第四章 掴み損ねたオレンジに願わくは

 どうしようもないくらい、馬鹿ですよ。本当に、あんたは。

 それを言ったら、やはり彼は器用に笑った。いつだって目も開けられないほどに眩しい彼の後ろ姿は、どうしたって美しく見えた。だけどそれが妙にくすんだ色に見えたあの日、彼は何を思っていたんだろうか。



「準優勝、か」

 県大会の功績を読み上げた矢内は、満足げにも見えたし、落ち込んでいるようにも見えた。県大会の敗北と同時に、彼はキャプテンになった。

「……キャプテン」

 小さく呟いた早瀬に矢内は小さく笑うと、軽く早瀬を小突いた。キャプテンなんて呼ぶなと言っているようだった。間違いなく彼はキャプテンになったのに、それでもそんな風に笑う。困ったように眉尻を下げて、頑張って口角をくいと上げて、そうやって笑うのだ。器用なことをする人だと思った。自分とは、全然違う笑い方をする。彼の背中を追いたいと思った。入部して以来、ずっと、そう思っていた。

 矢内は籠からボールを取ると、何度か床に叩きつけ、助走をつけて投げた。打ち込んだサーブは、アウトラインを少し超えたところにバウンドした。もう一度、というように後ろに下がるが、今度は上手くミットせず、ネットに引っかかった。

 矢内は何も言わない。落ちるボールを、ただ見ていた。

「悔しくはなさそう、ですね」

 手に取ったボールを籠の中に戻し、矢内は座っていた早瀬の隣に腰を下ろした。

「どうかな」

「プレッシャーですか」

「まだ分かんねえや」

 曖昧に笑う矢内のそれが、遠回しの肯定であることは、この一年間でなんとなく理解した。

「豊永さんが辞めていて良かったです」

「そうか?」

「そうですよ、あんたは分からないでしょうけど」

「なんだそれ」

 矢内は分かっていない。自分がどれだけ必要とされているのか、どれだけ頼りにされているのか。自分の価値など知らないまま、戦ってきたのだ。

 矢内はいつだって器用に笑う。器用に笑って、ごまかす。早瀬では、彼を笑顔にはできない。本当の、笑顔には。それでも笑わせたい理由がある。

 ああ、嫌いだ。早瀬は矢内の妙な笑顔を見ながら、唇を噛む。彼が嫌いなのだ、何でもないように笑って、それからみんなの知らないところで苦しむ彼が。

「矢内さん」

「ん?」

 黄色い光に包まれた体育館で、彼だけが白だ。純粋にバレーを愛した矢内は、白い光みたいだった。天井を仰ぐ横顔も、美しくて、だけど心がずきずきと痛む。

「トス、上げましょうか」

「ああ、うん、頼む」

 矢内と早瀬は、何でもない関係だ。早瀬が知っている矢内といえば、バレーに向き合う姿しかない。矢内はきっと、もっと早瀬のことを知らないだろう。だけど普通の友人より近しいものもある。近いけれど遠い、不思議な関係。早瀬はそれが、心地よかった。



 それから一週間ほど経った頃だった。豊永がこつ然と姿を消したのは。

「豊永、家出、らしい」

 ぽつり、ぽつりと、単語だけが流れ込んでくる。矢内のそれは、こぼれ落ちるようだ。部活が始まる前、二人きりの体育館でのことだった。

「家出、ですか」

 随分と急だな、と思いながら、早瀬は少しだけ顔をしかめた。豊永とはほとんど付き合いのない早瀬は、彼のことなど知らないが、矢内はひどく気にしている様子だ。今度は家出か、どれだけ自分勝手な人なんだ、と心の中で悪態をつきながら、早瀬は淡々とネットを張った。自分の声が不機嫌に変わったのが分かる。明らかにそれは、嫌悪感だった。矢内がそんな自分をどう思っているのかは分からないが、それでも嫌いだ、と思ってしまう。

