第三章 青の歌声

 ある日突然、幼馴染みがいなくなった。そのとき、とっさにやってしまったと思ったのだ。いつだって消えてしまいそうだった彼を、どうしてつなぎ止めておかなかったのだろう。あのときだって、どうして自分から手を離してしまったのだろう。



「俺さ、高校ではバレーやらないわ」

 そうやって豊永に言った中学三年生の夏を、今でも覚えている。元々バレー部のない中学校だったのにわざわざ外でバレーをしていたのは豊永に誘われたからだったし、飛び抜けて上手い訳でもなかった。それでもエースという立ち位置にいたのは、きっとセッターの豊永とコンビネーションが良かっただけなのだろう。成績に合わせて選んだ高校はバレーの強豪校だったから、そんなところでやるほど熱意は注ぎきれない。それでも友人と続けてきたものだから、悩んだ。悩んだ結果、辞めることにしたのだ。

 それなのに、豊永は大して気にもとめず、少し微笑んだだけだった。思えば彼は、バレーをやろうと言い出したときも、控えめな声だった。

「まあ、いいんじゃない」

「……止めねーの?」

「止めないよ。笹谷が決めたことでしょ」

 安心したのと同時に、腹が立った。豊永の思い描いたバレーボールの世界に、とうに自分はいなかったのだと知った。同じ高校を進学先に選んでいたのに、豊永はそんな未来を描いたりしていなかったのだ。

「まあ、それもそうか」

 志が違いすぎた、と思う。豊永が目指すのは全国大会だとかプロの道で、笹谷が望んだのは遊び程度のものだった。いちばん側にいたはずが、ふたりはその点で分かり合えることはなかった。

 豊永との付き合いは大分長いが、彼のことはよく分からない。それでも、バレーが本当に好きなのだということは分かる。分かりにくい豊永が、唯一分かりやすくなる瞬間なのだ。

 だから余計に意味が分からなかった。豊永が一年生の終わりにバレー部を辞めたことも、何食わぬ顔でバンド活動に参加することを了承したのも、そして突然どこかへいなくなってしまったことも。本当に訳が分からない。昔から隣にいたのに、いつも理解させてくれない。一方的で、自分勝手で、なのにやけに大人びた様子で言葉を躱すのだ。笹谷は豊永のことが得意ではない。曖昧で、意味が分からなくて、いつも一方的なのだ。



 家にギターが置いてあることなんて、普通はない。笹谷はバンドのボーカルだったが、ギターは弾けない。ギターメンバーが辞めてから活動休止していたのを、豊永の加入でつなぎ止めた。それなのに、今度は豊永がギターを置いてどこかへ行った。

「……どうするよ」

 隣の席を勝手に占領して小さく呟いたベース兼リーダーの彼は、ひどくイライラしたようだった。笹谷が一番怒りたい気分だった。無責任にも豊永は、ギターを笹谷に託して行ったのだ。ギターなんて触ったことだってほとんどない。昔少しかじったピアノが上達せず、楽器はそれから好きではない。音楽の授業で触った程度だ。それなのに、それを知るはずの豊永は、丁寧にメモ用紙まで残して笹谷に託していったのだ。

「ていうか、マジで知らねえの、豊永の居場所」

「知らねえって」

 知るわけがない。豊永の両親が離婚して以来、家だって知らない。昔は自転車で五分程度、歩いても十分程度の距離にあったから、毎日のように遊んでいたのに。共通点だったバレーからはどちらも離れてしまったし、昔一緒にバレーをしていたチームは少し前に解散した。二人が一緒に過ごした時間を証明するものは、ほとんど今は残っていないのだ。

 豊永が友人かと聞かれても、きっと笹谷ははっきりと頷くことができない。

 ではどんな関係性だったかと聞かれれば、同じバンドのメンバーで、だけどそれ以上もそれ以下もない、そうとしか答えられない。

「……俺、ギター練習してみる」

「はあ? お前楽器はもう触らないって言ってたじゃん」

「しかたないだろ、じゃあどうすんだよ」

 ギターなんて独学じゃできないだろう。楽器が苦手な笹谷にはなおさら。そんなことは分かっていたが、今はそんなことも言っていられない。新入生への部活紹介があるし、何より、六月の文化祭まであと四ヶ月。それが引退ライブになる。豊永が帰ってこないような気がしていた笹谷は、今から練習するしかなかった。

