第五章 終わる赤の約束

 たとえばそれが、赤に塗れた嘘だったとして。

 それでも愛するしかないのだ。だってそれが、あの人の残した世界だから。

 真っ赤な嘘とは言うけれど、結局嘘って何色なのだろうと考えたことがある。本当は形のない偽物なのだから、透明のようにも思える。透明というよりは、色がないのだ。だってそれは、存在していないのだから。そもそも、赤は愛情を表す色であり、血や炎の色でもある。果たして真っ赤な嘘は、どちらの赤なのだろう。



 かつて所属していたバレーチームが解散したことを知ったのは、ちょうど矢内が新しくキャプテンに就任したことを聞いた直後だった。意味が分からなかった。父は確かに、バレーを愛していたのに。

 自分にとって、バレーは父とつながる全てだった。会えなくなったあの日から、豊永はバレーを手放した。父と会えなくなってしまえば、バレーは何の意味も持たなくなったのだ。

「ごめん、少しだけ」

 明かりの灯らない家に向かって小さく呟くと、豊永はまだ薄暗い街の中へ足を踏み出した。

 向かう場所は一つしかない。かつてバレーをしていた、父からバレーを教わった、あの体育館だ。最も早い時間帯のバスでも、あと一時間以上ある。さすがにその距離を歩きたくはないが、特にすることもないので豊永はバスの道に沿って歩き始めた。父に会いに行くことを、母には知られたくなかった。離婚したときだって、豊永がバレーを続けることを良くは言ってくれなかったのだから。

 二月の早朝は空気が冷たい。その分空気が澄んでいるようにも思う。これが、嫌いじゃない。通りかかった一つ目のバス停の名前を見て、そういえばこの先には後輩が使うバス停もあったなと思い出す。彼女は朝練があるから、きっと早いバスで学校へ向かうのだろう。反対のバスに乗る自分とは、関係はないけれど。

 あの日翠は、確かに自分の異変に気がついていたように思う。近いようで遠い、そんな関係性の翠が、どこまで気がついていたかは知らないけれど。少なからず豊永の中で翠は、少し特別な存在ではあった。だから思わず、言葉を残してしまった。

 ――たまに、天井が落ちてくるような感覚になるときがある。

 豊永がそう言ったとき、翠は意味が分からないとでも言いたげに、顔をしかめていた。翠はそんな感情ばかり分かりやすかった。不機嫌なことが分かりやすく顔に出る翠は、豊永にとってかわいい後輩だった。

 おまえには少し、難しかったかな。

 豊永は小さく息を吐く。翠が何に対しても、あまり熱意を注いでいないことは知っている。だからきっと、天井が落ちてくるような感覚、なんて知らない。豊永が最初にそれを感じたのは、中学生の頃だった。両親の喧嘩が絶えず、そのまま離婚した。あのときが、最初だった。二人を困らせたくなくて、泣きたくはなかった。

 それが今こんなに後悔している。

 あのときもっとわがままに泣いておけば良かった。そうすれば、もしかしたら今も三人で暮らしているかもしれなかったのに。

 二つ目のバス停の前で、豊永は立ち止まる。携帯で時間を確認して、バス停のベンチに腰掛ける。あと三十分ほどでバスが来る。やけに緊張していた。たった一年会わないだけで、こんなに遠くなってしまった。長くバスに揺られ、降り立った海の香りのする街は、一年前よりも少しだけ、だけど確実に寂れているようだ。そして忘れもしない体育館への道のりは、遠くに翡翠の海が見えた。この海が好きだった。幼馴染みによく連れ出されて遊んだ。バレーばかりしていた自分の世界を広げるのは、いつだって彼なのだ。

 豊永はあまりに無計画だった。何も考えず、ただ会いたいという気持ちだけ、知りたいという思いだけを抱えて、ここにいる。だからそれは予想外のできごとだった。

 辿り着いた体育館は、鍵がかかっていた。おまけに窓からのぞいた中は、バレーのネットが張られていないどころか、まるで倉庫のようになっていた。時計を見ると、朝の八時近く。父が体育館を開けて掃除する時間は、確かこれくらいだった。ああそうか、何もかもが変わってしまったのだと気がついた。昔、ここは自分が自由に飛べる場所だったのに。

