第22話

「片山凜です。今日から二ヶ月間、よろしくお願いします」

 午後一番に紹介されたスーツの集団は、年末年始の忙しい時期に本社がよこしてくれた応援メンバーらしい。人数は七人で、その中でもひときわ光る彼女はハキハキと自己紹介をしながら輝く笑顔を振りまいていた。


「『凜』ねぇ……」

 陽菜は午後の仕事を片付けながら、そっと誰にも聞こえない声でひとつ呟いた。

 長谷川が女性を名前で呼び捨てにするところなど今までに見たことがない。だから、呼び捨てにする彼女は長谷川と浅くはない縁があるのだろう。陽菜はそのことを思い、頭が重くなるのを感じた。

(長谷川さんって、たしか前は本社勤務だったよね……。その時に知り合った人? どういう関係なんだろ……)

 頭に『元カノ』という言葉が浮かぶ。それを必死に振り払って、陽菜は目の前の画面に映る文字に集中しようとした。しかし……

(凜さんってとっても綺麗な人よね。それこそ、長谷川さんの理想像ぴったりって感じの……)

 沸いてきた思考回路にとどめを刺すように陽菜はデスクに頭を打ち付ける。どうにも仕事がはかどらない。バカみたいに彼女と長谷川の過去が気になって仕方がない。

 陽菜はマグカップを持って立ち上がると、給湯室に向かった。

(コーヒーでも飲んで落ち着こう。別になんの関係もないかもしれないし……)

 そう思いながら、陽菜が給湯室の扉を開けようとしたその時、聞き慣れた声が耳朶を打った。給湯室の中から聞こえる話し声は二つ。一つは長谷川のもので、もう一つは、凜だった。

(二人で、何話して……)

 陽菜は扉から手を話してそっと扉に耳を近づけた。給湯室前の廊下は人気がない。盗聴なんて趣味ではないが、どうしようもなく二人の関係が気になったのだ。

 扉の向こうの長谷川はなにやら不機嫌な声を出していた。

『……たく、本当にびっくりしたんだからな。来るなら来ると最初から教えといてくれ……』

『ごめんってば、私も数日前に知ったばっかりなの!』

 陽菜は扉に耳を付けながら、目を瞬かせた。声は確かに長谷川のものなのだが、どうにも話し方が砕けすぎている。いつも敬語で、誰に対しても丁寧さを忘れない彼らしからぬ言葉遣いだ。

『あと、わかってると思うが……』

『わかってる、わかってる! 私達のことは秘密なんでしょ? 私もバレたらいろいろめんどくさいから、その辺は大丈夫よ!』

『なら良いんだが……』

 はぁ、と大げさにため息をついたのが聞こえて、陽菜はゆっくりと耳を扉から離した。なんとなくこれ以上は聞いていたくなかった。

 二人の関係は秘密で、更に言うなら長谷川があんな風に砕けた物言いが出来る相手。決定的な言葉は聞けていないが、凜は長谷川にとって、何らかの関係があった女性というのは確実だろう。

 まだ給湯室の中で二人の話し合いは続いていたが、陽菜は少しだけ沈んだ気持ちでその場を後にした。


◆◇◆


 終業後、いつも通り一緒に帰ってきた二人は、陽菜の部屋で食事を取っていた。ここのところ多忙だったので食事は惣菜や簡単な物が多く、今日も買ってきた惣菜と昨日作り置きしていた煮物がテーブルの上に並んでいた。

(凜さんって長谷川さんの元カノなんだよね。多分……。よりを戻す可能性ってあるのかな……)

 目の前に置かれた食事をまるで美味しく無さそうに口に運びながら、陽菜は口をへの字に曲げた。どうにもこうにも、長谷川と彼女の関係が気になって仕方がない。

 気になるのならいっそのこと、直接本人に聞けば良いのかもしれないが、それはなんとなく戸惑われた。

(告白……出来なかったしな……)

 彼女たちの突然の登場により、陽菜は長谷川に自分の気持ちを伝えられていない。つまり、陽菜と長谷川の関係は、まだ『恋人同士』ではないのだ。恋人でもない人間に女性関係を問いただす資格はない。問いただしても嫌な思いをさせるだけではないかと陽菜は思うのだ。

 それならば、さっさと告白して恋人同士になれば良いのかもしれない。しかし、もし告白して長谷川に「少し待ってください」などと言われた日には、きっともう立ち直れないと思うのだ。

(長谷川さんが凜さんとよりを戻す可能性もゼロじゃないんだろうし……)

 そう思うと怖くて少しも動けない。このまま何も言わなければ、もう少しこの暖かいだけの関係が保たれるのがわかってるから、余計に動けない。

 何度思い返しても、凜は綺麗で美しい。周りの反応を見る限り、性格も良いのだろう。そんな彼女と男を取り合っても、きっと勝てる見込みは薄いだろう。それでも手放しで譲るつもりはないのだが、長谷川が彼女を選んだら、もうどうしようもない。

(長谷川さんの理想そのものって感じよね……)

「……って、陽菜さん、聞いていますか?」

 思考の海に沈んでいた陽菜を引き上げるように、長谷川は突然顔をのぞき込んできた。陽菜は突然目の前に現れた長谷川の顔に、持っていた箸を落としてしまう。

 陽菜をのぞき込む長谷川は心配そうに眉を寄せていた。そんな彼の視線を避けるように陽菜は顔を反らす。

「ごめんなさい。聞いてなかったです……」

「どうしたんですか? 君らしくないですね。体調でも悪いんですか?」

 その問いに首を振って答えれば、長谷川はおでこに手を当てて熱を測ってくれる。

「大丈夫ですよ? 熱はないです。ちょっと考え事をしていただけで……」

「それなら良いんですが……」

 納得はいってないが、熱もなく、体調が悪そうでもない陽菜の様子に、長谷川は引き下がった。そんな彼に、陽菜はいつもの調子を装いながら、「なんの話だったんですか?」と問いかける。

「あぁ、今日からしばらくの間、諸事情で俺の部屋が使えなくなったんです。ですから、食事は今度からこっちで取っても良いですか? その代わり、俺が料理を担当しますので……」

 諸事情というのが少し気になったが、陽菜は特に問題はないと一つ頷いた。

「別に良いですよ? あと、食事も今まで通りにかわりばんこで大丈夫です」

「そうですか。よかった……」

 安心したように微笑む長谷川に、陽菜もつられて笑顔になる。

(とりあえず、何も心配する必要ないよね? 別に長谷川さんが心変わりしたわけでも無さそうだし……。告白は凜さんが本社に帰ってからでも遅くないかな?)

 ほっと一息つくと、とたんに安心感が全身を包んだ。長谷川の言葉の節々から陽菜を想ってくれてるのが伝わってくる。

 しかし、陽菜のそんな想いを裏切るように、その日から長谷川は彼女に身体の関係を求めなくなったのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る