第3話
昼飯の固いチーズをかじっていたとき、なにか嫌な予感がした。それは臭いだった。
嗅ぎ慣れた山羊たちの臭いや、チーズの臭いとは別の、つんと鼻を突くすえた臭いが、どこかからしたような気がした。
シュレーが鼻をひくつかせて確かめようとすると、気まぐれな風向きはもう変わっており、あたりには何事もなかった。
草原に突き出た岩の上に、シュレーは立ち上がり、岩だらけの平原を見渡してみた。
弁当を食い終わった悪童たちは、もう槍合戦で転げ回っており、大人たちは煙管を取り出して、のんびりと煙草をふかしている。
草をはむ山羊の群れの向こう側に、父が立っている背中が見えた。長い杖をまっすぐに地面に立てて、父は群れとは逆のほうを見つめている。
なんだか胸騒ぎがした。
いますぐ父の足元に走っていきたいような臆病心が、シュレーの胸の奥で頭をもたげている。
シュレーは不安になり、仔山羊がどこにいったか、あたりを目で探した。腹を空かせて泣いたので、母親のところに乳を飲ませにいかせたのだ。
槍合戦のすぐそばで、仔山羊はのんびりと母親の乳を飲んでいた。いつもなら、からかわれると知っていて、自分から悪童どものいるほうへ近づきたくはなかったが、シュレーは何かに背中をおされるような思いで、岩から飛び降りた。
仔山羊は無事に成長したらシュレーのうちの最初の山羊として、もらえる約束になっていた。父はその仔山羊をシュレーのものにしていいと言ってくれていた。運良く雌の山羊だったし、成長すれば沢山の仔山羊を生むかもしれない。槍合戦のとばっちりで怪我でもして、それがもとで死にでもしたら大損だ。
シュレーはそう言い聞かせて、自分を急かした。
なんだろう。
いくら、ふざけた連中とはいっても、山羊飼いの部族の者は生活の糧である山羊を傷つけたりはしない。
自分はなにを焦っているんだろう。
すぐ横を走り抜けていくシュレーを、悪童たちはぽかんと不思議そうに見送っている。
母山羊のそばを離れたくない仔山羊は、シュレーが抱き上げると、足をばたつかせ、めええと抗議の声をあげた。母山羊も、おどしつけるような顔をして、シュレーを追い返そうとする。
山羊の親子に腹をぐいぐいやられながら、シュレーは数歩さきにある白い岩かげをじっと見つめた。そこから目が離せなかった。
そして、ふと、自分たちが風上に立っていることに、気付いた。
めええ、と仔山羊の声がうるさく聞こえている。
「どうしたんだよ、白いの」
「なにかいる」
からかう風を装って、声をかけてきた悪童たちに、シュレーは小声で答え、岩陰を指さした。
「なにがいるんだよ」
「わかんないけど……なにかがこっちを見てる」
仔山羊を抱きしめたまま、シュレーは後ずさった。このまま父のいる場所まで走っていこうと思った。そうすれば、父がなんとかしてくれる。
「なんにもいねえよ! 槍無しの臆病ものめ。俺が見てきてやる」
木の槍をふりあげて、年かさの一人が岩のほうへ歩き始めた。
「よせよ」
シュレーは思わず叫んでいた。
それが武器を持って生きるものの運命だ。父の声がきゅうに頭の中でよみがえった。よけられなければ死ぬ。それが武器を持って生きるものの……。
悪童が槍をふりかざし、芝居がかった動きで岩にとびのった瞬間、その向こう側から、白い毛皮をまとった四つ足のなにかが、ぬっと姿をあらわした。
風向きが変わって、すえた臭いがシュレーの鼻をついた。
黄金の目で獲物を狙っている。この獣は、そうだ確か。狼と、呼ばれていた。
「……狼だ」
槍を構えた子供は、まるで伝説の絵のなかの人物のように、間近に巨大な狼と見つめ合っていた。山羊たちは恐怖の臭いに脳をやられ、その場に凍り付いたように動かない。その場の誰もが静止していた。
めええ、と突然、シュレーの腕の中で仔山羊が鳴いた。
その瞬間、白い狼は槍をもった子供を蹴倒し、シュレーをめがけて飛びかかってきた。
悪童たちは悲鳴をあげ、あたりにいた山羊たちは、呪縛をとかれたように走り出した。
シュレーも悲鳴をあげたかったが、それはなぜか声にならなかった。代わりに悲鳴をあげつづける仔山羊を抱いて、シュレーは父親のいるほうへ、必死で走った。
自分がこれほど速く走れると、シュレーは知らなかった。暴走する山羊をかいくぐって、父のいる群れの反対側へ、ひたすら走り続ける。
仔山羊を投げ捨てて、自分だけ助かろうかという思いつきが、ふと脳裏をかすめた。でも、もし狼が追っているのが仔山羊でなく、自分のほうだったら?