 中に入ることもできず、入り口の近くをしばらく右往左往していたが、豊永は諦めてきびすを返そうとした、そのときだった。

「ここに何か用事?」

 それは、若い女性の姿だった。大学生くらいだろうか、自分とはあまり変わらないように思えた。

「……まあ。ここって、もう使われてないんですか?」

「そうねえ。あ、もしかしてここでバレーしてた?」

「はい」

「じゃあ、にいさんのところまで案内してあげる」

 兄さん? 違和感が、豊永の脳裏を掠めた。父に妹はいなかったはずだ。だとしたら、このひとは、だれだ。

「そんな警戒しないでちょうだい。もちろん高山コーチのことよ」

 自分のかつての名字に、肩が小さく反応した。タカヤマ。昔、自分も確かにそんな風に呼ばれていた。長らく聞いていない名字がひどく懐かしかったが、それは心地よい懐かしさではなかった。

 必然的に中学から付き合いがある人には流と呼ばれるようになったが、高校生になると豊永と呼ばれるようになった。母の姓を嫌いとは言わないが、それは父とは離れてしまったことをいちいち突きつけてくるようで、今でもあまり好きではない。

「コーチは、もう、教えないんですか」

「どうかな。もう無理かもね」

 苦笑いしたその人は、やはり父とは似ていない。そもそも豊永の覚えにないのだから、彼女が妹なわけがないのだ。だったら? 考えられるのはただ一つだが、豊永はそれを受け入れられなかった。兄さんではなく、義兄さん、だとしたら?

「無理、って」

「入院してるの」

「怪我でも、したんですか」

「ううん、倒れたの。私は詳しくは聞かされてないんだけどね。姉さんは泣いてた。……話しすぎかな。立ち話もなんだし、やっぱり病院行こうか」

 姉さん、は、泣いてた。にいさん、高山コーチのこと。ああ、やっぱりそういうことか。だとしたらこの人は、父の再婚者の妹だ。

 知りたくなかった現実に、急に視界が暗くなった気がした。父の再婚。再婚相手が泣くほどの重病。もしかしたら、なんて考えてしまった自分に嫌気が差した。豊永はそんなものを知りたくてここに来たのではない。しかし片足を突っ込んでしまったものから離れようなどとは思えなかった。



 連れてこられた病院は、すぐ近くの駅前にあるものだった。病室の扉の横にあるのは、何度読み返しても父親の名前だ。信じられない。だけど、紛れもなくそれが真実であると物語っている。牧と名乗った女性はドアをノックすると、豊永に中へ入るよう促した。

「義兄さん、昔バレー教わってた子ですって」

 恐る恐る足を踏み入れると、まず視界に入ったのは真っ白いベッド、そして次に随分と痩せた父の姿だった。

「……流か?」

 父の声は少し疲れているようで、だけど懐かしくて温かい声だ。懐かしくて、愛おしくて、それなのに悲しくて仕方ない。

「久しぶり」

 まるで喉につっかえたみたいな、そんな声だった。怖かったのかもしれない、父を、これ以上知ることが。あるいは、父が自分を拒絶するのが。

「裕子さん、ふたりにしてもらえるかな」

「え? ああ……はい」

 妙に重たい空気が流れていた。それがやけに白い病室のせいなのか、あるいは父子の再会のせいなのか、豊永には区別がつかない。手が震える。

 牧は小さく一礼すると、扉を閉めた。

「……また、伸びたんじゃないか」

「少しだけ」

 ぶっきらぼうな声に、父は咎めることもせず微笑んだだけだった。目をそらすように、窓の外を見る。冬の景色は、窓ガラス一枚隔てていても冷たい。心臓がきゅっと締まる音がした。

