こぐまの子

さて、さる乙女京子氏に飼われる我は、名を健坊という。


あれは冬のある日であった。

私は京子氏の腕に抱かれ、とある街角を曲がった時のことである。

ある御仁の真可愛らしき赤子有りて、我の耳を引っ張ろうとする。

私はこれを嫌がり、きゃんきゃんと吠えてぱくついた。

歯を立てた訳ではない。


しかし京子氏顔色変えて、こら、健ちゃん、と忙しなく、相手方はほのぼのと笑っておられたが、これはほっとく訳にはいかない、噛み癖が付いたら敵わないと思ったのであろう、逸子さんがさるぐつわを買ってこられ、私にはめようとした。


私はぎゃおーすと泣き喚き、逃れようと試みたが最後、見事にはめられてしまった。

なので以下は、京子氏の記したものである。


。。。。。。。。


健ちゃんが赤ちゃんの手を噛んでしまって、私大層驚いた。

まるでそんな気配のない子だったので、これはうっかり、狂犬を産んでしまうかもしれないと恐れ入った。

何しろ洋犬だ。ブリティッシュだかなんだか言っていたので、野生に返ることなどあればさも知れん。私はそんな責任は取れない。

母さんどうしようと事の顛末を話すと、すぐさま母さん出かけていって、帰ってきて「おはめなさいな」とさり気なく置かれていったさるぐつわ。

私は泣く泣く大人しい健ちゃんにそれをはめた。


後で良助君に散々言われたこと。


やあ君は僕のあげた可愛い犬に、なんてことをしやがるんだとヤクザな口を効いた。あれにはたまげた。あの良介くんも怒ることがあるのかと百聞にしかずと思ったのだが、これには私言葉なくただ打たれているしかなかった。


とぼとぼとしてついうっかりいつもの喫茶店に入れば、京子さんそれは狂犬なのかい、とマスターに聞かれる始末。


いいえちょっと、と口を濁せば、おいで、ミルクを飲ませてあげようとマスターがさるぐつわを外された。

と、ここからはまた健坊の手記である。


。。。。。。。。。


私はぎゃーす!と喚いた。

見知らぬ男は苦手である。毛むくじゃらのその手にぐっと顔を掴まれて、私はすっと手をすり抜けて逃げた。

もう京子さんなんか知らぬ。私は新しい飼い主を探すのだ。そう心に誓って、泣く泣く別れた。涙の別れ。

わーんと泣く京子さんの声が聞こえたが、ベルがカランとなった隙を付いて外へと出た。


そうして、坊やの手に捕まったのだ。

またあの赤子の手に。


坊やは私にタックルをかまし、わんわん、と言って耳を良いようにした。

私はきゃいんきゃいんと鳴き、我も赤子なのに!と悲しがって歯をついに立てなかった。

京子さん、出てこられて私を抱き上げ、偉いわ健ちゃん、と接吻された。


乙女との接吻はこれが初めてである。

私はぽっと赤くなった。


。。。。。。。。

健ちゃんが赤ちゃんを噛まなくて、本当に教養のある犬だこと、と褒められ褒められ、私はまた得意がって健ちゃんを連れて歩いた。


すこうし大きくなった気がする健ちゃんを見て、良介くんはそら見ろ僕の選んだ犬は偉いんだ、と胸を張ったし、私もええそうね、ありがとうとにっこり笑えば、おや珍しい、と良介くんはにかんだ。


これは良助くんが洋行に行く少し前の出来事で、今私は健ちゃん連れてまだまだお嬢様気質の抜け切らない今、喫茶店にてお手紙に返事を書いている。


良助くんは向こうでオープンカーに乗ったとか色々書いてくるが、最近彼女ができたとかで、帰ってこなくなるに違いないと睨んでいる。


いいもの、私には健ちゃんがいるわ、それに。


と、私は店に入ってきたお客を見つけて、はーい、と手を振った。

はい、と彼は向かいに座り、やあ健坊、と健ちゃんを撫でた。


良助くんとは打って変わって、とにかく立派なお方である。

私はこの秋、お嫁に行くのだ。


。。。。。。。。

京子さんの彼氏が、私を健坊と言って撫でた。


この男、京子さんに隠れて私を蹴飛ばすのだ!


悔しい!私はがぶりとその手に噛み付いた。

ぎゃーす!と男は悲鳴を上げて、ほほと京子さんが笑った。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る