第4話

 白狼の毛皮は、父の手によって綺麗になめされ、その冬の寒さから病身の母を守るための布団になった。余った毛皮はシュレーに与えられ、白い襟巻きになって、悪童どもから一目おかれることになった。

 父のことを、女のようだとからかう者は、一人もいなくなった。

 代わりに肉を持って、息子に槍を仕込んで欲しいと頼みに来る者まであらわれた。

 しかし父はそれらを丁重に断り、族長が与えようとした本物の槍も、辞退してしまった。

 シュレーは、それを悔しいとは、もう思わなかった。

 父は槍がなくても杖で狼を倒したし、杖がなければ素手で戦っただろう。

 しかし食い損ねた焼き肉の味は、夢にまで現れてシュレーを苦しめた。

 長い冬は、空きっ腹をなだめることに忙しく、結果的に命がけで救った仔山羊でさえ、ときどき、こいつは焼いたら美味いのかということが気になってしかたがなかった。

 父がとつぜん差し出すまで、槍がほしいとねだったことは、実はすっかり忘れていたのだ。

 朝、出かけるまえに、父はシュレーの顔の前に、一本の見覚えのある棒きれを差し出した。槍らしい形はなく、どちらかというと、ただの牧童の杖だったが、柄には簡単な彫刻が施されており、なにより木肌に残る傷跡には覚えがあった。いつも父が持っていた、あの長杖のものだ。

「これ……どうしたの」

 どうしたのかは想像がついたが、シュレーは思わず訊ねた。予想通り、父はなにも答えず、ただシュレーの手に杖を握らせた。父はあの長杖を半分に断ち折って、自分に与えたのだ。

「シュレー」

 白狼を倒した武器をゆずりうけた気分は爽快だった。シュレーは自分が無敵になったような気がして、嬉しさに輝かせた目で、自分を呼んだ父を見上げた。

「お前は、仔山羊を守った。この杖はその褒美だ」

 父が自分に槍を与えたわけではないことに、シュレーは思わず表情を曇らせた。

「槍を教えてくれるんじゃないの?」

「シュレー、戦っていたら、お前は死んでいた」

 渡された棒きれを見下ろして、シュレーはじっと考えた。

 確かに父が言うように、戦っていたら自分は狼に殺されていただろう。戦うどころか、逃げるだけで精一杯だった。よく逃げ切れたと思う。自分は幸運だったのだ。

「俺が戦えるようになったら、槍を教えてくれる?」

 いつかは自分だって、父が納得するような大人になるだろう。そのときには狼を仕留めた父の業を、受け継いだっていいはずだ。みんながそうするように。シュレーは純粋にそう信じて、父にたのんだ。

「おい、白いの。来いよ、来いよ」

 天幕の外から、悪童どもが自分を呼ぶ声がした。シュレーは天幕の入り口のほうへ目を向けた。

「いいものが見えるぞ、見に来いよ」

 父は、行ってこいと言うように頷いてみせた。

 シュレーは頷き返し、白狼の毛皮を首に巻き付けて、凍るように寒い冬の外気のなかへ飛び出していった。

 木製の槍を持った子供らは、シュレーに手招きしながら、南のほうを指さしている。

「寒い寒い」

 シュレーは凍えながら、父にもらった杖をしっかりと両手で握りしめた。

「なんだそれ、槍もらったのか」

「父ちゃんの杖、半分もらったんだ」

 自慢げに差し出すと、悪童たちは興奮してぴょんぴょん飛び跳ねた。

「すげえ! 狼の血がついてるか?」

 杖をためつすがめつして眺め回す喧嘩友達と、シュレーは少し気恥ずかしい気分で押し合いへし合いした。そうすると少し暖かかった。

 すっかり杖に夢中になっている連中から、頭ひとつ起こして、シュレーは彼らが何を見ろと言っていたのかを確かめようとした。

 南の地平線は、うっすらと起伏のある山並みとなって霞み、少し灰色がかった冬の空が、重たげにその上を覆っている。今日に限って、雲ひとつ無く晴れ渡った空に、ぼうっと白いものがそびえ立って見えた。それは山にしては、あまりに鋭く、槍を束ねて立てておいたような形をしている。

「あれなに?」

 初めて見る風景に、シュレーは心を奪われた。遠くにゆらめいている白い影は、炉辺のお伽話に出てくる魔法の国の入り口のようだった。

「あれ、蜃気楼っていうんだぜ」

「遠くにあるお城が見えてんだって」

 子供たちは背伸びをして、遠く地平線のうえに浮かんでいるように見える蜃気楼を、並んで見つめた。

「きれいだなあ」

 自分たちの白い息にも隠れてしまう、ぼんやりとした城の輪郭を、シュレーは目を細めて眺めた。その城は本当に美しく、輝いて見えた。

「聖桜城(せいろうじょう)っていう、ありがたいお城なんだって、ばあちゃんが言ってた」

「天使が住んでんだぜ」

 寒さをやりすごすために足踏みしながら、年かさのひとりが言った。狼にやられて抜けた腕を、まだ包帯で吊っている。

「天使ってなに?」

 シュレーが聞くと、みんなぽかんとして、それから笑った。

「おまえ馬鹿じゃねえの。なんも知らねえのな。俺んちこいよ。ばあちゃんに話してもらえ」

 シュレーは頷いた。誰かのうちの暖かい天幕に引っ込めるなら、それほどいいことはない。運がよければ、乳をいれた温かい茶の一杯にもありつける。放牧へいく山羊の群れのように、子供たちは肩の擦れ合う近さで草原を走り抜け、竈(かまど)からの煙があがる天幕を目指した。

 走りながら、シュレーはもういちど南の空を振り返ってみた。冬の日の寒気が生み出した蜃気楼は、ゆらゆらと夢の中の景色のように不確かに、純白の城の幻影を、うす青い空に描き出していた。



      ---- 完 ----

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カルテット番外編「北辺の狼」 椎堂かおる @zero

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