「豊永が帰ってこなかったら、ギターボーカルな」

 豊永が帰ってこないことを前提に話すなんておかしいと思った。普通なら家出か何かで、一週間もせずに帰ってきて、平然とバンドに復帰するだろうと思うところだ。それでも、そうさせるのは豊永がいつも突然だったからだろう。一年前、バレー部には戻らなかったみたいに、仮に見つかっても、豊永がバンドに戻らない予感がしていたのだ。

「何年間一緒にいるんだ……」

 苦笑いした笹谷を、リーダーは一瞥し、今度は窓の外に視線を向けた。大きくため息を吐いて、笹谷の肩を軽く叩く。慰められているのか、怒られているのかは分からなかった。だけどなぜか、ひどく安心した。長い間一緒にいた幼馴染みがいなくなるのは、日常に穴が空いたようなものだ。日常を突如奪われたようなものだ。だから隣に誰かがいることがありがたい。特別親しくもない幼馴染みなのに、自分が案外不安を覚えていることに気がついて、笹谷は自嘲するように笑った。



 豊永がいないまま一日が過ぎて、部活もないくせに遅くまで学校に残ってしまった。一年生の頃、確かそんな風に豊永の部活が終わるのを待ったりしたはずだ。特に欲しくもないのに自販機で買ったコーヒーをすすりながらバス停へ向かう。

「あれっ、笹谷じゃん」

 後ろから声をかけられ振り返ると、立っていたのはバレー部のマネージャーだった。中学生の頃から、そこそこ仲はいいほうだった。

「今帰り? 遅いね」

「なんかぼーっとしてたらこんな時間だったわ」

「豊永くんのこと?」

「あー……そうかも」

 一年生の頃みたいに待っていれば、現れる気でもしたのだろうか。だったら相当馬鹿馬鹿しい。

「さっき、橋本に会ったよ」

 自販機のところで会った、女子バレー部の一年生を思い出し、覚えたばかりの名前を口にする。豊永がやたら親しい一年生。どこで知り合ったのかは知らないが、たまに二人でいるのを見かけたことがあった。豊永と同じで口数は少ないが、しかし反対に言葉は鋭い少女だった。付き合っているのだろうかと考えて、そのような雰囲気でもないと気がついて、笹谷はずっと二人の仲が気になっていた。

「翠ちゃん? 知り合い?」

「いや、初めて話した。けど、流と親しいだろ」

「あたしは知らないけど」

 本当かよ、と文句でも言おうかと思ったが、目の前でそんな切なそうにされてしまえば、口を閉じるしかなかった。笹谷も、長い付き合いである彼女の、豊永に対する気持ちは分かっているつもりだった。

「流のこと、誰から聞いたの」

「んー、矢内だったかな。すごい困ってた」

 男子バレー部の主将の名前を聞いて、妙に納得した。彼はいつだって困ったような顔をしている。

「豊永くんが辞めたときも、そんな顔してたなあって、なんか思い出しちゃった」

「……あいつ、まじで何考えてんだろうな」

「知らないよ」

 誰も知らないだろうな、と思った。バレーを始めたのは父がきっかけだった。それは一緒に始めた笹谷も知っている。だけどその先のことは何も知らないのだ。豊永は誰かに相談したりしない。幼馴染みの笹谷だって、例外ではなかった。

「豊永くん、何か残していったんじゃないの?」

 彼女が何のことを言っているのは分かっていた。ギターに挟み込まれた、一枚のメモ用紙のことだろう。今朝そのことを軽く矢内に話したから、そのまま伝わったに違いない。

「……あんな紙切れ、何の意味もないだろ」

 たった一枚、挟み込まれた紙切れ。帰ってこない予感がする、最大の理由だった。その紙に書かれた内容は誰にも話していない。自分だけに託されたそれの意味は、まだよく分からないのだ。

