(2)


 聖月学園では、二年生に進級する際、普通、理数、ビジネス、体育、福祉、芸術の六つのクラスの中から一つを選択し、進級する。

 クラス選択は重要だ。二年生に選択したクラスは、三年生になっても変わることなく引き継がれるからだ。

 一年生の秋。クラス選択の最終希望を決める進級調査で、私は加奈と理穂、二人とは別のクラスである、芸術科を選択し、進級した。

 芸術科は通常の授業に加え、美術、声楽、器楽の中から、コースを一つ選択し、専攻するクラスだ。

 芸術科を選んだ理由は、芸術科は比較的落ち着いた生徒が多い事と、歌を歌うのが好きだという理由以外にもあって――

 私は加奈と理穂から離れて、二人の言いなりになってしまう、こんな自分を変えたかった。

 

 二年生になって、二週間が経とうとしていた。

 五時限目の終わりの休み時間。私がひとり自分の席に座り、佇んでいる中、辺りではクラスメイト達がそれぞれ他愛ない会話をしていた。

 二年生になった当初は、一緒に昼食を食べようと誘ってくれるクラスメイトもいたのだが、昼休みは毎日のように、加奈と理穂に呼び出されてしまい、誘いを断るしかなかった。

 加えて、新しい環境になったことで人見知りしてしまい、クラスメイトが休み時間に話しかけてくれても、愛想笑いばかりで上手く会話をすることが出来ず、そうしているうちに、クラスメイトに話しかけられる回数は減っていき、まだ一週間しか経っていないのに、私はクラスで孤立してしまった。

(何も変われなかったな……)

 クラスでは常に独りで、昼休みになれば、加奈と理穂に呼び出されて、いいように使われる日々。卒業までこんな日々が続くのかと思うと、とても憂鬱で、母には申し訳ないけれど、今すぐにでも学校を飛び出してしまいたかった。

「夏希。次、移動教室じゃないの?」

「あ、そうだった。途中まで一緒に行こー」

 クラスメイトの話し声が聞こえてくる。

「そうだ……移動教室だ。行かないと」

 重たい身体を起こして、席を立った。

 椅子を机に入れて、教科書と筆記用具を手に教室を後にしようとした、その時。

 目の前を通った彼女の横顔に、私は思わず、目を奪われてしまった。


 白鳥志帆――。

 黒く艶のある長い髪に、切り揃えられた前髪。

 綺麗で整った顔立ちは、テレビに出てくる、どの女優さんよりも魅力的に感じて、右目の下にある泣きぼくろは、どこか彼女に幼さを感じさせた。

 制服越しからでも分かる、華奢な身体は、とても羨ましくて、制服の袖から見える細い腕は、驚くほど白い。

 器楽コースの白鳥さんは、同じ女の子だとは思えない程、綺麗で可愛い。

 入学してすぐの頃は、とんでもなく可愛い子がいると、校内で話題になっていた。バスケ部で同性からも凄く人気のある、三年生の先輩が白鳥さんの教室まで来て、白鳥さんに連絡先を聞いたり。放課後になれば、他行の男子生徒が白鳥さんを、正門前で待っていたり、白鳥さんは校内で凄く話題になっていた。でも、日が経てば経つほど、白鳥さんの事は悪い意味で話題になっていった。愛想がない。性格が悪い。男好き。きっとそれらには嫉妬や悪意も混ざっているのだろう。

 だって、私は知っている。白鳥さんが優しい人だってことを。

 白鳥さんは声を発することが出来ない。

 一年生の時は白鳥さんとは別クラスだったので、関わりも無く、うわさで聞いただけだったのだけれど、二年生に進級してすぐの自己紹介の時に、担任の先生がクラスの皆に白鳥さんが声を発することが出来ないと告げた時、噂は確信に変わり、何故か胸が締め付けられるようなそんな気持ちになった。

「って、急がないと」

 気がつけば予冷のチャイムが鳴り、教室には、私以外誰もいなかった。

 再び、教科書と筆記用具を持って、教室を後にしようとして――

「……楽譜?」

 教室の出入り口に、落ちている楽譜に気づき、拾い上げた。

 ピアノの楽譜だろうか、難しい記号や音符が手書きでぎっしりと、五線譜に敷き詰められていた。

「……雪の雫」

 聞いたことのない曲名だった。

 その曲には、歌詞がついていた。

 引き込まれるように、私は歌詞を追いかけて、楽譜をめくった。


 それは、どこか寂し気な歌だった。

 夕闇に染まる空の下で、少女は歌い続ける。

 疲れ果てて、歩くことすら諦めてしまったことを嘆く、悲しい歌を。

 ある日、少女は一つの希望を見つける。

 それは、一人の少女だった。

 懸命に歩いている彼女の姿は、あまりに衝撃的で、塞ぎ込んでしまった自分とは違う道を歩く彼女を、少女は目で追いかけ続ける。

 目で追いかける度に、少女は彼女の隣に立ちたいと、願うようになる。

 それでも、少女は諦めてしまう。

 彼女の隣に立つことを、懸命に生きる彼女のようになることを。

 少女は歌う。今度は自身の為では無く彼女の為に。


 綺麗だと思った。

 一つ一つの言葉に引き込まれていく。

 まるで、少女の想いが伝わってくるような、そんな感覚に包まれた。

 この歌を、歌いたいと思った。

 ふと、楽譜の裏側を覗いてみた。

「……白鳥志帆」

 そこには、小さく綺麗な字で、白鳥志帆、と書かれていた。

 楽譜を勝手に見てしまったことに罪悪感を感じて、咄嗟に開いた楽譜を閉じた。

 とりあえず、白鳥さんの机の上に置いておこうと、白鳥さんの席の前まで移動した。

 楽譜を机に置いて、その場を後にしようとして――

 次の授業で使う楽譜だったらどうしよう。

 白鳥さんに話しかける、いい機会なのではないか。

 そんな不安と期待が、私を挟む。

 机に置いた楽譜と、進んでいく時計を交互に見た。

 きっと、今までの自分なら、そっと机の上に置いて、何も見ていない振りをすると思う。

「このままじゃ、だめだよね」

 勇気を振り絞って決めたクラス選択。何も変わらない日々。

 そんなのは、もう懲り懲りだ。


 廊下は人気がなく、授業開始直前の静かな雰囲気に包まれていた。

 きっと、器楽コースの次の授業は、第二音楽室だ。

 声楽コースの次の授業は、同じ階にある第一音楽室だから、授業には、まだ間に合う。

 駆け足で白鳥さんを追いかけた。階段を上り、第二音楽室方面へ足を進めると、廊下をひとりで歩く、白鳥さんの姿を見つけた。

「あ、あの――」

 思わず大きな声が出てしまい、廊下に私の声が響いた。

 白鳥さんが驚いたような表情で、私へ振り向いた。

 身体中が熱くなるのを感じた。恥ずかしい。

 白鳥さんに駆け寄り、なんとか、正面に立つ。

 こうして白鳥さんと、面と向かい合うのは始めてだ。

「あの……楽譜、落ちてました……。教室に……」

 まるでラブレターを渡すかのように、頭を下げて両手で楽譜を渡す格好になってしまった。

 恥ずかしい。今すぐに消えてなくなってしまいたい。

 心臓が凄い勢いで鼓動している。

 頭を上げて、白鳥さんを見た。

 少しの沈黙の後、白鳥さんは楽譜を受け取ると――、

 私を見向きをせずに、その場を後にした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る