番外編 藍とむらさきにまみれて

 バレーボールが床に打ち付けられる音が響いている。少し前に建てられた第二体育館は、男子バレー部が活動をしている。少し前までは男女同じ場所だったのに、三年生になってから周りの環境が大きく変わった。

 少し前までは男女バレー部も、演劇部も同じ体育館だった。だけど強豪に変わった男子バレー部は、バスケ部と交代で使う余裕がなくなり、そのために新しい体育館が建設された。部活のときの、楽しみがひとつなくなってしまった。

 そんな部活も、六月の文化祭で終わってしまう。

 第二体育館から、男子バレー部が出てくるのが見えた。その中に、目当ての人はいない。あかりはそっと、静寂に包まれた第二体育館の扉を押した。たった、二人。一人は同じクラスの矢内宗介。そしてもう一人が後輩の早瀬昴だった。

 バレーボールが思いきり床に叩き付けられる音が響く。宗介は一人で残って、いつもサーブの練習をしていた。早瀬の入部をきっかけに、二人で居残るようになって、たまに早瀬がトスを上げては宗介が打つというのを繰り返していたときもあった。

「トス、上げましょうか」

 早瀬の声。矢内は笑って、ボールを早瀬に向かって投げると、軽く助走をつけて、そして、飛んだ。まるで羽が生えているみたいだと、あかりは思う。まるでスローモーションみたいな動きで、腕を振る。

 きれいだ、と思う。豪快なようで、繊細な動きをする。しなやかに背中を反り、大きく腕を振る。バレー部の中では比較的細い矢内だが、このときは誰よりも大きく輝いているようだ。空中で静止した。彼は、落ちない。飛んだきり、ボールを打つまでは動きが止まる。振り下ろした腕は、ボールが最高到達点にあるうちに、振り下ろされた。大きな音と共に、反対側のコートに叩き付けられたボールは、何度かバウンドして、そして壁に当たった。

 すごい、だとか、きれい、だとか、そんな簡単な言葉しか声にはなってくれやしない。だけど何か賞賛の言葉を贈りたいのも、間違いではないのだ。

「かっこいい」

 悩んだ末に出てきたのは、結局そんな言葉だった。自分の語彙力に、思わず苦笑いをした。

「……柊先輩」

 先に自分の存在に気が付いたのは、トスを上げていた早瀬だった。二年生のセッターである彼は、矢内とやたら親しい。矢内が悩んでいたとき、きっと近くで支えていたのだ。

「ごめん、ちょっと見たくなって。邪魔しちゃったね」

「いや、俺は全然いいよ、気が済むまで見てって。大したことしてねえけど」

 さわやかに笑う矢内に、胸が締め付けられるようだった。

 矢内はいつもそうだった。本当は大切な人だっているはずなのに、優しくて、期待をさせる。ただそういう人なのだと、心では分かっているはずが、それでも期待したくなる。本当にずるい、男だ。

 曖昧に笑って、矢内からふいと視線を外す。目が合った早瀬は、小さく会釈すると、バレーボールを一つ矢内に投げた。

 早瀬はきっと、とうにあかりの思いに気が付いている。親しくなったのは、確か三年生になってすぐの、春の日のことだった。

 演劇部が、今のメンバーで公演をする最後の機会は、文化祭である。その配役のオーディションがあった日の放課後、あかりは震えと緊張をどうにか鎮めようと、一人で渡り廊下にしゃがみこんでいた。どうしても演じたかった役、何年か前に小さな劇場で見て以来忘れられない景色、あかりを演劇の道に導いたきっかけ。どうしても失敗できない、オーディションだったのだ。それなのに、震えは一向に止まってくれない。たかが部活と言ってしまえばそれまでだが、それでもあかりには譲れない思いがあった。何度か深呼吸をするが、何も変わらない。これではオーディションに落ちてしまう。そのときだった。視界に差し出されたのは、青色のパッケージのミルクティー。

「良かったら」

 低く、落ち着いていて、甘い声をしていた。視界に微かに映り込んだグレーのウィンドブレーカーは、バレー部のものだった。顔を上げると、それが矢内と居残って練習をしている後輩だということが分かった。