 矢内が苦しんでいるのは、豊永のせいなのだと思う。

 矢内と豊永は、マネージャーを除けば、バレー部でただ二人の進学クラスだ。というのも、バレー部の半分以上は推薦で入学しているのだ。矢内と豊永は中でも珍しい、一般入学のレギュラーであった。そんな二人が、学年の中では最初にレギュラー入りを果たしたし、実際に技術はあった。だけど言うならば豊永は天才タイプ、矢内は秀才タイプだった。それから豊永は自信家で、反対に矢内はいつだって不安そうにしている。自分の時間を生きる豊永に対し、矢内は生き急いでいるようにも見えた。

 似ているようで、正反対。それが二人だった。

「ふたりは、似てないですよね」

「ふたり?」

「ええ、矢内さんと豊永さん。似てないです」

 矢内はネットを張る手を止め、少しだけ考えるように俯いて、それから力なく笑った。

「俺は豊永にはなれないよ」

 別に、そんなことを望んでいるのではないのに。この人は自信がないのだ。

「そう言いました」

「だったら」

「似てなくて良かったんです」

 矢内の言葉を遮ると、それきり何も言わなかった。早瀬は、矢内に豊永と同じものなど求めていない。

 矢内はやはり不安そうな顔のままで一つネットを張り終えて、ボールかごを出しに倉庫へ走った。それがまるで豊永の話題から逃げるように見えて、早瀬は小さく息を吐いた。豊永がいなくなったことで、二人の微妙な関係性が浮き彫りになったような気がした。同じクラスなのに、ほとんど話してもいないのだと言う。

 その失踪は、少しだけ、だけど確実に豊永の周りを変えた。



 豊永は次の日になっても帰って来なかった。矢内からそれを聞いたとき、やはり彼は困ったように笑っていた。部活が終わったあとの体育館、サーブ練習をする矢内を端に座って眺めていた。いつもの光景。何もかわらない日常だ。

「俺は、許せないよ」

 サーブレシーブでもしようかと立ち上がった早瀬に、矢内は小さく呟いた。

「なにを、です」

 答えはわかりきっていたが、それぐらいしか返す言葉が見つからなかったのだ。

「豊永。おれ、あいつのこと、きらいだわ」

 曖昧な声を落として笑った矢内は、それきり黙ってしまい、何度かボールを床に叩きつけている。助走、そして飛び、思い切り腕を振り下ろす。その姿は、エースのそれと何ら変わらない。比較的華奢である矢内のサーブは、部内でもトップクラスの力強さを持っている。

 サーブは真っ直ぐと早瀬の方へ飛んできたが、拾ったボールは勢いを殺しきれず、そのままネットにぶつかった。何度かバウンドしたボールは、早瀬の足にぶつかって止まった。

「……おれはね、矢内さん」

 ボールを拾い、矢内を見やる。

 この一年間、矢内と居残って練習をしてきた。入部してすぐに彼が悩んでいることは分かった。原因がレギュラー入りした際の先輩からの嫌がらせだということもいつだったか知った。矢内はバレーを好きじゃなくなってしまったかもしれないと、そう言ったのは誰だっただろうか。

「ん?」

 おれはね、あんたに笑ってほしいんです。そんな顔させたくて、居残ってるんじゃないんです。

 声にならなくて、代わりにバレーボールを矢内に投げてよこす。矢内は何も追求はしてこない。二人の間はいつも曖昧な言葉でつながっている。問いかけに答えないまま、時間が流れる。矢内はまたサーブを打ち込む。今度はきれいにネットの近くに返った。

「あー、拾われたか」

 矢内は小さく呟いて、笑う。

「矢内さん」

 小さく名前を呼ぶが、それに気が付かなかったのか矢内は背を向けたままだった。表情は分からない。人の見ていないところで、この人はどんな表情をするのだろうか。

 早瀬はまるで嫌な夢を見ているようだと思った。矢内が早く自分から離れてくれたらいい。自分が情けないくらい彼に執着していることなど分かっている。だからこそ、離れてほしかった。

「だけど、まだ、さめないで」

 早瀬は寂しかった。寂しくてたまらなかった。そんな夢にすがるのがいかに馬鹿馬鹿しいか、分かっている。分かっていて、それでもすがってしまう。願ってしまう。彼の側にいることを。相棒と呼ばれ続けることを。