「学校は?」

「休み」

 それは嘘だった。

 会話が続かない。何を話していたんだろう。昔、家で、体育館で、自分は父と何を話していただろうか。

「バレー、どうだ?」

「……辞めた」

「どうしてだ?」

 豊永は何も答えない。だって、そんなのおかしいじゃないか。急に来るなと言われて、何が起きたのかも分からないまま会えなくなった。唯一ふたりを繋ぎとめていたバレーから、先に自分を捨てたのは、父の方だ。

「……もう、好きじゃないのか」

「ちがう」

 嫌いになったのではない。だけど、続ける意味もなくなった。豊永がバレーを続けていた原動力となっていた幼馴染みは、高校生になると同時にバレーから離れた。そして父は、自分をあの体育館から追い出した。

 ひとつ、夢を失くした気分だった。

 おまえは必ずいいセッターになるよと教えてくれたのは、父だったと言うのに。

「流、どうしてここに来たんだ?」

「少年バレー、もうやんないの」

 今度は、父が黙る番だった。ああ、つまりそれは、肯定なのだろう。

 どうしてもそっけなくなってしまう自分がこどもっぽくて、だけど父の前でそれは止められない。

「……やっぱりいい。体育館の鍵、貸してよ。最後に、入りたい」

 父は困ったような顔をして、だけど小さくうなずいた。

 毎日施錠をするという条件付で数日鍵を借りることになった豊永は、すぐに来た道を引き返し、体育館へ向かった。

 重たい扉を押し開けると、そこはやけにほこりを被っていて、しばらくまともな清掃をしていないのだろうと分かった。豊永は置かれていた荷物を隅に寄せ、懐かしいバレー部のウィンドブレーカーに着替える。小さく吐き出した息は白い。ネットを張って、軽く準備運動をする。久しぶりに触ったボールは、あまり手に馴染んではくれなかった。それでも何度かボールを床に叩きつけ、コートの隅からサーブを打つ。ネットを少し越えたところに落ちたボールは、何度か跳ねて、壁にぶつかった。

 ひどく、虚しい。

 バレーは好きだった。特にこの体育館――小さな倉庫を改造したようなものではあるが――でするバレーは好きだった。だけど、バレーは個人戦ではない。コートの中は、本来六人でいる場所だ。幼馴染みといつもここでバレーをした。その時間が好きだった。父の背中をいつも見ていた。父のように、全国大会に出ることを夢見ていた。

 だけど幼馴染みがバレーを手放したとき、父が豊永をここから追い出したとき、自分の夢見ていた景色は一生叶わないのだと気がついた。大好きな仲間がいて、父がいて、その先の勝利が、豊永にとっての夢だった。高校のバレー部の仲間を悪く言うわけではない。ただくだらないいじめは見ていたくなかったし、幼馴染みも父もいないその場所に、豊永はますます価値を感じなくなっていった。

 床に転がっていたボールを拾う。冷たい感触。ボールを軽く上に投げ、何度かオーバーハンドパスを頭上で繰り返した。指先だけでこんな風に動き回るボールは、生きているようだ。見ていて楽しかったから、続いたのだろう。

 それをどうして、今はひとりでやっているのだろう。ふいに手からボールがこぼれ落ちた。ゆっくりと転がるボールを目で追うが、なぜか体は動かなかった。バレーを辞めてから、毎日何かが物足りない。幼馴染みがバンド活動に誘ってくれて、音楽の授業でかじった程度だったギターを必死で練習した。彼からの誘いは確かに喜ばしいものだったが、それでも何かが違っていた。

 バレーがしたいのだ。また昔みたいに、誰かのためにトスを上げたい。

 見回しても一人の体育館は、やけに虚しさだけを募らせていく。豊永はボールから視線をそらして、そこに座った。自分が何をするためにここにいるのかが、今ではもう分からなくなっていた。父に会いたかったのだろうか。それとも、一人の時間を探していたのだろうか。いや、だったら今こんなに虚しくはないだろう。

 豊永は途端に自分のしたことが馬鹿馬鹿しくなって、静かな体育館の中で自嘲気味に笑った。

 目をつぶり、そこに寝転がる。ほこりのような臭いが鼻を刺し、少しむせたように咳き込む。だけど、音はそれだけだ。静かだった。誰もいない。今自分は孤独なのだろうと思った。それが心地よいような、それでいて寂しいような、おかしな気分だった。

