きになっちゃった?」

 恥ずかしくて、顔が熱くなった。

 引かれたら、どうしよう。そんな感情が私を急かして、

「ち、違います。その、好きとか、そんなんじゃなくて、えーと」

「くるみちゃん分かりやすいー、可愛いなああ、もう!!」

 夏希さんはそう言って私の頭を撫でると、再び真剣な表情で、

「私は変じゃないと思うよ。好きになっちゃったら性別なんて関係ないと思う。女の子同士で付き合ってるカップル、校内にそこそこいるみたいだよ。三年のバスケ部の部長とかも、かなり女の子と遊んでるみたいだし」

「でも、分からないです……この気持ちが好きってことなのか、どうか」

「くるみちゃんは白鳥さんのことが好きだと思うよ」

 夏希さんは、真っ直ぐな瞳で言った。

「どうしてですか?」

「見てたら分かるよ。くるみちゃん、白鳥さんと一緒にいる時、凄く楽しそうだもん」

「楽しそう……」

 夏希さんが見て分かるほど、態度に出ていたんだと思うと、なんだか恥ずかしい。

「まあ、ゆっくり考えれば大丈夫だよ。私も相談に乗るし、卒業まで時間も沢山あるし!」

「……うん。ありがとう、夏希さん」

 夏希さんの言う通り、卒業まで、まだ時間はある。 

 卒業するその日までに、もっと白鳥さんと仲良くなって、もっと白鳥さんのことを知って、ゆっくりでいいから答えを出せば大丈夫だと、その時の私は思っていた。

 

 四時限目の授業が終わり、昼休みが訪れた。

 夏希さんと別れて、教室へ戻らずに、加奈と理穂の昼食を買いに急いで購買へ向かった。

 二人のクラスへ着くと、加奈と理穂はいつもの様に、新しいクラスで出来た友人の、辻村さんと中村さんの四人でグループになって楽しそうに雑談をしていた。

「おまたせ」

「最近早いね、助かるよ。それでさー、この前――」

 加奈と理穂に、購買で購入した菓子パンを渡して、急いで志帆の元へ戻ろうとすると、

「そう言えば、加奈。くるみに言わなくていいの?」

「あ、そうそう。くるみ今日デートだから」

「……デート?」

「うん、デート。この前、私の彼氏の友達が、くるみと理穂に会いたがってるって言ったでしょ? その一人がどうしてもくるみと遊びたいんだって。今日の放課後に約束しといたから」

 当たり前のように加奈が言った。

「そんな……私、その人と遊びたくなんか」

「くるみ、贅沢だねー。祐二君、凄くイケメンなのに」

 理穂がスマートフォンに保存してある、祐二君のプリクラを見せてきた。

 着崩した制服のブレザーに、ワックスで整えた茶髪の髪。明らかに垢ぬけている、祐二君の姿は確かにかっこいい。

「かっこいかもしれないけど……私、その人のこと知らないし、そんな急に言われても」

「前に私達三人で撮ったプリクラを、彼氏が祐二君に見せたら、くるみのことを凄く可愛いって言ってたみたいだよ。くるみ、彼氏とかいないんでしょ?」

 戸惑う私に、加奈が不思議そうな表情で言った。

「いないけど、その……私」

「もしかして――」

 私達のやり取りを眺めていた辻村さんが、突然、口を開いた。

「天野さんってレズ?」

「――っ」

 身体から血の気が引いていくのを感じた。

「結構噂になってるよね。天野さんと白鳥さん付き合ってるんじゃないかって」

 中村さんがスマートフォンを弄りながら言った。

「レズって女同士でしょ? やばくない?」

 理穂が小馬鹿にするように言った。

「そうなの? くるみ?」

 加奈が私を見た。四人の視線が私に集まる。

「……ううん、違うよ」

「じゃあ、大丈夫だね。祐二君、面白いから安心しなって! 十七時に駅で約束しといたからね」

 教室に戻ると、志帆がお弁当を食べるのを待っていてくれた。

 目が合うと、志帆が小さく私に手を振った。何とか笑顔を作り、志帆に向かって頷く。

「お待たせ。いつもごめんね」

 私の言葉に、志帆が首を横に振ってくれた。

 志帆と一緒にお弁当を開いた。箸で卵焼きを掴み、口へ運ぶ。

 ふと、志帆の視線に気づいて、顔を上げた。

「何かあった?」

 心配そうな表情で、志帆が私にメモ帳を見せた。

「ううん……何も」

 志帆に話せるはずがなかった。

 同性に恋愛感情を抱くということを馬鹿にされて、自分でも否定してしまったことに、胸が痛んだ。

「マリアが今日も夕食食べていく? だって」

 私にメモ帳を見せながら、志帆が嬉しそうに頷いた。

 涙が零れそうになりながらも、志帆に向かって、

「……今日は、志帆の家に行けない」

 志帆が驚いた表情で、固まった。

「何か予定があるの?」

「……うん」

 少しの間考えると、志帆は続けた。

「藤原さんと?」

「違うよ」

「誰と?」

「それは……」

 どこか寂し気な志帆の表情に、胸が痛む。

「……加奈に彼氏がいるの。その彼氏の友達と遊ぶことになったの。加奈が……勝手に約束しちゃって」

 志帆がメモ帳に言葉を書き込んだ。

「二人きりで?」

「……うん」

「行きたいの?」

 首を横に振った。志帆は続ける。

「どうして行くの?」

 返す言葉が無かった。

「行きたくないなら、行かない方がいい」

「……行きたくなんか……ないよ」

「どうして行くの?」

「…………」

 志帆が席を立ちあがった。

 志帆がメモ帳に言葉を書き込み、私に見せる。

「断ってくる」

「やめてよ」

「どうして?」

 ただ俯くことしか出来なかった。

 怖いのだ。加奈と理穂に嫌われることが。

 二人に嫌われて、またあの頃のようにいじめに遭うのではないかと、そう考えると、どうしようもなく怖くて堪らないのだ。

 志帆の視線に気づいて、顔を上げた。

 メモ帳に刻まれていたその言葉は、私の胸に深く突き刺さって、

「私だって……言いなりになりたくてなってる訳じゃない!」

 気がつけば、私は席から立ち上がり、志帆に向かって叫んでいた。

 熱い。熱い何かが、私の頭の中を掻き回す。

「ちょっと、どうしたの?」

 夏希さんの声で、我に返った。

 辺りを見回すと、教室は鎮まり返っていて、昼食を食べるクラスメイト達の視線が、私と志帆に集まっていた。

 志帆と目が合った。初めて見る、志帆の表情だった。

 それは、怒っているようで、でも、どこか悲し気で――、

「……何でもないです。ごめんなさい」

 志帆が席に座った。私と目を合わせずに、黙々とお弁当のおかずを口に運ぶ。

 私も席に座って、箸を持った。

 志帆の言う通りだ。志帆の言っていることは間違ってない。

 悪いのは、言いなりになっている自分だ。

 八つ当たりだ。行き場の無い不満を志帆にぶつけてしまった事に、胸が酷く痛んだ。

 きっと志帆は、私のことを嫌いになっただろう。そう考えると悲しくて、涙が零れそうで、今すぐに消えてしまいたい。そんな衝動に駆られた。

 私は、どうしようもなく弱くて、最低だ。

 

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