「何か言ったか?」

「……いえ」

 振り返った矢内の髪がさらりと揺れた。茶に染められた髪が体育館の黄色い光を浴びて金色に光る。表情は依然、曖昧に笑ったような、それでいて泣き出しそうな、そんな顔をしていた。

 ああ、きれいだ。矢内はきれいなのだ。

 ぎゅっと締め付けられた心は、恋い慕う演劇部の女優に向けられるそれとは別物だ。

 覚めない夢の中にいるのは早瀬だったのだろうか、それとも矢内だったのだろうか。



 豊永が見つかったという連絡が入ったのは、土曜日の午後練のときだった。マネージャーに連絡が入ったのだという。見つけたのは早瀬と同じクラスで、女子バレー部の一年だった。

 矢内はひどく動揺した様子で、途中からあまり身が入っていないようだった。

 調子が悪い矢内は居残りもしないまま部活を切り上げ、早瀬も居残る理由を失ったので、彼と一緒に帰ることにした。

 二人で校門を出たところで、そこに立っている人影を見つけた。

「……久しぶり」

 そうやって声をかけてきたのは、紛れもなく豊永だった。矢内と話をしたいのだろうと思ったが、わざわざその場を離れる義理などない。矢内を豊永と二人にするのも心配だった早瀬は、決してそこを動こうとはしなかった。

「なに、してたんだよ」

 矢内のかすれた声。いつも眩しかった背中が、やけに寂しそうだ。くすんだ色を、しているようだ。

「俺もよく分からないや」

「……はあ?」

 涼しい顔で言った豊永に、苛立ちを感じる。矢内が豊永を避けていることなんて知っている。豊永だって、知ってるに決まっている。

「意味なんて、なかったのかも。むしろ色んなもの失くしたよ」

 一方的に話し始めた豊永に対し、矢内は何も言わなかった。返す言葉を探しているのか、あるいは聞き流すつもりなのか、俯いたままだ。

「……お前は、俺のこと嫌いだもんな」

 豊永が小さく笑った。その言葉に矢内の肩が反応したのが分かった。言葉はないが、矢内は首を横に振った。

「……ごめんな、ありがとう。あのさ、矢内」

 控えめな話し方が、小さな声が、弱々しい笑い方が、豊永らしくない。もっと堂々としていたはずだ。もっと自分勝手な態度だったはずだ。だから嫌いだった。自分勝手にバレーを捨てたことが、残された矢内の気持ちなんて知らずにいることが、そのくせバンドなんか組んでいることが、全部気に入らなかった。

 ああ、そうか。矢内がバレーを嫌いになったかもしれないと、あのとき教えてくれたのは、確かに豊永だった。半分は自分のせいかもしれないと、そう話していた。あのとき豊永が自分にだけ打ち明けた意味を、早瀬は知らない。

「俺、またバレーやるよ。お前は俺をチームに入れたくないと思うし、高校ではもう無理だと思うけど。バンドは高校出たら抜けるし、そしたら俺、また戻るから」

 手に力がこもるのを感じた。結局豊永は、勝手に辞めて、勝手に戻ろうなんて、そんなことを言っている。

「俺は、お前のスパイクを打つ背中が好きだったよ」

 それじゃあね、と豊永は踵を返して行く。あまりに一方的だ。矢内はまだうつむいている。

 嫌いだ、この先輩が。大人びたふりをして、本当はいつも勝手なのだ。それで人を困らせて、それだって見て見ぬふりをする。矢内はバレーが好きなのだ。どんなに苦しくたって、追いかけたいものなのだ。この人は、そんなことすら知らない。

 腕を、掴んでいた。

「……早瀬?」

「あんたは、なんでいつもそうなんですか」

「ごめん、何のこと?」

「矢内さんはバレーが好きなんですよ。たかがあんたが辞めたくらいじゃ、そんなの痛くも痒くもないんです。勝手に辞めて、勝手に戻ろうなんて考えてるあんたみたいな人、うちのバレー部はいりません。おれはね、あんたが嫌いですよ」