 同じバスに乗って、一つ先のバス停で降りていった彼女は、始終悲しそうな表情で豊永のことを話していた。豊永がいなくなったことでクラスの話題は持ち切りだっただとか、男バレは元気がないだとか、バレー部が軽く混乱しているだとか、とっくに辞めたのに不思議だよね、なんて笑った。笑いながら、そんな悲しそうな表情をするなんて器用なやつだ。あまりに器用に笑うから、慰めの言葉が出なかった。あるいは慰められるほど自分も元気がなかったのだろうか。

「豊永くんは、大きな存在だったんだねえ」

 降りる直前、呟かれた言葉に納得しながら、笹谷は何も応えなかった。それは自分が一番分かっている。例え高校生になって距離が遠くなったとして、やはり幼馴染みであることは変わりないのだ。



 次の日もやはり豊永は帰ってこなくて、どうしてか持ってきてしまったギターを抱えながら放課後を過ごした。持ってきたところで、ギターなんて弾けるわけがない。少し後悔しながら、なんとなく体育館前をうろうろさまよい、自販機前を通って、軽音部室を通り過ぎて、最後に豊永のクラスに足を向けた。知っている顔は見当たらない。笹谷がギターを抱えているのを不思議そうに眺める人はいたが、誰かが声をかけてくることはなかった。いつもと何も変わらない、どこもかしこも、だ。部活がない日は豊永と帰るどころか、会わないことだって多い。体育館ではいつも通りどこかの運動部の声が響いてきていて、自販機前はやっぱり寂れているし、軽音部室は活動日ではないから音沙汰ない。何の変哲もない、日常の風景だ。ため息を吐いて、ギターを抱え直し教室に戻った。こんなに重いものを毎日抱えていたことに感心しながら、押し付けられたことを不満に思う。なんでよりによって自分だったのだろう。ただ単に置いていける場所だったからだろうか。笹谷の家に、みんなでよく集まっていたからだろうか。本当は誰でも良くて、たまたまその日はバンドメンバーで笹谷の家で話していて、だから都合が良かったのだろうか。本当に、何も知らない。自分でも驚くほどに、幼馴染みを知らないのだ。

 乱暴に丸められ、ギターバッグの隅に追いやられていた紙切れを開く。何度読んでもそれは豊永の綺麗な文字で、たった一行、文章が書いてある。

「あとは頼んだよ、ごめんね」

 まったく意味が分からない。何を頼むっていうんだ、バンドを? ギターを? それともほかの何かを?

 豊永が自分の命を投げ捨てるとは思えないが、彼にはそんな危うさがある。

 やけにいら立ちを感じる。豊永がいなくなって二日目。たった二日なのに、何がそんなに自分を不安にさせているのか分からない。何にそんなに焦っているのか分からない。分からない、けど、怖い。

「あ、いたいた。笹谷、明日どうすんの。豊永いないけど、集まる?」

 教室の入口から顔をのぞかせたのは、リーダーだ。後ろには他のメンバーもいる。

 振り返りながら、笹谷はとっさに手の中の紙切れを握りしめた。

「そうだなあ……。まあ暇だし、集まっとくか」

「オッケー。笹谷の家で大丈夫だよな?」

「おう」

 曖昧に笑って、メンバーが立ち去るのを見届けると、笹谷はもう一度メモ用紙を広げた。握りしめたせいで手汗がにじんでいる。黒鉛はすっかり薄くなってしまった。

 握りしめたのは、隠したかったからだろうか。豊永を一番知っているべきは自分だと、どこかで思っていたのかもしれない。

 その夜、弾けないギターを片手に窓の外を眺めていた。昼間の雨のせいで今も空は曇っている。灰色に覆われた空はお世辞にもきれいとは言えない。

 その夜だけでも恐らく五回は吐き出したため息をもう一度そこに吐き出す。自然とこぼれてくるそれは、豊永が原因なのだろう。

 ネットで調べた動画と同じように弦を押さえ、弾いてみるも、思うように音は鳴ってくれない。掠れたような、何かを引きずったような、そんな音だった。こんなものを、あんな簡単そうに弾いていたのだ、豊永は。