 遠くに、車の走る音が聞こえた。だけど、それも遠くだ。風の吹く音も、そんな走行音も、誰かの話し声も、まるで違う世界のものみたいだった。今この世界の中で、豊永はひとりだった。

 目を開けると、窓の外はまだ明るい。今頃、友人たちは授業を受けているのだろうか。

 ほこりを被った電球がちかちかと光っている。きれいだと思った。ほこりまみれの、薄汚れたそれが美しいだなんて、もう自分の中で何かがおかしくなっているようだった。ぐらりと天井が歪んだようだ。次の瞬間には落ちてきそうな、そんな感覚。押しつぶされて死ぬなら、まあそれでもいいかな、と思ったとき、小さな物音が聞こえた。

「流くん」

「……牧さん」

 入ってきたのは、牧だった。豊永は体を起こし、小さく会釈する。牧は入口の近くに転がっていたバレーボールを拾い上げた。くすんだ茶色の壁に、黄色と青はよく映える。

「息子さん、だったのね」

「……ええ、まあ」

 上手く答えられず、豊永は曖昧にうなずく。父から聞いたのか、あるいはなんとなく察していたのだろうか。

「どうして今だったの?」

 牧は微笑んだ。それが責める声でないことは、すぐに分かった。

「なにが、です」

「会いに来たの。もう大分経つのよね? 別に責めてるんじゃないの。ただ、不思議だっただけ」

 確かに、どうしてだったのだろう。

「どうして、なんでしょうね」

 自分でも分からないのだ。ただ少年バレーのチームが解散したことがきっかけではあったのだろう。でも、それだけだ。別に会いに来る理由にはならないだろうに。知りたいなら、幼馴染みにでも聞けばいい。彼は今もこの近くに住んでいる。

「自分でも、よく分からないんです。本当に父に会いたかったのかも、ここに来たかったのかも、全部」

 牧は豊永の近くに座ると、真剣な表情で豊永と目を合わせた。真っ直ぐ見られるのが好きではないが、それでも豊永は話を続ける。ほとんど他人の牧にだから、話しやすかったのだろう。

「今思えば、別にここに来たくはなかったのかなって思って。わざわざ鍵を預かった意味も、自分では分かりません」

 父が今何をしているのかを知って、少年バレーも続けられなくなってしまったと知って、当初の目的はとうに果たされている。それなのに鞄にウィンドブレーカーを詰め込んだ今朝の自分は、確かにここに来たがっていた。

「牧さんは、父の世話を?」

 床に手を置いて、牧が軽く天井を仰ぐ。

「姉さんが仕事で忙しいから、今だけね」

「父は、何を話すんです?」

 もう忘れてしまった。頭を撫でてくれた大きな手、家に帰ると待っていた笑顔、バレーの指導をする厳しい声、毎日の会話のすべて。愛されてはいたはずだ。あいされて、そしてあいしていた。だけどそれは過去形でしか確信が持てない。

「そうねえ……」

 牧はそう呟いて、しばらく考える様子だった。

「バレーの話はよくするかな。私も姉さんもバレー経験者で、だから気が合ったのよ」

「バレー、ですか」

「スパイカーだったのよ、私。どう? トス上げてみない?」

 そう笑った牧の表情は少しだけ幼く見えて、少し気持ちが軽くなったように感じた。

「俺、セッターって言いましたっけ」

「さっき義兄さんから聞き出したの」

「……父が」

 牧は笑っていた。こうして豊永と牧の、奇妙なバレーコートでの生活が始まった。



 その晩、牧はタッパーにご飯とおかずを詰め込んで豊永に渡した。そして二人で話しながら晩ごはんを食べた。豊永は牧をよく分からなかったが、その距離感が心地よく感じた。寝るときは、二人で昼間に天日干ししたマットを敷いて、その上に寝転がった。やけに硬い布団だが、それはまるで修学旅行のような、あるいは合宿のような、そんな雰囲気だった。掛け布団はさすがに代わりのものがなかったので、牧が持ってきた厚手のコートを被って寝た。寝心地が良いとはお世辞にも言えないが、豊永はそれで良かった。それが、良かった。

