真冬の風物詩 -5-

「すみません、遅れました!」


 駆け込んで来た若い男は、それから続けて何か言いかけたが、部屋の空気が異様に重いのに気付いて黙り込んだ。

 真は椅子に座って、額の絆創膏を指で触っていたが、後輩であるその男に気付くと短く挨拶をした。


「おー、原田。遅かったな。電車動いたん?」

「一時間ぐらい前に漸く。……えーっと」


 真の額の絆創膏を見ながら、原田と呼ばれた後輩は言い淀む。

 それに気付いた真は、前髪でそれを隠すような仕草をしながら、タイムカードを指さした。


「早くタイムカード切れよ」

「あ、はい」


 余程気になるのか何度か横目で見ながら、後輩はタイムカードを押す機械の方へ移動する。固い紙で出来たカードが機械のスリットに吸い込まれて、現在の時刻を印字した。


「服とか更衣室に干しておけよ」

「あっちの部屋の暖房入ってるんですか?」

「いつもはつけると怒られるけど、今日は許されるだろ」

「まぁそうですね。……あの」


 何かを言いかけた後輩の言葉を遮るようにして、智弘が外から戻ってきた。右手に持っていたデッキブラシを壁に立てかけ、如何にも不機嫌そうな溜息をつく。


「おはようございます」

「……おはよ」


 智弘の口元に赤く染まった絆創膏と、目元の青痣を見つけた後輩は、今度こそ落ち着きなく視線を泳がせた。

 真はその様子に気付かない振りをして、スロットの専門誌を広げる。それも妙に皺が寄っていて、まるで誰かが故意に握りつぶしたかのようだった。


「原田」


 戸惑っている後輩へ、智弘が声を掛ける。


「ワセリンとか持ってる?」

「え? も、持ってないです」

「そうか。……あー、いてぇ」


 口元を摩りながらぼやく様子を見て、後輩は遂に限界を迎えたようだった。


「お、俺、雪掻きしてきます!」


 デッキブラシを手に持ち、足をもつれさせながら部屋を出て行く。一刻も早く此処から逃げたい、とその態度が語っていた。

 真は、あまり器用とは言えない後輩が、ブラシや靴の先を壁にぶつける音に耳を澄ませていたが、やがてそれらが非常階段の方に消えると、智弘を振り返った。口元を押さえている相手に向かって、右手を上げる。するとその手に相手の右手が合わさって、高らかな音を立てた。


「大成功ー!」

「いやー、あそこまであっさり騙されると、あいつの将来が不安だな」

「あいつら、俺らが殴り合ったと思ってるんじゃね?」


 真は額の絆創膏を剥がすと、丸めてゴミ箱に放り込んだ。智弘も同じように口元に貼っていた絆創膏を放り投げる。

 どちらの絆創膏にも赤いものが付着していたが、それはボールペンと忘れ物の口紅で作ったフェイクだった。


「その青痣も落としとけよ」

「了解。ってか原田のやつも気付けよな。ラメの入った青痣なんかねぇだろ」


 ティッシュでアイシャドウを拭い取り、智弘は心底愉快そうに笑う。そのアイシャドウも忘れ物で、コートや口紅と一緒に来週には捨てられる運命にあったものだった。

 最後の仕事がクズの悪戯のお手伝いでは、さぞかし不本意に違いない。


「これで暫くは、雪掻きしてるだろ」

「まじ可哀想。超可哀想。麻木って悪い奴だよなー」

「お前に言われたくねーよ」


 雪掻きと五千円を天秤にかけていた二人は、「後輩に押し付ける」という考えに、天秤を投げ捨てて飛びついた。結果として、何も悪くない後輩が寒空寒風の下に置かれたが、二人は全く気にしていない。


「それに俺らが何か言ったわけじゃないだろ。あいつが勝手に勘違いして雪掻きに行っただけだし」

「まぁな。どのぐらい雪掻きしてるか、賭ける?」

「やめとくわ。金ねぇし」


 二人は声を抑えて笑いあう。

 哀れな被害者が寒さに凍えて戻ってきたのは、それから三十分も経ってからだった。


END

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