第23話
(……もう一週間何もしてこない……)
陽菜は目の前で食事をする長谷川を眺めながら、肺から空気を全部出し切った。
凜が会社にやってきてからというもの、長谷川は陽菜に指一本触れてこなくなった。キスの一つもしてこない。
陽菜としてはこのままの状態は不満なのだが、恋人ではない自分たちが今までそういったことをしていたのが不健全であって、今が健全な状態であるということは重々に自覚していた。
目の前の長谷川はそんなことを気にする風もなく、食事を口に運ぶ。その様子が余計に陽菜を落ち込ませた。
(もう、私に興味ない……とか?)
タイミングがタイミングなので、陽菜の頭には嫌な予感しかしない。
それでも夜は一緒に過ごしている事実が、陽菜の希望をつなぎ止めていた。
「それでは、また明日」
いつも通りの別れの言葉を口にしながら、長谷川は玄関で陽菜に向き合う。陽菜は玄関で彼を見送りながら、なんだか物足りない気持ちで一つ頷く。
「あと、明日の朝なんですが、朝一で営業先に向かうので、一人で会社に行ってもらうことになりそうなんですが……」
「朝なんで大丈夫ですよ。長谷川さんは気にせずに行ってください」
安心させるように笑顔でそう言うと、長谷川はまるで褒めるかのように陽菜の頬を撫でた。その久しぶりの熱が心臓を一つ鳴らした。頬がじんわりと熱くなっていく。
陽菜は頬に置かれた手に自分のそれを重ねると、頬をすり寄せた。すると、目の前の長谷川が息を飲んだ気配がした。
「長谷川さん?」
小さく名を呼ぶと頬を撫でる手が輪郭の縁を掴んだ。その瞬間、空気が変わる。
陽菜は黙って目を瞑った。
しかし……
(え? 何も起きない……?)
待てど暮らせど何も起こらない状態に業を煮やした陽菜が薄く目を開く。するとそこには少しだけ目尻を赤くした長谷川が眉を寄せていた。
「……すみません」
そう言って、長谷川は陽菜の頬から手を離し、さっさと扉から出て行った。
陽菜はその背中を呆然と見つめるしか出来ないでいた。
◆◇◆
翌日、陽菜はいつもより早く部屋を出た。というのも、昨日長谷川が出て行った時から一睡も出来ていないのである。キスをあからさまに拒否された衝撃が、一晩中胸にわだかまっていた。
眠たくならないのに出てくるあくびをかみ殺しながら、陽菜は部屋の鍵を閉める。
その時、隣で同じように鍵が閉まる音がした。長谷川の部屋の方だ。陽菜は少しだけ期待しながらその方向を見て、思わず息を止めた。
「あ……」
そこにいたのは、片山凜だった。いつも通りの綺麗なその顔が、陽菜と同じように驚きで固まってしまっている。
「……おはようございます」
「あ、はい。おはようございます」
最初に挨拶をしたのは陽菜で、凜はそれに応えるように挨拶を返した。
「う、卯月さんって、このマンションだったんですね! 知りませんでした!」
「え、うん。……はい……」
微妙な沈黙の後、凜が焦った様子で言った言葉に陽菜はたどたどしく頷いた。
上手く思考回路が働かない。長谷川の部屋から凜が出てきて、彼女が鍵を閉めた。その事実だけがじんわりと胸に広がっていく。
「あ、あの! 私、薫さんと付き合ってて、それで、こっちにいる二ヶ月間は一緒に住まわせてもらってるんです!」
長谷川の下の名前を呼び捨てにして、付き合ってると宣言した凜に、陽菜は頷くしか出来なかった。そんな陽菜の様子を鑑みることなく、凜は言葉を積み重ねる。
「あの、このことって卯月さんしか知らないので、秘密にしてください! お願いします! そ、それじゃ、私急いでるのでもう行きますね!」
まるで逃げるように凜はエレベーターに乗り込んだ。陽菜はその場に固まったまま、自分のつま先をじっと見つめるしか出来なかった。
「……そっか……」
靴に水滴が跳ねた。ぽろぽろと零れる水滴がパンプスの上を滑っていく。
長谷川がなぜ自分の部屋が使えなくなったのか、その理由が今更ながらに理解できて、胸に迫ってくる。そして、陽菜に手を出さなくなった理由も。
「まぁ、あんな素敵な彼女がいるんだから、私に手は出さないか……」
まるで彼の理想を体現したような凜の姿が脳裏に浮かぶ。陽菜は自分のスカートをぎゅっと握りしめた。
「バカみたいなことしちゃったな……」
情けなくて顔が上げれない。彼が少しでも自分のことを好きになってくれたらと、そう思ってした努力が、今は恥ずかしくて仕方がなかった。
思えば、長谷川に告白されたばかりの頃、彼は理想に近い人が現れたら、あっさり乗り換えるのだろうと陽菜は予想していた。予想できてなかったのは、自分が長谷川のことを好きになるという事実の方だ。陽菜は長く息をつくと、目元を拭った。
その時、鞄の奥で携帯電話が鳴り響いた。取り出して画面を覗けば、そこには元彼の名前があった。
陽菜の部屋が空き巣に襲われてから一日に二、三度、多くて五度程度、ヒデから電話が来るようになっていた。あまりの着信の多さにいつも無視をしていたのだが、なぜか今日は通話ボタンを押してしまう。
耳をつけると明るい声が耳朶を打った。
『陽菜っ! やっと出てくれた!』
「ヒデ君……」
鼻に掛かった声で名前を呼べば、電話口の彼が盛大に狼狽えたのがわかった。
『どうかしたのか!? もしかして、泣いてるのか?』
「なんでもない。大丈夫。……それよりも、用件は何?」
陽菜は努めて冷静にそう言った。ヒデは一瞬息を飲むと、真剣な声を響かせる。
『えっと、今晩会えないかな?』
「ごめん。ヒデ君とはもう会えないよ……」
コンビニで怒鳴られて以来、彼に対する想いはすっかり冷めてしまっていた。また、最近になって急に増えた着信が陽菜の不安を煽っていた。
いたずらや空き巣が彼のせいだとは思えないが、どことなくこの執着が恐ろしい。
『そんなこと言うなよ。別れたときの俺はどうかしてたんだって、あんなに尽くしてくれた陽菜と別れようなんてさ。……なぁ、俺にもう一度チャンスくれないか?』
「……ごめん。今、好きな人がいるの」
そんなこと言う自分に飽き飽きした。何が『好きな人』だ。その好きな人には、たった今失恋したばかりだ。
『あの眼鏡のヤツか? あんなヤツやめておけって! どうせお前なんてすぐ捨てられるに決まってっ――』
「何度電話してきても、私の気持ちは変わらないから」
そう言って、強制的に電話を切る。すぐさま着信があったが、陽菜がそれに出ることはなかった。ヒデの番号を着信拒否に設定すると、静かになった携帯電話に連絡が来ていることに気がつく。
『気をつけて出社してくださいね。長谷川』
その優しさが、今はとても痛かった。
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