「父は、長くないんですか」

「……私が勝手に言っていいことじゃないよ、それは」

「そう、ですか」

 父の再婚相手の妹。本当にただの他人だ。だけど、彼女はきっと豊永が家出だと気がついている。二日続けて、平日にこんなところにいるのだから、それは当たり前なのだが。その日の昼、牧は大学へ出かけていった。相変わらず一人だった豊永は、トスを上げて、サーブを打って、一人でオーバーハンドパスを繰り返して、それから体育館の掃除をして一日を過ごした。それこそ何をするために、自分がそこにいたのかなど、皆目検討もつかなかった。

 寝転がった床はやはり、冷たい。汗が冷えていく。寒気がして、背中が震えた。

 どうして目的もないままこんなところにいるのだろうと考えて、それはどうしたって父のことを愛してしかたないのだという結論に辿り着く。だから、こんなにも息が詰まるようなのだ。どうしたって報われない未来はある。それがたまたま、自分と父が共に生きている未来だっただけの話だ。あいされ、あいした、でもこれからは愛されてはいけない。

 ここに来てから、自分はそんなことしか考えていない。

 夜になって牧が帰ってくると、やはり同じように静かにご飯を食べた。牧は特に何も話さなかった。豊永も、別に話すことは思いつかなかった。赤の他人のふたりが、静かな空間で、一緒にいるだけだった。

 寝る支度を済ませ、硬いマットに寝転がった。牧もそんな豊永に倣い、身体を倒す。

「ねえ、流くん」

「……はい」

「明日、義兄さんに会ってあげてよ」

 どうして、と聞こうと思ったが、声は喉の奥の方につっかえ、出てこなかった。

「本当に言いたかったこと、あったんでしょ? 言ってきなよ。後悔するよ」

 それに、と言葉を続けた牧の表情は切なそうだった。

「私は、姉さんの悲しみはもらってあげられないけど、一緒に乗り越えることはできる。一度、義兄さんときちんと話した方がいいんじゃないかな。それとも、まだ引きずるつもり?」

 牧は特に責めている様子ではなかった。諭しているようでもなければ、怒る様子もない。新しい家族を壊しに来たような豊永に対し、どこまでも優しかった。だから、だったのだろう。

「……そうします」

 豊永は、ちかちかと切れそうな電球を見た。なぜか、その古ぼけた灯は、愛おしく感じた。



 眠れないまま朝は訪れた。牧が覚めるのを待って、二人で病院へ出かけていった。この先、牧と会うことはもうないのだろう。ただの他人だ。

「牧さん、本当にありがとうございました」

「ううん、私も楽しかった。またトス上げたくなったらおいでよ」

 牧は最後までずっと笑ってくれた。馬鹿げた家出にも何も言わずに付き合い、それどころか助けてくれた。この二日間、牧は確かに自分と一緒に生きてくれていた。

 牧は軽く手を振って、大学の課題があるからと帰っていった。豊永は、彼女の姿が完全に見えなくなるまで、その階段の先を見ていた。一人になって、訪れた静寂に息を吐く。脈を打つのが早くなったのが自分でも分かる。どうにか手を伸ばし、やっとの思いでドアをノックする。震える手は思うように力が入らず、それでもどうにか扉を開ける。