「ミルクティー、飲むと落ち着きますよ」

 なかなか反応のないあかりに不安になったのか、その後輩はまた一言付け足した。どうしていいか分からず、戸惑うあかりに、彼は無理やりミルクティーを握らせた。

「柊先輩が似合うと思います、あの役。それじゃ」

 それだけ言い残して、名前もまだ知らない後輩は体育館の方へ走って行ってしまった。

 たった、それだけのことである。どうして自分の名前を知っていたのかはよく分からない。ただその言葉は、確かに嬉しかったし、温かいミルクティーは言葉の通りあかりの心をほぐした。名前も知らない後輩は、あかりの小さな夢を叶えるきっかけとなったのだ。オーディションで、あかりはずっと演じたかった役を演じることになった。

 その文化祭も、もう一週間後に控えている。

 待ちきれない思いと、もう終わってしまうという思いが心の中で混ざり合って、少しだけ寂しさが勝った。



 矢内から早瀬のことを聞いたとき、ほとんど初めて話したに等しい矢内は、少しだけ驚いたように目を見開いて、それから少しだけ目を細めて笑った。表情がころころと変わる矢内は、見ていて少し清々しい気持ちになれる。矢内は嬉しそうに、少し誇らしげに後輩のことを話した。優秀なセッターなんだとか、後輩の中でも最初にレギュラーになったんだとか、それなのに練習は決して怠らない真面目な性格なのだとか、本当に嬉しそうに自慢をするのだ。矢内は決してエースと呼ばれるような選手ではなかったけれど、早瀬と同じように学年最初のレギュラーなのだと聞いたことがあった。矢内はそう言われることを極端に嫌ったが、それでも周りは彼を称えた。二人がかなり親しいということは、どこからか聞いたことがあった。ただの先輩後輩ではないのだ。言うならば、相棒、だろうか。

 男子バレー部が第二体育館に活動場所を移してから、あかりは矢内と早瀬の練習風景を見たことがなかった。だけど早瀬と出会った日から、ときどき体育館を覗くようになったのだ。知り合いしかいない空間は、覗き込んだところで誰も文句を言わない。

 二人の練習風景を見るのが好きだった。早瀬がトスを上げて、矢内がスパイクを打つ。たったそれだけのことが、あかりは本当に楽しくてしかたがないのだ。

「そう言えば矢内さんたちのクラスって、何やるんですか」

「え? ああ、文化祭のクラス企画?」

 矢内はドリンクを早瀬に投げてよこしながら、汗を拭う。

「俺たちはシュークリーム。買いに来いよ」

「まあ、時間があったら」

 早瀬は自分から聞いたくせに興味なさげにドリンクを一口飲んだ。矢内はそんな早瀬の態度など気にも留めず、少し楽しそうに笑った。こんな楽しそうにバレーをするようになったのは、二年生の冬がきっかけだった。原因は忘れもしない、クラスメイトの消失だった。

「早瀬は?」

「ああ、カレーです。良かったらどうぞ」

 早瀬はあかりにぺこりと頭を下げた。

「俺のことももう少し歓迎しろよ」

 苦笑いした矢内を早瀬は軽くあしらう。二人の関係はきっと特別なのだ。こういうとき、少しだけ矢内を遠いと感じる。彼が誰かと付き合ったと聞いたときと似たような感覚。なんだ、元々遠いではないか、なんて少しだけ苦笑いをした。

「そうだ、演劇部も見に来てね。二日目の昼にやるから」

 二人は顔を見合わせて、そっとうなずいた。今の関係が永遠に続いてくれるならそれでいい。多くは望まないから、矢内の側にいたかった。



 当日の公演前、二階のギャラリーから覗くと、観客席はいくつか穴はあるものの前半分ほどが埋まっている状態だった。去年よりも少しだけ入りが良い。早瀬と矢内は、どうやら二人ばらばらに友人と見に来てくれているらしい。

 小さく息を吐き、胸に手を当てる。思っていたよりも落ち着いているようだ。さっき買ったミルクティーをそっと握りしめ、もう一度息を吐いた。今日でもう終わってしまう。この体育館で芝居をすることは、これで最後だ。そう思うだけで、少し震える。