 一息に、そうまくし立てた早瀬に対し、豊永は特に驚いた様子ではなかった。いつも通りだ、またそうやって、大人びたふりをする。それで全てをごまかそうとする。

「矢内さんがどうして苦しかったか、本当に分かってるんですか」

 豊永が部活を辞めたときのことは知らない。それは突然だったのだと聞いた。だけど、それだけだ。こんな無責任な男よりは、矢内を理解している自信がある。矢内に寄り添ってきた自信がある。

 矢内が、プレッシャーに押しつぶされそうなことは知っている。だけどそれ以上に、矢内は豊永のトスでスパイクを打ちたがっていたのだ。豊永のトスを打てない環境が、嫌だったのだ。

「な、なあ、早瀬」

 後ろから聞こえたか細い声。矢内は何かに怯えているみたいだ。ごめんなさい、俺の声の調子がいつもと違うからですよね、心の中で謝りながら、言葉は止められなかった。

「何で会いに来たんですか? 謝れば許されると思った? そんな訳ないでしょ、自分勝手なことばかりして」

 顔を上げると、豊永は少しだけ遠くの空を見ていた。なんで、どうして矢内を見ない?

「矢内さんは、あんたのことなんか嫌いになれないのに」

 同じセッターだから分かる。一度も、トスを上げてくれなどと、その居残り練習のときに言われたことがない。矢内は、豊永のトスが好きだった。

 ずるいのだ、豊永は。どうして彼ばかりが必要とされているのかが分からない。だから早瀬は、その理由は教えてやらない。矢内の苦しみを、豊永に知って欲しくはなかった。

「……早瀬」

 それは強い、制止だった。

「おれは、おまえの……豊永の、トス、結構好きだったよ。……大学では、負けない、から。俺の、ライバルで、いてくれよ」

 また、その顔。困ったように眉を下げて笑う。本当の笑顔を、一度も見たことがない。

「それじゃ」

 矢内はくるりと体の向きを変え、まるで逃げるように、足速に歩き始める。追いかけるも、手は届かない。最後に豊永がどんな表情をしていたかなんて知らない。だけどそんなことはどうでもいい。早瀬が追いかけたいのは、いつだって矢内だ。

「矢内さん」

 振り返ってくれない。

 ねえ、あんたの家はそっちじゃないでしょう。そっちに向かうところなんてないでしょう。それでも矢内は足速に歩いた。まるで豊永から逃げるようだった。

「矢内さん!」

 ぴたり、と、足を止めた。

「……帰りましょう」

 やっと追いついた早瀬は、矢内の腕を掴んだ。震えているのが、その手から、揺れる空気から、伝わる。

「矢内さん、帰りましょう」

「……おれ、は、」

「トスなら上げます、だから、ねえ」

 矢内は答えない。振り返らない。だけど彼が泣いていないことは分かる。矢内は人前で泣かない。

「ねえ、矢内さん、お願いだから、こっち見てください」

 風が吹いて、早瀬の声はそれにさらわれてしまう。茶色い髪が揺れて、光に照らされて、輝いていた。何もしなくても美しく映るのはどうしてだろうか。まるで儚いものみたいな、そんな美しさを持つのはどうしてだろうか。手を離しても、矢内はもう逃げたりしなかった。

「なんでかな、いま、すごい、悲しい、気がする」

 乾いた笑い声と共に吐き出されたそれは、初めて聞いた、矢内の弱音だった。それでも矢内は早瀬を振り返らない。

 もういい加減覚めるべきなのだと、本当は気がついていた。長い夢のような、悪い夢のような、彼への執着から。

「もう、終わりにしましょうか」

 自分が矢内の一番になれないことなど、とうに分かりきったことではないか。だって、この人は自分と同じように、豊永を追いかけていたのだから。自らの言葉で全てを断ち切った矢内は強かで、途端に自分が情けなくなった。きっと、早瀬がいなくても、矢内は同じようにしただろう。