「ああ……くそっ」

 紙で切ったような痛みが、弦を弾いていた右手の指先を襲う。だけどそのとき、笹谷は痛みよりも先に虚無を感じた。やけに虚しくて、ギターを受け継ごうとしてる自分が馬鹿馬鹿しくて、それで、寂しかった。

 昔から楽器が苦手だった。豊永はそれを知っていたはずだ。それなのに自分にギターを託した理由は、やはり笹谷には分からなかった。



 豊永がいないせいで、オリジナル曲は新しく作られなかった。春はすぐそこだ。あと二ヶ月しかない。無理だと分かっているのに、それでもギターは手放せなかった。諦められなかった。どうしてかと聞かれても、よく分からない。豊永が本当に帰ってこないのかも分からなければ、彼が自分たちに何を望んでいるかもよく分からないのだ。

「……あと、二ヶ月だぞ」

 リーダーが、小さく呟いた。

「……おう」

 そう言われたって、うなずく以外に何もできなかった。壁にもたれたギターは、やたら古びて見える。くしゃくしゃに丸められたあの小さな紙切れは、未だギターバッグの奥に転がっている。

 そのとき、机の上に放り投げてあった携帯の画面が光った。書かれていた名前は男子バレー部の主将だ。一言、「豊永見つかったって」とだけ書かれている。「どこで?」と打ち込んだところで、また一言送られてきた。その「よく分かんねえけど、体育館だって」という一文が、豊永のトスをあげる姿を連想させた。今も鮮明にまぶたの裏に浮かぶ。静かなトスだった。まるでスローモーションのように腕が伸び、指がボールを捉える。打つ側だからこそ分かるが、心地よいトスだった。手のひらにフィットするような、そんなトス。一言で言うと、優雅だろう。才能あるセッターだった。そんな彼の相棒として戦っていた頃が懐かしい。笹谷にとって、体育館はそこしかない。何度も、彼が自分のためにトスを上げてくれた、あの場所しかないのだ。

「ごめん、ちょっと行ってくる」

「え、どこに?」

「すぐ戻るから!」

 メンバーの言葉など気にも留めず、コートと携帯をつかんで飛び出した。

 怒っていたのかもしれない。いつも自分勝手で、やたら大人びていて、どこを向いているのかなんて分からない。そんな幼馴染みに、腹が立っていたのかもしれない。自転車に飛び乗り、必死でペダルを漕いだ。そしてたどり着いたのは、かつて一緒にバレーをしていた体育館だった。体育館前にぽつりと立っている影を見つけ、自転車を停める。駆け寄ると、そこにいたのは豊永と、橋本だった。息を整えながら、何を話せばいいか考えた。考えたのに、言葉が出てこない。だけど、ずっと言いたかった一言があったはずだ。

「意味分かんねえ」

「……うん、ごめん」

 うんってなんだよ、何に同意したんだ、勝手に消えたのはお前だろうが。

 一言、声に変えてしまえば、それはもう溢れ出るみたいだった。

「おまえほんと、自分勝手だよ。ギター残されたって誰も弾けねえよ、誰が曲作るんだ、最初から投げ捨てるつもりなら入るんじゃねえよ、ふざけんなよ」

 豊永は、小さく微笑んだだけだった。

「……なんか言えよ」

 それでも豊永は、静かだった。

「……あの、私、帰ります。二人で、話してください。部活も、あるし」

 笹谷が来るまで付き添っていたのだろう、橋本はおもむろに、こちらに背を向け、何度か気にするように振り返りながら、その場を後にした。

「……それで? 何してんだよ」

「なに、って言われても」

「じゃあ、あのギターに残したメモは何だよ」

「……なんだろうね」

 豊永は曖昧だった。いつもこうなのだ。自分のことをごまかして、相手には理解させない。そのくせやたら偉そうに話すのだ。

「バンド、辞めるのか」

「どうかな」

 それをごまかされて、ああ肯定か、なんて思いながら顔を背けた。そういうときの豊永の表情は、見ていられないほど、切なそうだ。ごまかすくせに切なそうで、だったらいっそはっきりしてほしいものだ。