 あの日とは違って、冷たいミルクティーを一口すする。甘い香りがふわりと広がる。大丈夫、これはいい緊張だ。今までで一番、落ち着いている。

 あかりは、ステージ裏へ続く階段を駆け下りた。

 そこは夢の入口だ。希望の一歩目だ。あかりにとっての、光だ。

 ステージに出ると、早瀬と目が合った。ふわりと微笑んだその表情は、これまで見たことがないほど優しい。ああ、大丈夫だ。どうしてだろうか、彼はいつもあかりに安心を与えるのだ。大きく息を吸う。声の響きがいい。ほどよい緊張感が、演技に締まりを出す。胸を張って言えるほど、その舞台はあかりにとって、これまでで一番良い出来だった。


「主演お疲れさまでした」

 あかりのクラスにやって来て、淡々とそう述べたのは早瀬だった。友だちと三人組だったが、その二人を廊下で待たせたまま、あかりに話しかける。

「ありがと、ステージからちゃんと見えたよ」

 早瀬は少し微笑んで、ミルクティーを差し出す。本当にこればっかりだと思いつつも、嬉しさはそれを上回った。早瀬なりの、祝福のようなものなのかもしれない。ありがたくそれを受け取る。

「本当はもっと何かあれば良かったんですけど、これしか思いつかなくて。……シュークリーム、先輩のおすすめ何ですか」

「ありがとう。抹茶食べれるなら、抹茶かな」

「じゃあそれで」

 相変わらず表情が乏しい。だけど、それが早瀬らしさだと最近は思いつつある。

「奢るよ、いつものお礼」

「いや、大丈夫です、払いますよ」

「でもそれじゃ申し訳ないよ」

「……じゃあ、代わりに一緒に回ってくれませんか」

 あまりにいつも通りに、だけどその内容は確実にいつもとは違っていた。

「シフト終わってからでいいんで、返事ください。それじゃ」

 早瀬は結局、シュークリームの代金を置いて友だちの方へ駆け寄って行った。早瀬の言葉を上手く飲み込めずにいたあかりに、隣にいた友だちはからかってくる。バレー部のマネージャーの彼女は、そういえば早瀬とも知り合いだった。

「行けばいいのに」

 昨日までは一緒に回ろうなんて話していたのに、あっさり裏切られた気分だ。あかりは少し不機嫌に返事をした。

「そういうんじゃないってば」

「えー、いいと思うのになあ、早瀬とあかり」

「好きな人、知ってんでしょ」

「まあね」

 悪びれる様子もなく、彼女はかわいこぶって笑う。早瀬は大切な後輩で、大切な人だけど、恋愛感情などではないのに。

「あ、そういやあかり、あたし彼氏と回るわ! 適当に一緒に回る人探しといて!」

 シフトチェンジのタイミングで、ただの思いつきみたいに大声でそう言われると、あかりも何とも言い返せず、ただ無言で頷いた。そんなの、絶対嘘だと分かっているのに。バレー部のマネージャーになったのも、好きな人を追いかけてのことだと話していたのだ。二年生の冬に、何をきっかけにかは分からないが、彼女はあまり好きな人の話をしなくなった。それでも視線が好きだと言っている。そんなの、一番近くにいるから気がついているに決まっているのに。

 教室を出ると、廊下で早速早瀬と会った。きっと仕組まれたことなのだろうと思いながら、仕方ないので声をかける。

「梨花に何か言われた?」

「ええ、まあ、ここで待ってろとは」

「やっぱり……」

 早瀬の連絡先を、マネージャーが持っていないはずがない。あかりの反応に、早瀬も大方を理解したのだろう、少し申し訳なさそうに、だけど決して引き下がろうとはしない。

「だったら、少し話だけ聞いてもらえませんか」

 あかりはそれを断れず、そうして連れて行かれたのは体育館前の渡り廊下だった。体育館を出入りする人はいるものの、少し離れたところに立っているあかりたちを気にする人はいない。少し曇った空が、賑やかな文化祭には少し不似合いに見えた。

 早瀬は先ほど買ったシュークリームを手に持っていたが、まったく食べようという素振りはない。

「それ、食べないの?」

「……ああ、まあ、そのうち」

 その返事に何か違和感を覚えるが、それ以上問うことはしなかった。早瀬はあかりのペースを狂わせるばかりだ。あかりとは目を合わせないまま、体育館の方をぼんやりと眺めている。そして、ふいに視線をあかりに戻して、小さくぽつりと呟いた。