 次の日、先に居残りを切り上げた早瀬を追いかけるように、矢内もすぐに部室に戻ってきた。部室は二人きりだった。

「お疲れさまです」

「……お疲れ」

 いつもと違う、距離。平然と帰る支度を進める早瀬に対し、矢内の態度はぎこちない。

「なあ、昨日、さ」

 昨日で、矢内の特別を断ち切るつもりだった。矢内はそれでも、早瀬に声をかけることをやめなかった。

「……終わり、って」

 矢内を困らせているのだと思った。彼を困らせる豊永に、自分は嫌悪感を抱いていたのに、そのくせ自分は平気で矢内を困らせている。元々、勝手に矢内の隣に立っていたのだから、何も言わずに離れるべきだった。もしかしたら、わざわざ終わりにしようなんて話したのも、引き留めて欲しかったからなのかもしれない。そうだとしたら、豊永よりもだいぶたちが悪い。そうして平然と居場所を確保しようとしたのなら。

「どういう、こと」

 早瀬は答えたくなかった。それを言ってしまえば、きっとこの人をますます傷つけてしまうだろう。傷つけたいわけではない、悲しませたいわけではない、それどころかずっと、彼の笑顔を願っている。

「矢内さん、海行きませんか」

 突然の提案に、矢内は言葉を失ったようだった。そして少しだけ、困ったみたいに笑う。豊永がさせていた表情。自分がさせたくなかった表情。間違いなく、今そんな表情をさせているのは自分だった。

「聞いてます?」

「……ああ、うん」

 そんなにおかしいだろうか。早瀬は、戸惑った矢内の横顔を見ながら荷物をまとめた。矢内は小さく白い息を吐いて、そして無言のまま帰る支度を始めた。

 どうせなら少し遠くに行きたい。何かが早瀬の気持ちを掻き立てている。何かが早瀬を急かしている。その原因が何なのかは分からなかったが、早瀬はそれでも矢内を海に連れて行きたかった。

「近くもいいですけど、どうせなら遠くがいいですよね」

 大体、近くの海なんて、豊永が見つかったという話を聞いてからいい印象だってない。誰にも会いたくない、ふたりで、海へ行きたかった。もう、終止符を打たなければならないと、分かっていた。今日で本当に、終わりにしなければならないのだ。

 ふたりは何も話さなかった。無言のまま着替え、矢内が自転車を押し、早瀬はその隣を歩く。駅で適当に自転車を停めて、矢内が切符を買うのを待って、それからいつもと反対の電車に乗る。三十分ほど電車が揺れる単調な音を聞いて、たどり着いたのは水族館が近くにあることで軽く観光地にもなっている海辺だった。真冬の海は、当たり前だけど人がいない。潮風が海の香りをまといながら、吹き付けてくる。予想以上の強風で、隣の矢内は少しだけ目を細めた。

「ここが……」

 小さく呟いた矢内を見ると、眩しそうに海を、遠くを見つめていた。

「――世界の果てなら、いいのに」

 せかいのはて。世界の、果て。やっと脳内で漢字変換をし、彼の言葉を理解する。ああ、確かにここで世界が終わってしまうなら、それも悪くないのかもしれない。たった、三十分。それも、普段使う電車の延長線上。そんな安っぽい夢を抱いたことに、自嘲気味に笑う。くだらない、だけど、この空間が終わりなら、あるいは永遠なら、そうであってほしい。

 ふたりきりのまま、ここしか世界がなくなるなら、それがいい。自分が昔願ったことを、矢内は口にした。それだけで、何もかもが報われた気分だった。

 強い風が吹いてきて、思わず目をつぶる。微かに潮の香りがする。目をつぶった奥には、少し前の大会の光景が浮かんだ。矢内のスパイクを止めた、二メートルの壁。ブロックフォローは、誰もできなかった。ごめんなさい、と小さく謝ろうとした矢内の言葉を止めたのは、早瀬だった。誰も悪くない。矢内は、悪くない。相手チームから大きな歓声が沸いて、反対に自分達の応援席は沈んでいた。そのとき、観客席に豊永を見つけたのを覚えている。豊永と目が合い、だけどチームがコートから引き上げたとき、その背中は既に見当たらなかった。その直後、矢内はキャプテンを受け継いだ。

