晩夏の風物詩 -2-

「大野の奴って何歳だっけ?」


 駅の方を目指しながら明日香は相手に尋ねる。智弘は数秒だけ虚空を見つめてから、面倒そうに口を開いた。


「確か二二歳」

「へぇ。相手は四五のオッサンでしょ。よくやるよねぇ」

「愛さえあれば年齢なんて、って昨日、大野が言ってたじゃないスか」

「愛ぃ? 生活費を巻き上げられてキャバクラで働かされるのが?」


 昨日のシフトは散々だった。

 少しオレンジ色に見える朝日を睨み付けつつ、明日香は記憶を呼び覚ます。

 本当なら、十二時から入っていた明日香は二十三時に上がる予定だった。なのに交代要員である準夜シフトの大野瑞奈オオノミズナは、入りの時間を過ぎても来る気配がなかった。


「痴話喧嘩か痴情のもつれだか知らないけど、シフト入ってない時にやってくれないかな」

「同感」


 瑞奈は父親が開業医、母親が大病院の看護師長という家で育ったお嬢様である。実家は北海道で、進学を機に上京した。

 わざわざ上京してまで通うような大学でも学部でもなく、しかもバイトは暇つぶし。去年は半年ほど、インドネシアだかシンガポールだかに「自分探しの旅」に行って不在だった。旅と言えば聞こえはいいが、ただの短期留学である。

 それだけで、如何に彼女が世間知らずで金持ちか、あるいは親に甘やかされているかは手に取るようにわかる。


「合コンで知り合ったって言ってたけどさ、四五歳のオッサンが来る合コンって何?」

「俺に聞かれても」

「甘やかされていい気になって? 気付いたら家に転がり込まれてた? あいつの家、どんだけ広いの」


 独り言のような疑問を口にした明日香は、瑞奈に前に同じことを尋ねたことを思い出す。まだ一ヶ月と経っていないはずだが、全く覚えていなかった。何しろ明日香にとって、瑞奈はどうでも良い他人である。今日の午前二時に、手持ちの金がない智弘に代わって払った三千五百円はしっかりと記憶するが、他人の家の間取りなどどうでも良い。


「働かないジジィなんて、さっさと放り出せばいいのに、マゾなんじゃないの?」

「大野はそうかも。あいつ、お嬢様だから「苦労」に憧れてるっぽいし」

「何その理屈?」


 ホテル街を抜けて繁華街に入る。この辺りは夜になると賑わうが、朝は比較的静かだった。明け方まで営業している居酒屋もあるが、それはせいぜい一つか二つで、他は殆どシャッターが下ろされている。


 このあたりには、朝食を摂れるところはないため、二人ともやや足早に進む。途中で、頭から血を流した強面のホストと擦れ違ったが、それも見ない振りをした。


「シンデレラとか白雪姫とか、好きそうじゃん」

「あぁ、好きそうだね」

「あれって所謂「ちゃんとしたお嬢様」だろ。白雪姫に至っては、お姫様だし」


 深夜から明け方にかけてのこの一帯は、お世辞にも平和な場所とは言えない。油断したらすぐに犯罪に巻き込まれると言っても過言ではない。一時期日本経済が傾きすぎた頃、「次のスラム街は此処だ!」特集に取り上げられた、名誉ある地帯である。


「あの手の話に出てくる女の子って、苦労してるのが多いだろ? だから、苦労すれば良いことがあるって信じちゃう人が多いんだってさ」

「へぇー。何の受け売り?」

「ネット」

「くっだらないけど一理あるかもね」


 某事故物件検証サイトでは、この一帯だけマーキングが異様に多い上に、殆どが他殺。銃殺、絞殺、撲殺などレパートリーも様々だった。

 明日香達は、クズなりに肝は据わっているので、このあたりも多少の自衛だけで歩くことが出来る。因みにその自衛とは「なんかヤベェ奴来たら、こいつを盾にしよう」という爽やかな決意である。世の中からクズが少なくとも一人は減る、実にエコな自衛だった。


「あ、あそこ空いてる」


 駅のロータリーに出た明日香は、軽食を出すカフェテラスを指さした。ファストフード店よりはやや上等で、蕎麦屋よりは洋風で、レストランよりは安い。

 少し遅れて並んだ智弘は、その店を見て「あぁ」とだけ言った。


「昨日、酒しか飲んでないからお腹空いた」

「俺も」


 人の少ないロータリーを横切って、店の中へ入る。冷房の効いた店内で、疲れた顔をした店員が愛想の良い声で出迎えた。

 それを見て、明日香は昨日の深夜のことを思い出した。

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