「先輩のことが好きです」

 静かに話す人だ。なんとなく分かっていた言葉は、嬉しいようで、だけどどうすればいいのか分からない。

「……私はその気持ちには応えられないよ」

「そうですね」

 早瀬は気に留める様子もなく、ただそっと視線を逸らした。遠くの空は、雲が晴れて光が差していた。

「でもあの人には、彼女いますよ」

 ぽつりと、言葉をそこに小さく落としたのは、あかりを牽制するつもりだったのだろうか。あかりはくすりと笑った。

「そうだね、でも関係ない」

「まあ、そうですね」

 早瀬の紡ぐ言葉が本物なら、二人は同じ境遇にいることになる。矢内には彼女がいて、あかりはそんな矢内を好きだ。そしてそんなあかりを、早瀬は好きだと話す。二人の想いはいつまでも一方通行なのだ。

「先輩は、それでも矢内さんが好きですか」

「……うん」

 ずるい聞き方をする男だと思う。まるで矢内のことを諦めてほしいと言っているようだった。相変わらず遠くを見つめたまま、あかりの方なんて見向きもしないくせに。

 風が吹いてきて、早瀬の髪が揺れる。早瀬は目を細めた。光に当たったそれはきらきらと輝いて、黄金色に見えた。ああ、本当にずるい。あかりは美しいと思ってしまったのだ。憂いを帯びた表情は、人は乏しいと話すけれど、思っているよりも分かりやすいと思う。声色が、すぐ変わるのだ。しかし表情は崩れない。きれいなひとだ、だけど好きにはならない。

 あまりに眩しい後輩の横顔に、あかりはそっと目を伏せた。静かな後輩との時間を嫌いにはなれない、恋心を向けられても、自分の心がほかの場所にあっても、どうしたってそれは心地がよかった。

「先輩、やっぱりこれあげます」

 差し出してきたのは、シュークリームだ。意図がつかめず、あかりは首を傾げる。

「食べることが、あまり好きではなくて」

「……食べることが?」

「何を食べても、味がしないんです」

 小さく呟いた後輩は、今までにないくらい弱々しい声で、不安げな顔をしていた。さっきまではあんな大切なことを、まるでどうでもいいみたいに話したくせに。いつも凛としていて、まっすぐな彼が、初めて見せた弱みだった。

「……なんて、言ったら、同情してくれますか」

 乾いた笑い声。まるでそれは自嘲するようだった。微かに震えた声はいつになく小さく、見たことがない早瀬の姿だった。仮にそれが本当だとして、それでも早瀬は部活の付き合いで味のない焼肉を食べて、学校帰りにラーメンを食べて、そして後でむなしくなるのだろうか。これまで、早瀬の感情を上手くつかむことができなかった。何を考えているのか、少なくともその表情からは汲み取れなくて、声の色は深い蒼みたいな、藍色みたいな、澄んでいるようでくすんだような色をしていた。そのくすんだ部分は、自分を隠すためにあったのかもしれない。

「今ね、日本で年間二十四万人の人が味覚障害になるんですって。原因は食生活の偏りが多いんです、面白いでしょう、高校生なのに満足に食事もできないんですよ」

 早瀬は笑いながら抹茶色の袋に入ったシュークリームをあかりに差し出した。あかりは手のひらに乗せられたシュークリームを、そっと包み込んだ。どれがおすすめか問うた声は、今も脳裏で再生できる。あのときだって、きっとシュークリームなんて買いたいわけではなくて、ただ矢内に遊びに来いと言われたから買っただけだ。心臓をつかむような切なさに襲われ、思わず手のひらに力を込めた。シューからクリームが溢れてしまった。

 早瀬が遠くを見つめていた。

 目はやはり合わせてくれない。

「昔から与えられた愛情は金額に換算されていて、そのうち健康的な食事なんて、しなくなりました。一人だと、どうしてもコンビニ弁当とか、インスタント麺とか、そんなものになるんですよ」

 早瀬はそっと目を伏せた。きれいな横顔が初めて崩されて、だけどそれはこれまでのどの表情よりも美しく見えた。本心を語る早瀬など、これまで見たことがなかったのだ。いつも飄々としていて、本心を探られることを拒絶していたのだろう。

