(5)
その日は、白鳥さんに誘われて、二人で白鳥さんの自宅へ向かっていた。
街中にあるバスターミナルからいつものバスに乗り、私が乗り降りするバス停を通り過ぎて約十五分。地元で有名な湖の近辺に建っている、市が開設した大きな病院の目の前のバス停で、私達はバスを降りた。
そこから坂を上り、徒歩で十分程歩いた所に、白鳥さんの自宅はあるようだ。
「お家、楽しみです」
私の言葉に、白鳥さんがメモ帳に言葉を書き込んだ。
「あまり期待しないでね」
メモ帳にはそう書かれていたけれど、マリアさんが白鳥さんの家に家政婦さんとして働いている事や、マリアさんが運転していた高級そうな車を見る限り、私の住むマンションとは比べ物にならない程、立派な自宅な気がしてならなかった。
幾つもの坂を上り、高級住宅街を抜けて、湖を見下ろせるほどの高地に、白鳥さんの自宅はあった。
「――っ」
思わず息を呑み、白鳥さんの自宅に目を奪われた。
下には大きなガレージ。赤レンガを基盤に作られた外装は、綺麗でおしゃれで、門扉を抜けて階段を上り玄関へ向かうと、広い庭があるようだ。
広くて大きい、白鳥さんの自宅は、まるで豪邸というに相応しい立派な家だった。
白鳥さんが門扉を開けた。後ろに続いて階段を上り、玄関へ向かう。
「お、お邪魔します」
靴を脱いで、白鳥さんの後に続いて、白鳥さんの部屋へ向かった。
住む世界が違うと思った。よく清掃された床や壁。高級感が溢れていながらも、シックで暗めの、落ち着いた内装。
階段を上り、幾つもの部屋を通り過ぎると、ようやく白鳥さんの部屋にたどり着いた。
「わあ……」
それは、白を基調とした、透明感の溢れる部屋だった。
白で統一された家具。部屋の隅には白いキーボードが置かれていて、白いローボードの上には大きなテレビが設置してあり、デスクにはノートパソコンが置いてあった。
高級なホテルにありそうな天蓋付きのベッドには、沢山の人形が置かれていて、大きな本棚には、幾つもの楽譜や音楽に関する書籍が並んでいた。
何畳分くらいあるのだろうか、これだけの家具が置かれているのに、白鳥さんの部屋は広く開放的で、どこか寂しさを感じた。
「コーヒーしかないけど飲む?」
「いいんですか?」
私の問いに、白鳥さんは頷いて答えて、白いソファーを指さすと、腰辺りで手を小さく上下に振り、部屋を後にした。
お言葉に甘えて、大きめの白いソファーに腰掛ける。
何故か緊張してしまい、背筋が伸びた。
こんなに広いお家に住んでいるなんて、白鳥さんのご両親は一体どんな仕事をしているのだろうか。
辺りを見回すと、天蓋付きのベッドが目に入った。本当にあるんだ、なんて感心していると、二人分のティーカップとお菓子を乗せたトレーを手に、白鳥さんが戻ってきた。
「ありがとう」
トレーをテーブルに置いて、白鳥さんが私の隣に座った。
「お嬢様みたいですね。こんなに立派な家に住んでるなんて」
白鳥さんが謙遜する様に首を横に振った。
「ご家族の方はお仕事ですか?」
再び、白鳥さんが首を横に振る。
「この家にはマリアと私しか住んでないよ」
「こんな広い家に、二人きり……」
突然、白鳥さんが立ち上がり、ソファーのすぐ横にある、床に届くほどの大きなカーテンを開けた。
白鳥さんが窓の外を指さして、白鳥さんと一緒に大きな窓の外に出た。
窓の外は、広いバルコニーだった。
「綺麗っ……」
バルコニーからの景色は絶景だった。
一面に広がる、風で静かに揺れる湖。遠方に見える生い茂った草木は、春の風に吹かれて、静かになびいている。幼い頃から知っているこの湖が、まるで別の、神秘的な景色に見えた。