「……辞めるなよ」

 掠れた声は、もしかしたら豊永に届いてすらいないのかもしれない。

「辞めるなよ。お前がいねえと、活動できねえ。お前が何を思ってここに来たかなんて聞かねえよ。だから何も言わなくていいから、戻ってこい」

 何もなかったみたいに、みんな受け入れるから。失踪とかじゃなくて、ただの欠席だって、そう思うから。話がこじれる前に、戻ってきて欲しかった。何も語らないで欲しい、その代わりそこにいて欲しかった。

「ねえ笹谷、俺はどうしてバレーをしていたんだと思う?」

 その質問はあまりにも突然で、笹谷はとっさに言葉を飲み込むことが出来なかった。豊永がバレーを始めたのは、間違いなく父親の影響だ。それは豊永と父親のコミュニケーションの手段の一つで、そうだ、だから豊永はバレーをしていたのだ。

「俺はバレーなんて好きじゃないし、父さんも、笹谷もいなくなった。それなのに、俺はなんでかバレーに執着している。自分でもよく分からないんだ。でも少なくとも、こんな気持ちでバレーなんてやるべきじゃないんだってことは、それだけは分かる」

 豊永の言っていることは、めちゃくちゃだった。

「何言ってんだよ、おまえ」

 豊永はなんでもないような顔をしていた。まるで本当に、バレーなんて興味がないような顔をして、だけど豊永がこんな饒舌なときは、必ず嘘だ。彼はいつも、心が決まっているときばかり、曖昧に話す。

「俺は夢を見ていたのかな」

 豊永は切なそうに笑い、そっと上を見た。笹谷も、その横顔から目を背けるように空を見上げた。昨日まで降っていた雨のせいだろうか、遠くの雲はよどんだ灰色だった。すぐ近くの空はきれいな淡い青で、つながった空の色とは思えなかった。空から光が差し込み、豊永を照らす。照らされた黒髪はつややかに反射した。豊永がまぶしそうに目を細めた拍子に、涙がこぼれたように見えた。

 だからね、と優しく笑った豊永は、男に使うのは不自然かもしれないが、確かにきれいだった。昔から、彼は静寂をまとっている。静かな空間に、凛々しく、美しく佇んでいる。

「だから、もう夢を見るのはおしまいだよ。バレーはもう、俺の一部じゃない」

「だったら……お前を認めた大人たちは何だったんだよ。そりゃ、俺はお前の考えてることも分かんねえし、父親と何があってそんなことを話しているのかなんて知らねえけど。……でも、夢だったなんて、そんなことは言うなよ」

 それでは、まるで共に過ごした少年時代すら、幻だったみたいじゃないか。実際、幻だったのかもしれないと思うときはある。いつしか言葉を交わす機会が減ってしまった。共に学校へ通うことも、学校帰りに体育館へ走ることも、家を行き来して遊ぶことも、ほとんどなくなった。彼の引っ越し以来、その家の場所だって、笹谷は聞かされていない。確かに一番仲が良かった幼馴染みはいつの間にか遠いところにいたのだ。小さい頃の約束も、全部嘘みたいに、なかったものみたいに、なってしまった。ずっと豊永に複雑な思いを抱いていた。幼馴染みというだけで特別に思って、それなのにいつも遠い所にいて、豊永自体を幻想のように思っていたのかもしれない。それでも近くにいたかったのは、やはり昔から傍にいた相棒だからだ。豊永がトスを上げて、笹谷がスパイクを打つ。豊永がギターを弾いて、笹谷が歌う。そんな当たり前が、欲しかったのだ。当たり前だったときは知らなかった。会おうと思わなければ、話そうと思わなければ、もうそれが叶わない今だからこそ、分かるのだ。