「……父さん」

 相変わらず温かな笑顔で豊永を迎え入れた父は、やはり痩せたようだ。

「俺はやっぱり、バレーがやりたい。だってそれが、俺と、父さんの、思い出だから」

 上手く話せない。言葉が詰まって、声にならない。伝えたいことは、今朝きちんと考えたはずなのに。

 父を見ると、優しく微笑んでいた。こんな突然やってきた豊永のことを、やはり父も責めることはなかった。

「だから、見ててよ。……近くじゃなくても、どこか、遠くからでいい。いつか、父さんに追いつくから」

 憧れの背中に。全国大会の夢に。

 最愛の友人が欠けてしまったそれは、確かに息苦しくて、昔ほど価値もないものかもしれないけれど。だけど息苦しくても、父のために、追いかけるしかないのだ。

 ベッドから弱々しく伸ばされた手は、そっと豊永の頭の上に置かれた。

「お父さんは、いつまでだって流の活躍を見てるさ」

 か細い声だったけれど、その言葉が何よりも嬉しかった。その言葉のために、豊永はバレーを続けていたのだから。

「そういう約束だっただろう」

「……うん、そうだったね」

 幼い頃に約束をした。そんなただの口約束を、父は今でも大切に覚えてくれていた。

「俺、まだ続けるから。父さんとの夢、果たすから」

 父は笑った。泣きながら、それでも確かに笑っていた。それはまるで、昔の愛おしい家族の光景だった。

「お父さんが回復したら、また教えてやろう……って、そのときには流には追い抜かれているか」

 父の声が震えている。それは確かに、愛に溢れた声で、だけど間違いなく嘘だった。彼が残してくれたのは、愛情の方の赤だった。愛してくれていたのだ。

 その嘘は胸を締め付けるようだった。愛おしくてたまらないはず、なのに。

 きっとバレーをするたびにこの声を思い出してしまうのだろう。だったら、投げ出してしまった方がきっと楽だろう。ましてや相棒とも呼べる幼馴染みがいないバレーボールでは、それはあまりにも心が痛い。ああ、いやだ、バレーなんて、やりたくない。やりたくないけど、やるしかない。幼馴染みに話せば、彼は優しいから付き合ってくれるだろう。それなら、少しは前を向けるだろうか。

「……追い抜けないよ」

 豊永は、父の震える手をそっと握り締めた。

 あの頃よりも、細い。やつれた顔を、今やっと直視することができた。こんなに愛に溢れた表情をしていたんだなと気がついて、嬉しくなるのと同時に寂しかった。気がつけなかった愛情が、今こんなにも近くにある。

 だけど愛されたところで、その未来に自分はいない。もう一生、父とバレーはできない。もしかしたら、彼の死すら知らされないまま生きていくことになるのかもしれない。そう思うと心の奥がまるで掴まれたみたいに苦しくなって、途端に酸素が上手く吸い込めなくなった。

 くるしい、あいされたい、あいしたい、でも叶わない。無性に父に縋りたくなったが、豊永はそのまま病室を出た。求めてはいけないのだ、だってもう彼は自分のものではない。もっと愛さなければならない人がいるのだ。

 悲しくてしかたがない。そんな貧相な言葉しか出てこなかった。ほんとうに、かなしい。

 あれは決別の言葉だった。もう会うことのない、父との。

 それでも、豊永は顔を上げた。泣くもんかと思って、天井を見た。少しだけ揺らいだそれは、まるで落ちてくるようだ。豊永は大きく息を吸い込んだ。むせ返りそうな消毒のにおい、そっけない白い空間、どこか遠くに聞こえる誰かの話し声と笑い声、泣き声も聞こえる気がする、だけど全部全部、この世界のものじゃないようだ。全部遠い、遠くにあって、現実味がない。

 そのとき、向かいの駅に、クラスメイトの姿を見かけた。笑っている、普段は自信なさげな態度なのに、楽しそうだった。自分がバンド活動をしているのよりも、彼は何倍もギターが似合っている。やがてライブを終えたクラスメイトはいつもと同じ長い前髪とマスクで顔を隠し、そこから出てきた。思わず声を掛けたクラスメイトは、愛情から逃げるようにここに来たらしかった。ずるいと思った。羨ましいと思った。もう自分は掴めない幸せが、彼の先にはある。

 半ば無理やり話を切り上げた豊永は、何かに背中を押されるように足を動かした。そこから逃げ出したかったのだろうか、それとも、やはり向かいたい場所があるのだろうか。走るようにして辿り着いたのは、海だった。息を吸い込むと、身体中に潮の香りが染み渡るようだった。父はもうじきいなくなる。海に還る、という言葉は果たして本当なのだろうか。それなら、ここに来れば、父と話すことができるのだろうか。