「だから、何がおいしいのか、何をあげたら喜ばれるのか、そんなことてんで知らないんです」

 そこで一つ、違和感が心をかすめた。初めて彼と出会ったとき、ミルクティーを差し出した彼は何と言っただろうか。そうだ、落ち着くと、そう話したのだ。味が分からないのにそう語るのは、きっと何か深い意味があるのだろう。

「ミルクティーを、落ち着くって話したのは?」

「……ミルクティーって、温かいんです、おかしいですよね、味なんてしないはずなのに、ミルクティーって、あたたかな味が、するんですよ」

 ああ、それはきっと与えられた愛情の味なのだ。愛された記憶などほとんどないような早瀬が、それでも大切に抱えてきた、そんな思い出なのだ。

「すみません、重い話をしてしまって。聞いてくれてありがとうございました」

「え、早瀬くん」

 呼び止めて何かを言いたかったのではない。ただ、このままでは、もう彼と話せないのではないかと思った。

 振り返り、やっと目を合わせてくれた早瀬は優しく微笑んで、だけどその瞳はどうしても悲しい色に見えて仕方がなかった。



 結局、その日から早瀬とは会っていない。連絡先も知らず、あかりは部活を引退したため、それはごく自然なことのはずが、気になって仕方がなかった。

「早瀬、ねえ」

 ため息と共に言葉を吐き出し、ホイップクリームをすくって口に放り込む梨花は、少しだけうなって、またすぐにパフェにスプーンを突っ込んだ。

「そんな変わった感じはしないなあ、強いて言うなら、矢内との距離感更におかしいぐらいで」

「そっか……」

 珍しく部活がオフだと言う梨花に誘われカフェに来たが、甘いものを食べる気分にもなれない。

「あ、矢内なら何か知ってるかも」

 鞄から携帯を取り出し、指を滑らす梨花に、嫌な予感しかしない。

「え、嘘でしょ」

「ごめんもう呼んじゃった。すぐ来るって」

 梨花は口元についたホイップをぺろりと舐め取り、えへへなんて言いながら笑う。全然かわいくない。あかりは分かりやすく嫌悪に顔をしかめながら、何も言わなかった。なんとなくだけど、矢内に会う気分じゃない。会いたくて仕方ないと思っていたはずなのに、あの文化祭の日以来、体育館に行く気分にもなれなかった。

「でもほんとに、いつまで矢内追いかけてんの。あいつ彼女いるじゃん」

「そんなの……」

 彼女がいるとか、そんなのは関係がなくて、ただ矢内を見ていたいのだ。バレーに打ち込む彼の姿は、あまりに美しい。

 口の中のホイップクリームは、甘さだけがやたら残って後味が悪い。

「あたしは豊永くんのことが好きだったよ。でもあんたは、いつまで矢内を好きなの?」

 後味の悪いホイップクリームは、口の中で溶けてなくなった。それでも残る砂糖の味は、べとべとした何か別のもののようだった。後味が悪いそれを、水で流し込む。まだ少し、甘いにおいがこびりついていた。

 豊永が二年生の冬にどこかへ消え、数日後何事もなかったように教室に現れたことはまだ記憶に新しい。それがきっかけだったのだろう、梨花が彼への感情を割り切るようになったのは。そんなにはっきりと過去形の言葉を口にしながら、梨花の視線は今だって豊永を追いかけている。だけど、自分はどうなのだろう。体育館に足を向ける機会はほとんどなくなってしまったし、教室でも矢内とはすっかり話さなくなってしまった。視線がいつの間にか彼を追いかけているなんて、なかったのかもしれない。むしろ頭の中を占めるのは、いつだって早瀬のことだったのだ。

 答えられないまま、数秒見送った。その沈黙を破ったのは梨花でもなく、あかりでもなく、少し低い声だった。

「よう」

 予想以上に早く着いた矢内は、バレー部指定のジャージを着ている。そして小さく右手を上げると、さわやかに笑った。

「部活オフでしょ、何してんの」

「ちょっと早瀬と自主練してた、体育館空いてたから」

 梨花が言うと、矢内は苦笑いをしながら荷物を梨花の横に置いた。どっちに座るんだろうかと思っていたら、梨花が帰ると言い出し、空いた席に矢内が腰かけた。

 早瀬の名前に、小さく肩が動いた。気になっていることは自覚していたけれど、まさか名前を聞いただけでこんなに動揺するなんて。

 ああ、やだなと思う。矢内に向けられていた恋心は決して偽物ではないのに、それなのに気まずい。矢内は何も知らず笑っていて欲しい。こんな中途半端な想いは、伝える意味だって持たない。