「お前がしてきたことは夢じゃねえよ。監督がお前をスタメンに引き抜いたのは、その実力を認めたからだ。それでもお前が夢って言うなら、監督を信じてなかったのか」

「たまたまだよ、そんなの」

 豊永は自嘲するように笑った。

「うるせえ! お前が信じたくないのは、否定したいのは、お前のバレーでも監督でもねえだろ。……なあ、流。何があったんだよ。ここにいるってことはさ、会ったんだろ」

 父親に、とはなぜか言葉にできなかった。体育館はとっくに使われていない。果たして豊永はそれを知っていただろうか。知らずにここまで父親を捜しに来たのだろうか。それとも、分かっていてこんなところまで足を運んだのだろうか。笹谷はそんな理由を推測しかできない。

 豊永は小さく笑って、また空を見上げた。いつもそうだ、黙って涙をこらえるのだ。長い間一緒にいた幼馴染みの涙を、笹谷は知らなかった。

「……流、俺昔さ、約束しただろ」

 センスも才能もある相棒に、中学生になったばかりの夏、確かに一つ約束をした。どうして今まで忘れていたのだろうと思った。消えてしまいそうだった幼馴染みを、どうして自分から突き放すようなことをしてしまったのだろう。

「俺、誰からも認められるようになるから、ずっと一緒にプレーしよう。……くだらねえよな、昔のことなんて今さら引っ張り出して。でも、形が変わっても、俺はやっぱりお前と何かしら続けたいんだよ。会おうとしなければ会えないの、嫌なんだよ」

 豊永は笑った。だけど同時に、上を向いていた頬に涙が一筋流れた。それが、十何年も一緒にいて、初めて見た涙だった。透き通ったそれは夕焼け色の光が反射して、きらきらと輝いていた。

「……笹谷とやるならさ」

「おう」

「俺は、バレーがいいなあ」

 ぽつりと吐き出されたのは、初めて聞いた豊永の小さなわがままだった。鼻をすする音が聞こえて、それから嗚咽が聞こえて、だけど豊永はこれまで見たどのときよりも笑顔に見えた。これまで自分は彼にとってただの幼馴染みで、それ以上のものではなかったのだと気がついた。それでもいいと思った。今目の前にいる豊永の笑顔が、何よりも明るくて無邪気なものだから、何でも許せる気分だった。

「俺はバレーが好きだったよ。でも、お前がいないなら俺は価値は感じない」

 豊永は言葉をそこに置くみたいに、声をこぼすみたいに話す。独り言にも聞こえるけれど、視線はしっかりと笹谷の方に向けられている。曖昧なままの声で、中身ははっきりとしていて、何だか不思議な話し方をしていた。

 笹谷は、そんなことは知っているつもりだった。豊永が最も輝く時間なのだ。一番完璧じゃない時間なのだ。何でもそつなくこなす豊永が、唯一必死な表情でいる時間なのだ。

 笹谷は確かに豊永とバレーをしている時間が好きだった。それなのに才能を言い訳にして、豊永との約束からも逃げ出した。

「続けろよ。……お前が自分勝手なことなんて、とっくに知ってる。バンド辞めたって、誰も咎めはしねえだろ」

「だから、俺は」

「大学生になったら、俺も追いかける」

 豊永の言葉をさえぎると、いよいよ黙ってしまった。笹谷に言い負けた豊永を、これまで見たことがなかった。

「だから辞めるなよ。お前の夢だろ」

 豊永は驚いたように目を見開いて、何度か瞬きをして、それからくしゃりと顔をゆがめて笑った。泣いているようにも見えた彼は、バレーの試合をしている豊永の表情をしていた。

「ほら、帰るぞ」

 豊永の腕を引く。一緒に帰るのはいつぶりだっただろうか。そんなことはどうでもよくなって、笹谷は豊永がいなかった間のできごとを少しずつ話した。そこにあるのは紛れもなく、昔の二人の姿だった。いつも一緒に笑いあった、幼馴染みの姿であった。