「待って!」

 どれくらいの間、海を眺めていたのかは分からない。

 ふいに後ろから腕を掴まれた。

 振り返ると、必死で、泣きそうな表情をして、いやあるいは泣いたあとだったのか、そんな翠が立っていた。

「翠」

 ああそうか、今もしかしたら自分は少しだけ死にたかったかもしれない。自然と足が海に向かってしまったのかもしれない。だけどこの後輩は、そんな必死な表情で、こんなところまで自分を探しに来てくれたのだ。

「死のうとしたわけじゃないよ。少し、手を伸ばしたくなっただけ」

 いつか父がいなくなってしまう、その海の向こうに。その奥底に。そう言って豊永はどうにか笑顔を繕ってやったが、翠は首を横に振った。普段は落ち着いている少女を、こんな風に焦らせているのは自分なのだ。それが少しだけおかしかった。

「意味が分かりません」

 翠は怒っている様子だった。

「いつも、上を向いて涙をこらえてたんですか」

 気がついていた。彼女は、自分を探して、自分のことを考えて、そこに辿り着いてくれた。

「ちがうよ」

「違わない!」

 翠が激しく責め立てる一方で、豊永はどこまでも冷静だった。さっき自分が海に手を伸ばしたのだって、何だか他人事のように思えてしかたがなかったのだ。

「ごめん、おねがいだから、わらってよ」

「何で……どうして、バレーを手放してしまったんですか」

 やっぱり、翠は自分が何をしに来たのかも見破っていたのだろう。自分でも、よく分かっていなかったというのに。

「父親に……会ってきたんだ」

 少し視線を落とす。夕焼け色に染まる白い砂浜は、美しかった。

 翠になら話したいと思った。今はすべては語れないが、何か少しだけでも、翠に知ってほしいと思った。翠が自分を好いてくれていることは、薄々気がついていた。それなのに、不器用な少女は、豊永のことしか考えていないのだ。自分の幸せなんて、そんなものはきっと二の次なのだ。

 嘘も織り交ぜながら父の話をすると、翠は自分よりもずっと、何倍も苦しそうな表情をして、途端に豊永も泣きたい気分になった。翠は、苦しそうで、泣きそうで、それでうつくしい。淡い紅の光が照らす横顔は、これまでに見た彼女のどの姿とも違うようだった。光射す方へ、視線を向ける。目も開けていられないほど眩しいそれは、輪郭がぼやけて、今にも落ちてきそうだ。

「――ああ……天井どころか、空まで降ってくるみたいだ」

 目頭が熱くなって、一筋、雫が零れ落ちた。豊永は、この二日間のことを思い出していた。世話を焼いてくれた牧、その居心地の良い空間、しずかな体育館、虚しいひとりの時間、そして布団で眠る父の姿、その愛情、そして――。苦しいのだ、かなしいのだ、と思った。自分は確かに今、悲しくてしかたがなかった。

「翠、俺は誰も愛せないかもしれないけど、でも、おまえは捜しに来てくれるって信じてたよ」

 翠は豊永の涙に気がついただろう。察しが良くて困るなあ、なんて冗談めいた口調で吐き出そうとしたが、そんな声は出てこなかった。

「何で……だって」

「なんでだろうなあ。でも、おまえのこと、信じてみたかったんだ」

 それは決して嘘ではない。今はまだ、誰かを愛するのは怖いけれど、でも、翠のことを信じたい。きっと、いつか彼女を愛するだろうと、根拠もなく思った。翠は少しだけ笑った。涙もまだ乾かぬままに、笑っていた。

「あなたのこと、待っていてもいいですか」

 ぼやけた視界の中で、翠が口角を上げたことだけは分かる。夕焼けの色に染まる彼女の美しさは、分かる。そっと背中に手を回す翠に、今はまだ何もしてやれない。だけど、翠が許してくれる限り、精一杯追いつこうと思った。いつかその先に、愛おしいと思う瞬間はあると、信じてみたいのだ。

 豊永は、その華奢な身体をそっと抱きしめた。ありがとう、の声は少し震えてしまった。

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