 梨花は複雑な気持ちを抱えたままのあかりを置いて、本当に帰ってしまった。

「……ああ、早瀬の話だっけ?」

 矢内はメニュー表を一瞥すると、店員を呼びアイスコーヒーを注文した。まるで大した変化なんてないような、早瀬のことなど気にも留めていなかったみたいな、そんな様子だった。

「あいつは、大丈夫かなって、俺は思ってるけど」

 大丈夫って、何が? 彼の重大な秘密を知ってしまった。別に友人でもないのに、秘密を知っている、それだけの不思議な関係。それ以外のことなんて、本当は何も知らない。それ以外で知っていることなんて、バレー部での役職だとか、そんなことしかない。そんなあかりに対して、どうして早瀬が重大な秘密を打ち明けたのかが分からない。好きですよと突然告げられたとき、あかりは何よりも第一に意味が分からなかったのだ。あかりが早瀬をよく知らないように、きっと早瀬だってあかりのことを大して知らない。

「……俺はあいつにすごい助けられてさ。それでも、あいつのことはよく分かんないよ。でも、いつもぎらぎらした眼で、コートを見てるんだ。それは分かるよ、早瀬がその輝きを失わないうちは、あいつは大丈夫だよ」

「早瀬くんは、本当はすごく寂しいんじゃないかなって、思うの」

 味のない食事、いつも一人の家、静かな時間。そんな毎日が続いたなら、あかりはきっと耐えられない。それなのに、矢内はへらりと笑った。

「そうだったのかもな」

 運ばれてきたコーヒーを一口飲んで、矢内は言葉を続けた。

「少なくとも、一年間かけて、早瀬はよく笑うようになったよ」

 矢内は視線を落とし、小さな声だったけれど、確かに笑い声をこぼした。

「だから、大丈夫だ」

「でも……」

「あいつと、どれだけ一緒にいたと思ってんだよ。あいつは俺のパートナーだぞ」

 そうやって笑う矢内の言葉は、妙にあかりを納得させた。

「そっか。それもそうだね」

 やっと笑ったあかりに向かって、矢内もその日一番の笑顔を見せた。



 矢内が率いるチームが、県大会の決勝戦で負けてしまったと聞いたのは、それから二週間ほど経った後だった。応援に行こうかとも思ったのだが、県大会は地区予選とは違って体育館が遠く、受験勉強も相まって結局行かなかった。

 その日、本当になんとなく、体育館に行ってみようと思い立った。新設の第二体育館は大会の次の日だからか、静かだ。だけどときどき聞こえるボールの音が、ひどく懐かしい。大して時間も経っていないのに、やけに久しい気がする。顔をのぞかせると、見えたのは一人でサーブを打っている矢内の姿だった。悔しかったに決まっている。彼が今のチームで戦える大会は、次の春高予選と、うまくいけばその先の春高だけだった。

 こちらに気が付いたのか、矢内がふとボールをかごに投げ入れ、あかりの方へ小走りで寄ってきた。困ったように眉を下げて、だけど矢内は笑っている。彼らしいなと思った。いつもこうやって、困った風に笑うのだ。

「県大会、お疲れさま」

「……ありがとう」

 なんて声をかけたかったのだろう。負けてしまった彼へかける正しい言葉は、なんだったのだろう。分からないまま立ち尽くしていたあかりに、矢内は笑った。

「全国大会、次こそ行くから」

「……うん」

「早瀬も、そう言ってた」

「そっか」

 静かな体育館。ああ、そうだ、彼にずっと言いたかった言葉があったではないか。

「矢内くんのこと、好きなんだ」

 思っていたよりもすんなり出てきた言葉は、思いの外自分の感情とは噛み合わなかった。だけど、何が間違っているのかは分からない。矢内は少しだけ驚いたような表情で、それから申し訳なさそうにした。この人は本当に優しい。