 次に浮かぶのは、毎日の練習だった。矢内は、いつもやたら不安そうな表情で、苦しそうな表情で、バレーをする人だった。そのくせ、馬鹿みたいにバレーばかり追いかけていた。ときどき姿を現す演劇部の先輩には、一年以上思いを寄せている。だからといって親しいかと問われれば、これも答えはノーだ。向こうはもしかしたら早瀬の名前すら知らないかもしれない。ただ、矢内のことが好きなのだろうとはなんとなく察しがついていた。それでもきれいな横顔は浮かぶのだ。

 豊永が来たときの練習は、いつもよりぴりぴりした空気が流れている。矢内は無意識に豊永を避けている様子だったし、早瀬だって途中でやめたくせに平気な顔をして突然現れる豊永に嫌悪感を覚えていた。

 どちらにしろ、それはしずかな空間だった。

 矢内といると、まるで音がないような錯覚に陥る。矢内はどちらかと言えば軟派な性格で、明るくて、教室でも常に人に囲まれるようなタイプだったが、それでも確かに静かだった。矢内と早瀬は、大して言葉を交わさぬままここへ来た。居残った体育館も、気まぐれに二人で弁当を食べた屋上も、なんとなく習慣になった二人の帰路も、たまに行き来する家ですらも。全てが、静かで、音も言葉もない、空間だったのだ。

「しずか」

「……だって、お前が喋らないから」

 そういえば先に口火を切るのはいつも早瀬だったかもしれない。

「すみません、ちょっと、昔のことを思い出してて」

「……なんだそれ、走馬灯みてえ」

 そんな表現するかな、普通。早瀬が笑うと、矢内も少しだけ笑った。

「それなら、俺はきれいな死に方ができますね」

「おまえは、長生きしそう」

「そうですか?」

「なんでだろう、死ぬ、って、おまえに似合わない気がして」

「いつかは俺だって死にますけどね」

 その言葉は声というよりは、文字が流れてくるような、そんな感覚がした。ああ、だからしずかなのか。この人は、そんな話し方をするから、まるで音がないように錯覚するのだ。

 それきり黙ってしまった矢内は、しばらく海を眺めたあと、蛍光色が光るスニーカーを脱ぎ捨てた。続けて靴下を脱ぎ、スニーカーに突っ込む。その靴下もやはり校則に反した明るい色で、それだから、眩しくいようとするから疲れるのにとあきれながら、早瀬はそれに倣った。矢内はスラックスの裾を膝までまくると、海の方へ真っ直ぐ走っていった。さらさらと揺れる砂のせいで、足元はおぼつかないが、それでもやはり彼は真っ直ぐだった。その背中が、真っ直ぐと前を見据えていることなど、見なくたって分かる。ああ、なんて頼もしいのだろう。なんて、眩しいのだろう。逆光で黒く映るジャージ、光が反射してきらきらと輝く茶に染められた髪。全てが、眩しかった。

「豊永なんて大っ嫌いだああああ!」

 突然、脳裏に流れ込んだ言葉。声。その背の眩しさに、思わず目を細めた。

 これが見たかったのだ。聞きたかったのだ。

 いつも曖昧な言葉しか口にしない矢内の、そんな声が聞きたかった。

 早瀬は思い切り矢内の背中を押した。もしかしたら矢内は、少し泣いていたかもしれない。だけど、海に倒れこんでしまえば、そんなものは何も関係がないから。だから、これでいい。矢内はいつだって上を見ていた。届かなくて、あがいて、泣きたいのをこらえて。そんな矢内が初めて涙を流してくれた。それだけでいい。