「私の通っていた中学校が、この湖の近くにあったんです。でも、こんなに綺麗な景色は初めてです」
初めて見る湖の姿に、思わず感動した。
「この景色を見た時、私も感動した。聖月学園に通うまでは東京に住んでたの」
そう書かれたメモ帳を見せてくれると、白鳥さんも視線を絶景の景色へと向けた。
懐かしそうに景色を眺める白鳥さんも、なんだか凄く絵になっていて、綺麗だ。
「東京での日々は楽しかったですか?」
気になり、思い切って訊いてみた。
白鳥さんとは、どこか似た雰囲気を感じるのだ。
東京での生活で、何か辛いことがあったのではないか、そう感じる私がいた。
私の問いに、白鳥さんは首を横に振って、メモ帳に言葉を書きこんだ。
「嫌な事ばかりだった。くるみは?」
名前で呼ばれて、不意に胸が高鳴る。
「私もあまり。いい思い出が……なくて」
微笑みながら返すと、白鳥さんは悲しそうな表情をしてくれた。
「志帆―、くるみちゃん来てるの?」
気づいていなかったのか、丁度、帰宅した所なのだろうか、マリアさんの声が下から聞こえてきた。
白鳥さんが指を下に向けて、下に行ってくるねと、私に伝えた。
「はい! いってらっしゃい」
コーヒーあるからね、と、ティーカップを指さすと、白鳥さんは部屋を後にした。
折角だし、温かいうちにコーヒーを頂こうと、部屋に戻り、バルコニーの窓を閉めておいた。
コーヒーを口にしようとして、そこでようやく私は、自分がコーヒーが苦手でカフェオレにしないと飲めないことを思いだした。
白鳥さんが淹れてくれたコーヒー。
飲まないなんて失礼だ。
意を決して、恐る恐るティーカップに口を付ける。
「……美味しい」
昔、家で飲んだレトルトのコーヒーなんかとは、比べ物にならない程、苦みが少なくて、後味も悪くなくて、気が付けば次々に、コーヒーを口に運んでいた。
ふと、ベッドの上で佇んでいる沢山のぬいぐるみが目に入った。
ぬいぐるみの殆どが、白鳥さんのメモ帳に描かれている、ピンクのポップな可愛いうさぎや、その色違いのうさぎだった。
「……可愛い」
ぬいぐるみを眺めていると、白鳥さんが部屋に戻ってきた。
私がベッドの上にある、ぬいぐるみを見ていたことに気がつくと、白鳥さんはメモ帳に言葉を書き込み、
「勝手に増えるの。ぬいぐるみ」
恥ずかしそうにメモ帳を見せてくれた。
白鳥さんがベッドに腰掛けた。隣を手で軽く叩いて、私に座るように伝えてくれた。
白鳥さんが、ベッドの上の一番大きなうさぎのぬいぐるみを抱き寄せた。
「そのうさぎさん、メモ帳のうさぎさんと一緒ですね」
白鳥さんは首を縦に何度も振ると、
「チャッピー。こっちはチョッピー」
沢山のぬいぐるみの中から、色違いのうさぎのぬいぐるみのチョッピーを抱き寄せて、私の膝の上に乗せてくれた。
「可愛いです、白鳥さん」
私の言葉に、白鳥さんは少し頬を赤らめて、首を横に振ると、メモ帳に言葉を書き込んだ。
「くるみの方が可愛い」
名前で呼ばれると、恥ずかしくなって顔が熱くなる。
変に意識してしまい、胸がどきどきした。
「……な、夏希さんもこの前言ってました。白鳥さんのこと凄く可愛いって、女優さんみたいだって」
一瞬、白鳥さんの表情が強張ったように見えた。
抱きかかえていたチャッピーをベッドの上に置いて、白鳥さんがメモ帳に言葉を書き込む。
「名前で呼んでくれないの?」
寂しそうな表情で見せてくれたメモ帳には、そう書かれていて。