「ごめん、俺付き合ってる人いるから。でも、ありがとな」

「知ってる、言いたかっただけだから。それじゃ、部活頑張ってね」

 あかりはそう言うと、体育館を後にした。部室棟を通り過ぎ、静かな渡り廊下にしゃがんだ。長い片思いに、やっと終止符を打つことができた。だけど何かがすっきりしない。別に悲しくもないのに、ぼろぼろと涙が溢れた。自分の言葉の違和感の正体だって、もしかしたら本当は分かっていたのかもしれない。悲しくない、だけど何だか虚しい。それはまるで意味のない嘘をついた後のような、自分を騙した日の夜のような、そんな虚しさだった。

「これ、良かったらどうぞ」

 あの日と同じ、渡り廊下の隅でしゃがみ込んだあかりに差し出されたのは青いパッケージのミルクティーだ。視界にちらりと映り込んだのは、グレーのウィンドブレーカーではなく、ハーフパンツの裾。だけどそれがバレー部ということは分かる。

「……ありがと」

 あかりは涙を手の甲で拭い、それを受け取る。前と少し違うのは、ミルクティーが冷たいことくらいだろうか。早瀬は矢内が待っているだろうに、あかりの隣に座った。壁にもたれ、軽く空を仰ぐ。何も聞かず、ただそこで待ってくれている。ミルクティーを一口すすり、きれいな横顔を盗み見る。さわやかな夏の風に吹かれ、髪が揺れた。癖のある髪が目を隠し、それからまた見えた瞳は、どこか遠いところを見ていた。切なそうな顔で、きっとあかりが泣いている理由などとうに知っていたのだ。

「私、早瀬くんを好きになりたかったなあ」

 本当にいつも、安心をくれるのは早瀬なのだ。隣にいてほしいと、何度思っただろう。

「すきに、なってくれないんですか」

「すきよ」

 同情なんかじゃない。彼が自分だけに打ち明けた重荷を、かわいそうとかじゃなくて、一緒に乗り越えたいと思った。

 一度口にしてしまえば、その気持ちを認めてしまうのは簡単なことで、愛おしさが溢れ出した。

「ほんとは、ずっとすきだった」

「……おれも、すきですよ、先輩のこと」

 早瀬の表情は優しい。この人はどこまで見抜いていたのだろうと思う。もしかしたら自分すら気がつかない気持ちも、知っていたのかもしれない。ああ、たちが悪いな。知っていたなら、もっと好きと言ってくれれば、もっと彼のペースに巻き込んでくれれば、こんな虚しい気持ちを味わうこともなかったのに。

 だけど早瀬は優しいから、きっとそんなことはしなかっただろう。きっとあかりのペースに合わせて、ゆっくりとした歩幅で、いつまでも待ってくれただろう。早瀬は最初だって、あかりに答えを求めはしなかった。

「キスしてもいいですか」

「ばか、ほんとに、ばかじゃないの」

 優しいミルクティーの味と、頬に触れる優しい手のひらの温もり。

 本当にばかみたい。好きになりたい、なんかじゃなくて、きっと本当はずっと前から好きだった。

「先輩、ほんとにしますよ」

 そしてゆっくりと近づく顔に、目を閉じる。だけど口付けはいつまで経っても訪れず、代わりに抱きしめられた。そっと、だけど少しずつ力強く。

「すきです。ねえ、俺はね、あなたと出会って良かったです。ミルクティーの味が、温かくて優しくて、おいしいと思えるようになったんですよ」

 開いた瞼の先、温かな視線が少し泣きそうになりながら笑っていた。藍色みたいな彼の色は、少し愛情の赤が混ざって、まるでむらさきだ。

 愛おしい、なんて言ったら大げさだろうか。だけど早瀬が与えてくれたものは、本当にいくつもあって、それこそ数え切れないほどあって、募っていくたびにまた愛おしさが積み重なっていく。

「いつか。……いつか、他のものの味も分かるようになれたらって、思います。先輩がくれたものなら、たぶんおいしく思えるから」

 早瀬はもう一度あかりをそっと抱きしめた。いつの間にか涙は乾いていた。温かい風が吹いてきて、そっと二人を包み込む。寂しかった片思いとは違う、柔らかな感情だった。あかりは、早瀬のことを好きだと思う。それは恋心なのかは分からないが、愛おしくてたまらない。そばにいて欲しい。そんなことを思う相手など、端からひとりしかいなかった。今はそれでいい。まだそれが答えではないのかもしれないけれど、ただその腕の温もりに、包まれていたかったのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

君が消えた冬に サトミサラ @sarasa-mls

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