第24話
「卯月、ここもミスしてるぞー」
「あ、すいません! すぐ直します!」
課長が掲げた書類を受け取って、陽菜は大慌てでデスクに戻っていく。そんな彼女を見ながら、同僚達は声を潜めていた。
「あの女帝が仕事ミスるなんて、珍しいよなぁ」
「というか、仕事できない女帝なんて、ただの生意気な女じゃねぇか……」
「おま、聞こえるぞっ!」
耳障りな声から意識を離して、陽菜は目の前の書類を処理していく。今日は仕事に集中できない。その理由は明らかだった。
『私、薫さんと付き合ってて……』
耳の奥で凜の声が蘇った。
今朝、それを言った彼女は変わらず笑顔で仕事をこなしている。
綺麗で仕事も出来る彼女の評価は高い。陽菜のことを批判している同僚達も彼女には一目置いているようだった。
ああいう風に上手く立ち回れたら女帝なんてめんどくさい名前で呼ばれることもなかったに違いない。長谷川もそういう彼女の器用なところを好きになったのだろう。
目の端に彼女を置きながら、陽菜はこみ上げてきた苦い気持ちをかき消すように、目の前の仕事に意識を集中させた。
夢中で仕事をしていたからか、前半はミスが多かったものの、陽菜はいつもより早く仕事を終了させることが出来た。細々とした仕事は残っているが、明日の朝取りかかっても問題のないものばかりだ。
「卯月、お前もう良いぞ。今日は早く帰って休め!」
前半の不調を気にしてか、課長がそう声をかけてきた。陽菜はそんな優しい気遣いにお礼を言って、帰る支度を始める。
そんな時、机の上の携帯電話が震えた。画面には見慣れた名前と用件が表示されている。
『あと、三十分ぐらいで会社に戻ります。帰る支度をしておいてくださいね。 長谷川』
陽菜はその連絡に長いため息をついた。社内にあるホワイトボードには『長谷川 外回り 直帰』と書いてある。つまり、長谷川は陽菜と一緒に帰るため、会社に一度戻ってこようとしているのだ。
(……なんでまだこんなに優しくしてくれるんだろ……)
長谷川には新しい恋人がいて、彼女とは一緒に住むぐらい想い合っていて……。
彼がここまで陽菜に優しくする必要はもう無いはずなのだ。なのに、彼は陽菜を好きだといってくれていたときのように優しく接してくれている。その事実が嬉しくて、たまらなく苦しかった。
ちらりと凜の方を見る。彼女はまだ忙しそうに仕事をしていた。
(私が凜さんの立場だったら、たまらないな……)
付き合ったばかりの彼氏が、昔好きだった女性の世話を焼く。そこに彼の感情はなくても、陽菜はいい顔は出来ないだろう。
(ちゃんと、断らないとな……)
その決心を持って、陽菜は携帯電話を握りしめた。
長谷川が陽菜の世話を焼くのはきっと同情からだ。要するにほおっておけないだけなのだろう。
もうこれ以上、自分のことで二人を振り回してはいけない。これは元々自分の問題なのだから、陽菜自身が解決しなくてはいけないのだ。
陽菜は画面に指を滑らせた。
『いつもありがとうございます。ここのところ何も起きてないようなので、今日から一人で帰ります。今までありがとうございました』
最後の文字を打ち終わると、陽菜はその文字を見返した。これを送信すれば今までの関係が終わるというのに、なんて簡潔で色気がない内容なのだろうか。
それでも『好き』なんて言葉は書けない。今更伝えてしまったところで、彼に迷惑を書けてしまうだけだろう。
(こんなことなら、もっと早く気持ちを伝えておけば……)
そう思って、次ぐさに頭を振った。気持ちを伝えていたところで、きっと『別れる』というステップが一つ増えただけだろう。きっと結果は変わらない。
付き合ったばかりの彼氏に振られるなんて惨めな思いをしなくて済んだのは、結果としてはよかったのかもしれない。
陽菜は送信ボタンにそっと触れた。
◆◇◆
ゆっくりとした足取りで駅に向かい、一人で満員の電車に乗り込んだ。いつも長谷川と一緒に乗り込んでいたその電車が、二人で乗り込むときよりも窮屈に感じられるのは、彼が陽菜を満員の車内から守ってくれていたからだろう。
電車から降り、大通りを抜けて、陽菜は問題の道に差し掛かった。街灯が等間隔に並ぶだけの暗い夜道はやはり恐ろしい。脇道には明かりがなく、誰かがそこに身を潜ませていても、きっと気づかないだろう。
陽菜は自分の鞄についている防犯ブザーに指を這わせる。それは誰かにつけられたと感じた翌日、長谷川がくれたものだ。まるでお守りのようにそれを一撫でして、陽菜は意を決したようにその道に足を踏み入れた。
陽菜のヒールが地面を蹴る音だけが響く。大通りは車のエンジン音と人の声で煩いぐらいなのに、一本路地を入ったそこは、まるで別世界のようだった。
(……誰も、ついてきていない……)
陽菜はほっと胸をなで下ろす。
もしかしたら過剰に反応していただけで、後ろからつけられていたというのは気のせいだったのかもしれない。
その一瞬の気の緩みがいけなかったのだろうか、陽菜は脇道から伸びる腕に気がつかなかった。
「――――っ!」
一瞬のことで何が起きたのかわからなかった。気がついたときには細い脇道に連れ込まれていて、陽菜は口を押さえられていた。背中に当たるコンクリートブロックが肌に擦れて痛い。
零れんばかりに目を見開くと、目の前にいたのは、見知った人物だった。
(ヒデ君……?)
陽菜の口を押さえて妖しく微笑むのは、陽菜の元彼であるヒデだった。月明かりに照らされてニヤリとゆがむ唇がよく見える。それとは対照的に目元は暗く、まるで淀んでいるかのようだった。
「陽菜、久しぶり」
そう言って、彼は笑った。その声に顔に、身体が震えた。押さえつけられている手の向こうで歯がカタカタと音を鳴らす。
ヒデはどう見ても普通の状態じゃなかった。
「最近、あの男とばっかり帰ってるから声かけられなかったよ。でも、今日は一人だったから勇気が出せた。一回家まで行ったんだよ? 知ってる?」
そう言われて思い出したのは、ぼろぼろに荒らされた自分の部屋だった。まさか、と息を飲めば、その思いを肯定するかのようにヒデが言葉を紡いだ。
「久々に合い鍵使ったのに、陽菜ってば、鍵変えてるんだもんなー。しょうがないから無理矢理入ったよ。腹が立っちゃって、家の物いろいろ壊しちゃったなぁ。悪気はないんだよ? ごめんね?」
彼の言葉の端々にほの暗い影が見える。
そう言われれば以前付き合ってたとき、陽菜は彼に合い鍵を渡していた。別れるときにそれは返してもらっていない。彼はそれを使って陽菜の部屋に侵入つもりだったというのだ。
「本当は今日だって部屋で待っとこうと思ったんだよ? 陽菜に着信拒否されてショックだったから、そのことも問いただしたかったし……。でも何故かオートロックの番号変わっててさー」
残念、と肩を竦める目の前の男は、陽菜の知ってる彼ではなかった。
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