顔が熱くなる。あれから何度も名前で呼ぶ練習をした。でも何度練習しても、やっぱり恥ずかしくて、なんだか申し訳なくて――、
顔が近い、どうしてこんなに近いんだろう。意識すると身体中が熱くなる。
恥ずかしくて、白鳥さんから離れようとすると、バランスを崩してベッドの上に倒れてしまった。
ふかふかのベッドに身体が沈んで、
「し、白鳥さん……?」
ゆっくりと、仰向けになった私の上に白鳥さんが乗った。
白鳥さんの身体の感触が伝わってくる。
白鳥さんが、私の両腕を両手で捕らえて、覆いかぶさってきた。
甘い匂いがした。白鳥さんの長い髪が、私に頬に触れる。
白鳥さんの目は、私を真っ直ぐ捉えて離さない。
顔が、身体中がどうしようもなく熱い。壊れてしまいそうなほど鼓動が早くて、聞こえてしまうのではないかと思うほど大きい。咄嗟に両手で顔を隠そうと試みたけれど、白鳥さんに腕を押さえつけられていて叶わない。
「志帆……さん」
私を見つめたまま、白鳥さんは小さく首を横に振った。
「……志帆」
恥ずかしい。どうにかなってしまいそうなほど、熱くて、恥ずかしくて堪らなかった。
白鳥さんが私の上に乗ったまま、ベッドの上に転がったメモ帳を拾い上げて、言葉を書き込んだ。
「これからは名前で呼んでくれる?」
「……はい」
「本当に?」
「……呼びます」
私の言葉に、白鳥さんは嬉しそうに微笑むと、
「嫌じゃない?」
今度は心配そうな表情でメモ帳を見せてくれた。
「嫌じゃないです……ただ、恥ずかしくて」
白鳥さんがメモ帳に言葉を書き込んだ。
「ゆっくりでいいから、名前で呼んでほしい」
頷いて白鳥さんに答える。
白鳥さんが、私の頭を優しく撫でてくれた。
撫でられると、少し落ち着いて、なんだか安心した。
火照った私の身体とは対照的に、白鳥さんの身体はほんのりと冷たくて、気持ち良かった。
突然、扉をノックする音が聞こえた。
「くるみちゃん、夕食は……あら」
マリアさんの視線が、ベッドの上の私達に突き刺さる。
「え、あの……これは」
気まずい沈黙。
「お邪魔しましたー、どうぞごゆっくり」
満面の笑みで言い残して、マリアさんは扉を閉めた。
夕食は、志帆の家で頂くことになった。
母に連絡すると、楽しんできてね、と、嬉しそうな顔文字と共に、お礼を言っておくように言われた。
一階にある、広いリビングで、志帆とマリアさんと、三人で食事を取った。
マリアさんが作ってくれた、ホワイトソースのドリアがとても美味しくて、お腹が減っていた私は、すぐに完食してしまった。
「若さの情熱、一度きりの青春」
「……マリアさん?」
「くるみちゃんがお嫁に来るなら、お姉さん、大歓迎よ」
「な、なに言ってるんですか!」
顔が熱くなって、何が何だか分からなくなる。
「し、志帆も……頷かないで……」
「ふふふ、洗い物が終わったら送ってくわ、くるみちゃん」
「すみません、ありがとうございます。あ、私、洗い物します」
「そんな、大丈夫よ。ソファーで志帆とゆっくりテレビでも観てて?」
「でも、その、お世話になってばかりで申し訳ないです」
「うーん、じゃあお言葉に甘えようかしら」
「私も手伝う」
メモ帳に書かれた志帆の言葉に、
「志帆は駄目よ。この前、割られた、お気に入りのマグカップ。忘れてないわ」
笑顔で言うマリアさん。志帆は頬を膨らませて、マリアさんに抗議の視線を向けると、敵わないと悟ったのか、大人しくソファーに小さく座った。
マリアさんは一通りの手順を教えてくれると、家中の戸締りをしにリビングを後にした。
