晩夏の風物詩

晩夏の風物詩 -1-

 杉野明日香は凡庸な日本人である。

 白米と納豆が好きで、緑茶はそれなりに飲み、煙草は国産ではなく外国製の軽い物。温泉は人が少ないなら入ろうかな、と思う程度には好きだし、クリスマスには骨付きチキンが食べたいと思う。


「赤くなってんね」


 付和雷同が好きで同調圧力には屈して楽をする。

 多数決には従うが、自分が意見をいう時は「どちらとも言えない」なんて言って誤魔化す。本当のところはどうでもいいのに。


「痛そう。大丈夫?」


 だから、目の前で痛そうに脛を抱いている男を気遣うのも大したことではないし、同時に何とも思っていない。どうせなら皮でも剥がれればよかったのに、程度は考えるとしても。


「ちゃんと湯加減見ないからそうなるんだよ」


 明日香は床にしゃがみ込んで、相手が抱えるように摩っている脛を見る。外で日に当たる機会のない生白い肌は、今は真っ赤に染まっていた。


「お湯入れたのあんたでしょーよ」


 他人事を決め込む明日香に、結城智弘は口を尖らせた。

 締め切られて黒いコルク板を貼られた窓の向こうから、カラスの鳴き声がする。時刻は朝の六時。駅から十分ほど歩いた場所にあるホテル街は一日中気怠い空気で満たされている。

 二人がいるのは、その中でも比較的新しい建物だった。新しいからといって、デザイン性も機能性もない。単に箱を積み上げたような味気ないホテルであるが、明日香も智弘も建築物の造形に全く興味はなかった。


「制汗スプレーかけてあげようか。ギンギンに冷たいやつ」

「やだよ。絶対痛いし、あんたゼロ距離発射しそう」


 安物の寄せ集めであるホテルは、浴室も概ねそんな作りだった。湯加減の調整も碌に出来ない蛇口を捻ったのは明日香だが、多分熱いだろうと思って智弘を先に入れたのが五時間ほど前である。


 明日香がバイト仲間とこういった場所に来るのは、頻度は低いが珍しいことではない。貞操観念が緩いというより、何も考えていない女にとって、それは駅前のスタンドコーヒー店と変わらない。


 時間があれば入る。空いていれば入る。

 気が向かなければ素通りする。知らなければ見向きもしない。


「乳液つけたら楽になるんじゃない? 日焼けとかに塗るし」


 明日香は床から立ち上がると、自分の背面にある扉を開けた。浴室に続く洗面所にはバスタオルが放り出されている。

 天井の照明は壁のスイッチを何度押したところで瞬きもしなかったが、このホテルの中では上等の部類だった。前に別の人間と来た時には蛇口が壊れたまま放置されていた。

 アメニティとして置かれている乳液のボトルを手に取り、明日香はすぐに室内へと引き返す。そして、智弘の足目掛けてそれを投げつけた。


「あっぶねぇ!」

「なんだ、動けるじゃん」

「スギノン、そういうことしそうだから警戒してたんだよ。読みやすいな、本当」

「照れる」

「褒めてねぇよ」


 床に落ちたボトルを拾い上げ、智弘はそのキャップを開ける。白くて粘性のある液体を手に取って足に塗り付ける様子を、明日香は立ったまま見ていたが、すぐにそれにも飽きて口を開く。


「朝飯食い行くでしょ?」

「あー。何食います?」


 智弘は明日香に対して敬語とタメ語が混じりやすい。それは「年上だから一応敬語使うけど、尊敬出来ない」という感情が素直に出ているからである。


「うーん。軽くでいいんだよね。まだ昨日の酒残ってるし」

「昨日って言うか今日ですけどね。飲み始めたの一時だから」

「道理で眠いと思ったー」


 明日香は大欠伸をしながらショルダーバッグを担ぐ。智弘も乳液を塗り終わり、ズボンの裾を元に戻していた。


「ってかなんでそんな時間に飲み始めたんだっけ?」

「帰れなかったからでしょ」

「あぁ、そうか」


 部屋から出ると、少し涼しい大気が二人を撫でる。そろそろ夏も終わることを、その気温が表していた。とはいえ、太陽が昇り切れば、まだ蒸し暑いことに代わりはない。

 明日香は黒いカットソーの上から羽織ったメッシュパーカーを意味もなく弄りながら、エレベータへと向かう。


「ってかさー、理解出来ないんだけど。若い子って皆あんな感じなの」

「若いとか関係ないっしょ。絶対大正時代ぐらいにもいたって、あぁいうの」


 智弘がエレベータのボタンを押す。すぐにやってきたエレベータは、乗った時と同じくカビの匂いがした。

 一階に到着し、清掃員の横をすり抜けて外へと脱出する。ホテルの前にはカラスがばら撒いたらしい生ごみが散らかっていたが、二人は気にも止めずにそれを乗り越えた。

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