こらえきれずに振り向いたとき、シュレーはすぐ後ろで白狼のうなり声をきき、地面に足をとられて草原に体を投げ出された。
もうだめだと悟った瞬間、シュレーはまるくなって仔山羊をかばうように抱きかかえていた。そうして狼の牙が自分の背を襲うのを覚悟したが、代わりに聞こえたのは、ギャンと甲高く響く狼の悲鳴だった。
「シュレー、そこを動くな」
顔をあげると、杖を中段にかまえた父の背中が、自分と狼の間に立ちはだかっていた。
狼の金色の目は、片方が真っ赤につぶれて、流れ出た血が白い毛並みを毒々しい赤に濡らしている。父がやったのだということに、シュレーはなかなか気付けなかった。
狼は姿勢を低くして唸りながら、じっと父と見つめ合っていた。激怒した獣と見つめ合う父の緑の目は、いつもと変わらない無表情だ。
めええ、と仔山羊が母親を呼ぶか細い声をあげた。
それを抱きしめて、シュレーは今やっと、悲鳴をあげた。
「父ちゃん助けて」
戦いは一瞬で終わった。
狼がとびかかり、父は長杖で、その大きく開いた喉を突き貫いて地面に縫い止めた。
まるで舞踏のような、あざやかで無駄のない動きだった。
狼は白い毛皮をふるわせ、開いた口から大量の血泡をふいたが、獣の悲鳴は、最後まで聞こえなかった。
父は、獣の体に死の痙攣が走るのをじっと見つめ、それが動かなくなってからやっと、シュレーのほうを振り向いた。
「シュレー、お前は逃げ足が速いな」
シュレーは、父は怒っているのだと思った。逃げるなんて男らしくないと。
なにか言おうとして口を開いたが、シュレーの口をついて出たのは嗚咽だけだった。
かばっていた仔山羊にすがりつくようにして、シュレーは泣き声をあげた。
「泣くな、シュレー」
仔山羊ごと、父はシュレーを抱え上げた。叱られるのだと思って、シュレーは何度か、ごめんなさいと言ってみたが、嗚咽がひどくて、自分でもなにを言っているのか良く分からないような有様だった。
それを見上げる父の目が笑っていた。笑っている父を、シュレーは初めて見たような気がした。
めええ、と、また仔山羊が鳴きはじめた。
山羊飼いの部族の者たちが、狼の死骸を見に集まってきた。
額に脂汗の光る大人たちの顔は、意外なものを見る目で、父を見つめている。
「あんたがこんな手練れだったなんて」
シュレーを肩車して、父は驚く人々を見つめ返した。
「まぐれだよ。息子が食われかければ、狼ぐらい殺せる。そういうものだろ」
父はそう答えて、あたりに逃げ散らばった山羊を追い戻しはじめた。
最後の一頭を父が数え終わるまで、シュレーは父の金髪の頭にしがみついていた。
父ちゃんは背が高いな。俺も大人になったら、こんなふうになるのかな。シュレーは父を誇りに思った。そして、今までもずっと、内心では父を自慢に思っていた自分に気付いた。
自分はただ、父が英雄だということを、皆にも知ってほしかっただけだった。
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