食器を洗い終えたら、食器乾燥機で食器を乾燥させるようだ。食器乾燥機なんて便利な物は我が家には無くて、実物を見るのも初めてで、洗った食器が自動で乾くなんて便利だな、と感動した。
洗い物を終えて、食器乾燥機に洗い終わった食器を並べていると、マリアさんが戸締りから戻ってきた。
「食器ありがとね。それと、今日は来てくれてありがとう」
「いえ、そんな。突然お邪魔してすみません」
「くるみちゃんならいつでも大歓迎だわ。それに、志帆も嬉しそうだし」
「よかったです。お家、大きくてびっくりしました。しかも、マリアさんと二人で暮らしているなんて」
「さすがに勿体ないわよね。元々、ここは別荘だったみたいなの」
「別荘ですか!?」
「うん。志帆は東京に住んでいたのだけれど、そこで色々あってね。この別荘に、私と一緒に住むことを条件に、親元を離れて、こっちへ引っ越してきたの」
「マリアさんは、どうして志帆の家の、家政婦さんに?」
どこか懐かしそうに微笑むと、マリアさんは続けた。
「志帆のお父様は経営者で、休みを取ることが出来ないくらい仕事で忙しくて、お母様もそのサポートで、どうしても東京を離れることができなくて困っていたの。私の父は志帆のお父様の仕事仲間で、プライベートでも仲良くしてもらっていてね。困っている志帆のお父様を案じた私の父が、私のことを、志帆のご両親に紹介したの」
「……そうだったんですね」
志帆が周りの人に大切にされているんだと思うと、安心した。
嫌なことばかりだったと、志帆は言っていた。
東京で、一体何があったのだろう。
「さて、もう遅いし、送って行くわ」
「い、いいんですか?」
「もちろんよ。こんな遅い時間に、くるみちゃんを一人で帰らせれないわ」
「すみません……ありがとうございます」
「いいえ。気にしないで。くるみちゃんを送っていくけれど、志帆はどうする?」
マリアさんが志帆に声を掛けた。でも、志帆の反応は無くて、ソファーの隣に置いておいた通学用のバックを背負い、志帆の様子を窺った。
「マリアさん、志帆……寝てます」
志帆の顔を覗き込むと、ソファーの隅でクッションを抱き締めながら、小さく丸くなって、志帆は眠っていた。
「あら、本当ね。それじゃあ、志帆は置いて、行きましょうか」
寝顔も綺麗だ。
静かに寝息を立てて眠る志帆に、
「また明日ね、志帆」
別れの言葉を告げて、マリアさんと一緒に玄関へ向かった。
「今日はありがとう」
「いえ、こちらこそ、ありがとうございました」
「またいつでも来てね。おやすみなさい」
マンションの前でマリアさんの車が見えなくなるまで見送り、マンションの階段を上った。
鍵を開けて玄関に足を踏み入れると、家の中には、誰も居なくて、ふと、寂しさが込み上げてきた。
リビングの電気を付けて、自室へ向かった。
制服を脱ぎ、部屋着に着替えて、ベッドに身を委ねる。
志帆に迫られたあの時の事が、頭から離れない。
鮮明にあの時のことを思い出すと、胸が熱くなって、鼓動が速くなった。
もし、あの時、志帆のことを名前で呼ばずに、首を横に降り続けていたら、どうなっていたのだろうか。
「……何、考えてるんだろう、私」
頭を横に振って、脳裏に浮かびかけた、光景をかき消した。
胸が切なくなる。変だ。何が変なのかは分からない。でも、変だ。おかしい。
自室の天井を、呆然と眺めながら、
「…志帆」
そっと、彼女の名前を呟いて、目を閉じた。
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