 その日、豊永は笹谷の家に泊まった。バンドのメンバーで泊まろうかなんて話も上がったが、あまりに突然でそれは実現しなかった。

「笹谷に託してもいいんだけど、一応当てはあるんだよね」

「……ギターか?」

 やけに早く目が覚めた笹谷よりも先に、豊永は起きていた。もしかしたらほとんど寝てもいないのかもしれない。窓の外を見るが、まだ暗かった。

「そう。俺よりもギターが上手くて、音楽が好きなやつ。同じクラスにいるんだ」

「……へえ」

 まだどこかぎこちない二人の会話は、それでも心地よかった。豊永のクラスメイトの顔を浮かべようとしたが、バレー部の主将以外はピンと来なくて諦める。

「……俺が三日間、何してたか聞かないんだね」

「別に」

「笹谷はバレーチームが解散してたって知ってたの?」

 答えずにいると、豊永はさらに質問を重ねた。肯定だと受け取ったらしい。

「体育館がもう使われていないのも?」

 笹谷は大きく息を吐いた。

「知ってた。でもお前が知る必要はないと思ってた。……ごめん」

「……じゃあ、父さんが再婚したのと入院したのは?」

「は?」

 急に知らなかったことが豊永の口から飛び出て、笹谷は素っ頓狂な声を上げた。

「知らなかったんだ」

「いつの話だ、それ」

「つい最近だよ。バレーチームの解散も、病気したのが原因だったんだ」

 そういえば、少年バレーの大会があったばかりだと思い出して、それにかつて二人の所属したチームが出ていなかったことをきっかけに知ったんだと気がつく。豊永はその理由を知りたかったのだろうか。それで父を捜しに行ったんだろうか。

「俺は何も聞かされてなくて、体育館は施錠されてて、立ち往生してたら女の人に声を掛けられて……昔そこでバレーしてたって言ったら、病院に案内されて。もう意味分かんなくてさ。父さんの描いた最期に、俺なんかとっくにいなかったんだって気づいたよ」

 窓から射し込んできた朝日が豊永の顔を照らす。話していることは決して明るい内容などではないのに、その表情はやけにすっきりしていた。

「最後にギターが弾きたいんだけど、歌ってくれない?」

「……お前、本当に自分勝手だよなあ」

「今さらじゃない?」

 豊永は笑って、ハンガーにかけられていた制服からピックを取り出した。誕生日に笹谷が買ってやった安物だ。それなのに、バンドなんて辞めるつもりなのに、ポケットに入れていたのだ。

「何がいい?」

 楽譜の入ったファイルの中身を漁りながら聞くと、何がおかしいのか豊永はふふ、なんて声を出して小さく笑った。

「青春っぽいのがいいなあ」

「昨日は散々に言ってたじゃねえか」

「うーん、笹谷の声は爽やかだからさ。青春っぽい青でしょ」

「知るかよ、そんなもん」

 豊永はこんな風に笑うんだったな、なんて今さらながら思った。ちゃんと年相応に笑うじゃないか、普段大人びたふりをして、ちゃんと高校生らしいじゃないか。

 しかたないやつだな、なんて笑いながら笹谷は一枚の楽譜を取り出した。有名な高校野球のドラマの主題歌だ。青春といえばこの曲しかないだろう。

「ああ、いいね」

 豊永は本当に嬉しそうに笑う。二人で夜が明けたばかりの時間に、騒いで、笑って、歌った。懐かしい風景に笹谷は少しだけ泣きそうになって、だけど笑ってごまかした。それを豊永が目ざとく指摘してくるから、軽く肩をはたいてやった。

「馬鹿だよね、こんな朝早くからさ」

「……青春って、そういうもんだろうが」

 二人でまたおかしくなって吹き出した。

 ああ、ずっとこんな時間が過ごしたかったのだ。ただの友人とも少し違う、幼馴染みと、こんな風に笑い合いたかったのだ。

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