「さみぃー!」

 矢内の表情は、笑っているようにも泣いているようにも見える。そんな表情が、ずっと見たかった。

「もう、お前、これどう帰るんだよ!」

「……どうしましょうかね」

「ふざけんなよー!」

 笑う矢内は、幸せそうで、早瀬はそこにしゃがむ。

「ねえ、矢内さん」

「……うん?」

「おれの、はなし、きいてくれますか」

 ずっと誰かに話したかったこと。その相手は、矢内しかいない。矢内が頷いたのを見て、早瀬は指の隙間から零れる海水を見ながら、口を開いた。

 昔から、早瀬の両親は共働きだった。方や編集者、方や外科医。そんな家庭で、一人息子を相手にする親はどこにもいなかった。例えば、隣に住む幼馴染みがありったけの愛情を注がれたとして、そして彼がその愛を受け止めきれず恐れていたとして。昔からそんな幼馴染みが羨ましくて仕方がなかった。愛されて、必要とされて、近くにいつも愛情があって。隣に住むのに、どうしてこうも違うのだろうかと、いつも思っていた。「それらしい」愛情を、早瀬は知らない。母の優しさだとか、そんなものは知らない。気がつけば冷たい硬貨とお札に変えられた愛がどこかに置いてあって、そして手料理なんてのも、最後に食べたのは中学のときの給食だった。高校生になると食生活は必然的に悪化し、いつしか味を失ったこの世界は、まるで色をなくしたようだった。

 それでも唯一忘れられない味がある。家の鍵を忘れたとき、幼馴染みの母親が出してくれたミルクティーの味だ。愛情に溢れていて、優しい味。小さい頃はそれが飲みたくて、わざと鍵を忘れたり、幼馴染みの家に遊びに行ったりしていた。利用するみたいな形で始まった幼馴染みとは、今でも切り離せない何かがある。

 そういえば矢内は、そんな幼馴染みとよく似ている。預けられる信頼は間違いなく嘘ではないのに、彼はそれに怯えている。受け止めきれずにいる。与えられるものがある二人を、いつの間にか重ねて、そしてやはり羨望の目を向けていたのだろう。

 それもあって、早瀬は家の外に居場所を求めた。誰かのために、バレーをしてきた。そこで出会ったのが、矢内だった。いつも不安そうに、苦しそうにバレーをしている矢内なら、自分を必要としてくれるかもしれないと思った。要するに、弱みにつけこんだのだ。それなのに、矢内は自分に信頼を預けた。矢内と練習をするたび心がずきずきと痛んだ。それなのに辞められなかった嘘は、どうしてだったのだろう。

 顔を上げると、矢内は真剣な眼差しで早瀬を見ていた。どうしようもないくらいに胸が痛みを増していく。

 なんであんたは、こんな優しいんだ。ばかみたいだ。込み上げてくる何かを、早瀬は無理やり飲み込んだ。

「ほんとに、どうしようもないばかですね、あんたって」

 そんなことにも気がつかないなんて。大人しく騙されるなんて。

「……でも早瀬は、俺の側にいてくれたよ」

「だってそれは、自分のためだから」

「それでもいいんだ。俺が何度おまえに救われたか知ってるか? それはどうしたって事実なんだよ」

 な、そうだろ? と爽やかに笑う矢内に腕を引かれ、海に倒れ込んだ。もしかしたら少し泣いたのかもしれない。隠すことに慣れすぎた心は、自分の気持ちもよく分からなくなっていた。それでも確かに嬉しいと感じた。海水か涙か分からない水滴がぽたぽたとこぼれ落ちる。

「早瀬って意外と熱いっていうか、感情的なんだなあ」

「そうですか?」

「お前が悲しそうなことに俺は安心してる」

 自分の表情は分からないが、矢内はやはり少しだけ困ったように眉を下げて笑った。

「大丈夫、ここ、海だからさ」

 その声は優しくて、温かくて、やけに安心を覚える。二人でびしょびしょになって、笑って、泣いて、本当にばかみたいだ。だけど確かにそれが幸せだった。

「……きっと、連れて行ってくれるんですよね」

 全国大会。東京、オレンジコート。

 そんなのは言わなくても、矢内は笑って頷いた。

「馬鹿、俺が連れてくんじゃねえよ、一緒に行くんだろ」

「それもそうですね」

「そうだろ、相棒」

 泣き笑いの横顔は相も変わらず美しい。この人のためにトスを上げようと思った。今度は自分のためではない。彼の夢を叶えるために、だ。

 夕日は沈みかけている。オレンジが溶ける海は、燃えているようだった。思わず手を伸ばすも、手は何も掴めず空を切るだけだ。矢内と似ているような気がしたのだ。美しくて、なんだか弱々しく、それでいて熱い光。

 まだ届かない。矢内は、まだ自分よりずっと先にいる。いつかその隣を歩ませてほしい。早瀬が望むのは、たったそれだけのことだ。

 笑い声は、少しだけ塩の味がした。

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